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    hizume310_ai

    @hizume310_ai

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    hizume310_ai

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    お題箱よりいただきました「獄×てやん先生」書きました。
    全然いたしてないですけど、旧知が復縁する話になっちゃいました!!

    獄さんが口ずさんでる歌は、有名な曲なので…「ああ、あの曲ね!」となっていただけると、非常に嬉しいです。

    サムライ気取り 流れる汗をシャツの袖で拭いながら、天国獄は空を仰いだ。
     若い二人に付き合って、何故か中王区の公園を走り込んでしまった。愛用の靴はラバーソールとはいえ、走るのには向かない厚底仕様。服に至ってはジャージから程遠いライダースジャケットとカッターシャツだ。ネクタイは途中で外したが、足首や足底筋が妙な悲鳴を上げている。早くシャワーを浴びて、念入りにストレッチをしよう。脱ぎ捨てたライダースジャケットを肩に引っかけ、乱れた息を整えつつホテルに戻る足先に、影が差した。
    「……何の用だ、寂雷」
     態々見上げる必要はない。どれだけ離れていても、獄を遮る影は菫色を滲ませ、いつでもそこにあったのだから。
    「別に……ただ、通りがかっただけさ」
     硬い声色は、気まずさの証左だろうか。見上げる形になるのが気に食わないが、仕方なく顔を上げれば、新しい傷をこさえた神宮寺寂雷が寂しげに笑っていた。バトル前の逡巡はなく、むしろどこか清々しさまで感じるが、獄はその隙間に影のようなものを見つけた。その影はきっと、二人を隔てていた十数年が作り出した、溝のようなものだろう。
     結局獄は寂雷に勝てなかった。
     その事実は変わらず獄の舌に苦味を纏わり付かせているが、いつまでも飲み下せずに転がしているわけにはいかない。
     ふぅ、と深い溜息を吐き、獄は一歩を進める。寂雷は大きな体を震わせ、だが一歩も動かない。
     どん、と拳で寂雷の胸を軽く叩いた。
    「走り込みして喉が渇いてんだ。そこの自販機で何か奢れ」
    「……良いのかい?」
    「良いも悪いもあるか。おら、はよ来い」
     ぶっきらぼうに言い放ち、笑う。どこか高校生に戻ったような気がした。寂雷は花が咲くように破顔し、獄の後を着いてきた。



     それがそもそもの発端だった。
     自販機でスポーツドリンクを飲みながら、何とはなしにバトルの感想を語り合い、気づかぬうちに互いの健闘をたたえ、そしてディビジョンに戻り次第飲みに行く約束をしてしまった。
     ジャズの生演奏が売りの、獄が馴染みにしているバーの話をしていた時だった。
    「その店には地元のミュージシャンが演奏に来るし、何なら飛び入りも大歓迎だ。たまにバイトの音大生がピアノ弾いたりしているんだぜ」
    「へぇ、それは興味深いね。ほら、昔音楽室でセッションしただろう? 覚えているかい?」
    「ああ、覚えてるよ。お前がピアノで、俺がギターで。そん時の曲が……」
    「「My Favorite Things」」
     懐かしさに手を打ち鳴らし、アカペラで二人の声が重なった。
     こんな穏やかな時間も確かにあった。
     あの日から変わってしまったことはたくさんあるが、変わらずにあるものも、確かに二人の間に横たわる。
    「なぁ、獄。その店に私も行ってみたいな」
    「仕方ねぇなぁ。今度ナゴヤに来たら、連れてってやんよ」
     などと軽い約束をしたら、本当に寂雷はその一週間後にナゴヤに来た。ナゴヤ駅に着いた、というメッセージを見た時は目を疑ったほどだ。どれだけフットワークが軽いんだ。仕事はどうした。言いたいことは山のようにあったが、駅で暢気に手を振ってきた寂雷の姿を見た時に吹っ飛んだ。
     人混みの中でもすぐに見つけられる長身。褪せることのない菫色の髪、柔らかな笑み。獄の胸を春風が吹き抜ける。そよりと揺れる髪に、待ち合わせの定番である金時計の光が流れた。
    「お前なぁ、来るなら来るで、前もって言えよ」
    「思い立ったが吉日と言うだろう? バトル後初めての休みが取れたのが今日の午後と明日一日なんだよ」
     連れ立って駅を出れば、夕方から夜の境界線が徐々に曖昧に滲み始めていた。ビルとビルの隙間から覗く夕日が、寂雷の白皙を朱色に染める。
