秋雨が降る日 そうか、もう秋雨の降る季節だ。
ぼんやりと、ソファの上で体を丸めるように座っている一人の男はそう思った。
遠くで雨がパラパラと小気味良く窓を打ちつける音が聞こえる。その音がどうも言い表し難い心地よさ引き出し、この男は先程から、瞼を落としては上げるを繰り返していた。
彼の視線の先にはテレビがあった。つい三十分前までは、テレビの中の舞台の上で、登場人物たちが楽しいハッピーエンドを演じていた...はずだ。
男は、仕事が忙しい身であった。今日は久々にもぎ取った貴重な休日で、ずっと見たがっていたドラマの録画を一気に視聴するという、ささやかな贅沢を味わっていた。しかし、なぜだろう。ドラマが終盤に進むにつれて、物語に登場する一人の人物が気になり、どうもドラマの最後のシーンが印象に残らなかったのだ。
「もったいないことしたかも」
一人しかいないリビングで、ぽつりと漏らした言葉は、雨の音と同化していく。それが少し寂しかった。
正確に言えば、彼は一人暮らしではない。恋人と一緒に暮らしている。しかし、愛しの恋人は今、一年前に入学した通信制の大学の、インターネット上での講義を受けている。つまり、同じ家の別室にいながら、勉強をしているのである。正直、男は恋人の受ける講義の内容も、その魅力もわからなかったが、根が明るい割に自己主張をあまりしない恋人が、楽しげに受講内容を話す様子が可愛いくて仕方がない。だから、と言うか、常識的に考えて、勉強中の恋人を寂しいという理由だけで邪魔することはできない。
男はソファの上にあるクッションを抱きしめ、誰も聞いていないことをいいことに、再び独り言をいう。
「柔らかすぎる」
...ふと、ドアが開く音が聞こえた。それはリビングのドアの音ではない。この家に二つある個室のうち、一つのドアが開いた音だ。それから、スリッパの音。しかし、普通のスリッパの音ではない。音が軽すぎるのだ。まるで、スリッパだけが意思を持って動いているような、そんな音。
男は、この音を聞くと、少しこそばゆいような感じがして、つい微笑んでしまう。
今度はリビングのドアが開く音がする。男は笑みを浮かべたまま振り返る。
そこには、子どもぐらいの大きさの、服を着たスケルトンが立っていた。
「サンズ」
男は優しく呼びかける。
サンズ、と呼ばれたスケルトンは、スリッパをパタパタ鳴らしながら男に近づく。
「よう、フリスク。何だ、寝てたのか? 目が開いてないぜ」
「元からだよ」
フリスク、と呼ばれた男は、目尻を下げながら答える。そして少し腰を浮かせながら、
「お疲れ様、何か飲む?」
と尋ねると、
「いいや、今はいい。サンキュな」
とサンズは返した。
男はソファに座り直した。サンズはその隣に腰を下ろす。軽くてほとんどソファが沈まない。
「今日は何の講義を受けていたの?」
そう言いながら、フリスクはソファの背もたれとサンズの背中の間に手を差し込み、そのままサンズの腰を抱き寄せる。いつものことなのか、サンズは拒んだり戸惑ったりする様子を全く見せない。
「そうだな...。物理学の、量子力学における『時間の矢』っていうのがあってな、」
サンズはつらつらと何やら専門的な話をし始める。フリスクは何とかそれを理解しようと耳を傾けながらも、やっぱり内容が解らず、サンズの楽しそうな顔を眺めながら、優しくその背を撫でる。
サンズは、目の前の男が自分の話を半分も理解していないことなんて、とっくに気がついている。何ならちゃんと聞いてくれなくてもいいのだ。今日の講義の内容をアウトプットして、整理するためにしゃべっているだけ。それでも、これほど長く話を続けてしまうのは、ただ楽しいから、というだけの理由ではないだろう。
サンズの頭の中で、新しい知識が飛び交い整列されていく。その隅っこの方で、なぜか、大人の難しい話に首を傾けながら必死に追いつこうとする、あの頃の幼い子どもが思い浮かんだ。それが今のフリスクと重なる。
体格も、表情も、成長に伴い立派になったのに、閉ざされたように細い目だけは変わらない。毎日見ているにもかかわらず、サンズはいつもその目を見ると自然と微笑を漏らしてしまう。
「...へへ」
「えっ、ちょっと何? 今笑うところだったの?ごめん、ぼく、話は聞いてたけど、学者ジョークには疎くて気がつかなかった...。勉強した方がいいかな」
フリスクが全然見当違いのことに対して謝る様子が妙にツボに入り、サンズは骨の肩を震わせて笑った。静かに長引くタイプの笑いだ。フリスクは不思議そうな顔でサンズの肩をさする。頭の中で、子どもの存在がだんだんと大きくなり、もう講義の内容も明後日の方へ行ってしまった。
ゆっくりと息を整えながら、何でもないと首を振る。そして、まだ体を少し震わせながら、くしゃくしゃと恋人の頭を撫でる。親が子どもの頭を撫でるように。
続けて、フリスクの頬にその手を滑らせ、りんごの丸い表面をなぞるかのように、指の背で彼の頬を撫でた。
サンズは基本、いつも手袋をつけている。それは、指紋のない指だと摩擦の少ない物を掴むことが困難なためと、鋭い指の先で、相手を傷つけることを避けるためだ。サンズの場合、後者の理由が大きい。
本人は絶対に口に出さないけれど、とフリスクは撫でられるまま思う。手袋をつけていても、気を遣って丁寧に触ってくれる。優しいよなぁ。これは、近くで触れたものしかわからない。
優越感と、相手へのたまらない愛しさで、つい顔を赤らめてしまう。
ああ、また目の前のいたずら好きのスケルトンに、「りんごみたいだ」なんて揶揄われてしまう。
そんなことを考えながらも、フリスクは案外、サンズにそう揶揄われることも嫌いではなかった。
「ごキゲンだね、サンズ」
「ああ、おまえさんもな」
そうさ、今日の俺は「キゲン」が良い。なんせ、恋人と素敵な「ムード」に浸れているんだから。
...あれ? 今の笑うところだぜ?
