悪夢を吹き飛ばして「神崎は可愛いから、苦労しないね」
先生がそう言ってきた、放課後の教室の匂いを覚えている。まだ夏が遠くて、涼しい風に乗って春のにおいが鼻をくすぐっていた。
私は頭があまり良くなくて、いつも補習で呼び出されていた。何度も消しゴムで消して書き直した回答用紙はくしゃくしゃになっていて、消しきれなかったシャーペンの跡とか、先生の赤ペンで書かれた素っ気ないピンとかが並んでいる。
私が手を止めたのをいいことに、先生は私の頭をくしゃりと撫でた。硬い皮膚の感触、同級生よりもずっと大きな掌の体温。
そのままその掌は頬を撫でて、私の手を上から握った。肌の感触を確かめるかのように、先生の指が私の手の甲をすりすりとなぞる。すこし、くすぐったい。
「いぶき、今日はもういいよ」
先生は2人きりのとき、いつも私のことを伊吹と呼ぶ。それがいいことなのか、ダメなことなのか、幼い私には分からない。先生が伊吹、って呼ぶ時、私に対して目をやわらげていた意味も、他の子を呼ぶ時よりも時間をかけてゆっくり呼んでいた意味も。
時計の針が18時半を指して、先生が手を離す。私は筆箱にシャーペンを片付けて、友達から誕生日プレゼントで貰ったファイルに回答用紙を入れた。解けなかったプリントが、何枚も溜まっている。帰ってからやらないといけない課題を考えて、瞼が重くなる。先生の補修で友達とは話せないし、私の世界は未だ、この教室と帰り道くらいだった。
重たい鞄を持ち上げて立ち上がる。先生が私の立ち去った教室の鍵を閉めてくれて、玄関まで隣合って歩く。他の生徒は部活動で遅くまで残っている人しかいなくて、廊下を歩いている人はほとんどいなかった。
上履きを脱ぐ後ろでじっとりとした視線を感じながら、外履きの靴を取り出してそれに足を差し込む。先生を振り返ればにこりと微笑まれて、もう一度頭を撫でられた。うっとりとした表情は教室で見る先生とは違う、どこか湿った温度を持っている。その顔から目を反らした。先生、ほかの生徒にそういうことしたら、セクハラって怒られちゃうよ。私はもう、慣れてるからどうだっていいけど。
私は「さようなら」と、ぺこりと頭を下げた。先生は軽く手を振って、私を見送る。背後にはずっと湿度のある視線を感じていた。
一階の教室の横を通ったら、窓から手が伸びてきて黒板消しをわざとらしく叩かれた。煙が一気に風に乗って吹き付けて、気道に張り付く。むせるように咳き込んでそちらを見れば同じクラスの女の子がこちらを睨みつけていて、続けて、職員室に帰ろうとする先生に目を向けた。……あのひと、やめた方がいいよ、なんて言ったら今度こそ本当にいじめられちゃうんじゃないだろうか。彼女は私と目が合った瞬間、分かりやすく取り乱して見せた。
「神崎さんごめん!気付かなかった……!」
「大丈夫だよ、ばいばい」
形式上の挨拶を交わして、さっさと校門から出ていく。白いチョークの粉は変な匂いがするし、喉と鼻の奥に張り付いて息苦しかった。早く帰って髪を洗いたい。鞄が重たく背中にのしかかる。アスファルトは固く私の歩みを反発するばかりだ。少しだけ、ほんの少しだけ、鼻がツンと痛んだ。
――と、思ったところで目が覚める。珍しく懐かしい夢を見てしまった。身体が怠い、熱い、重い。そういえば、私の身体は数時間前から熱を出しているんだった。
「さいあく……」
絞り出した声はかすれていた。最近までずっと大会で声を張り上げていたこともあって、疲れが溜まっていたようだ。とりあえず枕元に置かれたペットボトルを手に取って、1口含む。ごくりと飲み込んだその微かな衝撃だけで、爛れた喉がキリ、といたんだ。
