左様ならば「地元を離れてみる気は無いのか」
と、藪から棒に父親がそんなことを言い出したので松田は目を瞬かせた。
「はあ?何のことだよ」
「大学のことだよ」
夏も終わり、そろそろ受験が現実味を帯びて目の前に立ちはだかる季節になっていた。さすがの松田もそれを無視はできず、本腰を入れて受験勉強に取り組んでいる真っ最中だ。理系の教科はまあいい。問題は文系だ。古典と現文と英語のテストの点数に担任が目頭を押さえていたりなどするので、それをどうにかしなければならない。ありおりはべりいまそかり。
苦手な教科の勉強は集中力が続かない。
今日も今日とて問題集を3ページ解いたあたりで気力が失せてしまった。そうなっては仕方がないと、気分転換という名目で夜食の菓子パンと飲み物を調達しに台所に足を踏み入れたところで父親に捕まったのだ。
「んだよ。近くの大学行くっつっただろ」
松田は冷蔵庫から牛乳のパックを取り出し、足で扉を閉めながら応えた。
素足の指先に冷えた扉の温度がひやりと伝わる。
父親は、こちらに背を向けたままテレビを見ていた。クイズ番組だろうか。お笑い芸人と思しき男がおどけた表情で『トマト!』と答えて、間髪入れずブッブーと効果音が鳴る。それと共にどっと笑い声が沸いた。何の問題かは分からないけれど。
「誰も何も知らない土地に行くのも、いいもんだと思うぞ」
かたくなにこちらを見ないまま父親が言葉を重ねる。
松田は淹れたインスタントのコーヒーに牛乳を注ぎながらふん、と鼻を鳴らした。
「別に俺は何処だっていい」
まずはセンター試験、その結果次第ではあるが松田は家から通える大学を受験するつもりでいた。一人暮らしに憧れはないではないが、一人で暮らす明確な理由もないのだった。
「仕送りできる余裕くらいはある」
父親がこうまで言い募るのは珍しい。
いい意味でも悪い意味でも放任主義、それが父親の教育方針だった。松田のやることに基本的には口を挟まない。高校進学の時もそう。高3になって幾度かあった進路面談の時も、好きなようにやらせますんでとその一言で面談を終わらせていたのだからその放任っぷりが知れよう。
松田の生活のことにあれこれ口を出すのは、父親よりも萩原の家の者の方がずっと多かった。
そんな父親が、こんなにも。
「……俺を追い出したいってか?」
さすがにそんな疑念が沸く。
らしくもなくやや落ち込んだ声になってしまったようだ。父親ははっとこちらを振り返ると、大きく頭を振った。
「違う」
「じゃあ何だよ」
「何のしらがみも無い学生生活ってやつを送りたいとは思わないか?」
「それは」
松田は言葉を詰まらせた。
父親の言うしらがみとは、松田に付いて回った父親の冤罪の噂話だ。今でもふとした時に風に流れてやって来るその噂は、松田の神経を逆なでして荒れさせた。萩原がまあまあと穏やかに宥めてくれたりジュースを奢ってくれるそのあけすけな気の使い方に随分救われてはいたが。
「まあ。俺の勝手な感傷だ」
また父親は前に向き直り、少し背を丸くする。
「ただ、家を出たいのなら応援する気があるってのを知っておいて欲しくてな」
それから、今度はやや冗談ぽい口調で付け足したりもした。
「一人暮らしは自由で楽しいぞ」
「新幹線もうすぐだね」
萩原が電光掲示板の時刻表を見上げながら言う。
「おう」
松田の乗る新幹線は、掲示板の上から4番目に掲示されていた。定刻通り、ダイヤに乱れなし。
平日の昼間でも、ターミナル駅の新幹線改札はそれなりに混雑していた。ビジネス客と、大きなバッグを持った旅行客が行き交う。各々が着膨れするコートやダウンを着込んでいるものだから、やけに混んでいるように見える。
