キスの作法どうしてこんな話になったんだ。
オリフレムへ乗り込む前に、シドとガブとともにベアラーの救出の作戦をひとつたてていた。そのための作戦会議をまじめにやっていたはずだが、各々の立ち回りをあらかた認識合わせしたところで、カブの雑談がはじまったのだったか。やれここの娼館にいた子にまた会いたいだとか、男が顔を突き合わせるとほいほいこんな話題になるものなのか。
「なんたってあの子のキスが忘れらんねえよ…
天国みさせてもらっちまった」
「作戦の後その足で向かうんじゃねえぞ」
「分かってるってぇ!」
提供できる話題も賑やかす社交性も持ち合わせていないので、大人しく黙って部屋のすみに佇んでいたのに、急にぐるりとガブがこちらを向くものだからいささか驚いた。
「お前もそういう経験ねえの?」
「ない」
「すげねぇなあお前は〜!王子だったんだろ?
キスくらいあんだろ!」
「いや、ない」
「だろ?案外それがわす……え?キスしたことない?」
「ない」
事実を告げたまでだが、やや憐れむような二対の目が突き刺さって居心地が悪い。そんなにおかしいことなのか?腕を組んで居住まいを正し、かるく肩を竦めるにとどめると、ガブが後ろ頭をかいた。
「あ〜そっか……えっと、じゃ…俺は先に
乗り込んどくから」
「あぁ、気を付けろよ」
「りょーかい」
肩を叩いてシドの私室を出ていくカブを見送ると、わざとらしい咳払いが響いて部屋の中に視線を戻した。
「…なんだ」
「ただの好奇心なんで答えなくてもいい」
「煮えきらないな」
「王子なら指南役がいるもんだと思ってたんだが…違うのか?」
なんだそんなことか、と嘆息する。閨事なんてあの日々においては優先順位は最低と言ってもよくて、あまり仔細は覚えていない。
「そういうこともあった…と思う」
「煮えきらないな」
そっくり同じ言葉を返してくるシドに少し笑ってしまった。足元に視線を落として、理由もなくぷらぷらとつま先を揺らす。
「…俺はフェニックスを宿さなかったから、後継なんて期待されてなかったんだ。兵法とか航海術とか、そういう方が多かったし楽しかったよ」
「そんなもんか」
「そんなもんさ」
朧げな記憶を引っ張り出す。最低限の教育として、一度だけ年上の女性を宛てがわれたことがある。父上がせめてもの配慮をしてくれたのか、母上の手配した者ではないらしかった。
豊かにうねるブロンドを持つ美しく物静かな女性ではあったが、「教育」である以上、否応なく高められ、高める時間は正直あまりいい思い出ではない。あのときに接吻をしたかどうかもよく覚えていないが、多分していないだろう。
「…あんたやガブなんかはよく…えっと、そういう話をしているが」
「猥談ばっかしてるみたいに言うな」
「悪い。……そんな、いいものなのか?」
俺はあまり好きにはなれなかった、と素直な感想を述べると、ハッと乾いた笑いをこぼしてシドが煙草を咥えた。手持ち無沙汰なのでそばに寄ってちいさく掌に炎を灯してやる。
「…どうも。誰かに強制されてやるのと自分の意思でやるんじゃ、比べ物にならんだろうよ」
「そうなのか」
「そうなんだよ」
目尻に皺を寄せて笑うシドが顔に向けて煙を吹きつけてくるので、眉を顰めて手で払った。
「やめろ、煙たい」
「ふは、おぼこいねえ」
「どういうことだ」
肩を竦めるだけで答えてはくれなかった。
目尻に刻まれた皺や広い知見、そして誰も彼もを魅了するような懐の深さ。この男が実際いくつなのかは知らないが、これまで幾多の戦場を切り抜け、酸いも甘いも噛み分けてきたのだろうことはすぐに窺い知れた。
拾われた当初は気遣われながら、近頃は気安く揶揄われたりもするが、この男の傍にいるのはひどく心地がいい。すこしでも彼に近付きたい。同じ景色を見ることは叶わなくても、せめて背中を護るくらいはできるようになりたい。