     バーに入るには少し早い時間だから、敢えて地下鉄には乗らず、地上を歩いた。これから会社に戻る者、保育園へと走る親らしき人、賑やかな笑い声は学生だろうか。シンジュクとは違う喧噪を、寂雷は目を細めながら楽しんでいた。その顔をたまに横目で見ながら、獄はぽつぽつと思いついたような話題だけを口に乗せ、ゆっくりと街から街を移動した。
     お目当ての店は、雑居ビルの一階にある。ライブハウスのような店構えは、音響の良さを物語る。カラン、と鳴るドアベルは落ち着いた音色で来客を知らせる。
    「いらっしゃい。お久しぶりだね、先生」
     顔馴染みのマスターに挨拶をし、獄と寂雷はカウンターの端に陣取った。一枚板で作られたカウンターは、濃いブラウンがウィスキーの色に似ている。
    「俺はいつもの。コイツには絶対にアルコールを飲ませないでくれ」
     バーだというのに酒を飲めない相手を連れてきてしまったことに、今更ながら妙な羞恥心が湧き上がる。そんな獄に気づかず、寂雷はノンアルコールメニューからシャーリーテンプルを頼んでいた。
     アイラウイスキーのロックと、シャーリーテンプルで乾杯をする。ロックグラスとフルートグラスが立てる音が涼やかだ。落ち着いた間接照明のオレンジに照らされた寂雷は、獄が背を向けたあの日よりずっと窶れて見えた。目の下に刻まれた皺は加齢のせいだけではないことをまざまざと突き付けられる。己の顔にも同じように、離れていた月日の轍が刻まれていることだろう。
     テーブル席にも、カウンターの離れた場所にも客の姿が増え始めた。そろそろ演奏が始まるようだ。
     小さなステージに立ったのは、常連の獄も見たことがないグループだった。
    「あの人達、最近入ってくれたんだけど、トランペットの子がいい音出すんだよ」
    「へぇ」
     トランペット、ピアノ、ベースにドラム。親父ばかりのカルテットの中で、トランペッターだけが年若い女性だった。
    「ベースのトミーさんの娘さん」
     マスターの耳打ちに獄は苦笑した。成る程、団栗眼が良く似ていた。寂雷はチーズをクラッカーに乗せながら、わくわくと演奏を待ちわびていた。
    「あ、このチーズ美味しい。燻製されている」
    「マスターの自家製燻製なんだよ。ピクルスも美味いぞ」
     言うより早く、ピクルスの器が寂雷の前に出された。きつすぎない酢の塩梅や、大きめに切った野菜の歯触りが最高だ。乱切りの胡瓜をピックで刺して口に入れた寂雷が、おいひぃ、ともごもご言うのは、昔から変わらない。
     チューニングを終えたカルテットが、演奏を始めた。
    「あ」
     寂雷が小さく声を上げた。曲目は【My Favorite Things】。かつて獄と寂雷が音楽室で奏でた曲だ。
     強弱のハッキリしたトランペットは、若い音がした。高音が天井を突き抜けそうな程爽やかで、成る程良い音だ、と感心した。
    「ああ、この曲……本当に良いね」
    「そうだな」
     惜しみない拍手を受けながら、次の曲への準備をし、二人はおかわりを注文した。どうやらトランペットの女性は、シンガーを兼ねているようだ。スタンドマイクを調整し、次の曲を歌い始める。
    「テネシー・ワルツ。これも昔一緒にやったね」
    「I rememberだよ、馬鹿野郎」
     何故か彼らの奏でる曲は、二人の思い出をなぞる。
     音楽室、獄の部屋、学園祭の舞台。
     二人が袂を分かつその日まで、音楽は共にあった。
     あの頃は安い缶酎ハイとペットボトルのお茶が定番で、今のようにアイラウィスキーとバージン・モヒートなんて口にもできなかった。大人になった、というのは容易いが、ここまでに至る過程は――苦難と困難と痛みに満ち溢れていた。
     寂雷を欠いた生活は、どれだけ経っても慣れることはなく、いつまで経っても隣に菫色の影がいる気がしていた。
     今、影は実体をもってそこにいる。
     ふ、と隣を見れば、音楽に体を揺らす寂雷と目が合った。
     小さな声で、上手だね、と笑う寂雷に、忘れかけていた――否、忘れようと努力していた感情が甦った。
     ――俺は、寂雷が好きだ。
     親友だと言い聞かせて、敢えて目を背けていた感情の名は、恋だった。
     美しい球体に削られた氷がグラスを鳴らす。琥珀色の液体で唇を湿らせ、熱くなった眦を誤魔化す。寂雷の手元で、クラッシュされた氷がチリ、と溶けた。交わる視線が、熱い。そんな気がする。
     もしかして、と積年の疑問が再燃する。
     もしかして、寂雷も獄のことを、憎からず思っているのではないか……?