発車時刻が迫っているのか、足早に駆けて行く二人連れの男女の勢いを遮らぬように二人はひっそりと壁際に身を寄せた。
松田が壁に背を預けると、前に萩原が立った。(腹は立つが)身長差の関係で、ややうつむき加減になる彼の目に髪が掛かって影が落ちる。
「お前前髪伸びたんじゃねえ?」
「今言うことかよそれ」
萩原が少し笑って言った。
今、つまり別れの時だ。
長く共に過ごした幼馴染と離れる日。
しかし松田はこんな時に何を言えばいいのかよく分からなかった。今までありがとう?じゃあな元気でやれよ?それらは全て本当に伝えたい何かの心の上を滑って行くように思えた。
さりとて寂しいと心の片隅にあるそれをそのまま萩原に見せるのは憚られる。男のプライドってやつだ。
松田はポケットに手を突っ込み、そこにある固い紙の感触を確かめた。これが、松田と萩原を隔てるのだ。
その仕草を見て萩原が僅かに小首を傾げる。
「切符ある?落としてねえ?」
「ガキじゃねえんだ。落とすかよ」
松田が口を尖らせると、萩原は低く声を出して笑った。
「切符落したら、出発できなくなっちゃうね」
「ばーか。何言ってやがる」
萩原の冗談はこんな時でもふんわり柔らかい。
進学先を遠方に決めた松田とは違い、彼は当初の予定通りに実家から通える大学に進むことを決めていた。幾度か彼は松田と一緒の大学に行きたいと軽口をたたいたこともあったが、結局は家の経済状態のことを慮った結論を出したのだ。それについて恨み言を聞いたことは無かったので、彼なりに納得はしているのだろう。
「あーあ。陣平ちゃんとこんな風に駄弁るのもこれが最後かあ」
「……電話すればいいだろ。あとメール」
そうは言いながらも、松田はまだ萩原と離れる実感を得ていなかった。萩原が居ない生活は未知だ。彼はずっと傍にいた。はぎ、と呼び掛けても返事がない日常がこれから始まるというのに。
萩原も同じように思っているのだろうか。出発できなくなっちゃうね、なんて未練のようなことを口にするくらいには。
それを思うと鼻の奥がつんとした。
離れることを決めたのは自分の方なのに、つい寂寥が口をついて出そうになって松田は慌てて咳払いで誤魔化す。
「風邪?」
「いんや」
「向こう寒いから、体調には気をつけろよ。寝込んでも俺もう見舞いに行ってやれねぇんだから」
「わーってる」
松田はバッグの持ち手を握り直した。
「……なー、萩」
「ん?」
「そのうち遊びに来いよな。俺もこっち帰ってくるし」
それを聞いた萩原の目が一瞬大きくなって、次いで細くなった。
「あれ?松田寂しくなっちゃってる?」
「んなわけねーだろ!お前が寂しがってるからだっつーの」
「あはは」
松田の強がりを軽く流して、萩原はふと目を横に流した。
つられて視線を巡らせた先には、松田の乗る新幹線の発車時刻が近づいていることを示す掲示板があった。
ここからコンコースまでの距離を考えると、あまり余裕はない。松田はスニーカーの底を鳴らして一歩を踏み出した。
「そろそろ行くわ」
「はいよ」
改札を潜るまで見送ろうとしているのだろう。萩原は先に立って歩き始めた松田の後を着いてくる。
彼の足音が背後で止まった。
松田は止まらず改札を通る。
検札を終えた切符をポケットに戻す。
「なー松田」
萩原の声がした。雑踏の人の声。断続的に聞こえる駅のアナウンス。それら全てを貫いて、奇妙にクリアにそれは聞こえた。
「何だよ」
振り返った先で、彼は微笑んでいた。
今まで見たことも無いような美しい顔だった。
「はぎ?」
「お前のことずっと好きだったよ」
「は?」
松田はポカンと口を開けた。
すき。今あいつは好きといったか?
