ほしいもの、ふたつ 梅雨の気配の色濃い6月半ば。病院の中庭に咲く紫陽花が手鞠のような花を可憐に咲かせ、その葉の上を蝸牛が光の迷路を編む様子を、外来診療を終えた神宮寺寂雷は微笑ましく見守っていた。
窓の外は雨。しとしとと降り続ける雨は、再来週には止むだろうか。壁に掛かったカレンダーを見つめ、ふ、と頬が緩んだ。
再来週には、愛しい人に会える。
その予定だけが、激務の寂雷を支える太い柱となっていた。
「あら、先生。なんだかご機嫌ですね」
「ふふ……そう見える?」
「ええ、とっても」
看護師にもバレてしまうほど、寂雷は浮かれていた。
「じゃあ、私はそろそろ上がりますね」
「はい、お疲れ様です」
腰まで伸びる菫色の髪を靡かせ、ヒールの音も高らかに寂雷は病院を後にした。
車を走らせながらも、寂雷の頭の中は一つのことで一杯だった。
「今年の誕生日……何をプレゼントしよう?」
6月29日。
それは、まだ寂雷が稚い少女だった頃から特別にしている日。
十数年ぶりに親交を取り戻した男――天国獄の誕生日。
2ndD.R.B終了後、チームメンバーをシャッフルしてラップバトルをするというテレビ番組企画があった。突如発生したテロによりその企画は立ち消えになってしまったが、結果として寂雷と獄は、それをきっかけに復縁を果たした。
神の悪戯により同じチームになった寂雷と獄は、断絶していた期間と直前に行われたバトルの勝敗という障壁に阻まれ、ぎこちなく、そして余所余所しく、気まずい空気を垂れ流していた。それを打破しようと腐心してくれたのが、同じくチームメンバーになった山田三郎だった。
14歳。
それは獄が寂雷に、パステルカラーの文房具をプレゼントしてくれた歳。
それは寂雷が獄に、初めてケーキを焼いた歳。
青く幼い日々をそのまま連れてきた三郎に、感化されたと言えばいいのだろうか。
忘れようにも忘れられず、丁寧に鍵をかけてしまっておいた感情が甦った。
経年劣化で鍵が壊れたのかもしれない。三郎という太陽が、頑なだった二人の心を解かしたのかもしれない。
いずれにしても、二人は再び手を取り合った。まめに連絡を取り、互いの家を行き来し、肌を重ねた。懐かしさと同時に、寂雷の知らない獄を感じるのが辛く、そしてそれ以上に愛おしい。
そんな日々を重ねた果ての、初めての誕生日。どうしたって特別なものを贈りたい。
実を言うと、一月以上前からリサーチはしていた。
「一二三くんのお客さんにいる弁護士さんは、名刺入れが欲しいって言っていたそうだし……独歩くんの同僚さんはお酒とか、ネクタイとか、色々だったなぁ……」
どれも正直ピンとこない。
というより、今獄が欲しいものが、分からない。
そうこう考えている内に、車は自宅へと辿り着いてしまう。雨は漸く止み始め、ワイパーで軽く拭う程度に落ち着いた。
ルーティンである帰宅後のシャワーを浴びながらも、寂雷の頭の中はプレゼントのことで一杯だった。滝のように落ちるシャワーも、大好きな香りのトリートメントも、つい溜息をついてしまう湯船の温かさも、寂雷からプレゼントを忘れ去らせることはできなかった。
これ以上浸かっていてはのぼせてしまう。白い首筋には、湯と汗が混じり合った雫が背中を伝った。
脱衣所にも湿気を感じる季節だ。リビングには除湿をかけておいたが、その恩恵はここまで届かない。洗い立ての下着に足を通し、ふ、と己の太腿を見て思いついた。
「いっそ生ハムの原木……? 目の前でスライスする……?」
何の回路が繋がったのか、到達した答えにツッコミを入れる人間は、残念ながらいなかった。後で検索しよう、と決意し、スリップ姿のままスキンケアをし、ドライヤーのスイッチを入れた。