こういう時、ひとり暮らしだと大変。料理をしない私の家には何も無いし、頼めるような友人も生憎いない。仕方がない、と理由をつけて、宅配アプリを開く。家族にはあまり使わないで欲しいと頼まれたがこんな時くらいは許して欲しい、なんてったって風邪を引いているのだから。
お兄ちゃんごめん、ちゃんと置き配で頼むから許して。私はその画面をスクロールして、ドラッグストアで一通りをカートにぶち込んだ。
ピンポーンと玄関のベルが鳴らされる。オートロックの解除をして、ドアスコープから覗き込んでいれば、配達員さんが住所を確認しながらそれを置いて行った。耳を澄ませ、足音を確認してからドアを開ける。がさがさと音を立てながらすぐにその袋を玄関に投げ入れ、鍵を閉めた。はぁ、荷物を受け取るだけで疲れる。
少し身体の熱が上がるのを感じながら、その袋からゼリー飲料を取り出してすぐにふたを開ける。人工的なマスカットの甘い味が口の中に広がった。それを苦労しながら嚥下し、水で流し込む。一人でこんな時間を過ごすのは……寂しい、配信したい。
胃に物を入れたところで風邪薬を飲めば、プラシーボだっけ?少しだけ症状が和らぐような……そんなことも無いような。いや少し頭痛は引いたかも。流石お薬、文明の利器。
そのままベッドに倒れ込んで、スマホでSNSを開いた。一言「風邪ひいた」と投稿すれば、すぐさま心配のリプが飛んでくる。あたたかい言葉の羅列に、心の奥が安心していくのが分かった。
続けて、その投稿を見たのかネッ友からメッセージが飛んできた。短く大丈夫だと返せば、励ますような言葉が羅列する。返すのが面倒になり、スタンプで会話を終わらせてしまえば、「おやすみ」の後に彼女から連絡されることは無かった。いつもごめん、また遊ぼ。
メッセージ一覧を眺めていると数日前のやり取りが目に入ってくる。奇妙な出会いを経て友人になったチカくんとの話だ。全部私の方から連絡しているそれに、思わず苦笑が零れた。彼は私の顔を気にせず率直に話してくれるから、居心地が良かったのを思い出す。
今までに出会った人は皆、結局私の顔が可愛いから優しくしてくれるんだろうな、みたいな人が多くて信用できなかったけれど、チカくんは違う。この人は多分、私じゃなくても同じように優しいのだろう、と、彼を良く知らないにも関わらずどこか確信していた。それが例え嘘だったとしても、こんなに上手に嘘を付けるのなら騙されていてもすがすがしいくらい。――彼の視線には、なまぬるい温度が含まれていなかった。全人類がみんな彼みたいに落ち着いていたらいいのにな。恋愛感情なんて無い方がいいに決まってる。
気持ち悪い夢の余韻はいつの間にか落ち着いていた。身体はまだ熱いが、どこかそわそわしてしまうような不安感は無くなっている。なんだ?ヒーリング効果でもあるのか?チカくんのヒーリング効果について熱弁したらきっと「は?」って顔されるだろう。ちょっとだけ通話してくれないかな、今の時間はもうお仕事してるかな……。
柄にもなく彼のことを考えて、自然と笑みがこぼれてしまう。何気ない悪態を聞いて安心したかった。ふっと笑いを零しながら「バカかよ」と言ってくれる優しい声は脳内再生がいとも容易い。こんなに話したいと思う人は初めてだ。頭痛が引いていくのを感じる、彼は本当に特効薬なのかもしれない。次会った時は絶対にこの話しよう。
心地よい微睡みに包まれながら、目を瞑る。胸の奥がぽかぽかとあたたかい。意識が落ちる寸前で、今寝たらきっといい夢を見られるだろうな、と思った。