松田だって萩原のことは好きだ。けれどあの好きはそうじゃない。それが分かった。分かってしまった。あれは松田がずっと千速に伝え続けていたのと同じ。
萩原は、俺のことが好き。
そう頭の中で認識された途端に、萩原はいつものあの飄々とした顔に戻って大きく手を振った。
「じゃーな!元気でやれよ!」
「おい、萩原!」
改札の向こうで萩原が身を翻す。
「新幹線乗り遅れるなよー!」
見る間にその背中は小さくなり、人の波間に消えて行った。この人ごみの中それは見事な身のこなしだったが、感嘆を覚える暇もない。
「お前、どうして」
知らず困惑が口からまろび出た。
答える者はもう居なかったけれど。
確かに。父親の言う通り一人暮らしは自由だった。
講義終了のチャイムと講師の挨拶を聞きながら、松田はリュックサックを膝の上に持ち上げた。
昼直前のコマだ。教室がざわめくのも仕方がない。この教室は食堂から大分離れた場所にあり、さっさと移動しないと食堂が混んでしまって空席を探すのに苦労するのだ。現に松田の隣席に座っていた学生などは、もうさっさと教室の階段を駆け下り始めている。
「松田、昼飯一緒に行こうぜ」
後ろの席から声が掛かったのに、松田は振り返りもせずに手をひらりと振った。
「俺はこれからバイト」
大学の一年生はまだ必修科目が講義の多くを占め、それなりに忙しい。それでも梅雨が明ける過ぎる頃には新しい生活のリズムも掴めて、バイトをする余裕も出てきた。
「なんだ残念。じゃあまたな」
「おう」
声をかけてきたのはよく講義で一緒になる同じ学部の男で、多分友人の括りに入るのだろう。
工学部という好きじゃなきゃ来ねえよ、という象牙の塔に集まった学生たちは松田にとっては比較的付き合いやすい人種だった。何となく通じるものはあるし、好きなものは似通っている。
それに何よりここは松田の噂が届くには遠過ぎて、しらがみの無い学生生活は快適だった。
階段教室を降り始めた友人が、はたと振り返り声を張り上げる。
「あ、松田。そういや吉田がレポートのこと聞きたいって言ってたぞ」
「どのレポートのことだよ」
「さあ?しらね」
友人がけらけら笑いながら教室を出ていく。
あれが萩原だったら、きっと親身に吉田の話を聞いて松田に伝えただろうに。しかし萩原ではない男は軽く人との関係性の表面を触れてゆくばかりだ。勿論それは決して悪いことではない。軽快なコミュニケーションは松田の負担にはならない。
松田は友人の背中を見送って、それからリュックに入れていた携帯電話を取り出した。
メール画面を開く。
送受信を押す。
『新着メールはありません』
松田は内心で溜息を吐いて、それを再びリュックの中に仕舞った。
はくじょうもの。
口の中で文句を呟く。
一昨日の夜に送った萩原へのメールの返信は未だ無い。
夏休みには帰る。萩、暇な日教えろよ。そう送ったのだから何かしら返ってしかるべき内容のはずだ。
高校の頃はメールなんて間髪入れずに返って来ていたのに。余りにリアルタイム過ぎるので、爆笑したことだって何度もある。
あの別れの後から、萩原のメールは途絶えがちだ。
いや、彼だって慣れない学生生活の上、バイトにも精を出しているはずだ。そのバイトのシフトが出ないことにはいつ暇かなど返事もできないに違いない。きっと萩原も忙しいのだと思いたい己が居る。
「希望的観測」
松田は呟いた。
すきだったよ。
あの別れの時に萩原が口にした言葉が脳裏を巡る。
もしかしたら、萩原が疎遠になりつつあるのはあれが原因なのだろうか。
好きだった。
過去形で語られた感情が今彼の中でどのような形を成しているのか。松田には知る術がない。
別れの後、いてもたってもいられず新幹線の中から『好きってなんだよ』と送ったメールには、茶化したハートマークと一緒に『そのままの意味だよ』とだけ返って来て、以来その話題が二人の間に出ることは無かった。
彼は松田との間に気まずさを感じているのだろうか。
松田はずっと千速が好きで、何度振られても別に彼女と顔を合わせるのが気まずいと思ったことは無かったが、それが萩原にも適用されるかと言えばそうではないだろう。高校時代、ばったり他クラスの元カノと廊下で出くわして何とも気まずい顔をしていた彼を思い出す。
「わっかんねーな……」
