裁きの火炎足元をふらつかせながら立ち上がる。うっかり血を使いすぎた。咥えていたタバコで陣のうえの最後の蝋燭に火を灯し、もはや覚えてしまった詠唱を誦んじた。すると、魔法陣の中心から轟々と燃えさかる黒い炎が立ち昇り、思わず腕を翳して熱を遮る。しくったか?そんなに強いモノを呼んだつもりはなかったんだが。
やがて黒炎が消え、姿を現した使い魔は赤と黒の甲冑に身を包んだ青年の姿をしていた。蝋燭の火は消え、暗い教会のなかで青い瞳が不思議と輝いている。ステンドグラスから差し込む月明かりに照らされた埃がちらちらと輝き、幻想的なまでに美しい青年の姿に一瞬目を奪われた。
「………なぜ神父が使い魔なんて呼び出す」
心地よく耳をうつ青年……使い魔の声に我に返った。上級の悪魔であるほど、人を魅了するために姿形が整っていることが多い。久しぶりの召喚で血もたっぷりと使ってしまったのだ。予定より上級の悪魔を呼び出してしまったらしい。
「ご挨拶だな。名前は?」
「………クライヴ」
真名は名乗らんか。陣の真ん中で腕を組み、苛立ったように足を踏みならす”クライヴ”に小さく笑い、新しいタバコに火を着ける。契約するまで使い魔は陣を出ることができないのだ。
「契約するか?」
「先ほどの問いの答えによる。なぜ神父が使い魔を召喚する?」
教会に属する者は悪魔を退治する役割を担っている。中枢にいる強者なんかは下級の天使の力を借りて、強大な魔物や悪魔を退治することもある。その教会の人間が悪魔を召喚するなど、異端も異端なのだ。クライヴの疑問は正しい。
「俺はちっとばかし魔力が強すぎてな。ある程度使ってないと具合が悪いんだ」
「…なるほどな」
悪魔らしく、高慢な態度で顎をしゃくったクライヴに近付き、陣を描くために先ほど切り付けた掌を差し出す。男はまるで騎士のように恭しく片膝をつき、差し出された手をとると、流れる血を控えめに舐めた。
「ッ……」
身体の力が抜けるような一瞬の虚脱感のあと、クライヴの熱い炎のような魔力が身体に流れ込む。貧血気味の体にはいささか刺激が強い。俺の魔力を取り込んだらしいクライヴが身体を震わせ、面をあげる。とろりと潤んだような青い瞳が目に毒だ。契約が結ばれ、掌の傷はすっかり塞がっていた。
「ん、契約終わり。じゃあ俺は寝るから好きにしててくれ。敷地の外には出るなよ」
「えっ」
きょとんとした青年をおいて教会をでると、まっすぐ居住区を目指す。身体が重くて仕方がない。明日は昼過ぎまで眠れそうだ。
* * *
使い魔を召喚して数週間、分かったことはあまり多くない。強力な火の使い手であること。以前にも人間に呼び出されたことがあり、いい扱いは受けていなかったこと。この世界で弟に会うために呼び出しに応じていること。
下級の悪魔なんかはぺらぺら口煩く騒いで人間を堕落させようとするものも多いが、クライヴは至って寡黙な男だった。神父として勤めている間、彼は一般的な小姓のような服装に姿を変え、敷地内をぷらぷらと散歩しては手持ち無沙汰に花壇の雑草を抜いたり、時折遊びにくる野良猫を膝にのせて木陰で昼寝するなどしている。彼が強大な悪魔であることは確かなのだが、なんというか、どうにも掴みどころのない悪魔だ。最初は日中出歩く男に警戒していたが、どうにも平和ボケしたような姿に、早々に放任してしまった。御祈りにきた家族を見送る際、懐いてしまった子どもがクライヴにばいばい、と手を振る。木陰に腰をおろしている彼も、無表情で小さく手を振り返す始末だ。
「お前ほんとに悪魔か?」
「……よく言われる」
膝にのせた猫を撫でながら呟く声は眠たげだ。今日は天気も良く、涼しい風が吹いていて昼寝日和だろう。
「今日は掃除が終わったら酒飲んで昼寝するかあ」
「なまくら神父」
「よく言われる」
同じ言葉を返してやると、クライヴは吐息だけで小さく笑った。木漏れ日が艶やかな黒髪を照らしていて、そうしているとまるで天使にも思える姿だった。
* * *
「おい、出掛けるぞ。”お仕事”の時間だ」
教区長からの書簡を抽斗にしまうと、葡萄酒を一息に飲み切ったクライヴが黒い甲冑装備に姿を変える。