     思い当たる節はあった。
     睫の影に映る光に、意味深に開いては閉じる唇に、僅かに触れ合った手から伝わる熱に。
     だが、結局お互いに気持ちを確かめ合うことなどせず、臆病にも逃げ続け、いつまでも親友という地位に甘んじていた。
     それを解消するなら、今日なのではないのか。
     獄はぐっと残りの酒を呷り、今度はロックではなく水割りを追加する。酒の力は多大に偉大だが、多分に過失を招くことの方が多い。程々にしておくのが吉だろう。
     テネシー・ワルツはしっとりと歌い上げられる。この雰囲気なら、イケる。獄は高速で思考を回転させ始めた。
     次のサビに入ったら、寂雷にまず謝る。あの日、悪かったのは獄の方だ、と。全く同じ台詞で空却に諭されて気づいた、ということは伏せておく。そう言えばきっと寂雷も、自分も悪かったんだ、と言うだろう。あの時慮るべきだったのは、相手の人生ではなく傷ついていた獄の方だったんだ、と。そしたら寂雷の手を取り、ずっと言えなかったことがあるんだ、と言って想いを告げる。完璧な段取りだ。
     ボーカルが大きく息を吸う。最後のサビを歌い上げる直前だ。
     獄は意を決して寂雷の方を見た。
    「じゃ、寂雷――!」
    「ん?」
     いつの間にか追加注文したチョコレートの盛り合わせの一つが、長い指に挟まれている。
    「…………おい、ちょっと待て、それは……!」
     艶やかな球体が寂雷の口に吸い込まれた。
     時既に遅し。
     それは、ボンボンショコラだ。
     今頃寂雷の口の中に、芳醇なウィスキーがとろりと溶けて溢れているだろう。ちゅ、と音を立てて指を舐めた寂雷の目が、とろん、と据わり始める。
     終わった。
     獄は絶望した。
     思い描いていた、オーク樽のように甘い可能性は今、霧散して消えた。
     ヒック、と厄災の足音がする。
     拙い。非常に拙い。
     ここはしっとりとした雰囲気を楽しむバーだ。酔った寂雷の、山賊の如き振る舞いはマナー違反だ。
    「ぉおい……」
     地の底を這うような声がする。騒ぎ立てることだけは避けなければならない。獄は思案した結果、手元にある水割りを寂雷に手渡すことにした。
    「寂雷! 酒なら今日は俺が奢ってやる! その代わり、ここはジャズバーだ。絶対に大声で騒ぐんじゃねぇっ!」
    「酒があるなら文句はねぇぞぉ!」
     既に大きめの声になっているが、そこは水割りを一気に飲ませて事なきを得た。何より、曲が終わったことによる拍手と喝采に紛れたというのが大きい。
    「お、ピアノがあるじゃねぇか。オイラが弾いてやる!」
    「弾かんくても良い!」
     獄の制止を無視し、寂雷はカウンターの中にいたマスターに話を通してしまっていた。音楽好きのマスターは、基本的に飛び入りを拒まない。寂雷はのそりと長身を揺らしながらステージ上のピアノに向かっていく。バンドのピアノ奏者は、快く席を譲った。
     酔っているのに弾けるのだろうか。ハラハラしつつ見守っていると、椅子の高さを整え終えた寂雷が、鍵盤を叩いた。
     選曲は【Take the A Train】。
     列車が走るような軽快なリズムを刻みながら、白い指が鍵盤を移動する。有名な曲だから、すぐにバンドメンバーが寂雷に合わせて即興で演奏をしてくれる。
     酔っているというのに、寂雷の指は正確だ。それどころか、素面の時に弾く時よりも、更にジャジーに揺れ、遊びが多い。クラシックとは違うジャズの奏法は、酔いどれの方が上手いようだ。
     珍客の演奏に、店の中は沸いた。
    「ったく、こういうところが敵わねぇんだよ」
     苦笑し、獄はグラスの底に薄く残った水割りを飲み干した。
