Funeral Shellpinkシェルピンクの葬列
桜吹雪に拐われてしまいそうだなんて言葉は、似合わない。
むしろ、全ての花をその怒気で散らしてしまうのではないか。
覆い被さるマルコの、金の髪に触れて滑って風に遊ばれ落ちて行く花弁が一枚、一枚、金の月に照らされ、五年の月日を思い知る。
あどけなさの失われた頬
きっと寄せられる事がずっと多くなった眉頭。
顎髭が似合っているというのは、決して茶化したのではなく本音だった。
アルコールが入っていなかったら、怒りに震える肩を考えなしに抱き締めて再会を祝ってしまったかもしれなかった。急激に取り込んだアルコールが、普通の人体に対して真逆の作用で働くのはサッチの体質と言って良かった。
「………はぁ」
「あれ、もう解放?」
「言いてェことは山程あったが、その間抜け面見てたら色々と萎えちまった……酒臭ェ。自重はやめたのか」
舌打ちと共に起き上がったマルコが、頭を振って僅かに離れた倒木の上に腰を下ろす。サッチも、よっこらせという気の抜けた気合いと共に上体を起こすと、そのままその場に胡座をかいて乱れた前髪を掻き上げながら笑っていた。
「祝いの席だからなァ、少しは羽目外したって罰は当たらねェだろ?」
「少しは当たりゃ良い」
「辛辣」
雷にでも打たれれば良い、と半ば本気で言っているのが分かっているからこそ酔っ払いの様にケラケラと笑ってはサッチは船の方角を仰ぎ見る。
マルコのひとっ飛びで、随分と遠くまで他者を運べる様になったものだ。人間一人なら、今は短時間なら呼吸を乱すこともなく運べるのか。この調子ならあともう一人程度なら、片方の脚に挟んで運ぶのも可能だろう。
マルコの怒りの原因は分かっていた、五年間の月日をマクガイの船で過ごすにあたって、確かにサッチはマルコに。この盃を交わした仲に、出立自体は告げて旅立ってはいる。だが、それはあくまで出来るだけ近い内に出立するとしか告げていない予定の話だ。
「マルコ、怒ってる?」
「テメェに怒ったって無駄だろ、あの時もそうだったよな。おれが何かしら察さなきゃ、お前は、…サッチは勝手に一人で物事決めて突っ走って行く。おれが気づいた時にゃ、そこに影も形もない」
マルコの掌が、サッチの少し前の空き地を指差しては上向きに開いて行く。握って、閉じて、手のひらには何も残らない。
「いやぁ、それほどでも……」
「褒めてねェやい、あん時ゃ一発ぶん殴ってくれようとは思ってたが…間抜け面に気が抜けた」
「博愛精神が顔に滲み出てるんだな〜」
呆れたと溜息が聞こえる距離感だ。
今日はこんなに月が大きい、一番隊が今日は間に合わないと判断したサッチのミスが敗因の全てだが、不服そうにしながらも、幼さの抜けた頬に確かな喜びを見出した時、サッチがマルコに向ける笑みは益々深くなる。
なぁ、勘弁してくれよ、やめてくれ。
その柔らかな金髪を揺らす風も、頬杖突いた横顔も。
「……で、"双剣のサッチ"様は…さぞかし五年の修行で強くなったんだろうねい」
ひっそりと、仕方のない奴と笑うマルコも。
「( こんな、誂えたようにロマンチックな再会なんて、これっぽっちも、おれは望んじゃいなかった )」
✳︎
いつからだ、と聞かれれば多少首を捻る。誰に聞かれたって、オヤジに聞かれたって決して答えはしないが、思考ってのは結局、自問自答ってやつだからだ。
少なくとも、一目惚れってやつはない。絶対ない。第一印象は、そりゃどの時点でを第一とするかで変わってくるんだろうが、船を襲った奴らだと勘違いしてたから一目って意味では最悪だ。おれと同じ様な歳をしたガキなのに、海賊だなんて、ってな。けど、もう少しだけ。本当に少しだけ遡って良いなら、印象は大きく変わる。
─── 青い鳥を見た。
陽炎のように揺らめく青と、金色に近い黄色の翼を広げた鳥。
死にかけの少年の率直な感想?
