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    砂塵を一気に読みたい方向け

    砂塵 無人の部屋に、冬を纏った冷たい風が吹き込む。部屋の主は頓着の無い人間なのか窓は開け放たれており、物の少ない部屋を青白い月明かりが照らした。レースカーテンの繊細な影が、窓際の机に落ちる。
     色褪せたノートが机の上に鎮座していた。ほかの家具はすべて機能性に富んだシンプルな白一色の味気ないものだったが、このノートにだけはアンティークな装飾が凝らされている。おまけにしっかりと鍵もかけられているようだった。ノートの持ち主と部屋の主が別人であることは誰が見ても明らかだ。
     表紙にはとある名前が典麗な筆記体で刻まれていた。流れるインクの線から持ち主の柔らかな掌、繊細な手つきが感じ取れるかのようだ。その表紙を開けばきっと同じ字体できっちりと紙が埋められているのであろう。ページから微かにカモミールの花が香る。


    一章 ヘリオトロープ


     彼女は誰よりも美しい人だった。砂色の輝く長い髪、何よりも青く夜空を閉じ込めたような瞳、穏やかな微笑み。甘やかな大人の匂いがするひと。幼い頃、ごみ溜めに落ちていた絵本を思い出した。
     この世には本当に聖母が存在していたようだ。
     彼女─カリスさんは、きっとワタシが出会う人の中で一番美しい人だったのだろうと考える。いつでも淑やかで、それでいて芯の強く、意志のはきはきとした女性だった。初めて会った時から今までの全てで、彼女の意志の強さを感じ、ワタシはその遺志に常に従っている。カリスさんの人を惹きつける抗えない魅力は、死後も継続しているらしい。
     
     小学部一年、冬の出来事だった。研磨技術において天賦の才を持ち、優秀な成績を修めていたλに当時十六歳だったカリスが声をかけた。冬の風が冷たく這う廊下を艶やかな黒髪が通り抜ける。凛としたカリスの声が響いた。
     それは、カモミールの香り。
     
    「ワタシのパートナーになってほしいの。アナタの腕は素敵だわ、アナタに磨いて欲しい」
     大層普遍的な誘い文句だったが、私にとってそれは魅力的な提案だった。カリスは美しく、声色、笑顔も見てきた誰よりも優しい。なにより、カリスが見せてくれた青色の宝石、彼女のサファイアが、私の心を大いに魅了した。
     青。今までに見た何よりも鮮やかで、暗い、青。この石を私が、私だけが磨くのだろうか。あぁ、それならいいかもな。ちょうど宝を見つけてしまったようだ。見ていると吸い込まれてしまいそうなほどに深い青色が私を見つめて微笑む。胸が、心臓が、一際大きく波打った。カリスは私に手を伸ばした。少し荒れているがすらりと長く、綺麗に爪が整えられた指を瞳が捉える。
    「私でいいなら、磨かせてほしいな……」
     優しく伸ばされたなだらかな掌。私はその手を冷え切った金属製の左手で握り返すのだった。

     それからはひどく、あたたかな日々だ。カリスは私に居場所とふかふかのベッド、洋服、おいしいご飯、そして終いには身分を与えた。最初はそのように至れり尽くせりな状況を嫌がったのだが、カリスの意志を優先するならば自ずと尽くされるのも悪くないと思えるようになった。なにより彼女のココアは甘くて美味しかった。
     そうして半年が過ぎようとする七月十九日。暑さが身に纏わりつくような十五時。
    「あなたに名前をあげるわ。いつまでもナナシでは不便でしょう?」
     彼女は書類にペンを走らせる。「λ」。たった一文字、しかも記号。あまりに簡素で粗末だと誰かは言うかもしれない。それでも私にとっては大切な名前で、かけがえの無い自分だけのものだった。今まで、名もなき者として生まれ、名無しとして歩んできた私に、名前を付けてくれたのはカリスだけだ。(もっとも、名付けるのは一度きりなことが多いらしいが)
     私は新たな自分の名前を誇らしく思った。血まで真っ青なのではないだろうかと思うほどに青い宝石を生み出す彼女が、自分のために考えてくれた名前なのだ。あぁしかしながら、一瞬でも彼女の脳の思考回路を奪えたことが何よりも嬉しい。カリスは忙しい人だから、きっとこの名前もさっき適当に考えたものなんじゃないかと思う。それでもよかった、それが喜びだった。その日、新たな自分の名を多くの人に自慢して回ったくらいには嬉しかったのだ。
     
     カモミールティーで砕けたクッキーを胃に流し込む。カリスの香水と同じ花を使っているこの紅茶は、いい匂いだけどあんまりおいしくなかった。私はカリスの淹れる紅茶よりも、彼女が気まぐれで作ってくれるココアの方がよっぽど好きだった。
     ユリスがカリスに贈ったであろうジャムクッキーの大半は私のお腹の中に納まっていく。カリスはクッキーを私に食べさせるのが好きなのだ。今も彼女は本を読む傍らで私の口にクッキーを運ぶ。ナッツが芳ばしく、口に入れるとバターの香りがふわりと広がり、そこに少し酸味が強いブルーベリーのジャムが追い付いてくる。今日のクッキーはとてもおいしかったのだが、そんなことを彼の前で口に出せば嫌そうに顔を顰めて「キミにあげたんじゃない」というのは想像に容易い。どうやらユリスは私のことが嫌いらしかった。
     ……カリスがティーカップを持つ姿はとても絵になる。しゃんとした姿勢も、揃えられた指先も。仕草のひとつひとつが美しいのだ。爪の形までもが彫刻のように思える。人の生き様は行動に現れるだろうか、そうならカリスはこの窓の外に佇む一凛のユリのように強かで美麗なのだろう。
    「あら、どうかしたの?」
    「…あ、ううん、なんでもない」
     鈴の音が脳に響くと自然と背筋が伸びた。カリスは私を見つめて、真っ青な瞳ではにかんだ。

     まだまだ残暑の続く九月。外の天気は清々しいほどの晴れ。カーテンの隙間から日光が差し込み、本の背表紙を焼く。図書室で海が描かれた絵本を眺める。この絵本で描かれている海は(所詮紙なのだから当たり前だが)のっぺりとしており、鮮やかだがなんだか味気の無い色だ。
     本当に、カリスは海に似ているのだろうか。ユリスが口にしていた言葉を脳内で反芻する。カリスが海に似ている、それは青いからだろうか。彼女の排出するサファイアを見慣れた私には、彼女の生み出す青だけがこの世で唯一青を名乗っていい色なんじゃないかとさえ思える。今更海を見ても、綺麗だとは思えないのかもしれない。けれど海の傍にある光を受けて輝く砂浜には興味があった。カリスの薄い金色の髪は光る砂粒を集めたかのように思える。きっと、光る砂浜にカリスが立ったら、世界中の海の絵画は私の中で 全てこの記憶に塗り替えられてしまう。空想上の海はカリスの青でいっぱいだ。
    「きっと綺麗だなぁ」
     静かな図書室に小さい呟きが落ちて消える。
     海に行きたいと言えば、彼女は喜んで頷いてくれるだろうか。最近、彼女は家に呼び出される回数が増えた。休日を一緒に過ごすことも少しずつ減っている。カリスの家は有名な富豪らしい、きっと忙しいのだろう。
    「ごめんなさい、明日も留守にしてしまうわ」
     申し訳なさげに眉を下げて笑う彼女に、怒れる人間など居るのだろうか、否、居る訳が無い。
     ぱたんと絵本を閉じる。今日の夜はカリスが居たはずだ。それならアフタヌーンティーを振舞ってあげたい、最近になってカリスに習った紅茶の淹れ方を実践してみなければ。
     あぁそうだった、彼女が排出した石も磨くのだった。箱に雑多に詰められた、宝石になる前の石を思い出して口角が上がる。いち早く部屋に戻らないと。青色の背表紙を元あった棚に押し込んだ。