長い髪を乾かすには相当の時間がかかる。スキンケアよりも何よりも、寂雷はヘアケアの時間が長い。手に取った洗い流さないトリートメントは、以前獄が良い香りだと言ってくれたものだ。菫の香りがするそれは、ドライヤーの温風で更に香り高くなる。
獄のことを考えなかった日はない。
中学生の時から、高校生になって、大学生になっても、毎日獄のことを想っていた。
戦地に留まっていたときも、泣き黒子のある兵士が運ばれてくる度に胸が痛くなった。
喧嘩別れした後もそうだ。嬉しいことがあった日も、辛く悲しいことが起こった日も、寂雷は獄を想い続けてきた。
「なんだか……私ばっかり好きみたいだ」
自嘲気味に笑いながらリビングに戻れば、タイミングを見計らったかのように獄からの着信が入った。
スマホの画面に映る「天国獄」の文字は、寂雷が初めて携帯電話という文明の利器を手にした時、初めて登録した名前だ。自然と高鳴る胸を押さえながら、軽く咳払いをして電話に出た。
「もしもし?」
スピーカーにはしない。耳元で獄の声を聞くのが好きだ。
『おう。もう仕事終わったか?』
挨拶も碌にないが、獄の低く、少しざらついた声を聞くと、ほぅ、と安堵の溜息が出る。変わらない。その事実がどれ程寂雷に安寧を齎すか、獄はきっと知らないだろう。
「うん。もう家に帰ってきたよ」
『そうか』
「ちなみにシャワーから上がったばかりだから、まだ下着しかつけていないよ」
『それは聞いとらん!』
きっと今頃真っ赤になっていることだろう。存外純情な獄を少々揶揄うのが、最近の寂雷の楽しみだ。三度に一度は返り討ちに遭うが、それもまた一興だった。
「それはそうと、次に会えるのは君の誕生日だったよね。何かプレゼントのリクエストはあるかい?」
寂雷は率直な人間だった。分からなければ聞けば良い。驚かせたいという意地よりも、喜ばせたいというホスピタリティが勝った。
まだよりを戻す前の昨年までは、獄の誕生日に着信を残すだけが寂雷にできる最大だった。繋がるより先に切っていたが、とうとう昨年は捕まってしまった。そして何故か14歳の寂雷が初めて手作りをしたケーキ――ウィークエンドシトロンが欲しい、と獄は強請った。思い返せば、あの頃から二人の糸は繋がり始めていたのだ。思い出したケーキのレモン味が、寂雷の唾液腺をきゅんと刺激する。
あの日のように、リクエストがあるなら叶えたい。
どんなものが欲しいだろう。何を用意したら喜んでくれるだろう。ドキドキと胸を高鳴らせながら、寂雷は獄の答えを待った。
『あー……それなんだが、プレゼントは……ちょっと待ってくれねぇか?』
「え?」
思いもよらぬ言葉に、思わず間抜けな声が出てしまった。
プレゼントがいらない=誕生日には会わない=お前とはもう会わない=別れ……⁉
時として優秀な思考回路はエラー回答を弾き出すことがある。この時の寂雷のように。
突如導き出された答えはまさに晴天の霹靂。思わずスマホを落としてしまった。
『おい、大丈夫か? すげぇ音したぞ? おい、寂雷!』
「あ……ああ、ごめん。スマホ落としちゃっただけだから……。それで、えっと……誕生日には会えないってことかい?」
『馬鹿。話は最後までちゃんと聞け』
どうやら寂雷の導き出した方程式は不正解だったようだ。ホッと胸を撫で下ろし、獄の言葉を待った。
『プレゼントはあらかじめ用意しなくて良いから……そんかわり、前の日からそっち、行ってもいいか……?』
少し照れたような声が聞こえる。
この声色を知っている。
きっと今頃獄は、目の前に寂雷がいないにも関わらず、少し斜め下に顔を傾け、目線を泳がせ、唇を尖らせながら言葉を紡いでいるだろう。見てきたから分かる。知っている。
「それって……次の日に、一緒にプレゼント見に行こうって誘っている?」
『……悪いかよ』
企みが暴かれたことに拗ねているのか、少しだけ声が固くなる。
「全然! 勿論前日から大歓迎だよ!」
ああ、何て愛しい私の恋人!