そう、彼には幾人か付き合った彼女が居たのだ。恋愛対象は女、のはずなのに。
「何で俺」
何もかも分からないことばかりだった。
自分がどうしたいのすら、分からない。
重い溜息を吐いて松田は席を立ち、最後の一人になった教室を後にした。
気分は重かったがバイトをサボる訳にもいかない。
それなりに松田は勤勉だった。
「お疲れ様っす」
接客業など性に合わないが、学生が選べるバイトの種類はそう多くはない。
飲食店は多分続かない、コンビニも以下同文。ならばと選んだ接客が短時間で済むガソリンスタンドの店員はそれなりに性に合って、これならば続けられそうだと安堵しているところだった。車は好きだし、余計な愛想は振り向かなくてもいいし、体も動かせる。
今日のバイトは店長と中年の社員、寡黙なフリーターの男の四人態勢だった。むさいにも程がある。更に夕方からもう一人、松田と同じ大学の学生が入る。これまたむさく体育会系の男。気を遣わなくていい分気楽ではあるが。
「なーに、どしたの松田君。暗い顔しちゃって」
つなぎに着替えて表に顔を出すと、さっそく店長が傍に寄って来た。人と話をするのが好きらしく、しょっちゅう誰かと絡んで居る男だった。
「元からこの顔っす」
松田は定位置の計量機の横に立って唇をひん曲げた。
「いやいや、思う所があるっていう顔だぞ若人よ」
スタンドが忙しくなるのは夕方だ。まだ早い時間だから入ってくる車も少なく、寡黙なフリーターが先ほど一台見送って以降閑古鳥が鳴いていた。
店長という立場ならば接客以外にも仕事はあるだろうに、サボりの時間つぶしに使われるのは勘弁してもらいたかった。
「そんなことないでしょ。顔に出てるよ~何か悩んでますって」
松田が鬱陶しがっているのを分かっているくせに、突くのを止めない肝の太さには感服する。尊敬はしないが。
さすがに聞き流しているのも面倒になって、松田は一つ溜息を吐くと口を開いた。
「ダチが連絡寄越さないんで、気になってるだけっす」
店長はそれを聞くとにやあと笑った。
「お、地元に残してきた彼女?」
「違いますって」
松田は眉根に皺を寄せた。どうして中年というやつは全てを恋バナに結びつけたがるのだろうか。
恋バナなんかじゃない。
……じゃない、はずだ。
「やっぱり離れるとさあ。相手のこと分からなくなるよねえ」
すっかり店長は松田の話を恋愛絡みと決めつけてしまったようだった。それにあれこれ言い募るのも面倒で、松田は短く相槌を打つ。
「まぁ」
「メールも電話もさ。離れている相手の所に声と言葉は届けてくれるけれど心は難しいよね」
知ったように店長は言うが、果たしてそうだろうか?
松田は心の中で首を傾げた。
地元を離れる前までは、メールだって電話だって萩原の心が分からない時なんて無かった。全部を彼は松田に伝え続けてくれたし、松田はそれを受け取れた。逆もまたしかりだったと思っている。
けれど今、それが成り立たないのは。
「……あいつが、伝えるのを止めたせいか?」
「何?松田君、彼女のこと怒らせちゃったの?」
彼女ではない、という一言を飲み込み、松田は頭を横に振った。
「怒っては無かったっす。ただ何つーか、一人で言いたいこと言ってそれっきり何も言わなくなったっていうか」
「あーあ。それ、諦めたんじゃないの?」
「諦め……?」
店長が腕を組んでうんうんと幾度か頷いた。
「その子が何を言ったかは知らないけどさ、言うだけ言ってって松田君からレスポンスは要らないってことでしょ?松田君からの反応欲しかったらその後も何か言うし」
松田は別れの時の綺麗な萩原の顔を思い出していた。
あの奇妙に凪いだ、清々しいとも言えるほほ笑みは。あれは。
「あいつ」
松田は嫌な汗が背中を流れるのを感じた。萩原が恋を諦めたらどうなるかは知らないが、けれど今がまさにその実証の真っ最中だ。
連絡が途絶えがちになり、それからどうなる?断絶はしない、はずだ。いい友達の距離感は保たれるのだろう。恐らく。
そして五年後か十年後か、その辺になってけろっとした顔で話題に出すのだ。俺陣平ちゃんに告白したことあったよなあ、なんて。
その様子が目に浮かぶようだ。
しかしそれは松田が望む萩原との関係ではない。
腹の底に滲んだ不安と、恐怖と、それが一瞬の後に過ぎ去ると次いで猛烈な腹立たしさが松田の腸を煮え繰り返した。
お前は、今更!
