凌牙に丸め込まれるⅣの凌Ⅳ熱い舌が無遠慮に口内をまさぐる。突然水中に投げ込まれた子どものように息継ぎの仕方が分からなくなって、Ⅳは凌牙の胸を押し返した。
不満げに眉を寄せる気配がする。後頭部を支える手に力が入ったのを察し、負けじとさらに力を込めて身体を突き返した。
このままだと呼吸ができず死ぬ。Ⅳはサメでも熱帯魚でもないから、目の前の男と違って空気なしでは生きていられないのだ。
凌牙は珍しく早々に負けを認めたらしかった。最後にⅣの唇をちろりと一舐めし、名残惜しげに唇を離す。やっと口を開放されたⅣは、待っていましたとばかりに大きく息を吸い込んだ。頭がくらくらしている。半ば酸欠状態だ。いつもこうなのだった。凌牙に唇を押し付けられる度、毎度IVはこうして苦しい思いをする羽目になる。他にやりようはあると頭では分かっているのだが、いざとなると何故だか息の仕方を忘れてしまうのだ。
呼吸を整えて顔を上げると、元凶の男はすんと澄ました顔をしていた。それどころか、どこか責めるような色さえ混じった視線をこちらに向けているのである。なんでだよ。さすがにそれは腑に落ちない。むしろIVの方にこそ、目の前の男に言ってやりたい文句があるというのに。
「……いや、これはおかしくね?」
Ⅳは言った。とうとう言った。
ずっと思っていたことである。
「なにが」
凌牙は澄まし顔のまま、疑問を投げ返してくる。Ⅳは耐えきれず眉間に皺を寄せた。分かっているくせに、こんなときばかり物分かりの悪いふりをするのが小賢しく、非常に腹立たしい。
「なにがじゃねーだろうが。今のだよ、今の! なんなんだお前、こないだから!」
思わず語気を強めるⅣを、凌牙は面白くなさそうに一瞥する。ただそれだけだった。それから一度身じろいでソファに座り直すと、テーブルに広げたカードを再び弄り始める。まるでⅣが一人で騒ぎ出して、心底迷惑しているとでも言いたげだ。他人事のような態度にまた腹が立って、このままテーブルを下から蹴り上げてやろうかと思った。当然、ほんの少し思っただけで実行はしない。父が気に入っている、揃いのアンティーク家具なのだ。
凌牙がⅣの唇に自身のそれを初めて押し当てて来たのは、ほんの数週間前のことである。
その日も今日のように、他愛も無い雑談をしている最中だった。ふと目が合ったと思ったら、凌牙がずいっと顔を寄せてきた。「なんか近いな」と思った瞬間に、唇に温かいものが触れて、それが凌牙の唇だと認識する瞬間に舌がねじ込まれていた。今思い出しても恐ろしいほどの早技であった。しかしもしかすると、衝撃のせいで合間合間の記憶が飛んでいるだけかもしれない。
咄嗟に密着する身体を突き飛ばし、動揺しつつもその行動の訳を問うⅣに、凌牙は飄々と宣った。曰く、「友だちだから」だそうである。
そのとき、Ⅳの頭に一番最初に到達したのは「友だち」という言葉の響きだった。凌牙がⅣをはっきり友人と称するのはそれが初めてで、Ⅳはついうっかり、柄にもなく心臓を高鳴らせた。友だち。そうか、友だちか。友だちだから、凌牙は自分にこんなことをするのか。浮かれた頭でそんなふうに納得したⅣを、そのときも凌牙はすんと澄ました顔で見ていたように思う。
その後も同じようなタイミングで同じように触れられたが、段々とⅣの中に違和感が募ってきた。そして記念すべき四度目のキスで、とうとう気づいたのだった。いや、こいつが言っていることはどう考えてもおかしい。馬鹿にしてんのか。
「……ダチってのは、普通はこんなことしない!」
「ふうん」
「ふうん、じゃねえ!」
「だってお前、他に友だちいねえだろ。普通の友だちがどんなもんか分かんのかよ」
「ぐ……」
思わぬ反撃につい怯むと、凌牙はそんなⅣをふっと鼻で笑った。そりゃあ、友人と呼べる人間は数少ないが、知識すらないわけではない。一番そうであって欲しいと思っていた相手が突拍子もないことをしてくるから、自分の中の常識がぐちゃぐちゃになって翻弄されてしまっただけなのだ。
浮ついた頭を冷やして考えてみれば、凌牙の言っていることは最初から破茶滅茶だった。“普通”という表現を“一般的な”という意味で捉えるなら、間違いなく“普通”の友人はこんなふうに、顔を合わせるたびに唇を重ねたりしない。
悔しさにまた頭が熱くなる。馬鹿みたいな理由を飲み下してしまった自分にも、理解に苦しむ行動を繰り返すこの男にも、腹が立って仕方がない。しかし冷静になれば、どう考えたって悪いのは自分ではなく、目の前で他人事のような顔をしているこいつである。
なんと言い返そうか。口を閉じて逡巡していると、凌牙は手にしたデッキをテーブルに置き、手持ち無沙汰に彷徨っていたⅣの手を掴んだ。
「あっ、てめっ」
これもまた、ここ数週間で始まった謎の挙動だった。キスと同じように「友だちだから」と言い包められた、忌々しい記憶である。
自分のものより無骨な凌牙の指が、手首から指先までをゆっくりなぞる。指間腔を揉むように弄られて、電流が背筋を駆け上った。ぞわぞわして気持ちが悪い!
「や〜め〜ろ〜!」
今は流石のⅣにも分かっている。普通の友人は、二人きりで遊んでいても手を繋いだりしない。手の平を柔らかく撫でたり、指を絡ませたりしない。
だが、この行動の理由を深く考えたくはないのだった。考えたら最後、また水中に引き摺り込まれて、Ⅳは呼吸ができなくなる。なんとなくだけれど、それが分かっているからだ。
雑に手を振り払ったら、凌牙は舌打ちを一度響かせて、しかしもう手を伸ばしては来なかった。うんざりした様子で溜息を吐き、足を組み替えて背もたれに寄りかかる。二度の瞬きの後Ⅳを見て、呆れたように言った。
「もう良くねえか? そういうの、別に……」
「は?」
「なんかだるくなってきた……」
心底面倒くさそうに凌牙が呟く。
「だってお前も、もう分かってんじゃねえか」
投げやりな態度に、Ⅳはぎょっとした。一人で勝手に始めて、一人で勝手に何かを終えようとしている。それが何かはいまいち言葉で表現できないが、これが終わったらⅣにとって、何か都合の悪いことが新たに始まる予感だけはひしひしと感じ取ることができた。まずい。
そしてなにより、そんなのは無責任だ。散々振り回された己が報われない、という、謎の自尊心がⅣを立ち上がらせた。
「友だちだからっつって始めたんだから、そのスタンスは最後まで貫け!」
訳の分からない独自の理論で捩じ伏せようとしたのなら、途中で投げ出さず徹底的に意思を貫くべきだ。それが友人に対しての誠実な対応ではないのか、云々。途中から何を言っているのかⅣ自身すらよく分からなくなってきたが、凌牙はやはり呆れたような目のままⅣの話を聞いている。
「“友だち”を諦めるな!」
「なんだよその応援……」
凌牙が珍しく間延びした声で言い、欠伸を漏らす。
時刻は十四時。心地良い眠気が二人を誘う、天気の良い午後のことであった。