とどのつまり、この男の生き様に惚れているのだ。おだてられればすぐに調子にのるガブと大差ない。気が付いたら口が滑っていた。
「……教えてくれないか」
「何を?」
「キスのしか、た…を……」
あぁクライヴ、なんて馬鹿なんだお前は。自分でもとんでもないことを言ってしまったのが分かって、内心頭を抱えた。ガブと大差ないだって?どの口が言うんだ。ガブは接吻を請うたりしない。
シドの方を見られなくて、机についた己の手甲に視線を落とす。…沈黙が痛い。
「……キスしたいのか?」
「……」
「俺と?」
「……し、たい…」
駄目だ、止まれ。そう思うのに、脳が認識する前に身体の奥底から言葉がまろびでた。いつだってそうだ。この男と話していると、己でさえも気付かずに胸の裡に眠っていたものが引き摺り出されてしまう。賢人ラムウの力にそういったものがあるんじゃないだろうか。
自分の口から出た言葉に驚いて固まっていると、ギシ、と床板を軋ませながら、視界の端にシドの履いているブーツが映って息をつめた。
「ほんとはな、好きあってる者同士でするのがいちばんなんだが」
「あっ…」
両手で俯いていたおとがいを掬われて視線が絡み合う。青みがかったペリドットの瞳は、見たことのない色を湛えていた。しょうがない子どもを慈しむような、獲物を前に舌舐めずりをする獰猛な獣のような。また一歩、シドが足を踏み出して距離が近付く。どくどく跳ねる心臓がうるさくて、彼にも聞こえてやしないかと、そればかりが気になった。
「目を閉じるのがマナーだ」
低く声帯を震わせるような声に、まるで魔法に掛けられたみたいに言われるがままそっと瞼を落とす。吐息だけで笑うのを意識の端でとらえたと思ったら、ふわふわとしたなにかが唇に触れて、下唇をやわく吸われた。
「ッ……」
なにって、唇に決まってる。反射的に持ち上がった右手は、けれどどうすることもできず、中途半端な位置で空を掻いた。
なんだ、これは。ただ唇同士が触れ合っているだけなのに、唇からびりびりとした痺れが身体全体に波及して、首の裏が焼けるようだ。唇を擦り合わせるようにして、何度も角度を変えてあまく吸われる。身体が熱い。喉元に心臓があるみたいにどくどくうるさい。なんだこれ、苦しい、息はどうしたらいい?
「鼻で息をしろ」
まるで頭の中をのぞいたみたいなタイミングで、唇が触れ合ったままシドがこぼす。唇になまぬるい吐息がかかってまた体温が上がった気がした。油断するとはしたなく息を荒げてしまいそうで、そろりと鼻から空気を押し出したら仔犬みたいな声が喉の奥で鳴ってまた身体が強張った。
腰が引き寄せられて下半身が密着する。自然と上半身が反って顎があがり、うまく息ができなくて更に苦しくなる。息苦しさに耐えきれず口をすこしあけて息を吸うと、そろりと口のうちがわにぬめった生温い舌が潜り込んできた。
「!?」
びっくりして反射でシドの肩に腕を突っ張り、舌で侵入者を押し出そうとすると、それを逆手にとって絡めとられた。いきものの温度をもつぬるぬるした粘膜が口の中を好き放題に荒らしていく。舌全体が擦れあって、腰がじんと重くなる。
「ンッ……!」
シドが息継ぎをするのがやたらクリアに聞こえて、なんだかとてつもなく厭らしいことをしている気分になる。歯列を丁寧になぞり、喉奥から手前に向かって粘膜の表面を撫でていく舌の動きにぞわぞわとしたものが背筋を駆け抜けて腰が抜けた。突っ張っていた腕で咄嗟にシドの肩に縋り、ふたりして体勢を崩してデスクに手をつく。
ゼロ距離で見つめあったまま、ふたつの荒い息が洞窟のような部屋の中にこだました。あと数秒、このまま視線をあわせていたら、もう後には戻れないような、危うい一線がすぐそこまで迫っている予感がする。近すぎてぼやけたペリドットのまんなか、瞳孔がまるくひらいて、夜のまぎわのような不思議な色に変わっていく。はく、とあえぐように唇がわなないて、どちらともなくまた唇がちかづいていく。あと、ほんの数ミリの距離。ふるえる吐息があわさって、そこから全身に熱が広がって、首筋に添えられた手が熱くてーーー
