夢の終わりしんしんと雪の降る、クリスマスの夜。
黒いコートを着た長身の男が、傘をさして、おもちゃ屋のショーケースを眺めていた。
いや、正確には、おもちゃ屋の店先で横たわる、小さな少年を見下ろしていた。
男はかがみこんで少年の様子を見る。首元へ触れてみれば、すっかり身体は冷え切ってしまっていたが、まだ弱く呼吸をしていることがわかった。
男は迷うようなそぶりをしていたが、少しすると少年を抱き上げた。男は少年を抱えたまま、人混みの中をすり抜けて、自宅へと歩みを進めた。
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少年が目を覚ますと、知らない部屋で寝ていた。
むくりと起き上がると、身体の上にかけられていたらしい毛布がずり落ちる。
「起きましたか」
部屋のドアが開いて、長身の男が入ってきた。少年は咄嗟に身構える。
「何もしませんよ」男は冷たい声でそう言い放つと、手に持ったカップを少年の方へ差し出す。
「どうぞ」
少年は恐る恐るといった様子で、差し出されたそれを手に取った。一口飲むと、暖かいココアが喉から胃へと流れ落ちていった。
それから少年がふと気付くと、自分の体には見覚えのない服が着せられている。知らない男に拾われてから一体どれくらい時間が経ったのかわからないが、とにかく男が自分を助けてくれたのだろうということだけは分かった。
「……ぁ、ぅ」
ありがとう、と言おうとしたのだが、口から出てきたのは言葉にならない音だけだった。少年は顔を歪める。
「無理に話さなくて大丈夫ですよ。それよりほら、お腹が空いているでしょう」
彼はベッドサイドの棚へ置いたトレーから、スープの入った平たい皿を手に取る。
「口を開けて」
男はひと匙スープを掬うと、少年の口元へと運んだ。
少年は一瞬怯んだが、恐る恐るそれを口に含む。すると、優しい味が口の中いっぱいに広がった。
「美味しいですか?あまり、料理は得意ではないので不安だったのですが……」
男が尋ねると、少年はゆっくり首を縦に振る。その様子を見て男は微笑むと、また次のひと匙を少年の口元へ運んだ。
男の顔を覗き込むと、長く伸ばした前髪から、優しげに目を細めているのが見えた。
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それからも男は甲斐甲斐しく少年の世話をした。
男の名前は「ラブ」と言い、一人でこのアパートで暮らしているそうだ。
男は自分のことについて多くを語らなかったが、少年もまた、最低限の言葉以外は喋らなかったので、互いに詮索することはしなかった。
「あんたは人身売買でもしてるのか」
ある日、唐突に少年はラブへ問いかけた。
突然少年が流暢に喋り出したことと、物騒な問いに対して、ラブは瞳を丸くするばかりだった。
「俺が快復したら、そのままどこかへ売り飛ばすつもりだろ」
ラブは答えない。
「あるいは臓器売買か。子供の内臓は高いもんな、そのうち俺をバラして……」
そうすると、ラブはつかつかと少年の元へ近づいてきて、彼の身体を抱きしめた。
「そんなことはしませんよ」
少年は驚いたが、抵抗はしなかった。
「……じゃあ何で俺にここまで優しくする?あんたに何の得がある」
「得とかじゃないですよ、ただ……」
ただ?と少年は、男の言葉の続きを待つ。
「何となく、放っておけなかったんです」
「は……?」
少年は、気の抜けた声を発した。そしてラブの顔を見上げる。彼は笑っていた。
「それよりきみ、そんなに喋れたんですねえ」
「……」
ラブは優しく少年の髪を撫でる。
「元気になってくれて良かった」
少年はぽかんとしていたが、やがて顔をほんのり赤く染めると、下を向いて黙り込んでしまった。
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「今更ですけど、きみの名前は何というのでしょうか」
少年へ文字を教えながら、ラブはたずねる。
「……名前とかは、ない。親が居ないから。ただ、そうだな……強いて言うなら、『タスク』かもな」
「仕事(タスク)?」
「大人が俺へ呼びかける言葉と言ったら、それくらいだ」
「……そうですか」
ラブは少し考えて、それからまた、少年の方へ向き直る。
「ではタスク、私と一緒に暮らしませんか?」
「は?」少年は怪訝な顔をする。
「これからはずっと一緒です」とラブが微笑むので、少年は口をぱくぱくさせた。
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それからの月日はあっという間に過ぎていった。