教会の東に広がる巨大な黒の森はよく魔物が出没する場所だ。定期的にクライヴを連れて、人里に魔物が降りてこないように狩っていたのだが、教区長によると先日強大な魔物が現れたとの報告があがったらしい。すでに討伐に向かった神父が2人やられている。念のために自らも剣を携え、カソックを脱いで動きやすい服装に着替えると、クライヴを連れて黒の森を目指した。
月明かりの届かない森の中は暗く、鬱蒼と繁る緑が足取りを重くする。それでなくとも、先ほどからビリビリと魔物の気配が肌を撫でているのだ。五体無事では帰れないかもな、と最期の一服のつもりで煙草に火をつけた。
「シド、こっちだ」
「ん」
クライヴの青い瞳が暗闇の中で輝いている。正しく悪魔らしい姿だ。手をとられうねる獣道を進んだ先、開けた場所に出ると、突然地面が揺れ出した。
「うおっ…」
「来るぞ、構えろ」
思わず地面に膝をつき、なんとか腰から剣を抜くと、クライヴは大剣を手に泰然と構えていた。男が睨みつけている前方の木々が大きく揺れだした。とてつもなく大きな何かがこちらへ向かってきている。ごくりと唾を飲み込むと、バキバキと木々を薙ぎ倒しながら、四つ足の巨大な魔物が姿を現した。
「なッ…なんだコイツ!」
「……フレキオスだ」
見上げるほどの巨大、千切れた鎖を引き摺る太い脚に大鎌ほどもある鋭い爪、そして狼のような姿に相応しい発達した牙の隙間からは低い唸り声が漏れ出ている。体勢を立て直して相対するも、勝利の算段なんてとてもつかない。
「こんなの一介の神父が倒せるわけねえだろ!」
「もう目の前なんだ、やるしかない」
魔物が大きく吠えると同時、クライヴが腰を落として素早く間合いをつめた。振り下ろされる前脚の一振りをかわして横っ腹を斬りつけるも、見た目以上に硬い皮膚に阻まれて深くは入らない。援護のために得意の雷魔法を放つが、耐性があるのか、大したダメージは入っていなさそうだ。
「(厄介だな、魔法耐性が高すぎる)」
振りが大きい分、攻撃は避けやすいが、一向に致命傷は与えられず、こちらの体力ばかりが削られていく。クライヴもつかず離れずの距離で善戦してくれているが、だんだん焦りが見えはじめている。
「クソ喰らえだ!」
最大の魔力を込めた雷をフレキオスの目を狙って放つ。少しでも視界を奪えば戦いやすくなるはず。狙い通り右目を焼かれた魔物が叫び、我武者羅に前脚を振り回す。予測できない動きに反応が遅れ、その場を伸びのいたが一歩遅かった。鋭い爪が脇腹を抉る。
「ッぐあ……」
「シド!!」
大木へ背中を強く打ちつけて地面に叩き落とされる。脇腹が燃えるように熱い。
右手で傷口を抑えるが、傷が深くどんどん血が流れ出していく。必死の形相で駆け寄ってきたクライヴが傷をみて顔を顰めた。
「シド!しっかりしろ」
「ッ、逃げろ…」
「何を…」
「いいから、お前だけでも…」
クライヴに抱き起こされ、背後の大木に寄りかかる。怒り狂った魔物は獲物に狙いを定め、一歩、また一歩と近づいてくる。この命と引き換えの一撃ならば、あるいは道連れにすることもできるだろう。
「早く、行けって…」
「何言ってる!」
ともすれば泣きそうな顔で側を離れない男に苦笑する。悪魔なんだろ、なんでそんな顔してんだ。鉛みたいに重い腕をなんとか上げて、軽く頬を叩いてやる。
「弟、探してんだろ。こんなところでくたばるなよ」
クライヴは信じられないものを見るように目を見開く。そうだよな、悪魔を助ける神父なんて聞いたことないよな。だが、この優しい悪魔に絆されてしまったのだ。仕方がない。教会を訪れる子どもたちや、老人たちに優しく接する姿を見てしまった。膝の上で眠る子猫を愛でるいとけない笑顔を知ってしまった。クライヴという存在を、こんなところで失うのはどうしようもなく惜しかった。
クライヴはグッと唇を噛み締め、俯いた。吐息が震えている。悪魔は泣かないはずだ。
「……させない、そんなこと」
「クライヴ?」
「呼んでくれ」
再び顔を上げた男の顔は決意に満ちていた。青い瞳が強く輝き、その奥でゆらゆらと炎が灯っている。
「なに……」
