マドレーヌの魔法『ホワイトデーはなんかやる』
有限実行の男、藤堂葵は一人台所に立っていた。目的はひとつ、ホワイトデーのお返し作りのためである。
恋人と妹それぞれに用意しなければならない。姉の存在も脳裏をかすめたがどうせ勝手に食うので気にしないことにする。
スマホで一応ホワイトデー、お返し、意味と打ち込んで検索する。迂闊なものを作って誤解を生むのは御免被る。なお千早がくれたガトーショコラに特に意味はないことをあとから知ったのだが【千早が手作りをした】というのが最大の愛であることを藤堂は知っている。
簡単にできそうで、好意的な気持ちを伝えられるものついでに言えば材料も少なく済むもので、と限定すると自ずと絞られていく。一通りレシピに目を通してからエプロンを身に着けて髪を少し高めの位置に結い直す。
「うし、やるかぁ…」
どうせ食うだろ。という心の余裕とともに藤堂は冷蔵庫を開けて材料を取り出した。
翌日、眠い目を擦りながら教室に入ると千早はすでに席についていた。藤堂が入って席についたタイミングでイヤホンを外して顔を向けた。
「おはようございます」
「はよ。これやる」
「なんです?」
簡素な紙袋を机にのせられて千早は訝しげに藤堂と紙袋を交互に見つめた。
「先月のやつ」
「……えっ!」
教室というのもありバレンタインデーのお返しというのも憚られてなんとなくぼかす。千早は逡巡した後今日がホワイトデーということに気づいて上擦った声を上げた。
「あ、ありがとう…ございます」
照れて赤くなった目元を顔を隠すように眼鏡の位置を直しながらそっと紙袋の中身を覗こむ。貝をモチーフにした焼き菓子、マドレーヌがラッピングされて数個入っていた。少し焼きムラがあり一目で手作りとわかる。
マドレーヌをホワイトデーに渡す意味はもっと親密になりたいという意味で、もちろんそれを知っていた千早は頬がゆるんだ。
「ちなみになんですけど……意味わかってやってます?」
「当然だろ。藤堂葵様を舐めるなよ」
「あはは……そうですか……じゃあ、これを」
そういってカバンから出して藤堂の机に置いたのは市販のマドレーヌだった。平時から空腹時の腹の足しにと持ち歩いていたもので、渡す予定も無かったが千早なりに返事をしたかったのだ。
「俺も藤堂くんと同じってことで。これからもよろしくお願いします」
「おー、俺こそ。来年も同じクラスだと良いな」
「さぁ、どうですかねぇ」
その日の夜、千早は藤堂に紅茶と皿に丁寧に盛られたマドレーヌの写真を付けて「ごちそうさまでした」とメッセージを送った。
すぐに既読が付いてしゅぽ、と通知音が鳴って「どういたしまして」とスタンプが返ってくる。そのまま他愛のないやり取りを続け、話は春休みの予定につながっていく。
『部活ない日どっか会えます?』
『たぶん大丈夫』
『会いたいです』
既読の直後に着信。すぐに通話ボタンを押して浮足立つ気持ちを抑えて受話口を耳に当てた。
「俺も」
耳朶に直接響く藤堂の低く甘い声に胸が高鳴るのを抑えられずシャツの胸元を強く握った。好きという思いが溢れて零れそうになるのを耐えようとしたが失敗し喉から音が漏れる。
「んっ…!!!」
「うぉ、なに、どした」
「心臓に悪いので不意打ちやめてください」
「どれ?え?なに?」
電話の向こうでは困惑した藤堂の声が聞こえる。自分がどれほど甘い声を出していたか自覚はないらしい。
「わからないなら良いです……春休みどっかいきます?」
「どこいく?」
どこかと言われて思考を巡らせるがそう簡単には思いつかない。正直どこでも良かった。
学生の身分では案外行動範囲は狭い。ただ二人きりになれたらそれだけで千早は満足だった。数分考えたが思いつかず藤堂に意見を委ねる。
「藤堂くんは無いんですか、行きたいとこ」
「千早と一緒ならどこでも?」
間髪入れずに鼓膜に突き刺された歯の浮くような台詞に千早は頭部を殴られたような衝撃を受けた。クッションに顔を埋め悶えた。昔携帯小説で読んで共感できず不思議に思っていた「キュン死」という言葉はまさに今使うのだと千早は身を持って知る。
「ちはや?おーい?」
「藤堂くん、付き合ってから人間変わりました?そんな歯の浮くような事言う人でしたっけ?」
息をなんとか整えて尋ねる。もっと選択肢の一部に暴力があるような豪快な賊のような男だと思っていたのだが最近千早だけに見せる藤堂の顔も声もひどく甘く同一人物と到底思えなかった。
「好きなやつには言ってよくね?」
「良いですけど……俺だけにしてくださいよ絶対」
「千早だけだって。で、どーする?どっかいく?」
とんでもない誑し込みに心臓がうるさく高鳴り血液が沸騰するようだった。
「俺も…一緒にいれたらそれでいいです。」
なんとかそれだけ伝えると電話越しで控えめに笑う声が聞こえる。時計を見ると23時を回っておりあまり大きな声では話せないことが伺えた。
「遅くなっちゃいましたね。そろそろ寝ましょうか」
「そうだな。じゃ、明日な」
「あ、藤堂くん」
「んー?」
「おやすみなさい、大好きです」
そう仕返しのつもりで囁いて最後にちゅ、とリップ音を出した。一瞬の間の後受話口の向こうでくぐもった音が聞こえる。おそらく画面の向こうで先程の自分と同じ様に悶えているのが想像出来た。
「おっおま…っ」
「あはは、じゃ、おやすみなさい」
「おう…おやすみ」
そういって終話ボタンを押した。部屋が一瞬で静まりかえったが自分の心臓の音だけがうるさくて、中々互いに寝付けない夜を過ごしたのだった。