     一曲弾き終わり、拍手を浴びた寂雷は満足そうに席に戻ってきた。
    「はぁ、久々に弾いたぜ」
     獄がキープしていたウィスキーを、ボトルごと直接一気に飲み干した寂雷は、今にも発火しそうな溜息を吐いた。
    「お前……これ、高いんだぞ……」
     怒る気力すらなくなる。毎回ちびちびと楽しんでいた琥珀色の甘露は、寂雷という砂漠に吸い込まれて、消えた。
    「気にすんな。今日はオイラの奢りにしてやるからよぉっ!」
     新しいボトルを掲げながら、気前よく豪語する寂雷に、獄は溜息を吐きつつ決意した。
    「お前のカードが止まるまで呑んでやるから覚悟しろ!」
     先程までの艶めいた空気はアルコールで消毒されてしまったようだ。ならば、毒を食らわば皿まで。獄は勝手に寂雷の財布で支払いを済ませ、河岸を変えることにした。
     ジャズバンドメンバーに見送られながら、二人はジャズバーを後にする。春とはいえ夜風はまだ冷たく、酒と音楽に酔った頬を程良く醒ましていった。しかし寂雷の酔いが醒める訳もなく、酒精を求めてふらりふらりと歩き出した。
    「獄ぁ、良い店に連れて行け!」
     先を歩いているくせにどうしてそういう発想になるんだ。普段の理路整然とした態度はどこ吹く風。理不尽な寂雷の注文に応え、獄は寂雷が騒いでも問題なさそうな店までのマップを頭の中で広げた。
    「おら、着いてこい酔っ払い」
     ケラケラと機嫌良く笑う寂雷の手を引き、ナゴヤの夜を闊歩した。
     夜の街には音楽が溢れている。
     ストリートのビート、それに合わせて硝子張りのビルのピロティで踊る若者のステップ音、酔いどれのサラリーマンが奏でる調子外れなシャンソンに、路上ライブのギターとカホンの奇妙なセッション。
     普段は気づいていないだけで、此程の音に溢れているのか。遠くの車が鳴らすクラクションや、自動ドアの隙間からすり抜けてくる、コンビニのラジオ、誰かの携帯が着信を告げる音までもが、鋭敏になった耳に届いて反響する。
     獄に手を取られた寂雷が、好き勝手に獄の手を弄ぶ。まるでダンスに誘うように恭しく掲げたと思ったら、次の瞬間、引き寄せられ、指を絡め、綺麗にホールドされてしまった。
    「往来で何をすんだ、この酔っ払いが!」
     憤慨しつつ、手を振り解こうとするが、このダンスパートナーは非常に体の使い方を熟知している。巧みに重心をずらしたり、獄の力をいなしたりするものだから、一向に振り解けないどころか、その動きすらダンスに昇華されてしまう。身長差のせいで女性側のステップを余儀なくされているのも我慢ならない。
     ダンスなど、高校生の時のフォークダンス以来だ。
     あの時もステップの練習だ、等とのたまって、獄と寂雷は密かに二人で踊っていた。
     フォークダンスとは比べものにならないほど出鱈目なステップを踏む。スタッカート気味に跳ねたと思ったら、次はスラーをなぞるように渡り、くるりと回る。
    「良い夜だな、獄」
     笑う寂雷の口調は、酒と音楽に酔っていた。
     酔っ払った寂雷は、乱暴な口調になる。普段なら敬称をつけて名を呼ぶ間柄の人間も呼び捨てにし、次から次へと酒を飲み干し、絡む。
     だが、獄のことは、酔っていても素面でも変わらず、獄、と呼ぶ。その事実は、獄の腹の底の方をくつくつと沸き立たせ、落ち着かなくさせる。
     まるで自分だけが、特別になった気がするのだ。
     あーあ、とうんざりした溜息を吐き、いっかな踊りを止めない寂雷を目当ての店に引っ張り込んだ。
     そんなに踊りたければ、踊ってもいい店に行けば良い。
     フィドルの音が鳴り響くそこは、アイリッシュ・パブ。