     今日はカリスと共に真っ白な礼拝堂を訪れた。カリスはこの国、アウローラの神を信仰している。……何が神だ。神様なんて存在しないのだと彼女に教えてあげたら、彼女は切なそうに目を細めて私の左腕を撫でた。右足の付け根が軋む。無機質で冷たい鉄塊。
     魔法によって動くこの手足は、神の力が無ければただの重い鉛と化す、とカリスが言った。神様がいるから宝石を生み出せる、とも。私にこんな試練を与えておいて、居なくなったら私が損をするだなんて、信仰する気も失せるに決まっている。ただ、カリスが祈るのであれば自分も祈っておこうと思うのも自然であった。
     着いてこなくても良かったのに着いてきたのは、一分一秒でも彼女のそばに居たいからだ。彼女の隣で祈るついでに神様にちょっと悪態でもついてやればいい。神は私に彼女を与えてくれた、ろくでなしの神様も少しは役に立つことをするようだ。……カリスの寿命についてはもっと文句を言っておきたいかも。
     青の瞳が伏せられる。髪と同じ、砂色の睫毛がきらきらと輝いた。新雪のような肌がステンドグラスの光をなめらかに受け止める。ぼう、と意識がそちらに向くが、見惚れるのはこの位にして台座に向かって自分も指を組み、目を閉じる。脳の熱を冷ます。─私は祈る。
     どうか
     どうか、これからも今の平穏が続きますように。幸せがカリスを包みますように。私が彼女の隣にいれますように。
     祈る。祈る。祈る。


    二章 ニーチェ


     神は、なけなしの祈りすら嘲笑を携えて拒むのであろうか。

     石が飛び散る光景、怒号、ガチャガチャと無理くりに義肢を外される感覚。痛い、痛い、無い腕が悲鳴をあげる。最悪だ、最悪だ! 彼女の最期の瞬間をワタシは覚えていない。否、いられないのだ。思い出せばまた身体が震えだし、手足から血の気が引いて立つのもやっとになるはずだ、そうに違いない。もう二度と思い出したくない。ワタシには鮮烈な青と彼女の願いだけが記憶されているのだと信じたかった。
    「愛しい人よ。あなたの腕の中が私の世界だ。私とあなたが溶け合って、過去を埋められるその日まで」
     微睡むゆうべに口ずさんだ詩、彼女のあたたかな掌、はにかむ青の瞳の全てを己から奪った神よ。なぁ、平穏なんてまやかしだったな。あぁ、やっぱり、やっぱりそうだ。神に祈ったワタシが愚かだった、いいや、愚かなのはワタシだけではなく神もだ。こんなことをする神は、最早神とは言えないだろう。愚かな神なんて信じない方がいいの。
     
     ワタシの世界の神は死んだ。


     
    【十年前の八月六日 十四時五十九分】

     洞穴で一人の少女と死体を発見した。一つの死体の周囲には青い宝石が飛び散っている。全て雑に投げ捨てられているかのようだ。七月二十八日から行方不明になっている生徒の宝石と酷似。その死体を行方不明のユウェルの生徒と判断。生前に見た輝く砂浜のような長い髪は首元でざっくりと切られている。切られた髪は売られたのか、それとも捨てられたのか。洞穴の入口に光を反射している長い髪が落ちていたのを思い出す。
     顕になった首に、血飛沫が舞っている。目を覆いたくなるほどに痛々しい。背中を何回も、何十回も刺されたのか服は赤黒く染まり無惨にも無数の穴が空いていた。酷い有様だ。肉体は皮で辛うじて繋がっているようにも見える。……この死体を動かせば薄い皮が途切れ、肉片が落ちる。そう悟った。死後何日か経過しているようで血生臭さよりも腐敗臭が鼻をつく。洞穴の岩壁には血がこびりついている。しかしながら、青い海のような石に囲まれて、凄惨な現状に反して穏やかな顔で眠る姿は一種の芸術作品のようにも見えた。
     その死体に寄り添うように少女が倒れ込んでいる。微かに息をしており、肩が規則的に揺れているのが分かる。その少女には、あるはずの左腕と右脚が無い。同じく、二十八日から行方が分からなくなっていたアルティザンの生徒と判断。義肢を身につけていたはずだが、誰かに壊されたのだろうか。無理やり外されたのか、丁度そこにあるべきものの無い部分が赤く腫れている。そういえば、前に見た時は青みがかる程に黒く艶やかな髪をしていたように思う。だがその頭は見れば見るほど白く、砂で塗れ酷く汚れている。髪を耳にかけ顔を見る。長いまつ毛に縁取られた双眸は固く閉じられており、深い眠りについているようだ。
     この子は、生きている。
     静かに抱きかかえる。起きる様子はなかった。端正だが、未だあどけないその顔には酷い隈と痣が色濃く残る。寝るまで涙を流していたのか、涙の跡に砂がついている。手には小さな銀色の鑢。そして、血だ。その小さな手はべっとりと赤に染まっており、爪の先まで濡れている。絵の具に手を突っ込んだかのように真っ赤な手。思わずため息が零れた。

     ――――――

     病室で目を覚ました。身体の至る所が痛い、重い腕も足も無い。黒かった髪は根元から白く染っているようだった。隣のベッドに彼女の姿は無い。……カリスの姿が、無い。
     身体の痛みも忘れて上半身を起こす。周りを見れど、周りを見れど、消毒の匂いで満たされるばかりであのカモミールは香らない。
    「……ありえない」
     信じられない、信じたくない、そんな事があっていいはずがないだろう。きっと、彼女はワタシよりも先に回復して……あの怪我で? あぁ、哀れな夢物語は終いにするべきなのか? ぽたりと久しく流れていなかった涙が溢れた。目が熱い、爛れてしまいそうな程に。景色は歪んで、白い布団には涙の跡が刻まれる。
     あの目に焼き付いた青色が何を意味するのかを知らないほど子供じゃない。血の匂いと彼女の香水の匂いが混じりあって、そして、吐き気を催すほどの衝撃。嗚咽に気付いた病院の先生が、ワタシの元への駆けつける。伸ばされた手をワタシは拒んだ、手を取れなかった。

     こわい。
     
     その開いた皮の厚い掌から、飛び出してくる恐怖。太い指がワタシの首を絞める、気道が締まりひゅうひゅうと呼吸の音が響く、それはナイフを手に取る、そしてカリスを。カリスを?
     青が視界を埋め尽くす記憶。酷い嫌悪感が身を襲って呼吸が浅くなった。喉の奥がしまって上手く呼吸が出来ない、息が吸えない、いや吐けない? 泣き止みたい心とは裏腹に涙は止まらない。酸欠の頭から直接垂れ流されているかのように、ぼたぼたと水が溢れる。これ以上泣いたら干からびてしまいそうな程に頬を伝う水に、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。あぁ、こんな時に、カリスなら。カリスなら涙を受け止めて、シルクのハンカチで拭うのだろう。でももう彼女は居ない、居ないのだ。ワタシの傍に、隣に、もうカリスは居てくれない。受け止めきれずに、呼吸はどんどんと浅くなる。
     発作を抑えようと、周りの人間が背を撫で、声をかける。どうしよう、何も耳に入ってこない。
     惨たらしいという言葉は、この時のために存在していたのであろうか。力任せに肉を割く音を、目の前の人間は聞いたことがあるだろうか。耳元で心臓の音が煩く鳴り響く。いない、いない、カリスはどこにもいない。茶色の目をした男性がこちらを見やる。そんな目で見ないで、カリスの青色を返して。はにかむ彼女の面影を求めても意味が無いことは理解しているのに、それでも求めることを止められない。
     「失礼します」
     ふと、ドアの開く音と共に、少年の声が部屋に反響した。