「I‘m in a good “mood”.」(俺はキゲンが良い)と、「ムード」にかけたんだ。
そう言って、サンズの胸の骨が振動する。
...そんなの、わかるはずないじゃないか。
フリスクは、わざとらしく顔をしかめる。子どもみたいに。
サンズは、更に体を細かく震わせて、フリスクの頬に、額に、首に、そっと口づけをする。これにはフリスクも予想外だったようで、あ、わ、わ、と小さく声を上げながら、嬉しそうにされるがままになる。
彼のコロコロ変わる表情が、部屋を彩る。なんだかよくわからないけれど、恋人が楽しそうで嬉しい、とフリスクが考えているであろうことが、魔法を使わなくても読み取れる。
全く。昔の方がポーカーフェイスが上手かったんじゃないか? なぁ、ガキンチョ。
いったい誰のおかげでこんなにも表情豊かになったんだ。
いったい、誰の。
「サンズ?」
サンズは、フリスクを撫でていた手を下ろす。
「なぁ、今日はスノーフルを思い出させるような日だな」
「う、ん?」
フリスクは、長い時間、彼と過ごした経験から、知っている。今、彼は珍しく、ちょっぴり真剣な話をしようとしている。フリスクは、彼の言葉を一言も漏らさないように、耳を傾ける。
サンズは話し続ける。
今日はあいにくの雨だ。窓を叩く雨音が響いているだろう。でも、オイラには、なんだか雪が窓に当たっているように聞こえるんだ。それに、天気が悪いせいで、室内がほんのりと薄暗い。まるで地下にいた時のように。こんな日は、つい昔の気分に浸ってしまう。まだ地上に出られることを夢のように思っていた頃を。ちっぽけなガキが、まさかモンスターたちを解放するなんて、予想もしてなかった頃を。懐かしく思い出す。そして、急に現実に帰ってみる。すると、どうだい。
今日の朝は、パピルスとメールでやりとりした。人間の友達と旅行に行っていたから、アイツはめちゃくちゃ興奮していた。
それから、昼に、ちょっとそこまで歩いていたら、トリエルと会った。料理友達と作ったパイをくれた。ああ、まだ食ってないぜ。冷蔵庫に入ってる。
アンダインとアルフィーには、今日は会っていないが、きっと順調に交際を続けているんだろう。
俺はな、フリスク、地下が良いと思っていた。いや、少し違うな。地下で良いと思っていたんだ。
サンズの一人称が変わる。少し、フリスクは身を引き締める。しっかりと、サンズの目を見る。
反対に、サンズは目を逸らす。照れくさそうに。
なぁ、フリスク。
全部が全部とは言わないが、おまえが連れてきた未来は、こんなにも、星みたいに綺麗なんだな。
今度は、フリスクが照れくさくて目を逸らす番だった。
そんな...ぼくはただ...とゴニョゴニョ小さな声で話す彼の頭に、サンズはまた一つキスを落とす。フリスクの驚いた顔は、大人の骨格なのに、あどけない。
そんな彼にイタズラをしてやりたいような、彼のちょっと違った顔を見ていないような、不思議な感情を抱いた。まあ、こんな時もあるよな。
サンズは、目の前の、少年のような青年を見つめ返し、口元にやると、手袋を咥え、するりと脱いだ。砂糖みたいに白く、氷柱のように細くて長い骨の手が、指が、露わになる。
「サ、サンズ?」
「さて、おまえさん。今、地下にいた頃よりどれほど大きくなったんだ?」
まさか、今俺が期待していることを察せないまま成長したわけではないよな?
そう言って、わざとなのか、サンズは上目遣いでもう片方の手袋を外した。フリスクの喉が、ゴクリと鳴る。
サンズが手袋を外す理由は、主に二つある。一つは、外した方が細かい作業ができる場合。しかし、この理由は、今の雰囲気にそぐわないことぐらい、フリスクはよく知っている。
「こんなことがわかるようになったのは、サンズのおかげだよ。」
フリスクはそう言いながら、サンズを抱き上げる。サンズも彼を抱きしめ返す。スリッパが片方、乾いた音を立てて落ちたが、気にはしない。
「heh heh heh..., good boy.」
低く、穏やかな声が、フリスクのお腹の底に響く。たまらなくなって、フリスクはサンズが強く抱き抱える。
「ああ...この硬さだ」
「ん? なんて?」
「いいや、なんでもないよ」
フリスクはそう言いながら、自分の額を相手の頭にくっつけて、ぐりぐりと擦り付ける。髪の毛がくすぐったいのか、サンズはケラケラ笑う。
「あれ、オイラの恋人は猫だったかな?」
「違うよ、人間だよ。人間の、フリスクだよ」
「hmm..., 説得力がないな」
「じゃあ、ちゃんと...お、教えてあげる、ぜ」
台詞に恥ずかしさを覚え、結局りんごみたいに真っ赤な顔になってしまったフリスクの、その唇に、サンズは手を添える。そういうところで急に照れるんだよなぁ。子どもなんだか、大人なんだか。
どちらともなく、唇と口の骨が重なる。
「期待してるぜ、my darling.」
軽口を叩き合いながら、二人はリビングを後にする。
...そして、ゆっくりとドアが開き、静かに閉じられた。
雨はまだ止まないようだ。