ただ、タスクはその日々の中で、ずっと、今まで一度も味わったことのないような幸せを感じていた。
タスクはラブと暮らす中で、色々なことを覚えていった。
文字の読み書き、洗濯、掃除、身を守る方法。
中でも料理の覚えがよく……、というか、次第に舌が肥えていくなかで、本当にラブが料理下手ということに気がついたため、自然とタスクが担当するようになっていったのだ。
最初は危なっかしい手つきで包丁や火を扱うタスクだったが、今やすっかり手馴れたものである。
「今日の夕飯はなんですか?」
外から帰ってきたラブがたずねると、
「シチュー」とタスクは返した。
「いいですねえ!」とラブが嬉しそうに返すので、タスクも小さく微笑んだ。
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タスクには一つ気になっていることがあった。
時折ラブと共に街へ、食糧などの買い出しへ出かけるのだが、ラブは常に何かの視線を気にしているように見えた。
そして、帰宅するルートは毎回一定ではなく、時に大きく遠回りをしながら帰っていた。
何度かそれについてたずねたことはあったが、いつも「あなたと散歩するのが楽しいのです」などとはぐらかされていた。
しかし、とうとう不安が限界に達したタスクは、ある日の食卓の時間に言った。
「師匠、何か後ろめたいことがあるだろ」
ラブは一瞬驚くと、何か言おうと口を開いたが、余計な言葉を挟ませないようにタスクは続け様に話す。
「別に、前みたいに俺を売ろうとしてるとか、そういうことはもう疑ってない。でも、堂々と太陽の下を歩けない理由があるんじゃないのか」
「……それは」とラブは珍しく口籠もった。
「言いたくないなら、別に……」
気まずい空気が流れる。
ラブはしばらく困ったような顔で微笑んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「私はね、極悪人です」
「私はあるマフィアに属していました。そうして、そこのボスに命じられるまま、たくさんの人を殺しました。大人も、老人も、女性も。あなたくらいの年頃の子供も」
タスクは黙って聞いていた。
「私は自分自身をボスの『道具』だと定義していました。道具としての人生は楽でしたよ、何せ自分で何も考えなくて済みますから」
そういうとラブは自嘲的に笑う。
「ただ、道具にも一つだけ我慢できないことがあったんですね。私には幼い頃から慕っている女性がいたのです」
「その女性はボスの許嫁でした。私のような、出自もわからない、人殺ししか能のない人間にも優しく接してくれました」
男はそっと目を伏せる。
「ボスは彼女を自分の所有物だと思い込み、彼女を毎日手酷く殴りつけました。やがて、彼らの間には子供ができました」
タスクは、ラブが拳を強く握りしめているのに気付いた。
「彼女は毎日泣いていました。私はどうすればいいかわからず、ただ寄り添うことしかできませんでした。
それが気に入らなかったのか、ボスは自分の子供にまで暴力を振るいました。この子供は自分の子供ではないと、彼女と私が浮気した末に産まれた不義の子であると」
「私は許せませんでした。彼女は何もしていないのに、ただ、ただ……」
ラブは絞り出すように言葉を続けた。
「ある日彼女の部屋へ行くと、彼女はベッドの上で事切れていました」
タスクは何も言えなかった。男の拳からは血が流れていたからだ。
「私は、残された子供を連れて組織を抜け出しました。しかしボスの怒りは凄まじく、追手が止むことはありませんでした。少しでも危険から遠ざけるために、私はその子をとある教会へ預けました。私一人でなら、多少手荒な手段も取れますしね」
「そうして逃げて逃げて……逃げた先で、キミと出会いました」
ラブは大きく息を吐くと、再び顔をあげて、にっこりと微笑んだ。
「これが今まで隠していた、私の秘密のすべてです」
「……軽蔑してくれていいですよ。私は追われる身でありながら、危険に晒すとわかっていながら、無責任にキミを拾ったのです」
タスクは口を固く結んでいたが、その言葉を聞くとすぐ口を開いた。
「軽蔑なんてしない。俺はあんたに感謝してる」
「タスク」
「危険でもなんでもいい。俺は師匠と一緒に居たい」ラブは何も言わずに、ただ黙ってタスクを抱きしめた。
その日の夜、ラブはタスクを寝かしつけながら言った。
「私にはね、夢があるんです」
タスクは黙って聞いている。