     聞き慣れたヒールの音、揺れるピアス、目を惹く深紅色の髪。その声は覇気のあるカリスの発音によく似ている。意識が現実へと戻された。ユリスは周囲の人間を一切気にも留めずにワタシの傍へと歩く。睨むようなアメジストの瞳と目が合った。彼は無言でこちらを見据える。ワタシが震えて声も出せない様子なのを確認すると、その目に憐れみが滲んで、深いため息が落ちた。
    「カリスは、死んだんだね」
     俯く顔からまた声が放たれる。先ほどの威勢は消え失せ、まるで幼い子供のように寂しい音が病室の空気を揺らした。ユリスに気圧されたのか、それとも彼の身分に委縮したのか、医者は何も言わずに突っ立っている。呼吸は彼が来たことで落ち着いたようだ、しかし今度は胸が締め付けられて痛い。
    「……ごめん、なさい」
     ごめんなさい、すみません、申し訳がない。返事を必死に模索するも、出てくる言葉は謝罪だけであった。あぁ、ワタシは何に対して謝っているのだろう、奪われたのはワタシなのに。オマエにこの苦しみが分かる訳無いのに。彼女を追って死んでしまいたいのは、ワタシなのだ。だが、彼に怒りをぶつけたってカリスは返ってこない。欠けた時計の針を付け直せば時を遡れるだろうか、答えは否だ。ユリスもそんなことはとっくのとうに理解しているに違いない。ワタシがすすり泣く声と、誰かの呼吸の音だけが聞こえる沈黙の中、紙袋を一つ残して彼は部屋を去った。
     遠ざかるヒールの音に、また涙がこみあげてくる。これから先、どうすればいいのだろう。カリスが居なければ、ワタシは――。

     少し時間を置いて、学園の先生が病室を訪れた。ユリスが持ってきた紙袋の中には、いつの日かカリスと食べたジャムクッキーが入っていた。一口かじっても、前のように味が感じられない。サクサクとした感触だけを伝え、口の中の水分を吸い取っていくそのクッキーを食べる気にはなれなかった。ワタシはそれを先生に押し付けた。
     教師はごく自然に、淡々と事実を述べる。カリスの死体はどうやら無いらしい。ワタシが持っているサファイアも、この前献上したばかりで1つも手元にはない。彼女はワタシに縋る手立てを1つも残してはくれない。……きっと、あまりに美しいから、すべて神隠しにでもあったのだろうと思った。この世界のどこかの青い宝石箱の中に、彼女が眠って待っているのだと信じてしまいたかった。
     先生は続けて、これから学園に戻ることを推奨した。カリスのいない学園に戻ったとて、果たして意味があるのだろうか。確かに石を磨くのは好き。そもそもワタシにできることなんて、宝石研磨くらいしか無い。でも今更カリス以外の宝石に興味を持てないのも事実だった。そういえば、結局二人で海に行くことは叶わなかったな。今から死にに行くなら海にでも行ってやろうか。
     
    (生きて、またワタシを磨いて……)
     
     死にに行く計画を練ろうとする脳内に、ふわりと記憶が蘇る。ワタシに手を伸ばし微笑むカリスが記憶の中に居る。砂色の髪が柔らかくうねり、カモミールの香りが記憶の中のワタシを包み込んだ。そうだった、磨かなければ。カリスの願いだ、死ぬ訳にはいかないだろう。彼女が願った通りに、生きなくては。瞳を瞑ればすぐにその色を思い出せる、ワタシにしかできない、ワタシしか知らない。
     彼女の青い、青いサファイア。
     
     
    「学園に、戻ります」
     学園にはユウェルが集まる。その中にきっと、彼女の生まれ変わりと思うほどに、青いサファイアは来る、居る。ワタシはそれに望みを賭けた。死ぬ計画なんて、そいつを見つけてからでも遅くない。そもそも、死体が無いなら……死体を見つけ出せばいい話だ。皮肉なことに生きなければいけない理由は見つかってしまった。彼女の宝石を、青色を必ず見つけ出すと死んだ神に誓ってやろうじゃないか。
     ワタシの返事を聞いた先生は「そうか」と一言呟いた。


    三章 片時雨


     カリスさんが死んでから、一年が経った夏。蝉の声が延々と入り込む教室の気温は二十八度を記録した。熱を持った風がカーテンをはためかせる。
     
     照り付ける日差しを避けるように窓側から離れる。廊下側のクラスメイトに声をかけて机を借りた。そこに座り、俺は本を開く。何度も繰り返し読んだ古い詩集だ、彼女のお気に入りの詩もここに載っている。
     繰り返されたその声の柔らかさ、カモミール、頭を撫でる優しい手つきさえ、まざまざと思い出せる。幼い頃の母親よりも、色濃い思い出。片隅にすやすやと寝息を立てる黒い髪の少女の記憶だって鮮明だ。
     本の内容もそこそこにして廊下に耳を傾ければ、噂が溢れ返っている。この学園の噂なんて誰が亡くなっただとか、新しく転校生が来ただとか、誰と誰が付き合っただとか、そんなくだらなく平和なものが多い。しかし今日は、喧騒の中に良く知った名前が聞こえる。
     思い人だったカリスさんから何度も聞いた名前だ。間違えるはずもない。
     ――どうやら彼女は新しいパートナーを見つけたらしい。


     
     愛は果たして平等なものだと思うか? 答えは依然NO。不平等で儚くて、それでいて苦い。生きてきたこの何年かで感じた苦々しさに間違いがあるはずが無い。人間観察を重ねる上で、愛された人間とそうでない人間の区別は簡単につくようになってしまった。λの今の有様を見るに、カリスさんの愛情はどうやら間違っていたらしい。
     死んだ彼女に問いたい。貴方が注いでいたのは愛ではなく、長い時間をかけゆっくりと行った洗脳ではないだろうか、と。残念な事に死体なら喋ったかもしれないが、そもそも死体すら見つからないと来た。これでは疑問を解消する余地すら無い。亡者に振り回されて、彼女も大層可哀想なことだ。いや、母親の言葉に今も縛られた俺が、言えたことでは無いか。

    ――――――
     
     バークリー家でカリスさんの葬儀は厳かに行われた……なんてことはなく、彼女の葬儀は本当に小さな、ささやかなものであった。彼女の立場は学園に在籍し、宝石を時折こちらに寄越すことで保たれていたような脆いものだった。死体の無い葬儀なんて、家の奴らには行う価値すら感じられないのだろう。
    「本当に良いんですか? 有名な貴族様でしょうに」
     東の国から訪れた生きた死体の店主が経営する葬儀屋に、依頼をしに行く兄の後ろ姿は忘れられない。兄上は表情一つ変えずに淡々と事務をこなした。新たな当主としての仕事に血縁の葬儀も含まれているようだ。まぁ、現当主であり彼女の兄にあたる父はカリスさんの死に興味すら示さなかったが。父上は人の死を笑い飛ばすような兎にも角にも不謹慎な男。血の繋がりなんてそんなものだ。
     
