名前を呼んで。「翔」
突然、そう呼びかけられて肩が跳ねた。
呼びかけに応じて振り返れば、そこにいるのは見慣れた顔。自分が今いる場所、探偵事務所の主である男── 真下悟だ。
一応… 自分の恋人でもある。
とは言っても、恋人らしい行為はほとんどしていないのだけど。二人きりの時に手を繋いだとか、その程度だ。
「……おう、何だよ」
少し反応が遅れたのには理由がある。
彼が自分のことを「翔」と、下の名前で呼んだからだ。
旦那は普段、オレのことを名字で呼ぶ。それ自体に不満とか違和感は全くない。
むしろ、名前を呼んでもらえるたびにちょっとだけ嬉しくなってしまうのだが… この気持ちは流石に恥ずかしいので、自分だけの秘密にしている。
とにかく、そんな彼が急に下の名前で呼ぶものだから、少し驚いてしまったのだ。
驚いた、というか、うん。
結構、嬉しい… というか。
だって、二人きりの時に普段と違う呼び方をするとか。いかにも恋人っぽいし?
反応が遅れてしまったのは、そんな少女漫画みたいなコトを考えていたからだ。
「…少し、暑くなってきたからな。何か飲むか」
旦那にしては珍しく、少し口ごもったような雰囲気があった。
なんだか、オレの返事を聞いてから、何を言うか考えたみたいな。
彼の言う通り少し暑くなってきているから、ぼんやりしてしまったのだろうか。
……いや、もしかして。
オレの反応が見たくて、いつもと違う呼び方を試してみた… とか。
だから、何を言おうか考えてなかった、とか…?
旦那がそんな子どもっぽいことをするだろうか。単なる気のせいかもしれない。
…だけど、そうだったら嬉しい。
そんなことを考えながら、麦茶が飲みたいと返事をする。
気温のせいではない熱で、少し顔が熱かった。
◆
ある日の午後。
疲れが溜まっていたのか、ソファに背中を預けたままうとうとしていた。
ぼんやりとした意識の中で、背後に人の気配を感じる。今この事務所にいるのは自分と長嶋だけなのだから、必然的に奴だろう。
助手を気取っているつもりなら、ちょっと肩でも揉んでほしい。
そんなことを考えていたら。
「…さ、悟」
…名前を、呼ばれた。
普段とは違う、下の名前で。
そのことに驚いて、顔を上げて振り向くと──
頬に、柔らかい感覚。一瞬だけ触れたそれは、すぐに離れてしまう。
数秒固まってから、何をされたのか気付いた。
「こ、この間、ドキドキさせられた分のお返しな」
キスをしてきた張本人は、顔を赤くしながらも笑っている。してやったり、という表情だ。
この間というのは、自分が長嶋を下の名前で呼んだ時のことだろうか。
反応が気になって、なんとなく呼んでみただけの行為だったが、そうか。コイツはあれでドキドキしたのか。
年下の恋人の思わぬ純情さに、口元が緩みそうになる。
そんな純情さを見せられては、少しからかいたくなるのが恋人心というもので。
「…こっちには、してくれないのか?」
トントン、と自らの口元を指先で叩く。
そうすれば、ほら。元々赤かった顔が更に赤くなる。
「貴様がしないのなら、俺からしてやろうか」
手を伸ばして、親指で少年の唇をなぞる。
耳まで赤くしながらも、自分から目を離せずにいる様がなんともいじらしい。
「そ、それは、まだ、」
「ダメなのか?」
「…こッ、心の準備が必要なんだよ!!」
そう言い残すと、事務所から飛び出して行ってしまった。
自分から仕掛けてきたくせに、こちらが踏み込もうとすれば逃げてしまう。扱いづらい年頃だな、などと思いつつ、捕まえる時が楽しみでもある。
これから先、あの純粋な不良少年がどんな反応を見せてくれるのか。
それを考えると、つい口角が上がってしまうのだった。