春が終わる頃には、既に日差しは厳しいものとなっていた。からりと乾いた風が部屋を通り抜け、汗を吸う。その開け放たれた窓の木枠へ顔を向け、老婆は寝台に横たわっていた。色の抜けた髪は簡単に三つ編みに結わえて纏め、麻の寝具の下に皺の刻まれた体をしまい込んで、薄く開けた瞼で日光を眺めた。
穏やかな午後の風景の中に滲む、ある仄暗さが、自身の影から発せられているのを老婆は知っていた。老いた体はもう、各地を放浪していた頃はおろか、数年前にできたことも出来なくなっていた。
そこへ不意に、軽やかに戸を叩く音と明朗な声が小屋に転がり込んだ。
「バーバラ、入るよ」
老婆が返事をする前に、籠と水瓶を抱えた少女が肩で戸を押して入ってきた。癖の強い、長い茶髪を揺らして、部屋へ入るや否や少女は矢継ぎ早に老婆へ話しかけた。
「おはよう、バーバラ。起きてる?おししょーは後から来るって。体、起こせそうならお湯沸かすからさっぱりしよう。ご飯は何か食べれそう?今日は果物もあるよ」
そう言う間にも少女は荷を机に下ろし、慣れた手つきで水差しへ水を注ぎ、籠から取り出した薬草の束を種類別に並べてゆく。慣れ親しんだ家屋の配置は体の一部のように、くるくると忙しなく動く少女に馴染んでいた。
少女の姿を小鳥のようだと思いながら、老婆は彼女を見ていた。老婆の体が思うように動かなくなってきた数年前から、この家の家事はこの少女と、時折姿を現す青年が担っている。はじめは月に数日、やがて週に一度、三日に一度と、その頻度は上がっていった。
「マニング」
戸棚の食料品の在庫を確かめている少女を、老婆がゆっくりと呼ぶ。
「なあに?」
「ちょっと、おいで」
自身を呼ぶ老婆の乾いた声は、いつもよりはっきりと耳に届いた。少女は首を傾げ、寝台へそっと近付いた。
「どうしたの、バーバラ。お師匠、呼んでくる?」
「いや、シャーウッドのことはいい。あんたに少し、話をしようと思ってね」
寝台の傍で膝をつく少女の手に、老いた手が重ねられた。髪を通り抜けた日光が木漏れ日のように若い肌を白く光らせていた。老婆を覗き込む顔には、ヒトでない瞳が右目に収まっている。
今から八年前、彼女は友人の青年に連れられ、この村へやって来た。そのときから随分と、丈夫に育ち、よく笑うようになったものだと、少女の手をさすりながら老婆は僅かに頬を緩めた。
その一方で老婆は、少女のことが気がかりだった。老婆は少女の向ける、育ての親であり魔法の師である青年への思慕が、本人の心と交わらないことを知っていた。
「あんた、今いくつだい」
「十三だけど…」
「そうかい。すぐにでも大人になっちまうね」
老婆の頭の中には青年の姿が浮かんでいた。今から四十年は昔の、諦観に満ちた瞳で笑う姿が。
「マニング、あんた、シャーウッドのことが好きだろう」
え、と少女が音を漏らすのと同時に、あっという間に、少女の顔が赤く染まっていった。唐突に真っ直ぐに、心の真ん中に投げ込まれた言葉を少女は上手く受け取ることが出来なかった。老婆は自分の手の下で縮こまった手を優しく揉んでやり、分かるさ、と目の皺を深くした。
「それが恋だ親愛だなんだってのはどうだっていいんだがね。マニング、あんたはあいつと一緒に居たいかい」
鳴る脈拍に心を揺らした少女の頭が、小さく縦に揺れた。
「お師匠、は、すき。お師匠のことが好き。も、もちろん、バーバラのことも大好き」
慌てて加えられた言葉に老婆が掠れた息で優しく笑った。ほんとうよ、と不安そうに少女が眉を下げて強調する。
「ありがとね。しかしあんた、言ってないんだろう、あいつには。………こわいかい、関係が変わるのが」
「……………。あの、ね」
老婆の手の下でもじもじと両手を動かし、少女は何度か言葉を飲み込んだ。いくつもの色が彼女の胸の中を行ったりきたりしていた。
「わたし、お師匠といるとあったかくて、でもさみしくて、それからこわくなるの。私は、あのひとが頭を撫でてくれたらなんだって大丈夫になれるのに。私は手ひとつ握って、あのひとを大丈夫にしてあげることができない……のが、かなしい。笑うとき、焚き火にあたるときなんかに見える目の陰が、さみしくて、それに触れさせてくれようとしないのが、こわい。………いつかふっと、どこかへ行ってしまいそうで」