     ヴァイオリンと同じだが、郷に入っては郷に従え。ここではフィドルと呼ぶのが相応しい、とこの店に最初に足を踏み入れた時にマスターが言っていた。
     フィドルとギター、アコーディオンが奏でる音楽に合わせ、女性が二人、ぴょんぴょんと跳ねるように踊る。上半身を動かさず、軽快なステップを踏むのがアイリッシュダンスの特徴だ。
     雰囲気が気に入ったのか、寂雷は上機嫌で手を叩いた。
     カウンターの端に座り、ギネスビールを二人分頼む。アイリッシュウイスキーも魅力的だが、今はビールの気分だ。先が見えないほど真っ黒なビールを掲げ、軽くグラスを合わせる。乾杯の言葉はない。チン、と涼しげな音を響かせ、ビールを飲んだ。獄が三分の一飲む間に、寂雷がグラス一杯飲み干す。何て化け物じみたピッチだ。大声でおかわりを所望し、早くも二杯目に口をつけ始めていた。もう踊る気分ではなく、飲む気分らしい。
    「……何でこうなっちまうかねぇ、コイツは」
     アテに頼んだ生ハムを一枚指先で摘まんで口に入れる。二杯目もぐびぐびと喉を鳴らして飲んでいる寂雷の横顔を見ながら、それでも消えない恋情を自覚し、更に溜息を深くした。
    「んだよ、辛気くせぇ」
     山賊の親玉の如き舌打ちをし、寂雷が獄の肩を叩いた。
    「おい、ゲームでもしようぜ」
    「突然お前は何を言い出すんだ」
    「これから一杯ずつ同じ酒を飲んで、先に飲み干した方が言いたいこと言う」
    「謎ゲームを思いつくな」
    「そりゃお前がさっきからクソが詰まったみたいな顔して何も言わねぇからだ」
    「比喩が汚ぇ。マイナス三万点」
    「はい、じゃあ開始」
     人の話を聞かない寂雷が頼んだグラスが目の前に置かれた。
    「何でテキーラショットなんだよ⁉」
     小さなショットグラスに、山盛りのライムと塩。どれだけ飲むつもりなんだ。そして店側も悪乗りをしすぎだ。音楽は激しくなり、手拍子とステップの音が駆り立てるように迫る。
     寂雷の手がショットグラスにかかる。慌てて獄もグラスを持った。アルコール分がゆらりと蜃気楼のように漂った気がした。
    「次の八小節が合図だ」
    「いいぜぇ」
     獄が合図を決めることで、理不尽をミリ単位で緩和させる。フィドルの音に耳を澄ませ、足でカウントを取る。
     八小節。
     音楽が盛り上がりを見せたところで一気に酒を呷った。
     喉が燃える。ぐっと飲み干し、グラスを置いた。同時だ。いつの間にか判定に回っていたバーテンダーが、寂雷に軍配を上げた。
    「よおっし! オイラの勝ち!」
     ジュ、とライムを囓り、寂雷が一際大きな声で歓声を上げた。
    「だあっ! くそっ! タッチの差だろが!」
     悔し紛れに机を叩けば、嬉々とした寂雷が、さて何を言おうか、と思案し始めていた。
     一体何を言われるのだろう。獄は水を頼み、ごくりと唾ごと飲んだ。どろん、と溶けた寂雷の目が、獄をじっと見つめる。
    「……お前、いっつもかも一人で完結しやがって。少しはオイラの話も聞けってんだよ」
     低く抑えた声で寂雷は言い放った。
    「……どの口が……っ!」
     多分脳の血管が二・三本切れた。それ程頭にきた。
     獄自ら二杯目のテキーラを頼み、寂雷に再戦を挑む。次は音楽など合図にしない。グラスが割れんばかりの乾杯をし、すぐさま煽る。タンッ、と机を先に鳴らしたのは、獄だった。
    「テメェが話さねぇからだろうが! 話せっつっても話さねぇんじゃあ聞きようもねぇっつーんだよ!」
    「んだと、獄ぁっ!」
     三杯目、四杯目、と二人はショットグラスを積み上げていく。
