4月9日 代々のお屋形様が使っていた部屋は貘が今でも使っている。かつては自分が使っていた部屋だったが、彼の好みのインテリアがたまに追加されていき、今見ると随分様変わりしてしまったと思う。賭郎そのものもそうだ。貘に用事があったので部屋に行くと、姿が見当たらなかった。また気分転換がてらふらふらと建物内を歩きに行ったのかと思ったが、ふと壁にあるカレンダーが目に入った。そうか、と貘が今居る場所の心当たりが浮かんだ。エレベーターから降りて階段を少し昇る。ビルの屋上の扉を開けると、まだ冷たさを感じる夜の風が一気に入り込んで来た。その風の流れに逆らい外に出ると、案の定、真ん中の辺りに貘が居た。随分と長居していたのか、地べたにそのまま座り込んでいる。
「貘さん」
呼び掛け、彼の元へと足を進める。その声を聞き、貘もこちらへ振り向いた。
「ハル」
「もしかして待ってた?」
何の為に、とはわざわざ言わなかった。
「いや、感慨深いなと思って。浸ってただけ」
ハルが近くまでやって来ると、貘も腰を上げた。高層ビルの屋上で吹く強い風が貘の頼りない身体にぶつかっている。それから庇うように風上の方へハルは身体をずらして、部屋からついでに持ってきていたコートを貘の肩に掛けた。
「冷えるでしょ」
「ああ」
「君は何年経ってもこの日は此処に来たがるね」
「いや〜、だってさっ? 思い出の場所だし。お前に身ぐるみ剥がされて無一文になった」
「自分で望んだ事でしょ」
まるでこちらが全部悪いと言いたげな貘の言葉に、ムッとした顔を向ける。
「まあ、別に……その事はどうでも良いんだ。お前が言う通りだし。でもさ、悲しかったんだ。それは本当。俺の顔見ても何も思い出さなかったから。ちょっとは期待しちゃってたから」
「それは……」
「だからさ、感慨深いって毎年思うんだよ。良くも悪くもさ、随分とあの頃から変わっちゃったから」
コートを掛けた時から、手は彼の肩に置いたままだ。風に持って行かれないようにと思って。その、ごく近い距離にあるままの貘の顔が、こちらに向いた。視線を向けられてじっと見つめ返すと、貘は急に微笑みを浮かべて、ハルの手の中から抜け出す。屋上の端に近付いて行き、高いビルの上から見える光景を見下ろした。
「全部俺のもの」
今その双眸の先にある夜景だけで無く、世界すら手にしようとしている彼は、そうぽつりと漏らした。ハルは彼を追い掛けるように足を向ける。その背中に辿り着いて、肩に触れる。彼がここまでの力を手にしたそもそものきっかけの一端が自分にある。それは彼にとって良いものだけでは無かったと知っているから、今でも胸が締め付けられるような気持ちになる。いや、今だからこそかもしれない。肩から身体の前まで手をずらし、彼を自分の方へ抱き寄せた。白い髪や首筋に埋もれるように顔を落とす。
「ハル」
貘が、その名前を呼ぶ。今でも。名前の意味と、呼んできた声に暫し浸る。
「ハル」
もう一度呼ばれて、ゆっくりと頭を上げたハルは、いつの間にやらこちらに顔を向けていた貘に更に近付いた。唇に、触れるだけのキスをする。離すと、貘が少し笑いかけた表情を見せた。彼の碧い目から視線を外したくなくて、そのまま口を開く。
「今日ぐらい、僕だけを見てよ」
自分から出て来た声は明らかに拗ねた風で、年甲斐も無いと自分でも思った。案の定、とうとう貘は我慢していた笑い声を漏らす。
「はははっ」
「…………」
「はは、はぁ……、分かった」
貘の腕がハルの身体にも回り、ポンポンとあやす様に背中を叩かれた。
「帰ろうか、ハル。今夜だけはお前が望む通りにしてあげるよ」
「……うん」
「お前っていつまで経ってもそうなんだね」
少し呆れた、でも彼からの愛情が滲んだ声色でそうからかわれる。昔だったらそれにああだこうだと言い返していただろうけど、もう、そうするには彼と時間を多く過ごしすぎた。変な意地を張っても全て分かられているのだ。ハルは素直に頷いて、貘の背中を押して歩き出した。