     何も入っていやしない棺に花を手向けるのは酷く馬鹿馬鹿しい。もしかしたら生きているかもしれないじゃないかと考えた数秒もあるが、それならば見つかっているだろうと考えを改めた。血腥い家業と隣り合わせのバークリーの人間がそう簡単に逃げることは許されない。そんなことができたら今頃この家は衰退して細々と血を繋いでいただろう。故に、死を断定する他無いのである。
     墓は学園の共同墓地に作られた。雨の中、彼女の居ない棺は埋められる。ここには同じように死体の無いユウェルが埋められているらしい。きっちり整列した墓、夜に訪れると花々が月光に照らされて輝く美しい場所。カリスさんにはぴったりだ。
     彼女の死後、数日間は家で後処理に追われ悲しむ暇など無かった。カリスさんが卒業後に引き継ぐ予定だった業務は全て兄上に権限が移っていた。……カリスさんの死は兄上の権力を強める為の礎だったのではないかとも考える。だがしかし死体すら無いのであれば全てを解明するのは諦めるしかない。どうか杞憂であってくれと願う。

     さまざまな儀式を終えて、自室で息を吐く。そういえば、こうして家に戻ってきたのはいつぶりだろうか。見ない内にまたしても新たな従者が増えているように思う。そもそも従者の顔など一々覚えては居られないのだ、部屋で紅茶を準備するメイドがどの時期に配属されたのかすら俺は知らない。
     おもむろに扉を開け、赤い絨毯の廊下を歩く。
     丁度家に居るのだ、折角だし。……折角なら、と。母親の部屋へ繋がる道を進んでいく。
     にしても本当に肩の凝る家だ。廊下の壁に飾られた絵画の数々は豪奢な額縁に満足げに納まっている。点々と香り高い真っ赤な薔薇が飾られており、廊下を華やかな雰囲気で満たす。昔、母を訪ねた客人が「まぁ大層赤がお好きなのね」とよく笑っていた。今にも幻聴が聞こえてきそうだ。実際のところ、赤色は本当に彼女の趣味なのだろうか。むしろ、俺には赤を嫌っているように思える。これもきっと部屋から出られないように父が指示したのではないだろうか、と邪推が頭を過ぎった。でも俺は母上のことをよく知らない、もしかしたら彼女の好きな色は本当に赤なのかもしれなかった。
     重厚な壁の前に立てば、幼い頃を思い出す。明確な拒絶、扉の向こうから聞こえる泣き声、嗚咽。扉を叩こうとした手がぴたりと止まる。また、そうなるだろうか。しかしそれでも。右手が震えるのを握りしめて、意を決して扉を叩く。母上のドレスが裾を引きずる音……、束の間の静寂が流れる。意味もなく繰り返される浅い息を飲み込んで、声をかけようと口を開く。嗚呼、開くよりも先に。
     
    「その扉を開けないで!!!!」
     
     グラスを叩きつけるような絶叫が響いた。ぴしゃりと、きっかりと、それはそれは残酷に。小さな青い鳥は目の前で撃ち落とされたようだ。
     謝る声ですら彼女が拒むことは知っている。俺はそのまま逃げるように部屋を後にする、メイドが集まる様子もない。虚しさが胸を埋める、これは恐らくいつもの発作なのだろう。……いくらでも考えられたはずだ、彼女は俺だけを拒んでいる訳じゃないのだから。俺はまた苦しめてしまった。母上のことを考えられなかった俺が悪い、甘い考えをしていたボクが悪い、悪い、悪いのだ。自室に戻り、毛布にくるまる。シーツをぎゅうと握りしめたってなんの解決策が浮かぶ訳でもない。
     昔なら、カリスさんが俺をお茶会に誘って、落ち着くまで話を聞いてくれた。しかし彼女はもう居ない、唯一の頼れる人は去ってしまった。……全部悪い夢だったらよかったのに。

    ――――――
     
    「お前は涙を流すと思っていたんだが。僕の予想は外れたな」
     寮に戻る少し前、兄上は至極つまらなそうに、義務的に、俺に一つのノートを渡した。
    「…………」
    「一人の死に涙を流していては大局を見逃してしまうのでしょう?」
     幾度となく聞かされ続けた教えを口に出しても、彼は俺と目を合わせることすらしない。折角カリスさんに似ている青い瞳を、真っ直ぐに見つめる機会はこれから先も訪れないだろう。
     溜め息を吐いても兄上の興味を引くことは叶わなかった。それで構わない。濁りきった海に用は無い。
     
     ノートはカリスさんの物らしかった。何かの花を模した重厚感のある装飾が美しい。表紙には紛れもないカリスさんの文字で、彼女の唯一無二の名前が刻まれている。ご丁寧にかけられた黄金色の鍵穴に同じ色の華奢な鍵を差し込んで回す。控えめな音を立てて、秘密は開いた。
     中を開けば紙に染み込んだ匂いが漂う。何とも懐かしい、カリスさんのカモミールの香水。内容は何の変哲もないただの日記だったが、彼女の軽やかな文字が埋め尽くすページは不思議と永遠に見ていても飽きがこない。一枚、また一枚とゆっくり捲る。そして、日付は去年の七月十九日。
     そのページには一枚の紙切れが挟んであった。手に取ればそこにはまるで俺に宛てたかのような、否、俺の名前が刻まれている。
    「ユリス。λをよろしくね」
     流れる文字が一筆。彼女がλのいない間に、良く俺に言っていたことだ。ユウェルである彼女は自分の死後を憂いていた。きっとこの手帳も最終的に俺が預かることを想定していたのだろう。つくづく恐ろしい女性だ、全て見透かされている。所詮、彼女にとって俺はあの子以下の存在なのだと突き付けられた事実が苦しい。あの子に勝てないなんてこと、そんなこと理解していたのに。母の言葉が思考を掠める。しかし、やっと諦めがついたような気もした。きっとどう足掻いてもこの未来は変わらなかった。運命、そう運命。神の定めた宿命である。
     いっそのこと、その一言が無ければと思わざるを得ない。貴方に言われたら断りたくても断れないじゃないか。そこまで計算の内だと、脳内で彼女は笑う。朗らかな笑顔ばかりが眼に浮かぶようで、自分の都合の良さにほとほと呆れてしまう。λへの忌々しさも喉元を通り過ぎたばかりだ、気に掛けるにはまだ時間がかかるだろう。
     
    「本当に、ずるい人だ……」

     彼女はもう居ないのだが、至る所にカリスの生きていた証が残っている。紙切れに香水をしみこませているのだろう、いつもと変わらないカモミールの香り。この素敵な手帳は、俺が持っているよりもλが持っている方が正しいのだろう。カリスさんだってそれを望むと思う。この紙だけを、俺が貰えばいい。
     ねぇ、俺は貴方のことが、好きだったよ。

    ――――――

     λは、カリスさんの死んだ日から人が変わったかのように無表情になった。陰鬱とした表情をする彼女は中々に見慣れない。彼女のクラスメイトも困惑しているようだった。天真爛漫だったλはもう死んだ。
     λの磨く宝石は今も変わらず美しい。カリスさんが居た頃からサファイアへの執着は強いものだと感じていたが、カリスさんの死後からその執着心は日に日に肥大しているように思う。きっと、その内彼女もユウェルを殺す職人に晴れて仲間入りを果たすだろう。
     ……ノートを彼女に渡すために部屋を訪れたとき、扉の隙間から散乱した書物、工具が見えてしまった。不愛想に、それまでからは考えられないほど冷たい目で俺を見る鴉色に、呆気に取られてすぐに気付けなかったが奥に血の付いたナイフも落ちていたようだ。本当なら声をかけるべきだろうが、生憎λは俺からノートを受け取ったきり、俺の声を聞こうとしない。話しかける気もとっくに失せてしまった。
     彼女の新しいパートナーはいつ、寿命を迎えることになるかな。
     