「呼んでくれ、俺の名前…真名を」
真名を明かすということは、契約において全てを主人に明け渡すことと同義だ。使い魔は本来持つ力のすべてを解放し、主人はその力を意のままにすることができる。悪魔としての自由を一切放棄することに他ならないため、悪魔は自分の真名をひた隠しにするものだ。
「クライヴ、おまえ……」
「シド、呼んでくれ」
クライヴが小さく、真名を告げる。まるで暗示にかかったように音をなぞると、青い瞳の輝きが増して、男の身体からぱちぱちと小さな火の粉が舞い始める。
やがてクライヴは立ち上がり、フレキオスに対峙すると、大剣を背中に収めた。
「もう一度」
背中を向けたまま、クライヴが静かに告げる。月明かりを浴びて神々しささえ感じる男の名を呼ぶ。
「イフリート」
途端、目の前が真っ赤に染まり、腕を翳した。この男を呼び出したときと同じ、いやそれ以上の火柱があがる。黒炎は空を貫き、あたりを煌々と照らした。そして、黒炎の奥から姿を現したのは、溶岩のような体表から炎を吹き出す悪魔だった。クライヴ…イフリートが大きく吠える。
そこからは圧巻だった。
突如姿を現した大型の悪魔を前に、フレキオスは引かず立ち向かった。イフリートは体躯に見合わぬ身のこなしでひらりひらりとかわしては、鋭い爪や強靭な尻尾、そして全てを焼き尽くす業火で目の前の獣を一方的に蹂躙していく。フレキオスの全身の至る所から血が吹き出しては、イフリートが生み出す熱で即座に蒸発していく。だというのに、いま感じるのは包まれるような暖かさだけだった。この苛烈な悪魔が、主人を守っているのだ。
赤黒い鋭い爪がフレキオスの前脚を砕いた。地に倒れ伏した悪魔の首にイフリートが噛み付くと、背中から炎が吹き出し、まるで羽根のように広がっていく。二対の獣の身体を炎が包み、断末魔の叫び声をあげる様はまさに地獄だった。あまりの眩しさに目を開けられずにいると、そのうちひとつの獣の気配は灰のように消えていった。
「シド!!」
人の姿に戻ったクライヴが駆け寄ってくる。その背後にはもう何もいなかった。
「傷を見せろ」
先ほどまでの苛烈な炎はすっかりなりを潜め、まるで仔犬みたいな泣きそうな顔をしている。面白いやつだよ、お前ってやつは。
「ッグ……」
「…傷が深い。教会に戻ってたら間に合わない」
抑えていた手を無理やり退けられて酷く傷んだ。悔しげに唇を噛んでいた男は、しかしすぐに顔をあげると片腕を俺の口に噛ませてきた。
「んぐ」
「焼く。痛むぞ」
何だって?頭が理解する前に、脇腹に猛烈な痛みが走った。
「ーーーーッ!!!」
「すまない、耐えてくれ」
痛い!痛い!熱い!痛い!
我も忘れて噛みついたクライヴの腕から血が滲んでいる。ガクガクと震えながら、我武者羅に振った腕がクライヴの頬を叩く。それでも男は腹に添えた手に纏う炎を止めなかった。やがて強烈な痛みに耐えきれず、視界が真っ黒に染まった。
* * *
「ん…」
意識が浮上し、目を開くと、そこは見慣れた自室の天井だった。酷く身体が重い。喉が渇いた。
首だけを動かして横を向くと、クライヴがベッドに突っ伏してすやすやと眠っていた。
「クライヴ」
「ん……」
「クラアァイヴ」
「んん………、ッ、シド!」
がばりと身を起こした男は、すぐにふにゃりと相好を崩した。
「よかった…目が覚めたか…」
「身体が重てえよ。水くれ」
「分かった」
水差しから注がれた水をクライヴの助けを借りて少しずつ飲み込む。悪魔らしくもない甲斐甲斐しさだ。ぽつりぽつりと男から聞いた話によると、あの後気絶した俺を抱えて教会まで戻り、教区長へ連絡を入れてくれたらしい。報告を受けた教会からすぐに治癒魔法を得意とする神父が飛んできて治療を施してくれたので、怪我はもうおおよそ塞がっている。ちなみに、教区長には使い魔を呼び出していることはとっくの昔にバレていて、有用な限りは見逃されている。
「殺されると思ってた」
「悪かったよ」
神父なら人間か悪魔かなんて一目見ればわかる。教会に悪魔がいればその場で処分されるのが普通だ。それでもなお己のために教会へ連絡をいれたのだ。不満げな男の柔らかい髪を撫ぜると、途端に眉間の皺が和らいだ。
