翔くんのお留守番「あー… どうすっか、これ…」
崩れた塩の山を見下ろしながら、誰に言うともなく呟いた。
今日もまたいつものように、真下の旦那の事務所に押しかけ… いや、手伝いをしに来たのだが。
うっかり、扉の前に置いてあった盛り塩を崩してしまったのだ。もちろん故意にやったわけではなく、扉を開けた拍子にぶつけてしまった。
そういった方面には疎い自分でも、これの意味くらいはなんとなく知っている。だから、できれば元に戻したい… のだけど。
替えの塩がどこにあるかなんて知らないし、こういう時に限って家主は留守だ。
まぁ、帰ってきてから聞けばいいか。そんなに緊急性のあるものでもないだろうし… と気楽に考えて、事務所の中に入る。
どことなく感じる寒気を、気のせいだと自分に言い聞かせながら。
しばらくして、事務所の扉をノックする音がした。
コン、コンと控えめな音と共に「ごめんください」とか細い声が聞こえた。
しまった、旦那が帰ってくる前に客が来ちまったな… まぁ、中で適当に待っててもらえばいいか。
「わりい、探偵は今留守で」
そう答えながら扉を開けると、客らしき女が立っていた。
つばの広い帽子を深く被っていて、顔は見えない。声の感じからして、若い女のようだった。
「ごめんください」
先ほどと同じトーンで、女は繰り返した。こちらの顔を見ようともしない様子はなんとなく不気味だったが、客の前では礼儀良くしてろっていつも言われてるからな… と思い出し、平静を装った声で対応しようと努める。
「お、う… と、とりあえず中に入ってくれ。しばらくしたら戻ると思うから」
「ありがとうございます」
すれ違う瞬間にちらりと横顔を見るが、やはり顔が見えない。
なんだか、泥のような嫌な臭いがした。
来客用のソファに腰掛けた女は、室内に入ったというのに帽子を脱ごうとしなかった。
まぁ、ビョーキとか、何かしらの理由で帽子を外したくないヒトもいるよな… と無理やり自分を納得させながら、コーヒーを淹れる。
ここで手伝い(というか、ほとんど雑用だが)をするようになってから、コーヒーを淹れるのが随分と上手くなった。少なくとも自分ではそう思っている。
机にコーヒーを置くと、女はまた「ありがとうございます」と礼を言う。しかし、カップに手を伸ばそうとはしなかった。
コーヒー苦手なのかな、とか考えていたら、女がボソボソとした声で何か呟いた。
「ここって、たすけていただけるんですよね」
「ん? あー、まぁ、依頼の内容によると思うけどな。よっぽど無茶な内容でもなけりゃ、受けてくれんじゃねぇか」
「たすけていただけるんですね」
なんとなく、女の言い方が気になった。
たすけてほしい、という表現を使う割には、緊迫感がないというか。心底どうでもいいと思っているような、抑揚のないトーンで喋るものだから。
「ありがとうございます」
「いや、オレはただの手伝いだから、オレに礼を言われても困るけどな… 依頼を受けるって決まったわけじゃねぇし」
「もう、つらくて、たすけてほしいんです。つらいんです。くるしいんです」
「おい、大丈夫かアンタ…?」
「くるしくて、さむいんです。たすけてほしいんです。たすけてほしいんです」
女の体が小刻みに震えていることに気が付いた。明らかに様子がおかしい。
「もしかしてどっか悪いのか? それなら、ここよりは病院に行った方がいいんじゃ…」
ピタリ、と体の震えが止まった。まるで機械のスイッチを切ったように、唐突に。
「ここで、おねがいします」
帽子のせいで顔の向きが分かりにくかったが、女はこちらを向いているようだった。
見られている、と思った瞬間、嫌な汗がじわりと滲んだ。
「おねがいします。たすけてください、おねがいします。たすけてください」
相変わらず抑揚のない声で、女は同じ言葉を繰り返す。壊れた機械のように、同じ言葉を何度も何度も…
気が付くと、女とすれ違った瞬間に感じた泥のような臭いが強くなっていた。
「え、あ、」
何か言おうとしたが、言葉が喉につっかえたように出てこない。
喉が苦しい。声が出せないだけじゃなく、呼吸もうまくできない。
異常な雰囲気に呑まれているとか、それだけじゃなく、なんだか、水の中にいる、みたい、な
くるしい、つらい、息が、できな………
ガチャ
扉の開く音がして、咄嗟に音のした方を見ると、家主が── 真下の旦那が立っていた。
その瞬間に、さっきまでの息苦しさが嘘のように消えてしまった。まるで、全て気のせいだったかのように。
「だ、んな……」
「長嶋、表にあった盛り塩を崩しただろう」
「あ、ああ… わりい、わざとじゃなかったんだが」
「だろうな。貴様が自分から崩すとは思えん。……それで、そのコーヒーはなんだ? 誰か来たのか?」
「え、誰か来たって、今もそこに」
振り返って愕然とした。
確かに女が座っていたはずの場所には、誰もいなかった。ただ、あの泥のような臭いだけが微かに残っている。
「……さ、さっきまで、そこに、女が」
「…あの盛り塩にも、一応の効果はあったということだな。今度、安岡の婆さんに礼を言っておくか」