「ッ」
ストラスがばさ、と羽根をひろげた音にびく、と身体を震わせて、思わずふたりして止まり木を見やった。碧い瞳を室内の蝋燭に反射させながら、白くかしこい獣がくるる、と鳴いて首を傾げている。
湿度をあげた空気が霧散していく。腰に回されていた手がそろりと離れていくのを感じて、それがとてつもなく寒くてさみしいと思った。衝動で男の首に腕を絡み付かせて離れかけた唇を追いかけると、歯がぶつかってガチ、と嫌な音がした。
「ッ、い」
歯に挟まれた唇がじんじんする。シドの呻き声もほんのすこしの血の味も無視して、身体全体を押し付けるようにして唇を吸う。技巧もなにもない、ただ押し付けるようなキスに必死になっていると、宥めるようにぬるりと表面を舐められて腰が震えた。
「ふ……」
自分よりうすい身体にしなだれかかるようにして、ちゅ、ちゅ、と唇を吸う。落ち着かせるように、あるいは褒めるように襟足を撫でるシドの手が心地よくて、うっとりと目を閉じて感じ入る。革手袋に隔てられて温度が感じられないのがもどかしい。
先ほど男から与えられた口付けをなぞるように、ふれあった唇のあわいから舌を忍びこませる。つるりとした歯の表面を撫でて、ちょんと舌先をつつくと驚いたように奥の方へ逃げていった。ほろ苦い煙草の味が舌を痺れさせた。
恥もなにもかもかなぐりすてて、追うように舌を伸ばす。ざらりとした上のほうや縮こまった舌をなであげると、シドが喉の奥のほうで低くうめくのが口のなかに響いて気持ちいい。
追い立てられているときは息もつけないほどだったのに、なるほどこれは気分がいい。自分のペースで進められれば息もずいぶんしやすかった。そうしてちょっと調子にのって、刈り上げられたうなじのさりさりとした音を楽しみながら愛撫していると、ジュッと強く舌のなかほどを触れて背筋を電流が駆け上った。
「ンッ…!」
思わずうすく目を開くと、獰猛な光を湛えたペリドットの瞳と視線が絡んで、どっと全身の毛穴が開いたように熱をあげた。
見られていた。ずっと。
翻弄されるがまま熱をあげていたのも、はしたなく舌を伸ばして夢中になっていた様も、ぜんぶ。
「んあっ、う…!」
横暴を叱るようにじゅぷじゅぷと水音をたてて舌を扱かれて腹の奥がぞわぞわ騒ぎ出す。とろりとした粘度のたかい唾液が顎を伝って、お互いの髭を濡らしてはもみくちゃになって糸を引いた。負けたくなくて、舌を引き抜いて吐息ごと飲み込むように口をあわせる。
もはやマナーも技巧もなにもない、まるで獣になった気分だった。お互い息をあげて苦しさにあえいで、視線をあわせたままがっしりと頸と腰を掴んでめちゃくちゃに舌をあわせる。ふたりして足を縺れさせながら、相手を打ち負かそうと躍起になっていた。
「ッ、あ、うわ…」
膝裏になにかがぶつかって、そのまま尻もちをつく。衝撃を覚悟したが、果たしてそこはシドのベッドで、ギシリと音をたてて柔らかく受け止めてくれた。しかし、不意におとずれた下半身からの違和感に喉がきゅうと鳴る。
「うあッ…」
「ッ、く…」
ふたりして荒い息のまま、そろ…と視線を下げた。もつれて絡み合った脚のあいだ、ふたりの下衣の前立てが隠しようもないほどにテントをはっている。
「………」
「………」
隠れ家の喧騒がとおくに響いて、薄暗い部屋のなかはひどく静かだった。視線をあわせて、しかしふたりとも困り果てて口を噤んだ。
ああ、誰か教えてくれ。こんなときどうしたらいい。
ようやく静かになったふたりに満足したのか、止まり木のストラスがゆるりと羽根を拡げて欠伸した。