風呂上がりの熱く柔らかい肌が、少しだけ寂しく感じる。
すぐにでも獄を抱きしめてしまいたい。熱い腕を背に回されたい。首筋に鼻を埋め、彼の匂いを吸い込みたい。そして、できることなら激しく抱いて欲しい。
叶わぬ願望にきゅん、となる体を自分自身で抱きしめ、熱い息を吐いた。
「有給休暇、申請しておくね」
『ああ、悪いな』
「たくさんご馳走用意しておくね」
『歳を考えろよ、歳を』
見えていないのに、寂雷には獄の表情が分かる。
唇の片側だけで笑っている。機嫌が良い時の顔だ。
憎まれ口の裏に滲む愛情を、今なら信じられる。
「前後三日間で、お休みもらっておくね」
『……その言葉の真意は、俺の都合の良いように解釈するぞ?』
低く潜めた声に、艶を感じる。背筋を駆け上る電流のような刺激に、寂雷はクスリと笑う。
「どうぞ。きっとそれは、私と同じ意味だと思うから」
今夜は独り寝が苦しくなる。寂雷は電話越しにキスの音を贈り、電話を切った。
キッチンに満ちる肉の焼ける匂い。潮風のように優しい香り。次々と仕上がっていく料理を前に、寂雷は些か苦笑交じりの溜息をついた。
「作りすぎてしまっただろうか……」
シーザーサラダは生ハムを薔薇のように巻いて飾った。オーブンではゆで卵入りのミートローフがもうすぐ焼き上がる。付け合わせのマッシュポテトも、ニンジンのグラッセも、茹でたインゲンも用意した。コンロにかけてある琺瑯の鍋には野菜たっぷりのミネストローネがくつくつと揺れ、その横のフライパンには、新鮮なチダイで作ったアクアパッツァが仕上がりを待っている。最近見つけたブーランジェリーで買ったバゲットも後は切るだけ。更に言えば、冷蔵庫の中にはハムとチーズもたくさんストックしてあるし、一二三直伝のティラミスも入っている。
「一年に一度の誕生日だもの。これくらいあっても良いよね?」
誰に問うわけでもないが、言い訳がましく己の欲望をぶつけた料理の数々を許すことにした。
「だってプレゼントがまだないんだもの。これくらいは大丈夫」
そう。これはまだ贈っていないプレゼントと同義なのだ。だからダイニングテーブルを埋め尽くすくらい用意しても、誰にも文句は言わせない。
「冷たいものは冷たく。温かいものは温かく。獄が連絡を寄越すまでは、片付けをしておこうかな」
洗い物をしながら、寂雷は獄を想う。
35歳から、一つ歳を取る。
同級生や大学の同期、同じ年の頃の病院の同僚たちは、殆ど結婚していった。中には既に離婚したものもいる。特段周りに急かされることもないが、どうしても同輩が経験しているものに対する興味は湧いてきてしまう。いくつか縁談も降ってきてはいたが、寂雷は全て軽くいなして躱してきた。それもこれも全て、とある約束をしていた記憶があるからだ。
「……獄は、忘れてしまったかな……」
追憶は流れる水の如く止まることはない。
寂雷の意識は、二十歳の頃に戻っていった。
初めて軍服というものに袖を通したあの日。衛生兵として志願した寂雷が、任地へと旅立つ日。
姿見に映った自分自身を、見慣れることはついぞなかった。今まで着ていたブラウスとは違う、カッターシャツに硬い生地の上着とスラックス。軍靴は手持ちの編み上げブーツによく似ていたが、重さが全く違った。
最寄り駅から駐屯地まで、そしてそこから軍用機に乗って海外の前線へ行く。その道程さえもが過酷で、どこかで敵軍からの攻撃を受けるかもしれない。任地に辿り着く前に、命を落とす可能性もある。
それを知っている学生達は、物資の少ない中心づくしの壮行会を行ってくれた。それが一昨日のことだというのに、当時の寂雷にとってはもう既に懐かしい記憶にカテゴライズしてしまっていた。
戦地に行く、ということは、そういうことだ。
ごわつく軍服は硬く、軍靴は重い。群青色の軍服を覆う白衣だけが、寂雷が医療従事者であることの証明だ。