そりゃ、綺麗だな、だ。それ以上でも、それ以下でもない。死に際に見る幻覚だとしたら、あんなに派手なものはない。死への誘いにしては、あまりに美し過ぎる鳥だった。まるで、まだこの鳥を眺めていたいと未練がのこってしまって、閉じようとした瞳をもう一度凝らす程度には。
─── ……なんだァ生き残りかよい。
だから、最悪な第一印象はあくまで二の次。
あとはもう怒りっぽい怖いヤツ(ついでに口は悪いし、暴力的に手が早い)が、命の恩人となった。いつしか、それから唯一頼れる下っ端、だの、邪魔してくる下っ端(やっぱり足癖も悪かった!)に変わり、友達、仲間、家族となって義兄弟の盃を交わすまでなったのだから、人生とはどう転ぶか分からないものだ。
それでは、いつからマルコを見る眼差しに熱を帯びるようになってきたのか。それが問題だった。
子供の頃に、実に情けない理由でマルコを夜中に起こした記憶がある。寝小便ならまだ良かったし、姉のベイが実におどろおどろしく語る海の怪談話のせいで、便所に行く為にも当時同室だったマルコを叩き起こしていたような自分である。きっと、マルコもそうした類で起こされたのかと最初は思っていただろう。
ただ、本当に。
本当に、あの時は自分の身体の変化が何らかの病気だと本気で思っていたのだ。だから、驚かそうとしたのでもなく、ふざけたのでもなく、身体の不調があると訴えた。その時のマルコの瞳を思い出せば、今も胸が締め付けられる。
マルコが、医者になりたいと口にする度に舌打ちしていた船医の気持ちも分かる。それと同時に、決して医務室の扉を閉ざさずにマルコを好きに出入りさせていた船医の気持ちも、同時に。心なんてものは、案外人間の体の中に一個ではなく何個もその肉やら骨やらに守られて入る心臓とは別の意味で包まれている複雑なものだと知った。
確かに、人生で初めて唇を重ね合わせた仲だ。
特別なことには変わりない。
だからと言って、あれはセックスでも何でもない。子供同士の、特に性徴に翻弄され混乱する自分を溺れないように掬い上げてくれただけに過ぎないことも、よく分かっている。歳を重ねれば分かるもんだ、肌を触れ合わせればどうしたって熱を分け合いたくてもどかしさが湧き上がる。それを埋めようとして、唇を押し付けたって生まれるものは、何もないってことも、例え何回枕を重ねたってないものはない。
実際、触れ合いだけだ。
セックスなんて言えない、児戯だ。
だから、うん。別にそれが原因って訳じゃない。一回だけだったし。
ただ、その頃から一時期マルコとの仲は良いとは言えない関係になっていったのも事実だ。部屋は変えられる、それとなく避けられる、殴り掛からなかった自分を今でも褒めてやりたい。険悪とも違う、疎遠とも微妙に違う、表現するなら"居心地が悪い"関係。それを終わらせる為に盃を返そうとして、それでやっと関係性は戻った───のかは、正直首を捻らざるを得ない。
理由は結局、聞けていないのだから。
よく分からない、ケジメという言葉をサッチは舌の上で何度も転がして吟味した。味のしない、どちらかというと苦々しい決意の響きを。そしてどこか吹っ切れたように見えたマルコに、ひとつの結論を導き出した。
自分が弱いから。
義兄弟にしたはいいが、あまりに弱過ぎるから。
マルコはきっと過保護にならざるを得なかった。
そういう結論が、一番胸にストンと納得の形に落ち着いた。
その時から、マルコはめきめきと頭角を現していったのだから。父と慕われる男がむら雲切りを奮えば、その傍には必ずと言って良い程、傍には翼を翻し空を裂く不死鳥の姿があった。時に、再生が追い付かない程の怪我をしたとしても、決してマルコは非戦闘員であるサッチを寄せ付けなかった。ジッとそれこそ野生の鳥のように燃え続けながら、寝台という巣に籠り回復を待つ。
─── 彼奴は、名前に恥じない働きをするが…、どうにも突っ走り過ぎるきらいがあるな。
─── 名前?
