恋とはどんなものかしらタイトル:恋とはどんなものかしら
お題:乙女のはにかみ/狂った/夜目
聖シトンナ女学院には、乙女のはにかみという名の銅像が置かれていた。二宮金次郎や学長の銅像のように、校門前の噴水の上に鎮座している。
彼女は波打つような髪を揺らめかせながら、指先に止まった一匹の蝶を見つめ、微笑んでいる。
「天才は山頂に登るのが目的だったのではなく、一匹の蝶を追いかけていただけだ」という逸話をモチーフにして作られたとかなんとか。蝶は、あるいは夢や希望、目標にも例えられるだろう。校長先生が色々と話していたけど、詳しいことは忘れてしまった。けど、私の親友の暮羽マトコに聞けば、きっとすべて教えてくれる。
なぜなら、暮羽マトコは、乙女のはにかみに恋をしていたのだから。
「乙女のはにかみに恋をしたからです」
入学してすぐの自己紹介の時間に「どうしてこの学院に入学したのか」という問いに対し、マトコはそう答えた。
同級生たちはジョークだと笑ったが、私はマトコが不満そうに顔をしかめたのを見逃さなかった。一通りの学校説明が終わったあと、帰る準備をする彼女に私は声をかけた。
「暮羽さん、乙女のはにかみのどこに恋をしたのか教えてくれない?」
マトコは最初、私がからかっていると思ったらしい。けれど、尋ね方が悪かったかなと改めて問い直すと、彼女は色白の頬を薄く赤らめて頷いた。
二人で銅像のもとに向かい、乙女のはにかみを見上げるマトコの視線を追う。乙女のはにかみは、今日もただそこにあって、蝶を見つめている。
「私を見てくれないところがいい」
「え?」
「どこに恋をしたのかって答えよ。私を見てくれないところ。ずっと蝶をみているところ。髪がたなびくのも構わずに、蝶だけを見ているところ…」
「私には、なんだか狂っているようにも見えるけど」
私の言葉にマトコは憤慨することもなく、くす、と微笑んだ。
その時はわからなかったが、マトコの反応はまさしく恋する乙女そのものだった。「自分だけが、あのひとの良さをわかっている」とでもいいたげな、陶酔した表情。それで構わない。誰にも理解されたくはないの、といった、ある種高慢な、少女の私には分からない、女の感情。
きらりと光った彼女の目に、私は息を呑んだ。マトコは瞬きをすると、まるで慰めるような口調で言った。
「あなたは、乙女のはにかみが嫌いなのね」
マトコの指摘は鋭かった。彼女が乙女のはにかみに恋したからこの学院に入学したのと同じくらい、私は乙女のはにかみが嫌いで、この学院を選んだ。
「あの銅像に恋をしているって、本当なんだね」
と、返すのがやっとだった。
マトコは頷き、私の手を取ると微笑む。
「あなたとは、とてもいい友だちになれそう」
マトコの予想通り、私達はとても親しくなった。
二年生になる頃には、お互いの家に泊まり合うようになり、お互いの本を貸し合い、お互いの服を着合った。
かといって私達には、ほかの同級生たちのように、同性ゆえの特殊な親密さはうまれなかった。それはひとえに、マトコには心から愛する人が――乙女のはにかみがいたからだろう。
彼女の視線の先には、いつも乙女のはにかみしかなく、乙女のはにかみの視線の先には、一匹の蝶しかいなかった。
銅像の蝶はどこにも飛んでいかない。マトコの乙女のはにかみへの想いが揺るがないように、乙女のはにかみの蝶への想いは揺るがない。私は安心と同時に、別の気持ちを抱きはじめている自分に気づいていた。
銅像が火にくべられて溶かされるときまで、蝶は、永遠に乙女のそばにいる。
私にとって、マトコへの想いは、一匹の蝶なのだった。
三年生になって、もうすぐ進路相談の時期になる頃、マトコは将来の夢を私に打ち明けた。改めて打ち明けられるものでもない。簡単に予想できるものだったが、私は教えてもらえて嬉しかった。
彼女の夢は、聖シトンナ女学院の教師になること。
マトコは一生を乙女のはにかみのそばで過ごす決意をしていたのだ。昼食のサンドイッチを頬張りながら、私は何気なく言ってみる。
「じゃあ、私も先生になろうかな」
「なんで? あなたはあなたでしたいことをすればいいのに」
マトコは無頓着にそう言った。誰かに理解を求めない彼女のスタイルは好ましいけれど、こういうとき、一拍の苛立ちを感じてしまう。私は吐き捨てるように言った。
「特に思いつかないから。今のままエスカレーターでシトンナ大学に上がれば、教職を取る余裕もありそうだし」
「それ、先生たちに聞かれたら怒られるわよ」
中庭の藤棚の下で、マトコは目を伏せて笑った。笑った時の彼女のえくぼが、私は好きだった。
ふいに、私は手を伸ばして、彼女のえくぼをつつこうとしてしまった。友人としてのほんのじゃれあいのつもりだったのに、マトコは私の行動の裏地に気づいたように手首を掴んだ。
「何してるの?」
彼女の目はいつかのようにきらりと光った。
「……冗談だよ」
私はごまかすように笑ってマトコの手を振り払い、立ち上がる。スカートからパンくずがはらはらと落ちた。
マトコは一瞬視線をさまよわせたが、立ち去る私を追いかけてはくれなかった。
私は、蝶になれなかったのだ。
あの日から、私はマトコを避けた。彼女のいなくなった日常はまたたく間に過ぎ去り、あっという間に卒業式の前夜になった。
私は学校に忍び込むと、乙女のはにかみの銅像に向かった。校門前の噴水に、彼女はいつもどおり鎮座していた。波打つ髪を揺らし、指先に止まった蝶を眺めて、微笑んでいる。
私は暗闇の中で目をこらして、噴水のに飛び込むと、銅像が置かれた台に足をかけて、乙女のはにかみに登り始めた。
なんとか乙女のはにかみの体にしがみつき、顔を覗き込む。遠くで眺めている時は美しかったが、やはり年月は彼女の美しさを剥いでいったらしい。風によって傷つけられた頬の皺を撫で、雨で打ちくぼんだ瞳を擦る。
そして、私は持っていたペンチで、彼女の指先の蝶を挟み込むと、力を入れて、一気にもいだ。
パキン、という音がして、蝶は飛んでいった。
掴もうとした手は宙を舞い、私は噴水の中に落ちる。なんとか噴水から這い出て、夜目をこらして蝶が飛んでいった草むらを探したけど、とうとう見つけられなかった。
ねじれた足を引きずって家に帰った私は案の定高熱を出し、卒業式を欠席した。
あとから聞いた話だが、卒業式の日の朝、暮羽マトコは乙女のはにかみの銅像を見て、狂ったように叫んだらしい。
「なんと言っていたの」
彼女の姿を見た人全員に尋ねたが、みんな答えは違っていた。
「どこに行ったの、って言ってた」
「なんで?って叫んでたよ」
「私のせいなの、じゃなかった?」
暮羽マトコは教師にならなかった。大学で出来た恋人と結婚したらしい。もうすぐ、出産するそうだ。
私はというと、シトンナ大学で教職を取って、聖シトンナ女学院の教師になった。
毎朝、校門前の噴水を見上げると、乙女のはにかみが目に入る。蝶を失った乙女は、今もそこにいる。
ずっと、永遠に。
火にくべられるその時まで。
きっと私も、そうなるんだろう。
おわり