無題 くん、と鼻をうごめかせて、ネロはひとつ頷くと扉に手を掛けた。
シャイロックがふかすパイプの薫りが、彼のバーの雰囲気をさりげなく反映していると気づいたのはいつだったか。花と果物の甘さが基調ではあるが、西の魔法使いや若い連中が集まって賑やかなときには華やいだ薫りが、年長者たちが穏やかにグラスを傾けているときには落ち着いた薫りが、緊張感漂う顔ぶれが揃っているときにはぴりりとスパイシーな香りがほのかに漂う。料理人の嗅覚がそれを嗅ぎ分けるようになってからは、ネロがシャイロックのバーで心臓に悪い目に遭うのはごく稀なことになった。
今日の煙は雨上がりの梔子めいて、人恋しげに誘いかけてくる。押し開けた扉の向こうでは案の定、しんと静かな空気の中、店主ひとりがカウンターの奥で佇んでいるばかりだった。
「おや、いらっしゃい、ネロ」
煙の輪をひとつ器用に吐いてから、シャイロックは甘やかに微笑んだ。
どうぞと示された手に従ってスツールに腰を下ろせば、すかさずナッツ類の載った小皿がふわふわと漂ってくる。指先でつまんでコリコリと囓っているうちに、琥珀色の蒸留酒が注がれた大ぶりのタンブラーが、今度は店主自らの手で供された。
「どうも。……へえ、こりゃ」
ちびりと舐めた酒の味に、ネロは片眉をあげる。満足げに目を細めたシャイロックが、タンブラーの隣に無骨な瓶を並べた。
「先日の任務の折に買い付けたんですよ。若い人にお出しするには荒削りですが、あなた、こういうのお好きでしょう」
「いいねぇ、さすがの目利きだよあんた。干し肉囓りたくなるな」
「そう仰ると思いました。少しですが、お出ししますよ」
「おっ、最高」
「ふふふ。心ゆくまでお褒めになって」
新たな皿をネロの前に置く所作も、彼の愛用のグラスに手酌でワインを注ぎ足す手つきも、観客がネロ一人であることが勿体ないほど洗練されている。肘のあたりに引っかけた赤いストールのひらめきすら、呆れるほどに優雅だ。
「……いやほんと、あんた、すげえよな」
「おや、おや。財布をお忘れにでもなりました?」
「褒めろってあんたが言ったんじゃん……」
「言いましたけど。そこで応えてくださる素直なところ、好きですよ」
「いやいやいやいや」
顔の前で左右に手を振って、ネロはシャイロックの言を退ける。
「そういうセリフはうちの子たちに言ってやって。俺は間に合ってるから」
「あなたのところのお坊ちゃまがたをいますぐここに連れてきてくださるなら、喜んで」
「無茶言うない。こんな時間に呼びつけたら、うちの怖い先生に雷落とされちまう」
「でしたら、甘んじて受け取ってくださいな。今夜はお客様がいらっしゃらなくて、少しばかり寂しいんです」
艶然と笑いながらシャイロックは杯をくいと傾けた。品の良い仕草なのに、グラスの中身の減り方はなかなか豪快だ。
「あんたんとこの面子は? よく来てるだろ」
「クロエは衣装作りの興が乗ったとかで、しばらく前から部屋に籠もりきりです。ラスティカは愛するお弟子さんのお世話を楽しくなさってますよ、あれをお世話と呼んでいいならね。ムルは、――」
皆まで言わず、窓の外へと視線を流して、店主は肩を竦めた。あー、とネロは頷いて、つまんだナッツを口に放り込む。
「今日は満月だっけか」
「ええ。他の国の皆さんも、それぞれお忙しいようで。そういうわけですから、今夜はあなたの貸し切りです。存分にくつろいでいらして」
「あー……、うん。俺はありがたいんだけどさ……」
「どうかなさって?」
「あんた、それでいいのかなってさ。俺が来なかったら、一人でずっと待ってんの? ……虚しくねぇ?」
カウンターに肘を突いて、ネロはシャイロックを見上げる。
ネロは料理人だ。ネロがよろこびをもって作るのはいつだって、自分以外の誰かのための食事だった。東の国に住みついてからは、あちこちを転々としながら、店を開いて客のための料理を作ってきた。それなりの立地を選んで、旨いものをそこそこの値段で出せば、客を得ることはそう難しくなかった。
雨の街の店は賢者の魔法使いとなったことで手放したが、代わりにネロはこの魔法舎で、料理人という立場を手に入れた。もともと一人で食堂を営んでいたのだから、二十数人分の料理などたいした負担でもない。金銭が主目的でもなかったから、無給であることも気にならない。子供らが好物を口いっぱいに頬張る嬉しそうな表情だとか、料理や菓子をねだられるくすぐったさで、おつりが出るほどの見返りだ。作れば作っただけもりもりと食べ尽くしてくれる仲間たちは、ネロにとっては最上の相手と言えた。
