︎︎ 少なくない時間を共有するなかで、キミに大切にされている、それをいろいろな形で実感するたびに、胸が苦しくなるのはどうしてなんだろう。
時刻は20時を回ったところで、いくら日が長い時期といってもこの時間になればすっかり暗い。
成歩堂との待ち合わせの時刻からは既に5分オーバーしている。暮合いのころから少し具合が悪く、あきらかに仕事の能率が落ちているのは自覚していた。ガンガン痛む頭をできるだけ意識しないようにして早足で歩く。やはり車で来るべきだったかもしれない。些末なことの判断力さえも鈍っているようで、情けなさにため息が出る。
約束の場所には10分遅れで辿り着いた。
人通りの少ない道を並んで歩きながら、事故にでも遭ったのかと思った、と成歩堂は言った。
「おまえ、いつもはきっちり10分前に来るか1時間以上遅れるかのどっちかだからさ」
「......そうだな、今日は、たまたまだ」
成歩堂の言葉にぼんやりと返事をする。足元が妙にふわふわして、頭が痛くて、会話にうまく集中できない。布を1枚噛んだように全ての感覚の現実味が遠く、まるでベール越しの夢を見ているような気分だった。だから、喋るのをやめた成歩堂がいぶかしげな顔でこちらをじっと見ていることにも、彼に腕を掴まれるまでちっとも気づけなかったのだ。
「御剣。ちょっと」
唐突に、成歩堂の方に重心を引っ張られて、がくりと大げさに体がふらつく。成歩堂は一瞬ぎょっとして、それでも咄嗟に私の肩を支えた。体が揺れるたびに頭が痛んで眉を顰める。
「具合が悪いんじゃないか、おまえ」
法廷でしか見ないような険しい表情で、成歩堂は私に尋ねた。明瞭に発音された言葉が今度はしっかりと耳に届く。あたかも質問のような口ぶりだが、その声音には確信がにじんでいる。
「......頭が、痛い。少し」
「少しって顔じゃないだろ」
成歩堂の手のひらが額に押し当てられた。その衝撃にさえ頭が鋭く痛んで、堪らずぎゅっと目を瞑る。ごめん、と小さく謝る声がした。
「咳とか鼻水は」
「出ない。頭が痛くて、めまいがする」
「いつから」
「......夕方頃だったかな」
「じゃあ、熱中症気味なんじゃないの。気温も気温だし、熱っぽい」
「熱中症 ......まさか。もう夜だ」
「いやいやいや。時間は関係ないって」
ちょっとおいで、と手を引かれて、すぐそばの公園のベンチに誘導される。掴む力のしたたかさとは裏腹に、ゆっくりとした歩調のリードだった。促されるまま腰を下ろした途端にくらりと頭が揺れて、背中から力が抜ける。
「とりあえず、これ飲んで」
ゆっくりでいいから、とフタが開いているペットボトルを渡されて、口を付ける。水だった。ぬるい。成歩堂が持ち歩いていたのだろう。
少しずつ、言われた通り水を飲んでいる間に、成歩堂はまるで手品のような素早さで私からジャケットを剥がし、クラバットを抜き去って、ベストの前をすいすいと器用に開けていく。口を挟む間もなくあっという間にシャツ1枚にされ、上からひとつ、ふたつとボタンを外されたところで、やっと成歩堂の手が離れた。
「ちょっと待ってて。すぐ戻る」
私が水を半分ほど飲んだのを目視で確認すると、成歩堂はそれだけ言って公園の入口へと駆けていった。
「御剣」
2、3分ほど経っただろうか、不意に名を呼ばれてのろのろと顔を上げる。 いつの間にか戻ってきていた成歩堂は私の隣に腰を下ろして、新しい、買ってきたばかりであろうよく冷えたペットボトルをこちらに手渡した。
「はい。これ、両手で持って」
言われたとおり両手で包むようにボトルを持つ。熱をもった体にはそのつめたさがびっくりするほど心地よくて、思わずため息が漏れた。
「......これは、」
「こういう時は手のひらを冷やすのがいいんだってさ。気持ちいいだろ」
「......う厶」
靄のかかっていた思考がわずかにクリアになる。
しばらくそのままにしてろよ、と言いながら、成歩堂は私が身につけていた衣類を大ざっぱに畳んでカバンに詰めた。シワになりそうだ。
「ていうか、ぼくと会うだけならこんなにかっちり着込んでこなくたって良いだろ」
「厶。人と会う時のマナーだ」
「フラフラで来られる方がよっぽど困るんだけど」
「......」
返す言葉もない。
口を噤んだ私を見て、成歩堂は心底愉快そうに笑みをこぼした。
「まあ、そういうところもおまえらしくて良いと思うよ」
いかにも適当に会話を締めくくると、成歩堂は僅かに残っていたペットボトルの水を飲み干して、それきり目を閉じて黙ってしまった。
手の中の未開封のペットボトルに視線を落とす。さっきよりも、ほんのわずかにぬるくなったような気もする。結露した水滴が手の甲を滑って、次々とコンクリートの染みになるのをしばらく黙って眺めていた。
少しうとうとしていたらしい。隣で身動ぎする気配を感じてはっと目を覚ます。
成歩堂はベンチから立ち上がると、体をぐっと伸ばして、大きなあくびをひとつこぼした。動物じみた仕草だ。
「今日は帰ろう。歩けそうかダメならタクシー呼ぶけど」
「もう歩ける、......すまない、成歩堂」
「いいよ。おまえの世話焼くのはもう慣れてる」
私のシャツのボタンをわざわざ留め直しながら、成歩堂は訳知り顔で嘯く。
そもそも別に頼んだ覚えはないし、いつも勝手に世話を焼きたがるのはキミだろう、と思ったが、いまさら成歩堂に意地の悪い態度を取る元気も度胸も無くて、結局何も言えなかった。
検事殿、お手をどうぞ、とふざけた身振りで差し出された手をぺしりと叩いて自分で立ち上がる。わずかな目眩の残滓は波が引くように消えて、代わりに地面を踏みしめる確かな感覚が戻る。頭はまだ痛むが、いくらかましになったようだ。
先に歩き出した成歩堂が、途中コンビニ寄るからね、と振り返りもせずに宣言する。
返事はしなかった。