「いつか、すべてが片付いたら、あの子……ミザリーを教会へ迎えにいって、どこかの草原に小さな牧場と家を買って、そこで一緒に暮らしたいんです」
もちろんタスクも一緒ですよ、とラブが続けると、タスクはわずかに顔を赤くした。
「キミをミザリーに会わせてあげたいなあ。確かちょうど同い年ぐらいのはずですから、きっと気も合うでしょう」
「楽しみだ」とタスクが微笑むと、ラブも同じように微笑んで、そっとタスクの頭を撫でた。
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季節はまた冬になっていた。
外から帰ってきたラブは、コートの雪を払いながらタスクにたずねた。
「今日の晩御飯はなんですか?」
タスクは答えようとするが、そこであることに気付く。
「パンがない……!」
タスクはコートを引っ掴むと、勢いよく外へ駆けていった。
「師匠、すぐ買って帰ってくるから待っててくれ!」
ラブは引き止めようとするも、タスクの背中はすでに遠くなっていた。
買い物は滞りなく済んだ。
しかし、少年はあろうことか、自分を追う何かの視線に気づかず、雪の中へ深々と足跡を残して家へ帰ってしまったのだ。
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ラブとタスクが出会ってちょうど1年。今日はクリスマスだ。
「師匠!ケーキを買ってきたぞ!」
タスクが声を弾ませながらドアを開くと、そこには血まみれになり、腹を抑えてうずくまるラブが居た。
「え?」
タスクは思わずケーキの箱を取り落とす。
ぐちゃり、と音を立てて、ケーキは潰れてしまった。
物がめちゃくちゃに散乱し、知らない男の死体がまばらに転がっている。
「大丈夫、大丈夫ですよ……」
ラブはうわごとのように呟くが、前髪から覗く目は虚ろで、ぜえぜえと肩を苦しそうに上下させていた。
「ししょっ……!」
背後から何者かに口を抑えられる。
無理やり身体を持ち上げられ、タスクはじたばたと抵抗した。
「おいおい、天下の元掃除人様も大したことねえなあ!」
何人かの男たちがぞろぞろと現れ、家に入っていく。
「おいガキ、お前に感謝するぜ」
一人の男が笑いながらタスクへ声をかける。
「お前が無用心に足跡を残して家へ帰るもんだから、俺たち簡単にこの隠れ家を見つけちまったよ!」
ぎゃははっ、と下卑た笑い声が部屋へ響く。「弟子には……手を、出さないで、ください」
ラブがやっとのことで声を絞り出して男たちに頼むも、
「うるせえ!」と一蹴される。
「安心しろよ。ガキ共々すぐ同じ場所に送ってやるから」
と言うと、男はタスクの喉元へナイフを突きつけた。
それを見た次の瞬間、ラブが突然姿を消したかと思うと、男は地面へ倒れ伏していた。
ラブは男の手からナイフを奪い取り、素早く彼の喉笛を引き裂いた。「何ッ!」男たちが驚いて叫んだ直後、ラブは目にも止まらぬ速さで次々と男たちをなぎ倒していった。
まるで風のようで、タスクはただただ呆気にとられることしかできなかった。
やがて静寂が戻った頃、家の中には元の形を失った肉の塊が転がっていた。
「……タスク、もう大丈夫ですよ」
ラブは苦しそうに眉根を寄せながらも、無理やり笑顔を作る。
その時だった。ぱぁん、と銃声が響いた。「ぐあっ……」
ラブが咄嗟にタスクを庇うと、その肩はみるみる赤く染まっていった。
血溜まりの中から半身を起こして銃を構えている男を見つけると、ラブは素早くナイフを投げつける。
男も瀕死だったようで、片目にナイフが突き刺さると、銃を取り落としばたりと倒れた。
「師匠……!」
ラブがよろよろとタスクへ覆い被さってくる。タスクは懸命にラブの怪我を止血しようとするが、どこから手をつければいいかわからない。
「いいんですよ」
と、弱々しい声で言うラブは、それでも気丈に笑顔を浮かべていた。
「私はもう助かりません」
「師匠、いやだっ……」
ラブはタスクの背中へ腕を回し、最期の力を振り絞って彼を抱きしめる。
「タスク、もっとキミと一緒にいたかった……」
声がだんだんと掠れていく。
「ああ、あの子を迎えにいけなかったなあ……、まだ、やりたいことがたくさんあったのに……。死にたくないなあ……」
タスクは泣きじゃくりながら、死なないでと訴える。
しかし、もうラブの耳へは言葉が届いていないようだ。
「タスク、約束です……」
「なに……?」
「幸せになってくださいね」
その言葉を最期に、ラブは眠るように息を引き取った。
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