ボストンバッグにスーツケースを一つ携え、寂雷は最寄り駅へと歩いた。学生街であるこの地域はとても賑やかな街だったというのに、今では徴兵の対象外となった学生達しか残っていない。うら寂しさを感じつつも、かつての喧噪を日常とすることこそ志願理由だと首を振る。大切な人を守るために、寂雷は戦地へ行くのだ。
駅は人が溢れていた。今日この日、この時間にこの駅を利用するのは、寂雷と同じ志願兵だけだ。見知った人間が数人いる。同じ衛生兵に志願した同級生達だ。そちらへ向かおうとしたとき、寂雷の細い手首を掴むものがいた。
「……獄⁉ どうして……」
いるはずのない獄の姿に、寂雷は瞠目した。
獄は衛生兵に志願していない。たった一人になってしまった息子を戦地へ送りたい親などいない。増して医学生は、徴兵の対象外だ。寂雷のように志願する人間以外は、戦地へ行く必要がない。
「……見送りだよ、馬鹿」
ふて腐れたように呟く獄にかける言葉を、寂雷は持ち合わせていなかった。
電車の発車時刻まで、まだ余裕がある。周りを見れば、各々別れを惜しむ人たちが溢れている。
獄にはもう、会えないと思っていた。会わずに行こうと、思っていた。
最後に会えば、きっと獄の怒った顔が最新の記憶になってしまうから。できることなら寂雷は、屈託なく笑っている獄の顔を胸に仕舞って行きたかった。
駅舎の前で立ち竦んだまま、二人は会話の糸口さえも見失い、ただ互いに俯き、沈黙に溺れそうになっていた。
「……どうかな? ちゃんと衛生兵に見える?」
漸く絞り出した言葉は、見当違いも甚だしかった。どうしてこんなことを聞いてしまったのだろう。寂雷は後悔しつつも、吐いた言葉が戻ることはなく、正確に獄の鼓膜を通り、脳に達してしまった。
「似合わねぇな」
硬い表情で吐き出した獄に、寂雷は当然だ、と思いつつも、少しだけ寂しく笑った。
女性の衛生兵志願者は、寂雷だけだった。増して長身の寂雷に合う軍服などなく、男性ものをそのまま着ている。似合っているわけがない。
「……似合わねぇよ」
獄の顔は泣きそうな程に歪み、血を吐くように言葉を吐いた。
止めても無駄だ、と分かっているが、それでも獄が寂雷を行かせたくないと思っていることを寂雷は判っていた。見送ると言いつつも一度も寂雷を真っ直ぐ見ない獄の態度が、寂雷には痛いほど切なく、そして嬉しく、悲しかった。
電車の発車時刻が迫る。同じ配属になった同期が呼んでいる。
「もう行かなきゃ」
じゃあ、と背を向けようとした時、寂雷の手首を獄が掴んだ。熱い。そして強い力で。
「お前に軍服なんて、似合わねぇよ……!」
軍関係者が多く屯する駅構内に、獄の声が響いた。誰かに聞かれていることなど気にしていない。獄の手の熱に、声に、寂雷も周りのことを忘れた。
「お前には群青色なんて似合わない。お前には……お前には、白い服が、一等似合う」
絞り出した声が、震えている。
行くな、と言ってくれたら。ふと寂雷は考えた。
もし獄が行くなと言ってくれたのなら、寂雷は止まるだろうか。
――否。きっと私は、この手を振り解いて行くだろう。
分かっている。寂雷の性質を。
それは獄も同じだった。行くな、と言えたら、どれ程楽で、どれ程苦しいか。だから言わない。言わない代わりに獄は寂雷の手を掴み、寂雷は歩みを止めた。
「絶対帰ってこい。絶対戻ってこい」
この日初めて獄は寂雷と目を合わせた。
揺れる瞳に、己が映る。寂雷の青い瞳には、獄の顔が映っているだろう。
掴んだ手首が引かれ、寂雷の体を獄が抱きしめた。
「いいな。絶対だぞ……!」
文字通り、今生の別れになるかもしれない。帰ってこられる保障など、万に一つもない。それでもこの約束だけは、破るわけにはいかなかった。
「……私が帰ってきたら、白い服を選んでくれる?」
獄の肩に頭を預け、寂雷は問うた。
「ああ、選んでやる。お前にぴったりの服を、絶対……。だから、寂雷……お前、絶対戻って来いよ。俺のところに、戻って来いよ」
「うん。君のところに、戻ってくるよ」
