フィリアトラル大陸の湿り気を帯びた空気は、夜になると幾分かましになって心地よい風が頬をなでる。シャバーブチェはどこも満席で、タンカード片手に立ったまま談笑している客も多い。多種多様な種族が肩を並べていて、大きな笑い声に時折食器を倒す音などがけたたましく響いている。誰も彼もが楽しそうで、それはいま目の前に座る英雄も同じだった。
無精髭におおわれた口元に、今しがた切り分けられた肉のソースが滴っている。齧り付く彼の唇は、他のヒューランの男性と比べてもやや厚めに思えた。汚れた口元を雑に手の甲で拭って、タンカードになみなみと注がれたエールをあおってはまたこぼして、また雑に拭って笑っている。終末をとめるために奔走していたころとは違う、緩んだ笑顔だった。
普通のひとだな、と思う。普通のどこにでもいる大人の男のひとだ。相応にがさつで、相応に年若い者を気遣う、普通の大人のひとだ。口数の多いほうではないからさほど声を聴くことはないが、その分ひとの話に真摯に耳を傾けていることがよく分かる。相手の目をあのアーテリスの光を宿した瞳でじっと見つめて、楽しい話であれば快活に笑い、悲しい話であればまるで自分の話であるかのように悲壮な顔をする。
英雄なのだ。このひとは。どこにでもいそうな、それはもう普通のひとだけれど、確かに彼は英雄だった。どんな困難にも挫けず、どんな相手だろうと手を差し伸べてきた救星の英雄。まだ何も分かっていなかった私を救ってくれた、エオルゼアの剣。あの時からずっとこの背中を追いかけてきて、もうどれほどの月日が経っただろうか。暁をはじめとして多くの仲間を得たいまでも、彼だけは特別だった。
家族、お節介、天然な双子の兄。
昔からの兄貴分、頼りになる斥候、リーンの父親。
そうやって、人々にたくさんのラベリングをして、自分のなかで大切に想う。目の前のこのひとも同じように。
英雄、エオルゼアの剣、憧れの人。
憧れのなかに1滴だけ混じる強い気持ちは見ないふりをして。そうして分類できない、なにも書かれていないラベルをはって、他のひとたちと同じように私の中で大切にしまっておくのだ。何も書けないことこそが特別であることは分かっていたけれど、様々な危機をともにのりこえたからこその勘違いだと自分に言い聞かせながら。
「えっと、自分の顔になんかついてる…?」
気が付いたらテーブルについている全員の顔がこちらを向いていた。思考に潜りすぎて顔を見すぎていたかもしれない。超える力のせいで何となく察してしまったであろうクルルだけが隣でクスクスと笑っていた。
「べっ、別に…ソースが口の周りにいっぱいついてるなって思っただけ!」
「えっ!?」
恥ずかしいったらありゃしない!
焦った男が今更ナフキンで口元を拭いだしたのを笑ってやる。そうやって、いつまでも普通のひとでいてもらわなくては困るのだ。いつか空白のラベルに、正しく名前を付けられるまで。