     喧騒の中からλの名前は次第になくなっていった。次々と移り変わる噂を見ようと詩集を閉じて廊下に足を運ぶ。窓から見える空は次第に雲に覆われているようだ。少し、雨が降りそうだ。


    四章 マゼンタ


    「あ……だ、ぇ、だれ…………」
    「……ボクらに何か用?」
     睨み付けるその瞳の奥に、愛し愛されていた跡を見た。

    ――――――

     学園に在籍していながら俺は定期的に家へと戻り、いつか引き継ぐ事になる奴隷達の様子を見に行かなければならない。それは酷く退屈だ、倦怠だ。
     階段を降りる。開けられた窓から銀杏を纏って風が吹き込み、秋の香りが辺りを包む。今日は兄上の仕事の補佐だ、揺れる赤いポニーテールを追いかける。
     強固な鉄の扉をくぐれば、ヴィンテージな花柄の壁紙とブラックチェリーを使った床板は空色の壁に切り替わる。明るい色彩の広い部屋が広がった。どこか幼く、可愛らしさを感じさせるような部屋だが、似つかわしくない物がそこには存在している。
     
     銀の檻

     人が生活できるほどの大きさの檻が並んで存在している。檻の内部はそれぞれの趣味に合わせているのかぬいぐるみや玩具が散乱していた。子供の大きさに合わせた小さなベッドも備え付けられている。
     監獄、否、鳥籠。束の間の安らぎを享受し、彼らは売りに出される。
     扉の開く音に、ざわざわとかわいらしいおしゃべりを紡いでいた彼らはこちらを振り向いた。大人の姿を見て脅える瞳が、俺の視線と重なる。瞳孔が揺れている。
     ――ここに来ると思い出す、ある出来事があった。檻の中に手を引っぱられ、向けられる敵意、震える子供、痛み。鋭利に尖った歯は皮膚を破り肉を抉る。だらり、流れ出た血の跡は今も床に残っているだろうか、流石にもう消えているだろう。掌に刻まれた噛み跡は一生消えないのだと医者に告げられた。俺よりも幼い子供が、自を人に向ける、檻の中から必死に手を伸ばす。生を、渇望する。
     犬の獣人だった彼は元気だろうか。その後、適当な所に売り飛ばされたと聞いた。……あの時、肌を走った切なる願いが焼き付いて離れない。びりびりと空気を震わせるほどの殺気は怪我を何度も重ねたにも関わらず、鮮烈に思い出せる。
     あの時ほどの殺意は感じられないが、間違いなく首の詰まるような居心地の悪さは空気中を漂っているようだ。子供たちにとっては心労が耐えないだろう。あぁ、夢のような微睡みを与える癖に、この世の地獄を煮詰めた場所だ。どうせ売るなら少しでも綺麗に、と身なりはきちんとさせているし環境だって悪い訳では無いはずだった。が、しかしどこまで従順に従っても逃げ出せない檻は子供たちに絶望を与えている。残念ながら、気持ちは分からなくもない。絶望は人を従順な駒に出来る、実に悲しいことだ。
     少し前までは気にも止めなかったが、ここに入る子供たちは誰彼もが売られてきた、または捨てられてきたのだと言う。見目の麗しい子供、珍しい宝石を出すユウェル、アウローラの外の国の血を引いた者、はたまた少ない種族。希少価値を付けられた子供だけがこの部屋を訪れる。バークリー家が管轄しているが、時折他の貴族も視察、もとい品定めに来ていると聞いた。商品に傷を付けるなと指示しているにも関わらず、この高級な嗜好品たちをストレスの捌け口に選ぶ屑も少なからずいるらしい(ルールも守れない質の悪い客にはそれ相応の責任を取ってもらっているが)。檻の中で縮こまる子供の頬には痛々しいガーゼ、細い腕に包帯。
     
     部屋を進むと一角から強い視線が向けられていた。
    「あ……だ、ぇ、だれ…………」
    「……ボクらに何か用?」
     双子の、ユウェル。一人は憔悴しきっているようで薄く目を開けてこちらを見るばかり。もう一人は睨むように俺の目を見据える。注意を向ければ、この二人の檻からは微かに鉄の匂いが香る。その双子はこの檻の中で一番、感情に富んでいるように思えた。
     真っ赤な宝石のような目は、光を受けると奥底が深緑色に染まるようだった。太陽の光と、それを受けて育つ青々とした植物に似ている。特徴的で怪しくも美しい。彼らのボサボサと荒れた亜麻色の髪を整えれば、さながら同じ宝石を瞳に使って双子の人形を仕立てた出で立ちだ。観賞用としての価値が高いと見える。彼らはすぐに売れるはずだ、あぁいやもう既に売れているのか。じゃらじゃらと音を立てる首輪に下げられた値札に記された金額は、恐らくこの世界を知らない人間が見たら目を飛び出させてしまう。並ぶ0の数に溜め息が出る。溜め息にすら畏怖を感じるのか、奥の片割れが更に縮こまり、それを庇うようにゆらりと一人が前へと出た。シャツの襟がずれ、肩の焼印が顕になる。
     ……勿体ないと思わないか? 彼彼女らの真っ直ぐな瞳はこれから曇っていくのだろう。幼い双子の切ない御伽噺、鳥籠に捕らわれた二人はそこから一生出られない。あぁ、なんだか今の暗い目をしたλが頭に過ぎった。
     カリスさんは、どうして。どうしてλを育てたのだろう。いつか別れの日が来るというのに、ユウェルである彼女は誰よりもそれを分かっていたはずなのに。……知りたい、その真意を。その経験を。
     ほんの好奇心は手を伸ばし、鍵を回すのだ。音を立てて双子の檻は開かれた。兄上がこちらを振り向く。
    「おい、ユリス。勝手な真似を――」
     