松田にとって萩原は一番近しい他人でなければならない。
傍若無人?勝手に言え。俺をこうしたのは萩原のせいだ。
「店長」
「なーに?」
「今猛烈に腹が痛くなったんで早上りしていいっすか」
恐らくは酷く険しい顔をしている松田を見て、店長はあははははと空を仰いで笑った。
「いいよいいよ。そんなに腹が痛くっちゃ、仕事にならないしねえ」
「はぎわらくーん、お疲れ様ぁ」
「お疲れ様です。気を付けて帰って下さいね」
「んふふ。彼氏が迎えに来てくれるんだあ」
「わーお。お幸せに」
可愛い声のバイトの先輩を見送って、萩原はロッカーから荷物を引っ張り出した。深夜のファミレスは時給がいいが、酔っ払いなどの面倒な客も多いのでそれなりに疲れる。
ふうと溜息を吐いて、萩原はバックから携帯電話を取り出した。メールが何通か届いている。高校時代の友人からと、大学でできた新しい友人からの遊びの誘い。それらに手早く返信をして、それからメールの受信画面をスクロールした。
一昨日に届いた松田からのメールに返事ができていない。
彼からの連絡は、夏休みには帰るという内容だった。
会いたい。
会いたくない。
萩原は折り畳み式の携帯を閉じて、また開いて閉じた。
もう少し時間を置こう。未だ燻る彼への恋がもう少し落ち着くまで。諦めると決めた決意を覆したくなる心を御せるようになるまで。
萩原はバッグを肩に掛けると、スタッフルームを後にして店の通用門から外に出た。
食べ物の匂いが充満する中に居て馬鹿になっていた鼻が、夜気に洗われて清々しく通る。
三日月がおぼろに空に上っていた。
夏も近い季節だが、夜はまだ風が涼しい。半袖から出た腕が少し寒いくらいの気温だ。
松田、風邪なんか引いてないかなあ。ついそんなことを考えてしまう。寒くても平気で薄着をする彼に上着を着せかけるのは萩原の役目だった。
……もうあんなふうに世話を焼く日は来ないのだろうけれど。
萩原は自嘲しつつバッグからカーディガンを引っ張り出した。これ一枚羽織ってちょうどいいくらいの気温だ。
早速それに袖を通そうと、カーディガンを広げたその時に。
「萩」
背後から声がした。
ここに居るはずのない男の声だった。
どうして。硬直していると、焦れた男の声が再びした。
「おい」
恐る恐る、振り返る。
「……松田?」
彼が居た。幻ではない。
店の駐車場を囲う植え込みのブロックに足を組んで腰掛けているその姿を、萩原は茫然と見つめた。
「松田?じゃねえよ。お前こんな時間まで働いてんのかよ」
「今日は、たまたま。シフトに空きが出ちゃって……」
「それで名乗り出たってか?相変わらずお人好ししてんなあ」
松田は目を細めて立ち上がった。駐車場の暖色の照明が彼の瞳に当たってきらきらと輝いている。
「何で、松田。どうしてここに」
「今日は夜シフトでバイトだって萩のおふくろさんに聞いた」
なるほど。そりゃあ松田が萩原の所在を問い合わせれば、母親ならば何の警戒もなく答えるだろう。幼いころからしょっちゅう遊びに来ていたせいで、松田はもはや萩原家では家族の一員扱いされている。
そんなことを萩原はぼんやり考えた。現実逃避だった。
松田は立ち竦む萩原の元へ歩み寄る。
「話をしに来たんだ。萩」
そう言い切った格好いい男は、萩原の前まで進み出でると足を止めた。それから、萩原の胸元を引っ掴んでぐいと引き寄せる。
「うわ!」
萩原はされるがままたたらを踏んだ。
松田の顔が近づく。
恋をした相手の顔がこんなに近くに。どうしたって心は騒ぐから止めて欲しかった。
「離せ」
「嫌だ」
松田が歯を剥く。
そこにキスがしたいとか考えている男に自ら顔を寄せるなんて、余りに無防備が過ぎる。萩原は松田を憎みたくなった。しかしなけなしの矜持でその腹のどろどろとした熱量を抑え込み、萩原は努めて平静さを装う。
「陣平ちゃん、今日が何曜日か分かってる?何で帰って来てるのさ」
今日はまだ平日の真ん中で、彼だって明日講義があるはずだった。理由もなしに講義を一日まるっとサボれるほど甘い学部ではないだろう。
「新幹線で来て、これから夜行バスで帰ってそのまま大学に行く。問題ねぇよ」
「大ありだろ!そんな強行軍、何のために」
「さっきも言っただろうが。お前と話すために来た」
