ふんわりしたパラレル松田のつなぎはいつもどこか汚れている。
洗っても落ちねーんだよ、とどこか誇らしげに言う彼はランドリー泣かせで有名だ。
ほら、今日だって捲り上げた袖の裏側が油で汚れている。
それを間近で見つめながら、萩原は抱えたパイロットスーツのメットを指先でくるりと回した。例え落としても、この低重力区画ではさほど問題にならない。ふよふよと緩やかに落ちていくのをキャッチするなんて朝飯前だ。
「遊ぶな」
一体どういう目をしているものか。松田が手元から目を上げないまま萩原の手遊びを咎める。
「はいはーい」
「出撃前だってのに相変わらず緩いなお前」
呆れたように言いながらも彼の手は忙しなく、しかし迷いなく動いている。それを見るのが萩原はとても好きだった。その彼の手が整備しているのが自分の愛機ならば尚更。
幾度か彼の手が同じ軌道を辿り、そして短く溜息。
「お前のは本当にじゃじゃ馬だな」
「おおっと愛しの彼女の悪口はそこまでにしてもらおうか」
海を行く船をSheと呼ぶように、萩原は愛機を彼女と呼ぶ。
「浮気者」
機体のコクピットに胡坐をかき、入力と反応の対応速度のシミュレーターを走らせている松田が一瞬だけ目を上げて唇の端を引き上げた。開けたハッチに腰を下ろしている萩原は目を細め応じる。
「愛しの男はお前だけだよ」
「そうかよ」
「そうだよ」
ああ。時間が許しさえすれば機嫌が上を向いている松田のその唇を奪えたものを。
しかし先程から怒号が響き渡っている格納庫ではそれは許されなかった。耳に障る、敵影接近を示すレッドアラートが鳴り止まない。先発隊として諸伏が既に出撃していた。すぐに萩原も続かねばならない。
「言ってろ」
爪を短くした男の手が使い込まれた端末のコンソールをタップする。それに呼応するかのように低く唸るような音を立ててコクピットのメインモニターが立ち上がった。それに映し出されたのは愛機の全体像だ。
「ちゃんと見とけよ。この関節部分の反応が多分前とは違う。気持ち早い」
さすがに機体のこととなれば軽口を叩いてはいられない。萩原はコクピットに身を滑り込ませると松田の隣に体を収めた。それなりに体格のいい二人が収まるには一人乗りのコクピットは狭かったが、松田は文句を言わなかった。ここでじゃれている余裕はないことを彼もまた分かっているのだ。
「ぶっつけ本番か」
「ぶっ壊れた機体の修理が間に合ったことを褒めろ」
前の出撃で萩原の彼女は大きく損傷していた。それを急ピッチでどうにか出撃できるまでに整えたのは松田を始めとするメカニックたちの手腕だ。しかし前と全く同じ仕上がりとは行かなかったのは、メカニックとして忸怩たる思いがあるのだろう。松田は褒めろと言いながらも苦い顔をしている。
「間に合わせてくれてありがとう」
萩原は彼の目を見て言った。
松田の、透き通った空の色の目が幾度か瞬き。
「……おう」
そして、何かもの言いたげにしていた唇は後悔ももどかしさも飲み込んだようだった。
「お前が前に要望出してたやつ。バーニアの出力上げてあるからな。様子見ながら使え」
「お!?ほんとか!やったね」
萩原はぱっと顔を輝かせた。火力よりも速度重視でチューニングしてある機体の、その強みをもっと生かしたいと希望を出していたがピーキー過ぎると中々許可が下りなかった調整が叶ったのだ。
「どさくさに紛れてな」
松田がにっと笑う。
どうやら彼がメカニック連中をそそのかしてくれたらしい。
「愛してるぜ松田!」
「知ってる」
「知っててくれてサンキュー」
萩原は一度松田を強く抱きしめると目を閉じた。油と、汗と、安っぽいシャンプーの匂いがする。……松田の匂いだ。
「萩原」
松田の手が一瞬だけ背中に回って、でもすぐにそれに肩を押される。萩原も素直に体を離した。
隣の機体は既に発進シークエンスに移行している。萩原もぐずぐずしてはいられない。
「行って来い」
「行ってきます」
松田がハッチから離れてゆるりと降下して行く。それが視界から外れるのを待って、萩原はメットを装着した。後ろ髪を巻き込まないように収めるのにももう慣れた。
重い音を立ててハッチが閉まる。
もう見えなくなっても、でも萩原には分かる。松田がきっと見守っていてくれていることを。
グリップを握り、機体の最終チェックプログラムを立ち上げる。
計器が……彼女のご機嫌が、花開く様に灯ってゆく。
「システムオールグリーン」
萩原のその報告を受けて、管制塔から射出カタパルトへの移動指示が出た。
「……帰ってくるからね」
松田には面と向かっては言えないことを一人呟きグリップを握る。
戦場はもうすぐそこだった。