─── ん?どうした、サッチ。
そんな時にマルコは誰にも会おうとしないから、サッチはサッチで冷めていく料理、確かジャンバラヤ。その皿を手に扉の前で足踏みしていたところに部屋から出てきた船長の姿に少しだけ中を覗き込んで、諦めたのを覚えている。青く、めらり、めらりと薄暗い部屋の中で燃える炎。その寝台の中心には、きっと息を顰めるマルコがいる。
─── 美味そうじゃねぇか、そりゃ何だ?
ふっ、と笑ってくれた白ひげは、サッチの顔が余程心配と、それと悟った顔をしていたことに気付いたのだろう。穏やかな、例えるならきっと夕凪の黄金の海を思わせる声で、サッチの頭を撫でる。成人前とはいえ、既に十九の歳になろう頃合いだ、恥ずかしいかと聞かれれば恥ずかしい。だが、嬉しいの気持ちの方が余程勝っていた。
オヤジ、と呼ぶ言葉に意味を乗せてサッチは呼んでいる。成立時から居る面子だとか、子供の頃から船に乗っているかだとか、そんなものは関係ない。
サッチにとっての、唯一の父親。
エドワード・ニューゲートの、逞しく温かな掌だ。
─── ジャンバラヤ、マルコの分…。ってか、マルコが大怪我したって聞いたから、食えるかちゃんと確かめてから作りゃ良かったんスけどね。
─── 美味そうじゃねェか、わざわざ作ったのか。
─── えぇ、食欲なくても食べられるかなぁ…って。けど、無理そうだから持って帰って、おれが夕飯に食おうっかな。
スパイス香る、ジャンバラヤ。
ガーリック控えめ、その代わりキノコ増量祭り、とサッチは続けておどけてみせる。鶏の腿肉は出血を抑える効果と、炎症を抑える効果がある。他の栄養素も、考えて作られた料理は冷めたなら温め直して食べても、風味に大きな変化はない。だが、マルコは弱っているところを父親以外の誰にも見せないし、本当は父親にさえ見せたくないところを白ひげが踏み込んでいくから仕方なしのなし崩しだ。
─── 美味いもんを食い損ねたな、…そいつはおれが食っちゃいけねェか?腹が減っちまったところに、美味そうな匂いさせて…、腹の虫が騒ぎ出しそうだ。
─── ……へへっ!仕方ねェな〜もう、オヤジってば。マルコは…、
大袈裟に腹を摩る船長の姿に笑いながら、肩越しに振り返る。閉めた扉の向こうで、今専念しているのは怪我の治癒だけだろう。そうして、きっと眠りに就く。泥の様に、ゆっくりとした胸の上下だけが生者の証明として一頻り眠った後、ようやく腹が減ったと傷の消え去った腹でもぼりぼり掻きながら食堂に顔を覗かせる筈だ。
─── マルコはまた後で、明日にでも。起きたらすぐに用意しておくんで、しっかしオヤジのその体格で足りないでしょ。
─── 酒のアテとして摘む分にゃ、丁度良い。
─── オヤジには、そもそも酒に合わないって概念自体が存在してないんだよな〜。…ところで、さっきマルコの名前の話してませんでした?
