冨岡さんが倒れたのは、不死川さんの葬儀を終えてからちょうど一週間後のことでした。
「おはようございます! お加減はいかがですか、冨岡さん!」
シャッと音を立ててカーテンを開けると、冨岡さんは部屋にさし込む朝の眩しさに目を細めます。
「今日は良いお天気ですよ」
「そのようだな」
柔らかな目元にはうっすらと浮かぶクマ。
「神崎には面倒をかけた」
すまない。申し訳なさそうな、静かな声が病室に響きます。
特別に親しい仲じゃなかった私は最近まで知りませんでした。水の柱であったこの方がこんなにも優しく、そして、悲しそうに笑むということを。青い瞳でベッドに横たわりながら窓の外にある高い空を見つめています。
朝の挨拶を終えて話すことがなくなり静かになると、窓の外から話し声が聞こえてきました。口元で息を白く曇らせながら診療の開始時刻を待ち、蝶屋敷の外に並ぶ人達です。
「俺に時間を割かなくてもいい」
「でも」
「いいんだ。神崎を必要とする人がたくさんいる。俺に構わないでくれ」
白い腕に繋がった管。ぽたぽたと垂れ落ちる栄養剤。
隊士だった頃よりも痩せた顔で笑う冨岡さんに、私はあなたからも必要とされたいのですと言うことが、どうしてもできませんでした。
*
隊が解散した後、私は医学の道に進みました。亡きしのぶ様の後を追いかけるように寝る間を惜しんで医学書を読み、器具に触れる。知識を得れば得るほど、しのぶ様の背中がどれほど遠くにあるのかを痛感する日々。
今度こそ人を救いたかった。鬼から逃げた罪滅ぼしがしたかった。怪我や病と戦う人々の支えになりたかった。
主のいなくなった蝶屋敷を町の診療所として起ち上げて数年を過ごし、医者の端くれとしてほんの少しの自信がつき始めた頃。つい先週、不死川さんが亡くなったのです。
神様がいたずらにつけた痣という寿命。奪われていい命なんてこの世にひとつもありはしないのに。
不死川さんがいなくなってしまった実感もなければ責めるべき相手もわからない。葬儀後に一日、また一日と時は進み、昨日、血相を変えた炭治郎が冨岡さんを担ぎ込んできたのです。
(アオイ!)
どうか助けてくれと言う炭治郎の悲鳴に近い声。聞けば、家を尋ねると玄関で倒れている冨岡さんを見つけて慌ててここまで駆けて来たのだとか。
(こっちです! 奥の部屋に寝かせてください!)
不死川さんのことがあったばかりなのに。まさか、この人まで。炭治郎も私も同じことを考えたと思います。
しかし、診察をすすめるうちに、倒れた原因は痣の寿命ではないということがわかりました。点滴で命を繋ぎ、目覚めた冨岡さんの口から最初に出た言葉は。
(・・・不死川は?)
いっしょに暮らしていた方の名前でした。乾いた唇が願うように、しなずがわと呼ぶのです。
原因は心でした。
大切な人と過ごした家に自分だけが残されるとはどんな気持ちなのでしょうか。ひとりぼっちで、食べることを忘れ、眠れず、意識を失ってしまうほどに泣き暮れる数日を過ごした冨岡さんに気の利いた言葉ひとつかけることができない。
私はただ、泣くことしかできなかったのです。
*
一日の診察を終え、日が暮れる頃。夕食を持って冨岡さんを訪ねると、電気をつけないままの病室は薄暗く、手付かずの昼食がベッドの横の台の上に置いてありました。
湯呑みの中で遠慮がちに減っている白湯の量が冨岡さんの胸の痛みの現れのように思えます。
「失礼します」
病室の中に入ってきた私を見て、申し訳なさそうに彼は笑いました。
「忙しかったようだな」
「いつものことです。もう悪いところなんてどこにもないのに、なんとなく不安だから診てくれと言う方もいるんですよ。そんな方の邪魔がなければ私の仕事ももっと早く終わるんですけどね」
「町医者ともなれば患者の小言や世間話に付き合うことも多いのだろうな」
「こちらとしてはいい迷惑ですよ」
手の付いていない昼食の横にはカステラの箱がありました。「俺がされて嬉しかったことをしてあげたいんだ」と、昼間に見舞いに来た炭治郎が言っていました。わざわざ遠くのデパートに行って買ってきたその高級菓子も、箱の封すら空いてはいません。
「医者は辛いか?」
夜になり始めた窓の外を見つめながら冨岡さんが私に聞きます。
「辛くない・・・とは言いません。嫌なこともありますが、回復された患者さんの笑顔を見る喜びの方が大きいのかもしれません。だから続けることができています」
「・・・そうか」
でも。と、冨岡さんは言葉を続けようとして、空気を濁すように微笑みました。何を言おうとしたのかが、なんとなくわかります。回復しない場合もある。人を看取ることの辛さを知らない鬼殺隊はいません。
「しのぶ様ほど優秀な医者にはなれませんが、お屋敷を継いだ私ができることはこれくらいなので」
パチっと電気をつけてカーテンを閉めると、冨岡さんがそっと口を開きます。
「・・・神崎。患った人間にとって何よりも辛いことは何だと思う?」
数秒考えて「わかりません」と答えると、冨岡さんは長い睫毛を震わせながら目線をシーツに落とします。
「病を抱えた人間は、孤独であることを何より辛く感じるのだと俺は思う」
静かな夜に溶けて消えてしまいそうな声でした。
私はこの時初めて、一人で生きていける強さを持った風柱様と水柱様が同じ家に暮らし始めた本当の理由に気付いたのです。ただ仲が良いのだと思っていました。でも違いました。
痣は病ではないけれど。お互いを孤独にしないために、あなた方は。冨岡さんはどこまでも穏やかに私へと微笑みます。
「病人だけではなく、きっと神崎の顔を見るためだけにここに通う者もいるだろう」
「そんなことは」
「それで良いんだ」
冨岡さんは、不思議な人です。
「神崎はここで必要とされている」
点滴がぽたりぽたりと落ちていく。
「今までもこれからもたくさんの人を救うはずだ。誰にでもできることじゃない。神崎はすごいな」
急に、喉の奥に込み上げてきた息苦しさ。
冨岡さん、あなたは。不死川さんと歳が変わらないあなたは。あといくらも生きることができないのに。命をかけて無惨と戦い続けた柱であった人が、どうして刀を握ることから逃げた私なんかの未来を勇気づけてくれるんですか?