頬の高揚は静かに赤を潜めて、入れ替わるように物憂げな影が少女を包む。その様子を見て老婆は深い吐息をついた。
「……相も変わらず唐変木だな」
「へ?」
「あたしがもっと若けりゃね、今のを聞いてあいつの頭をひっぱたいてやるとこだよ」
「だ、だめ。だめだよ?」
少女の動揺など老婆の耳には入らないようで、緩く首を振って老婆は話し続けた。
「あいつはあんたが思っているよりずっと鈍い。自分がどんな顔をしているかさえ分からないような男だ。ひっそりと思ってるようじゃああいつはね、大人になったあんたをひとり立ちさせるだろうね。伝えるつもりがあるならハッキリ言ってやりな」
「そんなこと言ったって、だって」
「それからね、マニング。大人になる前に、あいつの昔話を尋ねるといい。むかし……あたしは少しだけ聞いたことがある。………あたしはその時咄嗟に、あいつの話を受け入れることができなかった」
「バーバラ……?」
少女が戸惑いの声をあげる。老婆と青年とが、昔、共に放浪していたということを少女は知っていた。師から魔物や野草について教わるとき、時おり話題になるその頃の話に少女はこっそりとむくれていたものだったが、今しがた聞いたことは全くの初耳だった。どうして二人が別の道に分かれたのかも、尋ねればぼかされていた。
「年寄りのつまらない話だ。あんたには無用かもしれないけどね、老婆心とかいうやつだ。向こうに行く前に若人のケツを叩いてやろうってね。まあ、取り敢えずお聞き」
「向こうへ行くなんて、そんな、バーバラ」
「あいつといた時間はあたしの方が長いさ。けれどね、重要なのは長さじゃない。マニング、あんたの行きたい道を行きな」
そう強く語る老婆の瞳の光に、少女はなにも言えなかった。老婆に握られた手は少し痛かったし、それだけの想いで語る彼女は一体、師匠に対してどれだけの後悔があったのだろうと、途方に暮れた。それと同時に、彼女が自分の命の残り時間を見積もって清算しようとしているのがひどく悲しかった。その感情が目に映ったのだろう、老婆は握りしめた少女の手を解放し、その皺だらけの手で少女の腕や背をさすった。
「ひとはいつか死ぬ。その順番があたしに回ってきただけだ。あたしは十分に生きた。それでも"こうしていたら"って選択が山のようにある。あんたは酷いところに生まれても、こうして今を生きている。折角の人生なんだ、後悔の残りそうなことはあまり…選んでほしくないんだよ」
「……わかった。分かったよ、バーバラ」
少女は老婆の気遣いが悲しかった。既に彼女は今世を諦めていると伝えられたに等しかった。
「……さて、マニング。あんた、あそこの椅子に掛けてあるマントを持ってきてくれるかい」
「?……うん。分かった」
老婆が指し示した先にあったマントは、深い緑の、大きなフードのついたマントだった。それを手に取りベッドへ戻ると、広げてごらん、と老婆が言う。
「……かわいい」
「そうかい。そりゃよかった」
広げてみると、身ごろに金の唐草模様の刺繍が施されていた。初夏の光が入る部屋のなかできらきら光るそれが、マントを手に取る少女の手に木漏れ日のような光を散りばめた。
「あんたのだ。持っていきな」
え、と少女が驚きの声をあげる。
「い、いいの?これ、糸とか、高かったんじゃ」
「あんたの服、基本的にあいつの使い古しか手直ししたものじゃないか。年頃の女の子なんだ、ひとつくらい新品のものを持ってな。なに、糸は商人から値切ってやったからそう高くはついてない。店で売ってるようなもんじゃなくて悪いがね」
ほんとに?いいの?と確認を取りながらも、少女の声から喜びが漏れていた。マントを軽く身に纏い、自身の姿をくるくると眺める少女の姿に、老婆の頬が緩む。
「ありがとう、バーバラ!」
声を弾ませて少女がそう言った丁度そのとき、家の戸がノックされた。
「バーバラ、マニング、いるね?」
その声にぱっと少女が振り向き、急いで扉へと向かう。少女の背に揺れるマントに縫い込まれた金糸が家の中に光を放つ。その煌めきをベッドから眺めて、老婆は満足そうに笑った。