「…ありがとな、助けてくれて」
「……もう、一人で死にに行くようなことはしないでくれ」
己の何がここまでクライヴを献身的なまでに絆すことになったのかはとんと分からない。元々の性格もあるのかもしれない。不貞腐れながら側を離れようとしない男の髪を、腕が疲れるまで撫でてやった。
「なあ、ずっとここにいなくてもいいんだぞ」
「別に」
傷は塞がったものの、使い魔の真の姿を使役するほどの魔力と血を失ったため、しばらく教会を閉めることになった。回復に専念するため、一日のほとんどをベッドの上で過ごしているのだが、なぜだかクライヴもずっとぴったりくっついているのだ。微睡から目覚めた時、俺の腕に背中をつけて眠っていることも多い。
「ここにいたって暇だろ」
「……離れられないんだよ」
「はあ?」
「魔力足りないんだ」
ああ、それでぴったりくっついてたのか。使い魔は主人から受け取る魔力で現世にその姿を保っている。強大な力を使えばそれだけ魔力を使う。俺が先にへばっていたから、使った分の魔力を満足に補充できず、側にいることで少しでも俺の魔力を取り込もうとしたのだろう。
「そりゃ気付かず悪かったな。補充するか?」
「えっ…いや、でも……」
「休んだからもう大丈夫だ。遠慮するもんでもないだろ」
「……分かった」
身体を起こしたクライヴに袖を捲った腕を差し出すのと、クライヴが衣服をといて全裸になったのはほとんど同時だった。お互いの頭の上に疑問符がとんでいる。
「………何だこの手は」
「いや、なんで裸になるんだよ」
「補充するんだろ」
「……何で補充する気だ」
嫌な予感がする。きょとんとした男は見事な筋肉を晒して首を傾げた。
「何って、精液から」
思わず顔を覆って天を仰いだ。
「お前は淫魔か!?」
「いっ……違う!」
「血でいいだろ、血で!!」
「えっ」
血から補充できるのか?とばかりに目を見開く男に頭痛がした。前の主人はどうやら悪趣味な人間だったらしい。イフリートを召喚できるだけの魔力を持ちながら残念なことだ。
顔を真っ赤にして再び衣服を纏ったクライヴが膝でにじり寄ってきたので、サイドテーブルにしまっていたナイフで軽く手首を斬りつける。
「……失礼」
「お好きなだけどうぞ」
おずおずと上目がちに手を取り、流れ出る血をぬめった舌がなめとっていく。皮膚の薄い部分をざらざらとした舌が舐めるのに、腰のあたりがぞわりと疼いた。この男は子犬みたいな顔をして、なぜだか肌を暴きたくなるような色気を纏っている。悪魔には似つかわしくないほどの優しさをもつ男だから、こういうところにつけこまれたのだろう。
頬を薔薇色に染めて、夢中で血を啜る男を観察する。足りていなかった魔力をとりこんで、瞳の青が濃くなっていく。
「…もういいのか?」
「ん、ご馳走様」
口元の血を拭い、満足そうな男を見遣ってから手近な布を手首に巻きつける。するとクライヴがとなりにもぞもぞと潜り込んできた。
「おい、何してる」
「腹いっぱいになったから寝る」
「ここで寝るのか」
狭いんだが、という文句を無視した男はしかし、やわい黒髪を撫でてやればふす、と満足げに鼻を鳴らした。悪魔だと思ってたが、こいつは犬だったか?
やがて聞こえてきた規則正しい寝息につられてあくびをひとつこぼす。いい湯たんぽ代わりに男を抱き込んで寝ると、すぐに夢の世界へ落ちていった。
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入りきらなかった設定とか
クライヴ:
元天使だけどなんやかんやあって悪魔に堕とされた。大天使の弟にもういど会いたくて召喚に応じてる。
シド:
魔力が強すぎて使わずにいると暴走するから、消費のためこれまで何度か使い魔を呼び出してる。魔物を倒す稼業のほうが目的だからあんまり信仰心はないので酒も煙草も嗜む。
教区長:
バルナバス。ほう悪魔を使役して悪魔を退治するとは面白いやつだな、みたいな感じでシドに目を付けてる。
ジョシュア:
大天使。兄さんにもう一度会いたい。