    「だいったいテメェはあん時、何で自分の部屋なのにオイラを置いて出て行きやがったんだ⁉ 残された後しばらく考えたぞ⁉」
    「それについては悪かった! けどなぁ、俺がコンビニ行って煙草三本吸う間にお前が出て行くなんて思ってなかったんだよ! 何だよ、ご丁寧に歯ブラシまで持って行きやがって……。俺はあの時詫び代わりに買ったアイス二人分を一人で食ったわ!」
    「腹下さなかったか?」
    「下したわ! お前用に買ったアイス、でっかいかき氷のカップだったんだぞ!」
    「そりゃご愁傷様だなぁ。お前、昔から腹弱かったよな。テストの前にいつも便所に駆け込んでた」
    「それを今言うか⁉ お前だって中学ん時の合唱大会で、緊張していることに気づかんと舞台袖で吐きそうになってたじゃねぇか? 便所で吐かせたのは誰だと思ってんだ。俺だぞ?」
    「あーそういう系の話なら、オイラだって持ってんぞ? 高三の時に行った初詣で、合格祈願と間違えて安産祈願のお守り買ったのどこの誰だっけかなぁ⁉」
    「俺だよ、馬鹿野郎! お前だってそん時に振る舞われたぜんざいの餅を詰まらせそうになってたじゃねぇか!」
    「詰まらせてないのでノーカンですぅ」
    「ぐっ……じゃあ、中学の体育祭のリレーで、ゴールしたと思ったらそのまま便所駆け込んでいったことあっただろう。水分補給の度を超して水飲んだから、ションベン漏らしそうになりながら走ったってこと、俺だけは気づいてたからな!」
    「体育祭で言うなら、テメェだって綱引きの時に張り切りすぎて屁ぇこいたじゃねぇか」
    「だぁぁぁっ! 忘れろ! それは忘れろ!」
    「忘れるわけねぇだろ。全部……全部、全部覚えてる……」
     空のショットグラスで築き上げたピラミッドは、どんどん裾野を広げていく。ぐらりと寂雷の頭が揺れたのか、獄の視界が揺れたのか。ぢゅ、とライムを吸い、最早アルコールそのものとなった息を吐く。血流が五月蠅いほどに沸騰し、脳を溶かしている。
    「お前との日々を、忘れるわけ、ねぇだろ……」
     菫色の髪が簾のように垂れ、その隙間から覗く寂雷の瞳が、熱を帯びる。酒のせいだけではない。何かもっと、獄もよく見知った、あの色を滲ませて――。
    「ずっと……お前のことが……」
     長く白い指が、新しいショットグラスを持ち、中身を飲み下す。
     獄の築いた山と、寂雷の山が等しくなる。
    「好きなんだから……!」
     絞り出すように叫んだ声が、アルコール漬けになった獄の脳にも届いた。
     そうだ。あの色は、恋だ。
     どうしようもなく愛おしい。なのに何年も、何十年も口にすることができなかった。自分たちの体の中で発酵し、熟成された感情を、吐露して相手に呑ませる時が来たのだ。
     ――ああ、情けねぇ。
     自嘲気味に笑い、獄は新しいショットグラスを二杯目の前に置く。これ以上は飲めない。獄のキャパシティは、この二杯分しか残されていない。
     血液までもが発火しそうなほどの酩酊に、まずは一杯、一気に飲み干す。喉が焼けすぎて、もう痛みすら覚える。それでもここで倒れるわけにはいかない。チェイサーとして置かれている水を飲むことなく、間髪入れずにもう一杯口にした。
     そして寂雷の胸倉を掴み、唇を奪った。
    「……⁉」
     舌で歯列を割り、強引に火の酒を流し込む。
     寂雷の小さな口の端から、ツ、と酒が垂れる。その雫すら舐め上げ、寂雷に飲ませる。
    「んっ……んん……」
     くぐもった声を出しながらも、獄が齎す酒を一滴も残すことなく飲み下した寂雷の、髪に指を絡め、舌に舌を絡め、燃えそうな唾液を吸い上げた。酒の味に混じって恋の味がした。
     唇を離せば、名残惜しそうに唾液が糸を引いて、切れた。