─── んん?…あァ、独り言だ。聞いてたのか。
美味い飯は、どこで食っても廊下のど真ん中で食べたとしても、美味い。だが、もっと美味くするには落ち着いた席があれば、人は食事に集中する事ができる。皿の盆を持ったまま、半歩遅れて歩いていくのは行く先を船長に任せてあるからだ。辿り着いた、滅多なことでは訪れない船長室の"バカでかい"扉を開いてくれる父親に続く。
✳︎
この部屋は、金銀財宝で彩られてはいない。
白ひげの丈に合った家具は勿論特注だが、物欲がない船長にとって、元々は家族を潰さずに寝られるベッドが必要で、あとは手元で幾つか管理しておきたいものだけ置いてある。そんな部屋だった。それが、今となってはそれなりに物で満たされているのは全て息子や娘、傘下の海賊たちからの心の籠った贈り物が原因である。この島で有名な勝負事の御守り、ならばまだ可愛らしい方で。
やれ、世界で数羽しか確認出来ていない宝石の尾羽を持った鳥の羽ペンだの、偉大なる父の誕生日に出荷された酒樽だの、人魚の美しい歌が収められたトーン・ダイアル───、最高級の、最高品質の、と名がつく物を見掛けると、どうしても最愛の父に贈らずにはいられない。度が過ぎる、
─── 消え物にしろ、アホンダラ共…おれの部屋で落ち着いて眠れねェじゃねェか。
とは呆れ顔で言いつつも、決して処分することも売ることもなく白ひげは丁寧に贈り物を保管しているし、それを時々取り出しては眺めている。サッチもあまり笑えはしない、何かの余興で始まった、オヤジの似顔絵大会の中で自分が描き上げた世界最強の男のそれが、今、皿を下ろした執務机の右。上から二段目の引き出しにしっかりと収められていることをよく知っているのだから。
✳︎
─── んで、名前の何が気になるんだ。
─── あぁ、オヤジが言ってたマルコの…何だっけか、名前に恥じないってアレ。マルコの名前ってなんか由来があんのかな〜ってそれだけ。
─── そりゃあ、それなりに意味があって付けられんのが名前だろ。ん、美味いぜこの…コイツのなんて言ったか?
─── ジャンバラヤっすよ、ジャンバラヤ。
─── 景気が良い名前じゃねェか、グララララ!
いつからか、目の前で毒味をするのを止められるようになった。気が済むまですりゃ良いと思っていたが、自分の食い分が減っちまうと笑う父の意図は絶対に違うが、まるでそれが"自分の過去"を許そうとしてくれたように感じて、サッチは胸の奥が熱い砂に水がゆっくり染み込むような心地になったのを覚えている。
─── マルコの名前は、この時代にゃよくある名前だが…そもそもの由来は、軍神マルスだ。
サッチは口の中で繰り返す。
よくある名前だとしても、少なくとも北の海では全く聞いた事がなかったし、実際海に出てからマルコ以外にその名前を持つ人間と出会した事がなかった。
─── 軍神…ってことは、戦に強い神様かなんかってことで?
─── そうだな、それにあやかろうとした名前かどうかは知らねェが。きっと燃え盛る強さを火に見立てたんだろう。曜日で言やァ、火曜の守護神だったか。
それならば、サッチも朧げながら理解できる。これはどの国でも共通の概念で、一日を七日集めれば一週間だ。日曜日はソル、太陽神。月曜日はルナ、月の女神。火曜日にマルス、そう、マルスが居たが由来とは知らなかった。小さな匙を器用に使って、腹の足しにもならないだろう食事を口元に運ぶ白ひげの言葉に、ソファに軽く背中を預けながら思い出したと頷く。
昔々、それはもう神話が作られる様な時代には、マルスの日と呼んでいたのだろう。何となくだが、マルコの場合はその名前にあやかろうとしたよりは、その曜日に生まれたから捻りもなく付けた様な───環境が環境なだけにそんなおざなりな予感へ小さく鼻を鳴らす。
─── そりゃ、強いっスもんね、マルコ…軍神かぁ…。
少しばかり、含みを持った言い方になっていたのは確かだ。それを感じ取ってかどうか、寝っ転がっても尚広々としているであろう規格のソファの背もたれに身体を預けるサッチに、白ひげの黄金色の瞳が向けられる。
─── ……そういやサッチ、オメェ昔に比べてマルコの戦闘を目にする機会が増えてるだろ。
─── えっ?