獄がキスをする時に絡めていた菫色の髪は、後ろで一括りにしている。だから代わりに寂雷から獄にキスをした。
獄の少し張った頬骨が好きだった。かさついた唇に、キスでリップクリームを分けるのが好きだった。
これを最後にしたくない。
別れのキスを終え、寂雷は戦地へ、獄は本土に残る。
そして寂雷が獄の元へ戻った時、獄は寂雷との約束を守れるような状態になかった。
戦中の負傷ではなく、獄の兄の死という瘡蓋が、剥がされたことによる致命傷を受けて。
「……獄」
あの日の約束を、覚えているだろうか。
寂雷はまだ、白い服を選んでもらっていない。
獄の元に、戻ってきたというのに。
流れ出る水に攫われそうな意識を、着信音が引き留めた。
メッセージが届いた音だ。いそいそと濡れた手を拭き、スマホを手にすれば、獄がシンジュクに着いたという連絡が入っていた。窓の外はまだ明るいが、黄昏の衣を纏い始めていた。
「よし。仕上げをしなくちゃ」
今日は誕生日前夜祭。とっておきの料理で獄をもてなすと決めているのだ。
焼き上がったミートローフをオーブンから出し、丁寧に切り分けて盛り付ける。アクアパッツァも器に移し、イタリアンパセリを散らした。
「このチダイ、今朝私が釣ったって言ったら、獄は驚くかな……」
ふふ、と含み笑いをすれば、チャイムが来訪者を知らせる。ドアホンに映った男の姿に、自然と顔がほころんだ。
パタパタとスリッパを鳴らし、玄関に駆け寄る。扉を開ける前に、玄関に備え付けの鏡に姿を映し、身だしなみをチェックする。少し髪を弄り、スカートの裾を直した。化粧は崩れていなかったが、買ったばかりの新色のグロスを塗り直した。
準備万端整えて、寂雷は玄関の扉を開けた。
「いらっしゃい、獄」
「おう」
いつだって言葉は少ない。それでも寂雷は獄の発する一言がたまらなく好きだ。
「これ、今日の土産な」
手渡された紙袋は、知らない店のロゴが入っていた。
「君ってヤツは……自分の誕生日祝いをする日にまでちゃんと持って来るんだな」
「礼儀ってモンがあるだろう」
「ちなみに中身は?」
「明日のパンと、それによく合うあんバター」
「あんバター……? あんことバターを混ぜたもの?」
「まぁ、そんなとこだな」
チラリと覗けば、確かにふかふかの食パンが一斤と、小さな瓶が一つ入っていた。
「ありがとう。早速明日食べよう。さぁ、上がって。私、今日は腕によりをかけて作ったんだ」
「ああ。美味そうな匂いがするな」
「手洗いうがいを済ませたら、すぐに食事にしよう」
「わぁってるよ」
慣れた様子で洗面所に行き、獄はしっかり寂雷の言いつけを守った。手は30秒かけて洗い、うがいはコップ一杯の水がなくなるまで。そして脱いだジャケットをハンガーに掛ける。ここまでがリビングに入るまでの一連の儀式だ。
だが、リビングに入ってきた獄は、ジャケットを着ている。いつもと違う様子に、寂雷は小首を傾げた。
「ハンガー、いつものところに用意しておいたけど……」
「寂雷、飯の前に話がある」
どくん、と心臓が跳ねた。
なぜだか不吉な予感がする。
嫌な汗が掌をヒヤリとさせる。
思えば、電話でプレゼントの用意はいらない、と言われたときから様子がおかしかった。今だって、少し会話が硬く、ぎこちなかった気がする。
どくん、どくん、と五月蠅くなる心臓を抑え、寂雷は努めていつもと変わりない声で、なぁに?と問うた。
獄とは二度、別離を味わっている。
一度目は、寂雷が戦場へ行くとき。
二度目は、獄が寂雷に見切りをつけたあの日。
バトル前にバーで会った時を三度目と数えるのは止めた。二度あることは三度ある、を否定したかったし、認めてしまえば縁の糸がふつりと切れてしまう気がしたから。
臆病にも立ち竦む寂雷の前に、獄は立った。身長は寂雷の方が大きい。必然的に獄は寂雷を見上げる形になる。真っ直ぐ向けられる視線を、どうしてだろうか、寂雷は受け止めることができず、ふい、と斜め下を向いた。
何を言われるのだろう。
