第三者目線でPC写経するやつ(ざもえ) 真っ白な雪景色に沈んでいる。天を見やれば厚い雲がひしめき、その向こうにうっすらと陽の輪郭が見えた。この冬、白き天地に境目らしいものといえば、黒い棘のように聳える木々と、ひとの営みだけだった。
人気を忍んだ山間、男は仕掛け罠の様子を見に来ていた。兎の足を絡めとるはずの鉄輪は宙ぶらになっており、あたりには獣の足跡すら見つからない。冬を越す糧に、大きな不安がある訳ではない。しかしこの雪深い日に限って、いや雪深いからだろう、足に難儀した者を一晩泊めることになった。男は肩に積もる雪々をあかぎれた手で払うと、次の仕掛け罠まで雪沓を繰っていく。
泊めてくれと戸を叩いたのは、年若い白髪の男だった。腰に太刀を佩く姿だったが、浪人と呼ぶには妙に小奇麗で、戸を開けた妻が目を見張っていたのを覚えている。聞けば江戸で遊び惚けたついでにここまで出掛けにきてしまったのだと、嘘か真かわからないことを宣うものだから矢庭に戸を閉めようとしたところ、それを止めたのが我が子だったから堪らない。瞬く間に子と妻の懐に入ってしまった白髪頭に舌を巻き、すごすごと雪のなかへ逃げてきたようなものだった。
さて、と壊れた仕掛け罠を括り直し、男は顔を上げる。なにやら鈴の音がする。このような山のなかに……。寒さとは違う肌の粟立ちに気付きながらも、ゆっくりと首を左右に動かした。するとどうだろう、藪を分けながら歩いてくる小さな背格好があった。
はじめ、この冬に山桜でも揺れたのかと思った。
ちらちらと舞う雪に紛れながらも、桜の影はこちらを頼りに寄ってくる。それが年端もいかない少女だと気付くまで、多少の時を要した。なにしろ少女のなりをした神か妖異かはたまた鬼か、それほどにこの雪景色には不釣り合いな出で立ちだったからだ。
とかく、見た目には巫女のように見える。豊かな桃色の髪には雪が張り付き、どれだけの長旅をしてきたのかが読み取れる。白い息を吐き、足元に狸を侍らせて歩く姿が段々といたたまれず、おおい、と声をかけていた。
「このあたりの猟師か」
鈴を鳴らしたような声に浮かされながら、そうだと返す。すると少女は妙なことを続けて言い出した。
「この山は獣が少なかろう。冬が静かすぎるのではないか」
男は思案し、しかし毎年こういうものだと答えた。言う通り、この山は冬になると途端に静けさを湛える。秋頃までは他の山々と同じく、獣どもが土を掘り返し、木の実や木の皮を食んでいたが、冬になるとどこかへと去っていくのが倣いになっていた。そういえば、ほか山の猟師は「この山の秋は騒がしすぎる」と言っていたか。
立ち話でそう伝えると、巫女はびいどろに似た青い瞳を伏せ、そうじゃろうなと呟く。
「祓いが必要やもしれぬ。悪いが、御前のところへ一晩泊めてくれんじゃろうか。一晩で済む話じゃろうから、夕餉も要らぬゆえ」
男は、このほっそりとした矮躯の少女がなにを言っているのか要領を得なかったが、この冬に放り出してもおけないとはじめから考えていた。頷きかけるが、もし、と了承を得ようとする。一晩の宿を求める男が既にひとりいるが、構わないかと。背格好を伝えると、もしやその男の名は槐と名乗らなかったかと笑うもので、男はたじろいだ。
「なに、知り合いじゃから問題ない。ここを歩いていけばいいのじゃな? 細君に声をかけにゆこう。……とはいえ槐も嗅ぎ付けておったとは、厄介なことにならんといいんじゃが……」
御前の仕事の邪魔をしたな、と通り過ぎる少女の肩を振り向く。冷たい風が足元を吹き曝すも、少女は身を縮ませることもなく歩いてゆく。あれは本当に同じひとなのだろうかと目を擦る男の足元で、キュウンと狸が鳴き、巫女を追いかけていった。あの巫女が神仏の使いではなくそのものであると言われても、今なら信じてしまえそうだった。
泊まりの客がふたりに増え、男はいよいよもって兎が一羽、欲しくなった。
はじめは、白髪男に我が家の糧を食い潰されては腹が立つからだったが、今はあの少女に精を付けさせたいという想いがあった。冬山から逃げ出せなかったのろまな兎がいなければ、獣が食い逃した柿でも生っていないかと木々の隙間に目を凝らす。と、黒々と並ぶ林のすきまに、ふらりと現れた男がひとり――足を滑らせて転げていった。だあああ! という木霊に、更なる雪が落ちていった。
「いや面目ねえ、銭がぜんぶ菅笠になっちまって。急なもんで、ありったけを着込んではきたが、そのほかを用立てるお足がよ」
あしというか、藁というか。男が掘り起こしたのは、年頃が同じくらいの浪人だった。見ているこちらが凍える軽装だったので、思わず自分の蓑を貸す。先ほどの少女といい、珍しくこの山に客人が多い。
浪人の着物から雪を落とすのを手伝うと、どうにもやはり、自分の体つきとは違っているように思えた。この強健さがあって、なぜこんな雪山にと見やれば、いやあと苦く笑われる。
「お師匠に呼び出されたんだが……そうだ、知らねえかい。白髪頭に赤い目の、変な角つけたニヤニヤ顔」
ぐ、と眉を寄せたのが分かったのだろう、浪人は心当たりがあるのだと承知して、丸めていた背を伸ばし一息つく。重たいものでも持っていたように腰を叩いた。
「いやあ、よかった。あとどれだけ歩きゃいいのかと……そちらさんに寄せてもらってるってんなら、俺もいいかね。ひとり増えたら邪魔だろうが、そこをなんとか」
この冬によく凍えず口の回ることだと思いながら、一応、渋る様子を見せつつ承知する。ただ、と巫女姿の少女がひとりいることを告げると、浪人は大仰に目を丸くしてみせた。
「そりゃ運が良い。花ちゃんも一緒とは……いや悪いのか? 逆に……。絶対なんかあるだろうがよ……あのじいさん、なんも言わねえで……」
さっと陰の落ちる顔を、よく変わるものだと眺めていると、浪人は急いで取り繕う様子を見せる。
「とにかく、山を下りようや。人に蓑、貸してちゃ罠も見回れねえだろう」
いつ自分が仕掛け罠を見ていたのだと話しただろう。恐らくはこの格好からそう思ったのだろうが、この男、なにかと目端が利く。
巫女の話をしてすぐ名が出てくるというのも妙な話で、もしや彼らは共謀してなにかを企てているのやもしれない――と、怖気が立つが、そんな肩を穏やかに叩かれた。
「お師匠様はまあその通りなんだが、巫女の方も馴染みでよ。戻るまで江戸であった話を聞かせようかい、そこそこ面白いぜ」
雪道に足を取られながらも、滑らないよう肩を貸す。……肩がすっかりぬくまる頃には、彼ら三人を山賊かなにかだと思った自分が、恥ずかしくなっていた。
その夜は妻子を交え六人で鍋を囲み、巫女の言う通り火を絶やさずに焚いていた。月が中天にかかる頃、泊まり客三人が雪を踏むのがかすかに聞こえたが、細氷かがやく時となっても彼らが戻ることはなかった。
それからというもの、この山の秋は穏やかに過ぎるものとなり、冬には獣の息遣いが、絶えず残るようになった。彼らが雪山を拓きなにを成したのかなぞ、一介の猟師には知る由もない。