④
25階に到着し、足早に降谷の部屋に向かう。
2501号室の呼び鈴を鳴らして「工藤です。」と言うとドアが開く。
そこにいたのはグレースーツの降谷ではなく、ワイシャツにジーパンというラフな格好の降谷だった。
首元のボタンを外しており、袖は腕捲りをしていて、褐色の逞しい腕がワイシャツの袖から見えた。
普段から鍛えているのだろうか。
「来てくれてありがとう。さ、上がって。」
「は…はい。失礼します。」
言われるがままに部屋に入り、照明や空調に問題がないか見渡すが、どこも不自然なところはなかった。
部屋で何か問題があったから内線電話で呼び出したはずなのにとても落ち着いている。
「あの…安室様。問題のある場所を教えていただけないでしょうか…?」
降谷は部屋のソファに座ると隣の空いてる空間をぽんぽんと手で叩く。
「工藤くん、こっちきて。」
「え…?はい」
その座っているソファに問題があるのだろうか。
降谷のいるソファに歩み寄り、不具合があるのかと確認しようとしゃがみ込むと降谷がクスクスと笑う。
「ああ、違うよ。ここに座って。」
「…?」
言われるがまま、降谷の隣に座る。
どういう状況なのだろうか。困っているのではないのか。
「あ、あの、困っていたんですよね…?」
「うん。すごく困ってた。」
「えっと…なぜ私はソファに座らされたのでしょうか?」
「こうすれば僕の問題が解決するから。」
「…………??」
降谷の隣に座ることで部屋の問題が解決するのか?
そんなケースは諸伏からも聞いたことがないし見たことがない。
新一が立ち上がろうとすると降谷に腕を引っ張られ、体勢が崩れる。
「ぅわっ!」
ぽすんと座ったのは降谷の膝の上だった。
お客様の膝の上に座るなんて何してんだ俺!どかないと!と立ちあがろうとしたが、ぎゅうっと後ろから抱きしめられていて身動きが取れない。
「いかないで」
「あ、の?え…?」
降谷が新一の背中に顔を擦り付ける。
「僕が工藤くんを呼んだのは君とお話ししたかったから。この広いスイートルームで一人じゃ寂しいだろう?」
「は、はぁ…」
「あと君のこともっと知りたくなったから」
まるで口説き文句のような台詞だった。
後ろから抱きしめられた体勢のまま、降谷の手がするするとお腹から上に向かって身体をなぞる。
「ひ…っ?!」
身体をなぞられることなどないからか、身体が反応してしまった。
何をされているんだ俺は。
「ちょ、な、なにしてるんですか!」
「品定め?というか確認?」
「はぁ?!」
男の腹なんて触って何の品定め、否、確認をするというのか。
「お…っ、私のお腹で何の確認をしているんですか?!て、てか、呼び出した理由って…」
「これもサービスの一環かなって」
「と、当ホテルはそのようなサービスは致しかねます!」
拘束が緩んだ隙に新一は降谷から離れた。
「そっか、残念だなぁ。このホテル気に入ってるんだけどなぁ。」
降谷がニコリと微笑みながら脚を組んだ。
この男、自分の立場をわかっててやっている。
このホテルの品位や評判は今、新一に委ねられていて、少しでも失礼なことをしたらホテル全体ないしはグループ全体に影響が及んでしまう。
それをわかっていてこの態度なのだ。
ここまで狡猾という二文字がしっくり合う男はそうそういない。
「…私は、何をしたらいいですか。」
「そうだなぁ、僕も無理強いはしたくないんだよね。工藤くんに嫌われたくないし。」
こんな状況に持ち込んでおいてどの口が言っているのか。
降谷が良い案が浮かんだかのような顔をした。
「じゃあ、君に毎朝モーニングコールをお願いすることってできるかな?」
「…はぁ?」
モーニングコール?そんなものでいいのか?
なぜそんなことを自分にさせたがるのかわからないけれど、これを断る選択肢もない。
「お願いできる?」
「わ、わかりました。何時に鳴らせばいいですか。」
本当は上司である諸伏に確認をしなければならないが現場判断で了承した。
てか、今返事をしないと何されるかわからないし。
「じゃあ7時に鳴らしてもらえるかな。」
「わかりました。」
「あともう一つお願いがあるんだけど」
まだ何かさせようというのか。
「なんでしょうか。」
「モーニングコールの時と、僕と二人きりの時は降谷って呼んでくれないかな。その方が嬉しい。」
「は、はぁ…降谷様、でよろしいですか?」
「うーん。それはそれでいいんだけど…」
降谷が組んでいた脚を戻し、ソファから立ち上がると離れている新一に近づく。
降谷は新一の腰に手を回して身体を引き寄せて耳元で囁いた。
「君にはもっと気軽に僕の名前を呼んでほしいな」
身体も声も近すぎる。
なぜ心臓がこんなに高鳴っているのだ。
「で、では、降谷、さん?」
「うん。いいね。そう呼んでほしい。」
「で、ですが、お客様にさん付けは…」
「僕だけ特例ってことにしてよ。ね?」
そう言われると新一は拒否することはできない。
お客様の要望はできる限り聞くのがホテルのルールだからだ。
「…わかりました」
「ありがとう」
降谷はお礼を言うと新一の身体から離れた。
「そろそろかな。さすがに僕の部屋に長くいると君の上司が心配するだろうから、もう戻っていいよ。」
トンッと背中を押されて笑顔で返される。
「あ、あの、一つ聞いてもいいですか。」
「なぁに」
受付をしてからずっと気になっていた。
「なぜ普段は偽名を使用しているんですか。」
ただのお金持ちのお客様なら『安室』という偽名など必要ないだろうに。
降谷は怪しく微笑みながら人差し指を立てて新一の口元に当てた。
「内緒。」
お客様に、ましてや男に、唇を触られたことなど人生で一回もない。
触れられたところからじわじわと顔が熱くなった。
「君と話せて楽しかったよ。明日の朝、楽しみにしてる。」
降谷にドアまで見送られて新一は部屋を出た。
明日からモーニングコールをするという業務が増える。それだけでも厄介なのにその相手がVIP対応で狡猾な男となると本当にタチが悪い。
エレベーターホールに着き、下矢印のボタンを押してエレベーターが来るのを待っている間、胸の鼓動は鳴り止まなかった。