一方、魔法舎にシャイロックが(どうやら勝手に)構えたこのバーは、ネロが牛耳るキッチンや食堂とは様子が異なる。まず、そもそも客となる魔法使いの数が少ない。十代の子供たちも出入りは禁止されていないが、遅くまで居座ることのないよう、各国の大人達がそれとなく釘を刺しているようだった。年長の魔法使いでも、スノウとホワイトの双子は夜は絵の中だし、オーエンが歓談の場に現れるのも稀だ。
食事と違って酒は嗜好品だし、飲む場所はバーに限らない。今夜も、ネロが気紛れに訪れていなければ、シャイロックは一晩中、誰も来ないバーに一人佇んでいたのかもしれない。
ふと想像してしまったのだ。キッチンで朝食の下ごしらえをしながら、腹を減らした魔法使いたちがやってくるのを待っているのに、いつまで経っても誰も現れない日があるとしたら――。
誰かのために用意した手を、空虚に持て余す時間。ネロにとっては、なるべく遠ざけておきたいものだ。
ネロの不躾な問いかけにシャイロックが腹を立てた様子はなかった。パチリとひとつまばたきをしてから、面白がるように目を細めて、ネロを見つめ返す。
それと似た表情には覚えがあった。ファウストがしばしば、教え子に向ける顔だ。ネロ自身、子供たちの前でそういう顔をしていない自信はない。思春期の子供のまっすぐさや潔癖さを微笑ましく感じながら受け止めるときの――
まごうかたなき子供扱いだ。
「げ、待って、今の聞かなかったことにして……」
カウンターに突っ伏してネロは唸った。体温が一気に上がって、こめかみが汗で濡れている。シャイロックの出した酒は存外強かったようだ。おそらく、たぶん、きっと。――そういうことにさせてほしい。
「申し訳ありませんが、それは難しいですね。あなたの珍しいおねだりに応えて差し上げたくもありますけど」
「うぐ……」
シャイロックはやわらかな声音で無慈悲なことを言いながら、クスクスと笑うと、囁くように低く呪文を唱えた。漂ってきた香りから、彼が魔法で愛用のパイプに火を付けたのだとわかった。
西の国の魔法使いたちは、日々の暮らしの中でごく自然に魔法を使う。東住まいが長かったネロにとって、彼らのそうした習慣は少しばかり落ち着かない。
違いばかりが目につくのに、何故かふとしたときに「自分だったら」とも考えてしまう。ネロにとって、シャイロックはそういう相手であるらしかった。飲食物を提供する店を営んでいたという共通点と、そうでありながら構えた店があまりに異なるせいだろう。
じわりと視線を上げて、カウンターの内側を伺う。長い睫毛に縁取られた紅玉の瞳はネロとは少し違う方を向いていて、そのことに安堵した。
目を合わせてじっと覗き込まれることが、ネロは苦手だ。見せたくない中身まで探り出されてしまいそうで、落ち着かない。おそらくシャイロックはネロのそういう性質までわかって、敢えて視線を逸らしてくれているのだろう。
「虚しいと感じたことはありませんね。胸をときめかせて誰かの訪れを待つ時間は、それ自体が甘美なものです。どなたがいらして、どんな顔をなさっていて、何をお出しするか、あるいは何のリクエストをいただくか。どんなお話が聞けて、どんな楽しい出来事が起きるか。不確かさは希望であり、快楽です。空振りに終わった夜の寂しさや切なさは、次にお客様をお迎えする悦びをいや増す、スパイスのようでもありますね」
美しい詩をそらんじるような声音でシャイロックは語り、そうしながら指先を指揮棒のようにくるくると回す。色とりどりの瓶やグラスがいくつも宙に浮かびあがり、好き勝手にダンスを始めた。浮かれた音楽の聞こえてくるような賑やかさは、西の魔法使いが集うときの華やかな空気に、どこか似ている。
「気が乗らない夜は、バーは開けないで、部屋で静かに過ごします。扉の前にどんなに長い行列ができていてもね。西の国に戻って店を開ける日もありますし、談話室でお喋りをしていてもいい。私は奉仕系ですけど、奉仕する相手は選ぶんです」
言い終えるのと同時、バーカウンターに置いたネロの指の近くに、優美なグラスがふわりと着地した。透きとおった金色のカクテルからは控えめな花の香りが立ちのぼっている。
ネロが常飲するものよりかなり繊細な印象だが、出されたものを突き返す度胸もない。どうぞと促され、おずおずと口を付けた酒は優しい甘さにわずかな苦みが隠れていて、予想したよりずっと好みの味だった。
「……甘やかすじゃん……」
「ふふ。あなたのそんな顔を独り占めするのも、私の楽しみで、特権ですね。今夜のお代は貴方の打ち明け話で結構ですよ。口は堅いですから、安心なさって」