あえて愚かで居られる場所職業殺人者から手を洗った数年後、私は郵便配達員として働いていた。殺しを辞めた日常はただただ静かで穏やかであるが、未だに小説の続きは思いつかない。
のんびりと日々が流れていき、まるで先の見えない長い長い線路を歩いているようだった。
仕事が終わり、私が自宅へ向かい始めたのは夕刻の頃だった。いつもと変わらない帰路を歩いた。
すると、私の後ろから小さな毛玉が続いた。
「迷い猫か?」毛玉の正体は三毛猫だった。
街を漂っている猫はよく見るが、三毛猫に遭遇するのは初めてだった。
猫は落ち着いており気品があった。
私が見つめると猫はニャアンと鳴き、私の一歩前を歩き出した。少し進むと振り返り、突っ立ったままの私を見てもう一度鳴いた。
私はこの三毛猫について行くことにした。
しばらく歩いてから、猫は通りを折れ、狭い路地へと足を踏み入れた。その後を私が続く。
そこには夕陽も届かず、一足早く夜の気配がうずくまっていた。その路地を白い光が切り取っていた。店の看板だ。猫は立ち止まって上品に座り、目の前の扉を見てから私に振り返って再び鳴いた。私は扉を開いた。
「ここは?」
私が訊ねるが相手は猫だ。当然回答は無く、今日何度目かの鳴き声が返ってくる。
ここは何の変哲もないただのバー。何故この猫はこんな所に私を連れてきたのか。
店内はひっそりとしていた。秘密の通路を思わせる、狭く急峻な階段を降りると、まず音楽が聞こえてきた。錆びた音色のジャズ・ナンバー。その曲のおかげで、一段降りるごとに、まるで別の世界へ踏み込んでいるような感覚がした。あるいは実際に、この店は外の世界と較べて別世界として存在しているのかもしれない。
開店したばかりのせいか、店に客はいない。
薄暗い証明に照らされて、店内の全てが黄褐色の海底に沈んでいるかのようだった。カウンターの向こうで杯を拭いていたバーテンダーが、まず三毛猫を見てから私を見る。そして夜の空気に溶け込むような声で「いらっしゃいませ」と言った。
猫はバー・スツールへしなやかに飛び乗ってそのまま座った。連れられるように私も隣へ腰掛けた。
私がギムレットを注文し、目の前に杯が運ばれた。
それからしばらく、時間が流れた。
音楽が流れ、私が杯を傾け、カウンターに置いて、猫が毛繕いをして、また時間は流れた。
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「次はいつ集まる?」
数年後のある夜。死にたがりからの問いかけに、私は動作を止めて、太宰を見た。
太宰と二人で酒を飲んでいると、自分が迷い犬のようにもがき続けている事を忘れられるようだった。
夢という長い線路を進むことを忘れたいなんて思わないが、ときに立ち止まって、たわいの無い話をしながら酒を飲むこの時間が、私にはとても魅力的に感じた。
この場所の真の価値、なんて言ったが、たまには私も正しいことを言う。
カウンターで寝転んでいる三毛猫は目を細めた。まるで微笑んでいるように見えた。