    「兄上、俺この子たちを買いたいです」

     苛立ちを孕んだ声を遮り、その意図を伝えれば、彼は呆れたように深いため息を吐いた。次いで額に手を当てて、低い唸り声が上がる。「お前が責任を取るんだな?」少しの沈黙の後、絞り出されたその言葉に俺は大きく頷いた。
     子供の方はと言えば動揺が目に見えるように体を揺らし、その顔には疑問が大きく浮かんでいるようだ。檻の中に歩みを進める。ブーツの音が部屋に大きく反響する。双子の値札を書き換えるために彼らの首元へと手を伸ばした。
     顔が青ざめ、強張る子供に手を添えれば、その子の華奢な体格が感じられる。値札を手に取れば、そこには「ルシル」と、この子の名前が価値の隣に書かれている。痩せているせいで性別は判別しにくいが、名前から推測するにどちらも女の子だろうか。名札の裏に”アンデシン”と書かれているのは恐らく宝石名。初めて聞く名だ、どんな色なのだろう。睨みつける瞳に少しずつ涙が浮かんでいる、こういう時、カリスさんなら何と声をかけるかな。怖がらないでいい? そんなことを言ったとしても、怖いものは怖いだろうに。然しながら他にかける言葉も見つからない、彼女の言葉を思い出しながら口を開く。
    「そんなに怖がらなくていいよ、ルシル。俺はキミたちに危害を加えたりしないと誓おう」
     じいっと赤い目を見つめる。双子も壮絶な体験をしてきたと思案するが、その瞳には未だ強固な光が宿っている。おそらく、この二人で支え合っていたのだろう、愛とは美しいものだ。――カリスさんはどんな気持ちでλに話しかけただろうか。同じような子供に尽くせば、何かが分かるだろうか。そうだ、あわよくば彼女らの愛の仕組みを知れたらいい。それに、双子の繋がりにも興味がある。この二人はどちらもユウェルだ、血縁関係と排出される宝石の関連性、素晴らしい研究テーマ。きっと、評価されるに違いない。
    「俺はユリス。ユリス・レイモンド・バークリー。出来るだけすぐに迎えに来るよ、そうしたら一緒に暮らそうね」
     兄が部下に手続きの話をしている。双子を先に予約していたお客には、まぁ、不足があったとでも言って札束を積み重ねればいいだろう。二人の子供はどちらも幼いが可愛らしい顔立ちだ、今何歳なのだろう。もし、学園に入学できる齢なら連れていきたい、この子達と生活するのは楽しみだ。
     真っ赤な瞳が四つとも俺を見ている。覗けば覗くほど二人の瞳の奥深さが伝わるようで……なかなか悪くない気分だ。にこりと微笑めば二人は同じタイミングでお互いを見た。そっくりの顔が向かい合い、言葉を交わさずに視線だけで意志を伝えあっている。
     
     うん、たまには勢いで買い物するのもいいものだ。

    ――――――

     冷たい部屋、短い悲鳴、金属音。ごとんと、大きな音を立てて石が落ちる、痛みで零れた涙すら無情にも石へと変化していく。転がる全ては寿命の欠片。
     λは同じクラスのユウェルをパートナーに据えていた。ユウェルの名前も、その手に握られた宝石の名前すら彼女は覚えてはいない。一切に興味を示さず、彼女はユウェルの腕にナイフを走らせようと、手を取った。
    「まって、もう嫌、λ……」
     ナイフを持つλの手首を、息を切らしながら傷跡が走る手が掴んだ。彼女は表情一つ変えずに、逃げようとする少女を見下ろす。
    「オマエが言ったのだろう、ワタシに磨いて欲しいのだと」
     部屋の温度より、いや、きっと国の外にあると言われる氷に覆われた国よりも冷ややかな視線が宝石の子を貫いた。恐怖と鉄の匂いが満充満したこの箱の中で、自由なのはλだけだった。
     ナイフが肌に当てられる。

     ごと、ごとん。




    五章 壊死体


     ねむれ ねむれ 母の胸に

     胸を締め付ける懐かしい声に、目を開けた。どうやら久しぶりに夢を見ていたようだ。昔から熟睡に縁のない生活を送っていたが、今日はなんだかいつもよりも深く眠れた気がしている。夢の中で感じたぬるい体温と、穏やかな昼下がりの思い出が、現実に塗り替えられるのを肌に感じた。頬に伝わる心音も、背中を撫でる手も、幻らしい。カーテンの隙間から見える空は夜よりも暗く、眠ってから長く時間が経っている訳では無さそうだ。……寒いな。
     布団を被り直し、もう一度目を閉じる。しかし、いつもよりもはっきりと目が覚めたのか、今から二度寝をする気分にはどうにもなれなかった。迷った挙句にベッドから降りて、少しだけ身支度を整える。どうせこれから眠りについても大した睡眠は取れない、それならば。
     鮮烈な青の瞳が頭をよぎった、会いに来る時は花を持ってきてください、と。悲しきかな、こんなに遅い夜に花を売るひとは路上にしか居ない。生花の代わりに、家から送られてきた壁掛けのドライフラワーからひとつ拝借して扉を開けた。手に取ったそれは、懐かしいカモミールの花。白い花弁が一片、はらり、散る。

     ちらほらと雪の積もる冷たい石畳に硬い靴音が響く。向かうのは学園の共同墓地……ではなく、死体すら残らなかったユウェルの墓が並べられた場所。いとおしいあの人の眠る場所。
    「ユリス、風邪をひいてしまうわ」
     心配などしなくていいと言ったのに。
    「この間λが風邪をひいてしまったの。アナタも気をつけて」
     ……俺よりも、大事な子がいた癖に。その時の気分を思い出したら苦々しいもやが肺を満たして喉元を詰まらせる。乾いた笑いが込み上げてきた。今さらそれを気にしても意味が無い上に、もう諦めた気持ちだというのに。ついた溜め息は白く霧散する。たかが初恋、されど初恋。記憶が残ってしまうくらいは遠い未来の伴侶の誰かに許されたかった。
     木枯らしが吹く。乾燥した冷たい冬の香り。
     墓参り、といえば。小さな親友の顔を浮かべる。すっかり俺の中ではアルバの護衛という意味で定着していた。思えばアルバの付き添いをすることはあったが、自分一人で墓参りに行くのはいつぶりだろうか。いくら時間が無いと言えど、こんな深夜に訪問するのは草葉の陰のあの人にくどくど文句を言われそうだ。こんな寒い夜は部屋で眠りましょう、とか、……λが心配だわ、とか。ついに俺の脳内ですらλを心配し始めた。きっと彼女が幽霊になっているなら、ぴったりとλにくっ付いて離れないのではないだろうか。微笑みは鮮明に思い出せるのが更に忌々しい。
     ランプが照らす道を曲がる。
     生垣に囲まれた墓地が見えてきた。仰々しい門を潜り、まっすぐにその歩を進める。墓、墓、墓。月光を浴びた花々に囲まれ、綺麗に整列した墓は恐ろしくも美しい。見渡せばちらほらと真新しい墓石もある。目当ての墓が見えてきた、しかしそこには先客がいるようで。
     彼女は跪いて思い詰めた顔をしていた。どうやら俺の存在には気付いていない、否、周囲には興味が無いのかもしれない。あの酷く陽気な死神を知らない人からしてみれば、月夜に紛れる彼女の方がよほど死神に見えただろう。だが俺は、それが人間であることを誰よりも痛く理解していた。
     あぁ、カリスさんに愛されたひと。俺の初恋を終わらせた女。

    「……居たんだ。λ」

     少しの肩の揺れがλの返事だった。声を掛けても振り返らずにずっとその場に固まって動かない。手の内に青い宝石が転がっているのが見えた、しかしそれも彼女の求めるものでは無いのだろう。それは穏やかな夜の海に似ているが、満ち足りているならこんな所に持ってきたりしない。大方、墓を見て思い出そうと必死なのだろう。