穏やかに見つめられながら優しく語りかけられるだけで、涙が出そうになる。
「神崎? どうした?」
「・・・・・・泣いていません」
「俺は神崎が泣いているなどと言っていないが」
「・・・向こうを向いてくださいませんか。女性の泣き顔を見る男性はデリカシーがないのですよ」
「・・・・・・ふふっ」
「何がおかしいんですか!」
ふと和らいだその笑顔は。
「不死川にも言われたよ。てめえはデリカシーがねえんだよ、と」
炭治郎の手を取ったカナヲを思わせる、幸せな色をしていました。そして、それは儚く消え、表情が翳ります。
「・・・・・・死に際に不死川が俺に言ったんだ。恨むなよ、って」
自分の居場所を見失ったようなその顔を、私は知っています。
「・・・無駄話を失礼した。俺はもう大丈夫だ。明日にはここを出よう。このベッドも本当の病人に譲ってやってくれないか。世話をかけた」
夜食の乗ったトレーを乱暴に置いて、利き手を失くした左手を勢いよく両手で強く握ると冨岡さんは驚いた顔で私を見ました。
「・・・神崎?」
「・・・・・・何も大丈夫なんかじゃないでしょう」
ひんやりと冷たい。冨岡さんの手を温めるべき人はもういない。
蝶の髪飾りになって戻ってきたしのぶ様と、しのぶ様のいないお屋敷。生きていてほしかった。でも、鬼の消えた世界には恨む相手はどこにもいなくて、いくら泣いても涙は枯れず、泣いても、しのぶ様は帰って来きませんでした。
「大丈夫なんかじゃ、ないです」
大好きだった。大切な人を失くしたあなたが今、どれだけの寂しさと虚しさの中にいるのかが私にはわかる。痛いほどに。
「冨岡さん」
輝利哉様からも、宇髄さんからも、炭治郎からも鱗滝さんからも同居のお誘いがあったでしょう。
あなたはどんな気持ちで、不死川さんのいない家に帰ったのですか? もし、炭治郎が倒れたあなたを見つけずにいたらどうするつもりだったんですか?
鼻を啜り、涙をこぼしながら、私は息を吸い、声を張ります。
「ここにいていいんですよ」
私の出した大きな声に驚き、そして、青い瞳にほんの少しの弱さが灯る。
「出て行かなくていいんです。一人になろうとしないで、自分から寂しくなろうとしないでください。孤独は辛いって、今、冨岡さんが言ったんじゃないですか」
言いながらぐしゃぐしゃに泣いていたのは、今の冨岡さんに過去の自分を重ねていたせいなのかもしれません。
鬼殺隊になんて入らなければ良かったと何度も思った。死にたくない。もう泣きたくない。でも、そんなこと口に出せるはずがない。
どんなに強かろうと、人の心は案外簡単に潰れてしまう。このまま行かせたら冨岡さんは、何もかもを抱え込んだまま、一人で逝ってしまうような気がして。
「冨岡さんは、一人じゃない、」
私を必要としている患者がいると勇気づけてくれたように、冨岡さんを必要としている人がたくさんいる。
「私だけじゃありません、炭治郎もカナヲも、宇髄さんもその奥様方も、みんな、みんな・・・っ」
あなたがそこで笑っていてくれるだけで、どれだけの人が救われることか。感情に任せてぼろぼろと涙をこぼす私の話を黙って聞き続けて、ただ微笑んでくれる優しい人。
「俺は神崎のような歳下の女性にまで心配をかけてしまっているのだな」
「心配も、迷惑も、いくらでもかけてください。私は・・・っ、冨岡さんにも、必要とされたい、」
例え残された日々が少なくとも。医者としてできることが何もなかったとしても。
わあわあと声を上げて、冨岡さんの布団に顔を埋めて泣き始めた私の頭をずっと撫でていてくれました。本当に泣きたいのはあなたのはずなのに。
私が泣き止む頃、冨岡さんは、蝶屋敷に留まるとも、大丈夫だとも言わなかったけれど、ひとつだけ弱音を落とします。
「・・・会いたいな」
いくら願おうと逝く人をとどめることはできず、逝った人を連れ戻すこともできない。
叶わない願いを口にするその声は、相手をどんなに大切に思っているのかが伝わってくる、愛おしさであふれていました。