「そんなの、電話でも」
「駄目だ」
松田は萩原の胸元から手を離した。ふと楽になった呼吸は、しかし次の瞬間引き攣れて止まる。
温かな体が胸の中にある。
松田が、萩原の首に腕を回して抱き着いて来たからだ。
「あーくそ。お前とはずっとダチでいたかったのによ」
耳元でぼやく松田の声がした。
萩原は息を飲んだ。
そしてやっぱりそうかと瞼を伏せる。
目の奥が熱い。そのまま泣いてしまいそうだった。
松田がからして見れば、ただの友達と思っていた男から告白されたのだ。萩原を忌避する気持ちを否定はできない。
だから、なるほどこれは松田なりのけじめか。友達ではもう居られないという、決別をしに来てくれたのだ。夜行バスで帰るというのも、萩原と接する時間を短く設定できるからだろう。
「ごめんなあ、松田。それからありがとな。わざわざ振りに来てくれて」
せめて最後に抱擁の感触は覚えておこう。
萩原は松田の背に腕を回し、一度だけ抱き締めた。うん。これでいい。これだけでいい。松田がきちんと萩原の気持ちと向き合ってくれて、結論を出してくれたのだ。これ以上望むことなんて無かった。
しかしその感傷は長くは続かなかった。
「ばっかやろー!!!」
松田が耳元で怒鳴り声を上げたからだ。
ファミレスの駐車場とは言え周りは民家の時間は夜だ。萩原は慌てて身を離すと松田の唇に指を押し当てた。
「松田、しー!」
「お前が変なことを言うからだろ」
松田は萩原の手を叩き落とし、ぎらぎらした目で睨みつけて来る。そうされる理由が分からず、萩原は困惑のまま首を傾げた。
「変なこと?」
「振るとか」
「だって陣平ちゃん、さよなら言いに来てくれたんでしょ?」
「はあ!?何だよさよならって!」
「だから怒鳴らないでって」
萩原ははーと一つ溜息を吐くと、言いたくもない台詞を言わされるこれからに気を滅入らせながら髪を掻き上げた。
「ダチでいたかったって、もうダチじゃいられないってことだろ?」
一言一句、全て胸が痛い。
せめていい友人のままで居たかったけれど、元はと言えば我慢しきれずに告白してしまった自分が悪いのだから恨み言は言えない。松田が決別を選ぶのなら受け入れる他ない。
松田は萩原の言葉に鷹揚に頷いている。
「まあ、そうだな」
「だから、さよならだろ?俺とお前は、何だろな。これから顔見知りってことになるのかな?」
そう言った途端、目の中で火花が散った。
遅れてごつんと鈍い音を耳が拾う。
「いって!」
反射的に口から出た言葉に、次いで痛みを自覚した。今、自分は松田に頭突きをかまされたのだ。
これにはさすがの萩原も声を荒げた。
「何すんだよ!」
ずきずき痛む額に手を当てて睨めば、何故だか松田の方がもっと痛そうな顔で萩原を睨んでいた。その顔を見た途端覚えた怒りなどするする解けてしまうのだから、恋ってやつは全く厄介なものだった。
「……まつだ?」
「お前が悪い」
彼の拳が体の脇で握られている。それが飛んで来るのかな、とも考えたがすぐにその強張りは解かれて力なく垂れ下がった。
「告白したことが?」
「ちげーよ!俺はお前じゃなくちゃ駄目なのに、お前がそうしたのに!さよならとか言うから!」
「ええと、それって」
萩原はらしくもなく混乱していた。
さよならではない。松田はそう言っている。しかしこの気持ちが受け入れられたなどと楽観視はできなかった。松田は萩原をそういう意味では好きではない。そんなの一番近くで見ていたのだからよくよく分かっている。
それなのに、松田が今、萩原を受け入れようとしているようにどうしてだか見えるのだ。
目に見える情報とそれがあり得ないと思う心が衝突して、上手く目の前の現実を処理しきれない。
「口説け!」
松田が叫ぶ。
「は」
萩原は絶句した。
「惚れさせて見せろ!ダチでいたかったけど、しゃーねえ。受けて立ってやる!」
堂々と胸を張り、微塵も妥協は見せず。そうして立つ松田は心底いい男だった。
萩原はこの男に惚れた自分の目の確かさに震えた。
「松田」
「あんだ?」
「覚悟しとけよ!」
これは告白ではない。宣戦布告だ。
萩原は晴れ晴れと笑い、そして手袋を投げつける代わりにカーディガンを彼のTシャツの上から羽織らせた。
松田も笑う。
「やって見せろ!」