─── 見ていて、どう思う。
基本的に、非戦闘員は戦闘員の邪魔にならない様に引っ込んでいるのが暗黙のルールだ。殺されるならまだ良い、余計な真似をして人質に取られるなんてのが、一番の最悪だ。分かっていて、こっそりとサッチが船近くで起きる戦闘を窺っていることを白ひげはお見通しだとした上で話を振っているのは明らかである。幾分かバツが悪いといった顔を隠そうともせず、サッチは素直に掌を膝の上で合わせる。
─── …いや、格好いいッスよ、実際。なんて言うか…、格好良いと思う。この海で一番強いのはオヤジだと思うけど、
─── グララララ!んな事言ったって、給料は増えねェぞ。
─── 十分過ぎるほどもらってますっての!!そうじゃなくて、アイツが青い焔を纏って戦場を飛び回る姿も、武器の類を手にしないで身体一つで命張るのも…、煌めく度に、胸が熱くなって、名前を叫びたくなるのも…。
素直な気持ちだ。
両手を膝の上で遊ばせる。
ずっと手を引いてくれる少年は青年になって、自分も同じ様に歳を重ねてきた。それでも、傷も痛みも恐れずに白ひげ海賊団の不死鳥として鮮やかに敵を蹴り上げ、薙ぎ払い、父に雑兵すら近寄らせないと気迫を漲らせる姿は確かに軍神の名前に相応しいだろう。全てがお見通しなのだろう、と落とした視線を挙げればしかし、どこか鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする部屋の主にサッチが瞬きを返す。
─── …………そうか。
─── え、何スか、今の微妙な間…?おれ、変なこと言ってました?本音、いやもう、マジで本音で…!!…それで、不安になるのも……事実ッスよ。……燃え盛る焔に…いつか飲み込まれちまうんじゃないかって、ひとり…、
今、寝台では燃え上がる再生の焔がマルコの身を包んでいるだろうか。再生の為に訪れる、ひとつずつの小さな死を、マルコが理解していない訳がない。不死鳥は、不死ではない。再生する為の怪我も、痛みも。
直前で開かれる死への扉を、繰り返し避けて閉じて折れた翼でも家族の為ならば嵐の先まで飛び続けるであろうマルコの強さが、サッチは堪らない程に誇らしく焦がれ、そして───、
─── ……切なくなる。アイツ、そのまま命燃やして…ひとりで全部、燃やし尽くしちまうんじゃないかって…、神様なんかじゃなくて、不死鳥でもなくて…本当は、ただの"人間"なのに。
不死鳥として生きようとするマルコを否定したいのとは違う、理解して、寄り添うには自分の弱さが浮き彫りになる。それが、堪らなく悔しいのだとサッチは両手で頬を覆っていた。
暫くの沈黙の後、空になった皿を前に軽く白ひげも背を椅子に預ける様だった。徐ろに口髭下の唇が開かれる。
─── ……アイツが、生き急いでるってのは確かに最近感じるところだ。サッチ、よく気付いてんじゃねェか。…頼みだって言ってた、"アレ"はそれが原因か?
─── 全てが全てって訳じゃないッスけどね、何かしら使えるなら、おれだって役に立ちたいだけで。かといって、おれの夢が変わったんじゃない。増えちまったんだよなァ…、おれ、モビーとオヤジと皆が大好きになっちまったから。
にひひ、と照れ臭く笑ってからのサッチの表情はまるで憑き物が落ちたように穏やかだった。
─── おれがおれである為に、おれのままこの船に乗り続ける為に、お願いします。見聞色の覇気が人より顕著だって言うなら、それを戦闘の方に活かしたい。コックをやめるつもりもない。一度しかねェんだ、人生なんて。欲張りに生きたいって、そう思わせてくれたのは…オヤジ達だから。
─── ……ったく、いいかサッチ。おれはな、一度息子にしちまったら、地の果てまで離れたって縁ってものは切らせねェぞ。マクガイの船に乗ったって、おまえに何かありゃあ、直ぐに駆け付ける。
─── 本気で来そうだからなァ、オヤジ…いってぇ!!
─── アホンダラァ、おれはいつでも本気だ。
ソファの隣に腰掛けるついでに、サッチの頭に落とされた拳骨に覇気なんてものは込められていない。この痛みが、もっと価値のある感情から来るものだと、教えてくれたのも他ならぬ白ひげだった。拳を受けた頭を抑えて悶絶するサッチの胸元に、指先が突き付けられる。
─── それでも、戦闘員に身を置くってのは…おまえの身体には消えねェ傷が一つ二つどころじゃなく刻まれることになる。モビーから離れるってことは、おまえにとっての安全地帯から離れることになるってのも分かってるんだろ?