     目が合う。熱に浮かされた色は、恋と劣情の色だ。
    「俺のアンサーだ」
     寂雷の眦が濡れている。泣いているのか。泣くほど嫌だったのか。一瞬慌てたが、すぐに寂雷が獄の唇を奪った。ガツッ、と歯がぶつかる音がした。痛かったのか、照れたように顔を離し、へらりと笑う。
    「次は素面で聞かせろや」
     それだけ残し、寂雷が大きく体を揺らして、落ちた。
    「…………寝た」
     嵐が去った。
     安堵の溜息をつくと同時に、割れんばかりの拍手が獄を包んだ。
     いつの間にか音楽は止み、獄の周りに人集りができていた。口々に祝いの言葉や口笛を鳴らすギャラリーは、どうやら獄と寂雷の勝負を見守っていたらしい。
     いつの間にか公開告白をやらかしていたらしいという事実に、酔い以上に顔が熱くなった。誤魔化すように手を上げ、ギャラリーを追い払う。羞恥心はどうやら酒に勝るらしい。獄は齢三十五にして新たに作り上げた黒歴史に頭を抱えた。
    「いやぁ、お二人とも強いですねぇ」
     バーテンダーがチェイサーの炭酸水を獄に差し出した。ごにょごにょと礼を言い、手元にあったライムを搾って飲んだ。
    「こっちの寝ちゃったお兄さんより貴方の方が一杯多いんで、貴方の勝ちってことですね」
    「……いいや、引き分けだよ」
     最後の一杯は、寂雷に飲ませた。これでグラスの数は丁度同じになったのだ。
    「まぁたコイツに勝てんかった」
     強めの炭酸にライムの酸っぱさが心地よい。横を見れば、カウンターに突っ伏した寂雷が、すよすよと気持ちよさそうな寝息を立てている。
    「涎垂れてるぞ、間抜け面」
     鼻を摘まんでやると、ふが、とそれはそれは大層間抜けな音を立てて、それでも起きずに寝ていた。これは完全に潰れたな。凶悪な寝顔をしているというのに、胸が温かいのは酒のせいにしていいだろうか。
     そのまましばらく獄は酔い醒ましのために居座っていたが、寂雷が起きる気配は微塵もなかった。
    「タクシー、呼びましょうか?」
     バーテンダーの申し出に軽く手を振り、断る。ここから獄の部屋までは徒歩圏内だ。財布からカードを出し、会計を済ませる。先に奢ると言ったのは獄の方だ。有言実行をしないと据わりが悪い。
     酔い潰れた寂雷を背負い、獄はすっかり深夜になった街をゆっくり歩いた。縦に長い寂雷を背負うのは中々骨が折れたが、こうしたい気分だった。
     自分と同じくらいの体重をしている寂雷を背負い、獄は歩く。
     肌寒い夜に、寂雷の体温が心地よい。星の瞬く音すら聞こえそうな夜、寂雷の規則的な寝息を感じる。知らず、獄は歌を口ずさんでいた。
    「――唇にー、火の酒ー、背中に寂雷をー……なんてな」
     この御時世、片手に持つのはピストルではなくマイクになるだろうが、等と益体もないことを考えつつ、獄は歩く。寂雷の重みより、温かさの方が勝る。
     あの歌は確か、別れの歌だった。だが、獄が別れるのは、いい女だったジェニーではなく、過去の獄だ。
     今度こそ、あばよ、と別れを告げるのは、寂雷への恋情を抱きながらも素直になれなかった過去の獄と、そして同じように鬱屈としていた過去の寂雷だ。
    「明日、花束を買って仕切り直すかな」
     きっと寂雷は、今日のことなど覚えていない。二日酔いの頭を抱え、何があったか聞いてくるだろう。その時に花束を出して、教えてやったらどんな顔をするだろう。
    「ったく、そういうところも好きだよ、馬鹿野郎」
     誰も聞いていない愛の言葉は、二人をシャボン玉のように包んで満たした。
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