やはり遠距離でたまに会う程度の恋人など、嫌だっただろうか。それとも他に何か粗相をしていたか。ぐるぐると回る思考は負の堂々巡りを繰り返すばかりで、寂雷は既に泣きそうになっていた。
「……何てツラしてんだよ」
獄の手が、寂雷の頬に触れる。熱い掌だ。この熱から離れるなど、寂雷にはもうできない。
「だって……何言われるのか……分からなくて、怖い……」
怖い。
表立って恐怖を口にできる相手は、寂雷には殆どいない。
チームメンバーの一二三と独歩にすら、訴えたことはない。
獄だけだ。寂雷が感情を隠すことなく、余すことなく吐露できる相手は。
「何も怖いことなんてねぇよ」
溜息交じりに呟いた獄の言葉に、寂雷は弾かれたように獄の顔を見た。
そして、いつの間にか眼前に現れた物体に、瞠目した。
「……え?」
臙脂色の箱はベルベット。掌に丁度乗るサイズの、小さな箱。蓋は既に開かれていて、中には光る円環が半分だけ顔を覗かせている。
それは、指輪だった。
頂点には丁寧にカットされたダイアモンドが輝く、美しい指輪だ。
「今年の誕生日、欲しいモンが二つある。一つ、この指輪を嵌めたお前。二つ、これからのお前の人生だ」
獄の言葉の意味が、徐々に、水が染みこむように、浸透する。
プラチナの指輪。ダイアモンド。これからの人生。
それが意味するところのことを、寂雷は知識として知っている。
知識と現実を照らし合わせたとき、果たして一致するとは限らない。
「……プロポーズ……という、やつ……なの、かな……?」
だから確かめてみた。恐る恐るという、実に寂雷とはかけ離れた態度で。
「……それ以外の意味があると思うのか……?」
獄の顔が、耳が、真っ赤に染まっていく。指輪の箱を支える手が細かく震えている。
これは見たことのない顔だ。そして、身に覚えのない感情が、寂雷の神経を駆け巡った。
それが全身に回り、体中に満ち、収まりきらなかった分が全て涙に変わった。
「……うれしい……」
零れ始めたら最後、留まることを知らない。熱い奔流が頬を伝い、寂雷の視界を歪め続ける。
「良かった……わ、私……ずっと、不安だったから……」
顔を押さえ、寂雷は泣き崩れた。ぺたりと座り込んだ寂雷の細い肩を、獄の手が抱き留める。
「だって獄……プレゼントいらないとか言うから……。もう別れる気でいるのかと思っちゃって……。いつも傍にいるわけじゃないし、会えるのも数ヶ月に一回だし……それに、それに、白い服、くれなかったから……。戻ってきたときに、選んでくれるって言ったのに……忘れちゃったと思って……」
「馬鹿。忘れる訳ねぇだろ」
泣きじゃくる寂雷をきつく抱きしめ、獄が耳元できっぱりと否定した。
「お前が戦場から戻ってきたばっかの時は……俺に余裕がなくて……その件は、済まなかった。その後も……俺がガキすぎたな」
悪かった、と口にすることはあれど、それが寂雷に向けられるのは稀だった。驚きながらも、寂雷は己の早合点を恥じ、そして安堵した。
「ていうかお前……覚えてるくせに、やっぱり分かっていなかったな……?」
ほたほたと零れる涙が獄の指にそっと掬われる。
「分かって……ない……?」
白い服は、自分に似合う服だと言っていたが、それ以外に何か意味があることだったのだろうか? 寂雷はやはり小首を傾げ、獄に答えを求めた。
ばつが悪そうな、苦いものを口にしたような顔をして、獄はごにょごにょと口籠もった。それでも子アザラシのように丸い瞳で見つめ続ける寂雷に根負けして、漸く口を開いた。
「……あれも、一応…………プロポーズ」
絞り出した一言に、寂雷はまたもや面食らった。
「白い服っつっただろう。あれは……その……ウェディングドレスのことだったんだよ……! 言わせるんじゃねぇよ、馬鹿!」
「そ……そうだったんだ……。私ったら、気づかずに……」
「本当だよ、お前……。まぁ、そういうところも含めて寂雷なんだよなぁ……」
はぁぁ、と地の底から吹く風のような溜息をつき、獄は寂雷の横に腰を下ろした。