    「キミも墓参りかい?奇遇だね」
     ここには死体すらも、埋まっていないけれど。なんて意地悪は飲み込んで、λの隣に同じように跪く。一輪のカモミールを手向け、口を開いた。
    「愛しい人よ。あなたの腕の中がわたしの世界だ」
     古い詩集のたった一ページに記された詩。子守唄のように繰り返され、興味が無くともすらすらと思い出せるほどに染み付いた声、青。続きを促すようにλに目線を向ければ、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をして、渋々と呟いた。
    「……わたしとあなたが溶け合って、過去を埋められるその日まで」
    「はは、キミも言われ慣れてそうだ。懐かしいね、この詩」
    「なんでオマエがここに居る」
    「なんで、って、墓参りに決まってるだろ。夢に出てきたから会いに来ただけさ」
     本当はもっと良い花を用意できたら良かったんだけど。彼女は目を逸らしてまた黙り込んだ。俺もλに目線を向けるのはやめて、白い墓石を見る。が、墓に刻まれた自分と同じ名字に早々に嫌気がさしたので立ち上がった。忌々しくも愛おしい墓石は誰かに、否、λによって綺麗に掃除されて美しい白を保っている。λはまだここから動く気は無いようだ。だが、冬のこの場所は冷える。所々に雪が積もり、漏れる息も白い。真っ白な髪の毛のλは未だ降り続ける雪と同化して消えてしまいそうだ。
    「λ、風邪をひいてしまうよ」
     今度は肩を揺らすこともなく、黙って俯くばかり。思わず苦笑が零れる。λに世話を焼きたがった、カリスさんの思いが今なら分かるような気がした。ルシルとシシルがこんな風に寒い中俺を待つとして、きっと俺は二人をすぐにでも連れ帰り暖かなスープと美味しいクッキーを振る舞うだろう。あぁ、これは確かに心配だ。
    「今キミが考えてることを当ててあげようか」
     早く帰れだとか、うるさいとか、そこら辺だろう? と問いかければ、λは心底うっとおしそうにこちらを振り向いて、
    「どれも、違う」
     とだけ言うと、手元の石を雑にポケットに入れて、重い腰を上げた。彼女は俺の横をするりと抜けて出口へと向かって行く。このまま居たら俺がずっと居座ると思ったのだろう、その読みは大正解だ。すかさずλの隣へ向かい、彼女と歩みを揃える。どうせ帰る場所は同じ学園だ、それなら送っていこうじゃないか。雪の降る道を女性一人で帰らせる訳にもいかない。
    「λ歩くの早くない? 俺を置いていかないでおくれよ」
    「着いてくんな……」
    「あはは、キミが心配なんだ」
     カリスさんが俺に遺した紙切れを見たら彼女はどう思うだろう。俺なんかに自分を任されたと知ったら、きっと俺の事を振り返ってすぐにでも掴みかかるかもしれない。いや、カリスさんの思考回路はλが一番に分かっているはずだから、そんな事にはならないか。ならないでくれ。
     先先と歩くλに歩幅を合わせて帰路につくと、三人で手を繋いで歩いた九年前を思い出した。思えば、揺れる金属の手はいつもカリスさんが握っていたように思える。俺はいつもカリスさんの左手を握った。……どうにも懐かしくなって手を取ろうとしたが、彼女はきっとそれを拒むだろうし俺に冷ややかな目を向ける様子もありありと想像できる。そもそもの話、血に塗れた手でその思い出を穢すのは気が引けてしまう。手持ち無沙汰に腕が宙をさまよった。
     帰り道をなぞると、無性に彼女ともう少しだけでも話がしたいと思った。カリスさんの部屋、教室、廊下、病室、今。話すタイミングは幾らでもある、あったというのに、λは俺の話に聞く耳を持たない。当然だと言われてしまえばそれまでだ、俺も当然だと思う。しかし、俺にとってカリスさんの話を出来る相手は今の所λしか見つからない。……λは、嫌だろうな。俺の口から聞くカリスさんの話なんて、舌を抜き取ってでも聞きたくないらしい。一度、彼女が無視をしても話続けたら彼女の工具箱からペンチが取り出されたのだ。今日も断念しよう。
     なぁユリス、これで何回目の断念だと思っているんだ? ――十回目。商売は駆け引き、俺は停滞を選んだに過ぎないのだと信じたい。確かに話はしたいのだが、舌を抜かれるのは勘弁だ。
     オレンジ色の街頭は等間隔に俺たちを照らした。温かみのある橙色は、俺とλとカリスさんの関係を照らし出すには似つかわしくない。浮き彫りになる溝を見つめて気を落とすのももうやめにしたいのだ。
     沈黙の中、俺とλの靴音だけが静かに響いている。

    ――――――

     本当に煩い男だ。目立つ深紅色の髪は冬に溶け込むことができないし、高いヒールもマフラーの金具も、歩くたびに物音を立てる。あの方に似た発音方法は、彼女の家で培われたものらしかった。
    「またね、λ」
     また、なんて訪れて欲しくない。
     今すぐにでもワタシのことなんて放っておけばいい。会わずに時間が経って、早く忘れてしまえたらいい。カリスさんのことだって忘れてくれ。ワタシが覚えていればそれで充分だと、……あぁ、きっとそんなことは無い。出来るだけ多くの人に覚えてもらえる方が、あの方は喜ぶだろう。吐き気がする。返事を返すこともせずに歩いた。距離を置きたい、出来るなら遠くまで。
     階段を上り、自分の部屋へと向かう。冷たい髪の毛が同じように冷え切ってしまった頬を掠める。いっそ死んでしまえたらいい、この柵を超えて。下を見れば硬い地面が広がっているじゃないか。
     生きて、だなんて。厄介な管を取り付けたものだ。そうしないと、死んでしまうと思ったのだろうか、その通り。アナタのいない世界に生きるのがこんなに苦しいなんて知らなかった。未だアナタの残した一つの管に繋がれて、やっと息をしているような人生だ。アナタの願いを叶えたら、すぐにでも。――会えないだろう、か。
     ドアに手をかける。何度も洗った右手に残る人の体温、身じろぎ、転がる石。徐々に宝石へと変化していくユウェルの身体。こんなにも罪を犯した人間が、カリスさんに会いに行っていいはずがない。そんなことは承知で手にかけたというのに、震える手はそれを認めようとしない。
     開けば殺風景な白の部屋が広がっている。窓を開けていたらしい、冬の冷たい風が吹き込んできた。すぐに窓を閉める。舞い込んできた雪が部屋の中に漂う。窓の外を見れば辺りの照明は点いておらず、月明かりだけが部屋を照らしていた。レースカーテンの影が落ちた机、の上のノートが目に入る。
     流暢な、軽やかな風のような文字が、カリスさんの筆跡だった。アンティークな装飾が何の花を模しているのかを、教えてくれる前に彼女はいなくなった。
     ……ユリスから渡されてから、ワタシはそのノートを開いていない。開かずとも伝わる彼女の柔らかな一日は、ワタシの心に止めを刺して、壊してしまうに違いないから。閉じていても香るカモミールは、胸が締め付けられて音を立てるほどの痛みと共鳴する。
     ノートを手に取って、引き出しの奥へと閉じ込めた。



    終章 塵


     七月十九日。
     
     カモミール。
     地面の林檎、マトリカリア、マザーズハーブ。全て同じ花を表すというのに、色んな名前があって素敵ね。特製のカモミールティーを振舞えば、λは少しだけ嫌そうに顔を顰めて渋々と言った様子でカップを口に運ぶ。カモミールの香りにはリラックスの効能があるらしい。香水に取り入れ、紅茶に取り入れ、としていたがλはカモミールティーだけがどうにも好きになれないようだった。平穏を彩るように香り高い紅茶は爽やかな朝を告げる。今日は記念すべきλの誕生日。
     
     綺麗にラッピングを施したプレゼントの中身は、手作りのケーキだ。ワタシは、例えばワタシよりも立場の高い甥や兄弟姉妹のように、彼女に目に見えるような贅沢をさせてあげられなかった。本当なら、もっと豪奢なお祝いをしてあげるべきなのだろうけれど。我が儘を通してこの学園に在籍している身であるワタシに出来ることは少ない。……寿命も、限られている。
     着々と近付くタイムリミットに怯えずにいられる人間は、この世に居るのだろうか。否、居ないのだと信じたい。心の弱さを人間の心理だと言ってしまえば少しは気が楽になるような気がした。もし、その最後が突如明日訪れるとしたら、ワタシは何を想う?
     
