無題 くん、と鼻をうごめかせて、ネロはひとつ頷くと扉に手を掛けた。
シャイロックがふかすパイプの薫りが、彼のバーの雰囲気をさりげなく反映していると気づいたのはいつだったか。花と果物の甘さが基調ではあるが、西の魔法使いや若い連中が集まって賑やかなときには華やいだ薫りが、年長者たちが穏やかにグラスを傾けているときには落ち着いた薫りが、緊張感漂う顔ぶれが揃っているときにはぴりりとスパイシーな香りがほのかに漂う。料理人の嗅覚がそれを嗅ぎ分けるようになってからは、ネロがシャイロックのバーで心臓に悪い目に遭うのはごく稀なことになった。
今日の煙は雨上がりの梔子めいて、人恋しげに誘いかけてくる。押し開けた扉の向こうでは案の定、しんと静かな空気の中、店主ひとりがカウンターの奥で佇んでいるばかりだった。
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