「……それで? 返事は貰えないのかよ、お姫様?」
横目で寂雷を見て、すぐに目線を逸らす。
照れているときの顔だ。相手の反応を見たいけど、見たくなくて、それでも見ずにはいられない。そんな顔をして。
決まりの悪そうに尖らせた唇が好きだ。オパールのように複雑な色に揺らめく瞳が好きだ。意地っ張りで、頑固で、それでも芯の通った心根が好きだ。
答えは決まっている。
きっとそれは、最初に出会った12歳の時から決まっていた。
「今年の誕生日プレゼント、君が望むもの全てあげるよ」
そっと左手を獄に差し出した。
「嵌めてくれないの? 私の左の薬指、ずっとさみしいんだけど」
「最っ高だな、お前ってヤツは……!」
呆れたような、どこかホッとしたような笑いを漏らし、獄は寂雷の手を取った。
ゆっくりとプラチナの指輪が薬指に収まっていく。根元まで到達するや否や、寂雷は獄にキスをした。勢い余って床に頭を打ち付けるほど激しく。
「いってぇっ!」
「痛いってことは、夢じゃないんだ!」
「人の痛覚で試すな!」
床を転がりながら、二人は何度もキスをした。上下を何度も反転させ、子犬のように戯れて。寂雷が獄の上に乗り、ゆっくりと唇を重ねた。さらさらと流れる髪が、菫色の帳となって獄を覆い隠す。頬を撫でる手にすり寄り、甘く息を吐いた。
「やっと、お前が戻ってきた気がする」
「……そう?」
「ああ。戦場から戻ってきた時は、隣にいるのにずっと遠くにいるみたいだったからな」
そうかもしれない。あの酸鼻な体験は寂雷を根底から変えてしまった。汚れた手で獄を触ってしまうのが怖くて、距離をとっていたこともある。
髪を引かれ、再びキスを求められる。軽く触れるだけのキスをして、獄が身を起こした。必然的に獄の膝の上に座り、その目の色をじっと覗き込んだ。
「俺はな、跪いてお前の愛を乞うような真似はできねぇ。けどな、お前のためなら誰にだって頭下げられるくらいの覚悟はあるんだよ。それだけは……覚えておけよ」
寂雷の瞳が揺れる。
獄はまだ、知らないはずだ。寂雷が戦場でしでかした全てを。
もしかしたら、気づいているのかもしれない。分からない。
そうだとしても、そうでなかったとしても、これ程の愛があるだろうか。
寂雷は何度目かの恋に落ちる。いつだって相手は獄唯一人。
「……獄。次の私の誕生日に、白い服を選んでくれる?」
「ああ、選んでやるよ。お前にぴったりのウェディングドレスをな」
膝の上で交わす約束とキスは、味わったことのない程に甘かった。
「その前に、明日はマリッジリングを見に行くぞ」
「うん。二人でお揃いのを見に行こう」
「よし。じゃあ飯、食おうぜ。流石に緊張して、今日は殆ど何も食ってねぇんだよ」
たふぅ、と吐いた溜息は、獄の多大なる緊張が伝わってきた。クスリと笑い、寂雷は獄の額に額をつけた。昔からやるふれあいだが、こうすると互いの想いがより通じ合う気がして、寂雷は好きだ。
「うん。たくさん食べて。一緒にご飯を食べて、お風呂に入って……そのまま朝まで抱いてよ」
電話をもらった数週間前から、否、最後にあった日からずっとお預けを食らっているのだ。少しくらい直球で求めたって良いだろう。
「誘い方に品がねぇよ」
ぺしん、と尻が叩かれた。その仕打ちにも品がない、と抗議の意味も込めて獄の鼻を甘噛みした。
「じゃあ抱いてくれないの?」
「寝かせてなんかやらんからな……っ!」
一際高く笑い、獄は寂雷を抱き上げた。お姫様抱っこなんて恥ずかしいこと、家の中でしかできない。きゃあきゃあと声を上げ、寂雷は獄の首にかじりつき、獄は寂雷を抱いたまま何度も回った。
これからの人生、傍らに獄がいる。
それは揺るがぬ事実となって、寂雷の左薬指に宿るのだ。明日には獄の薬指にも、寂雷と揃いのプラチナが輝き続ける。
サラダにミートローフ、アクアパッツァにバゲット、ティラミス。
全て食べ終わっても続く狂騒を、寂雷と獄は高らかに笑い続けた。