You make me breathe, I will never let you down.ふと意識が浮上した。
悪夢を見た訳でもなく、なにかの騒音があった訳でもなく。眠気もさっぱり消えて、またたきの間に瞼をひらいたかのようだった。
シーツはさらりと乾いていてあたたかく心地よい。隣でまだ眠っている男のかすかな呼吸音が聞こえる。いつのまにか抱きこまれていたようで、頭上にかかる吐息がすこしくすぐったい。
夜と朝の狭間だろうか。部屋全体が青く染まっていて、まるで海の底のようだった。一糸纏わぬ男の肩越しに見えるカーテンからは朝の気配が差し込みはじめていて、ひかえめに息を吸い込むと、男のかすかな汗と本来の匂いと、朝のつめたい香りが鼻を抜けた。
起こさないよう注意を払いながら己を抱き込む男の顔を見上げる。手入れのされていないかさついた厚めのくちびるはわずかに開いていて、つるりとした歯とその奥の肉の色が覗いている。朝になって幾分濃くなった髭を見る度に意外と手入れをしているのだな、わりと気に入っているのだろうか、と思う。目元に刻まれた傷や皺のうえ、かすかにあかく染まった目尻が昨夜の名残を感じさせて、腹の空くような思いがした。散々貪ったというのに。
存外ながい睫毛が影をおとす閉じられた瞼のした、なにか夢をみているのか、ゆるゆると眼球がうごいているのが分かる。呼吸のたび小鼻がすこしふくらんで、厚い筋肉に覆われた胸元も膨らんではしぼんだ。
静かだった。
すぅ、すぅ。かすかな呼吸音。ときおり窓の外から聞こえる小鳥の囀り。湿度を吸ってぱき、となにかの家具がたてる音。
胸元がふくらみ、もどる。あたたかな体温が近づき、離れていく。そっと腕を間に差し込んで、ふに、と胸元をつつく。力の抜けた身体は柔らかくて、僅かに指先が沈んだ。たくさんの細かな傷のうえにすこしだけ生えている毛をさりさりと撫でる。すこし濃くなった気もする。
生きているな、と思う。きちんと生きている。息をして、柔らかくてあたたかくて、髭も胸毛も伸びるし心臓もとくとくうごいている。血だらけで生気のない顔で横たわっていたひとだとは思えないほどに。
「くすぐったい」
寝起きの、掠れて鼻にかかったようなこえがした。朝起きたときに発する声がいつもと違うのはどうしてなんだろう。とりとめもないことを思った。
「起こしたか」
「ん」
男の目がはんぶんだけ開いていた。海の底のような部屋のなかで、彩度を落としてなお美しいアーテリスの瞳。否とも応ともとれる返事をした男が身じろぐと、ふす、とひとつ息を吐いた。眠そうな顔をして、はんぶんだけ開いたのうちがわからなにを見るでもなく瞬きをして。
生きている。息をして、瞬きをして、あくびなんかして。英雄という偶像に押し込められた男の、生身の輪郭を目の当たりにする。この瞬間だけは英雄でも冒険者でもない、ただのひとりの人間のすがた。それを見せてもらえることの、なんと幸福なことか!
シーツの海にもぐり、男の胸に耳を押しつけてきゅうと抱きつく。とくとくと流れる血潮の音に聞き入ると、くすぐったいって、とちいさく身体を揺らしながら男が笑った。意図的に耳をはためかせればくふくふとさらに笑う。
生きて、1分1秒ごとに変わっていくこのひとと、こうして迎える朝が切ないほどに愛おしい。鎧を纏い、陽のもとに一歩踏みだせばたちまち英雄となってしまうこのひとの、すべてが剥がれ落ちたこの瞬間をいつまでも護りたいと、そう心の裡で思う。