     答えは目の前に笑顔を咲かせている。濡羽色の艶やかな髪は、柔らかくうねり子供の白い肌を際立たせる。同じように真っ黒な夜を閉じ込めたような瞳がこちらを見てにこりと微笑んだ。
     ――美しい、子だ。つくづくそう思う。"無い"左手と右足はまるで禁書に記されていた腕の無い女性像、首をもがれた天使を思い起こさせる。人間の想像力が生み出す美しさと儚さが息をして歩いているようだ。外の世界の芸術が記された禁じられた書物、そこに描かれた芸術品の数々に彼女を加えてもいいくらいに。あぁしかしながら大衆に晒される美よりも密かに潜む美の方が美しいに決まっている。その甘美なる優越は自分だけが感じていれば良いと、背筋に甘い痺れが走った。
     神、というものは酷く尊く、それでいて実に傲慢だ。自分の身から零れ落ちる宝石の美しさと引き換えに、命を切り取る。学園に存在している妖精も幽霊も死神さえも命を奪わないというのに。この国の神は傲慢だ、神であるからには人智を超えるほどの憎たらしさと愛おしさを内包していて欲しいものだ。寿命でこの願いが叶うとは思わないが、もし叶うのであれば一目その神の御姿を目に焼き付けてみたい。そんな薄ら寒い願いを、目の前の神が作り出した彫刻は知らない。
     
    「カリス?」
     疑問が浮かぶその瞳に、ワタシの青が映り込む。彼女の夜と、ワタシの海が混じり合ってやがて一つに溶けだしてしまえばいいのに。触れた指の先から肌がとろんと融けて、ワタシは彼女を取り込む。そんな夢物語。
    「なんでもないのよ。さぁ、早く食べてみて」
     フォークがキン、と音を立てた。銀色の食器はケーキをゆっくりと口へと運ぶ。口を開けたときに見えた小さな歯が、たまらなく愛おしい。薄い唇が弧を描けば、自然とこちらも頬が緩んだ。……λは、人を笑顔にするのが得意だ。
     どうかそのままで、このままのアナタが好きなの。いつかワタシの命が朽ちて、ぬるい体温を失う日が来ても。無邪気に笑みを浮かべるλを失うのは少しだけ怖い。だが、表情が幾分か乏しくなった彼女もまたきっと美しいのだろう。哀しきかな、どちらもこの目に収めることは叶わないらしい。λは成長したら、どんな大人になるだろうか。ああ、大人になった彼女を見ることさえも、きっと。

     美味しそうにケーキを食べ終わり、椅子を下りて後片付けを行うλの背中を見つめる。小さく、まだ頼りない子供の背中。

     ユウェルとして、生を受けた。敬虔な信者としてこの身で神に尽くせること以上の喜びは無い。神の怒りを鎮めるためなのか、喜ばせるためなのか、そんなことはどうだっていいのだ。神に献上すること、それがワタシたちユウェルの使命であり、喜びである。必死に祈りを捧げて、神の目の前で誓って。そんな風に死んでいくのだと思っていた。以前までのワタシなら。
     
     今更、死ぬのが怖い、など。バークリーの面々が聞いたら溜め息をついて呆れるだろう。特にイリスさんには知られたら最後、見向きもされなくなりそうだ。ユリスも恐らく呆気にとられたような顔をするだろう、そしてその紫色の瞳を揺らした後に合点がいったように目を伏せる。彼の思考はお見通しだ。先に居なくなったら寂しい思いをさせてしまうかしら。
     λに出会えたのは、嬉しい誤算であり悲哀でもあった。もう少しでもあの子と早く出会えていたら、あの子が先に生まれていれば。他の宝石の子らが口にする、寿命の短さを嘆く言葉がようやく理解できた、できてしまった。神は、美しいものが大層好きなのだろう。
     
     子供を想う親は、このような気持ちなのだろうか。ユウェルとして生を受けたワタシには、生涯をかけて愛する人を作ることが出来なかった。いや、今まさに生涯をかけてλを愛しているとも言える。λが居なければ何も残せずにいただろう。どこにもワタシの存在していた痕跡は無くなり、風化して消えていくのだろうと思っていた。神に尽くせるとしても、だとしても恐ろしく空虚な人生、そこに彩りをくれたのはλだ。彼女はワタシの希望であり、光。
     子供の頃から、家族というものには到底縁がなかったように思える。異なる母親から生まれた兄弟姉妹はワタシよりもずっと聡明で、それでいて冷酷だった。血の繋がった、繋がっていただけの他人。そう表すのが適切だろう。父の顔は思い出せるのだが、母親との思い出なんてそもそも片手で数えることすらも出来ない。本で学んだ知識で演じた母親は、果たして正しいものだっただろうか。
     分からない。母親の愛情、家族の愛情。全て、ワタシの生み出した贋作。それでもλがこうしてワタシに視線を向けるうちは、間違っていないのだと信じていたかった。

     背後から柔らかな黒髪を撫でれば、λはこちらを振り返り目を細めてはにかんだ。瞳に青が反射する。彼女はどのように成長するだろうか、出来ることならこの目で見ていたい。もっとこの子の傍にいることが出来たならば。……きっと、美しい女性になるだろう。神の創り出した彫刻みたいね、そんな言葉をλに送れたら。あぁそういえば彼女は神のことを信じていないのだった、こんな誉め言葉は嫌われてしまうかもしれない。
     神は、百年ほども生きることのできない醜く卑しい人間という生き物にこれ以上何の重石を乗せるのだろう。それとも、愛した己が愚者だと言い聞かせたいのだろうか。愚かであるからこそ、業を背負わねばならないのがこの世の常だと言うのならば、神に背を向けてしまいたくなるほどの苦しみだ。窓の外で、黒い影が飛び去った。アナタに与えられたこの身は、あの鳥の自由を知らない。ユウェルに生まれたワタシは神に背くことが出来ない。

     どうせ死ぬならば、目の前で食器を片付けるこの子の隣に居たい。彼女の居ないところで寿命を迎えて朽ちていくのは嫌だ、いっそ寿命の前に自分で心臓にナイフを突き立ててやりたい。独りで死ぬのは、寂しい。λの手を握りながらゆっくりと訪れる終わり。ワタシは眠りにつくように瞼を閉じて、息を止める。まどろみの中で穏やかに死を迎えることが出来たなら、それは、……バークリーとして生まれたワタシにとっては、これ以上ない幸せ。ワタシを軽蔑する彼彼女らでは到底たどり着けないだろう。兄弟姉妹に大した感情は持ち合わせていなかった、が、改めて考えると止まり木を見つけたワタシは、あの人達よりもずっと素敵な生活をしているはずだ。それが嬉しい、何より嬉しくて、しあわせだ。
     
     ――しにたく、ない。
     死にたくない、死にたくない、本当は死にたくなんてないのよ。誰もが一度は感じたことがあるでしょう? 無いならきっとつまらなくて色の無い生活を送っているに違いない。いつまでも、誰かの傍に居たいと神に願っても、体から溢れる宝石が自らの死を予感させる。そもそも、死を超越することなんて人間には無理な話だ。どんなにやさしい御伽噺も、愉快な寓話でも、人の死は描かれているのだから。賢者の石を排出するユウェルは居ないの。
     
     神に祈って、縋って、いつか死んでいく。ワタシたち、とっても愚かで素敵ね。
     ふっと笑いをこぼせば、λが不思議そうにこちらを見上げた。ワタシはその瞳に向けて微笑んだ。どうか生きている間だけは、この子の傍に居られるようにと願いながら。
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