サッチは答えなかった。
ただ、口元にはなだらかな曲線を描く笑みを乗せて。聞いてくれるな、とでも言わんばかりの決意はとっくに固めてあったのだから。生意気な、と髭の下で低く笑いながら船主は指先を引く。
─── ビスタや他の息子達からも何度も聞いた、風が呼んで、そろそろ潮時ってんなら…サッチ、おまえはおまえの海に出ると良い。その代わり、ひとつおれからの望みを叶えて貰おうじゃねェか。
─── 望み?そりゃ、何でもおれが出来ることなら…、
─── 出来なくたってやれ。…さっき言ってたろ。マルコは不死鳥じゃねェ、ただの"人間"だってな。
腕を組み顔を窓外に向ける白ひげの向ける眼差しは、今どこに向けられているのか。遥か彼方、海の果てなのか、それとも昏々と眠る息子に向けてなのか。サッチは、それを追いかけるように見上げる。
─── アイツは、アイツ自身でそれを忘れちまうことがある。人間じゃなく、不死鳥だってのが自分の本性だと…思い込もうとする。だが、マルコは人間だ。
─── ……そっスね。
─── だからよ、サッチ。オメェ、マルコの最後の砦になりな。鎖でも、重石でも、何だって良い。引き留める最後の碇になってやれ。
今日の月のように綺麗な金色だ。
この船に乗る者以外は、きっと恐れてしまって目を合わせることすら儘ならない瞳の色は、誰かを重ねて想わせる。夜の海を照らす、月光だ。
─── あのバカが、自分も何もかも捨てて突っ走る時が来るかも知れねェ。おれが止められる時には止める。だが、いつか…おれにも止められねェ時が来るかもしれねェ…。
─── それは…、
─── その時の備えだ。覚悟、出来てんだろう?
ニヤリ、笑う父親にサッチは暫く腕組みして顔を右に左に百面相させながら一頻りは唸った後に、理解ったと頷く。それが分かっていたように、頭を掌で撫でてくるものだから、何やら最初の独り言を始めとして上手く丸め込まれたような気がしないでもない。しないでもないが、自分が傷付く覚悟よりも、ずっと重たい覚悟も約束もしてきた。
だから、今更、勝手に傷付くなんて自分に許してはならないのだ。
「怒ってくれて良かったのになァ……、」
「ん?」
「別にィ?サッチくんは強くなりましたよ、そりゃおまえほどじゃないけどね、懸賞金確認してくれてねェの?」
「あんまり低過ぎると、おれの目が滑っちまっていくからねい…ははっ!冗談だ、ちゃんと目を通してるよい。そんな顔するなって…、」
「ひっでぇ、兄弟の活躍は一挙一動見ててくれねェとさァ、拗ねちまうよおれは」
あの時に決めた。
多分、この心を焦がす焔の名前は、とっくに知っている。それでも、意地でも認めるわけにはいかない。
マルコを繋ぎ止める役割だけは、誰にも譲らない。世界で一番の親友でいたい気持ちにも、世界で一番の兄弟でいたい気持ちにも───嘘ひとつない。
「不貞腐れんな、冗談だよい。金額が上がる度に、ちゃんと皆で酒の席で祝ってたに決まってんだろ?」
「そーね、どうせまだまだ低いとか、写真写りがアレだとかで散々盛り上がってくれたんでしょうねェ」
「僻むな、僻むな。…おまえが居なかったのが、全部悪ィんだから。懲りたなら、もうモビーから降りたりするんじゃねェよ」
五年間離れて、気持ちを少しでも薄められたら良いと願っていた。淡い期待は結局、叶わずにその分膨れ上がっただけだった。隠し通すにも、覚悟がいる。兄弟分が戻って来たと、五年も連絡を寄越さずに離れていた男に真底嬉しそうに笑える兄弟を、自分で今度は確かに手放す勇気も覚悟のうちに入っていた筈である。
サッチはすっかり長くなった髪の束を前まで持ってくると、ゆっくり膝の上で指先同士を重ね合わせる。
そうだよ、オヤジ。
潮が来たら進む時だ、止まってなんかられねェよな、おれ達。いつまでも、易しい浅瀬に遊んでられねェよな。
「マルコ、おれさ…タトゥー入れようと思ってんだ。オヤジの印、今まではずっと首から下げてたが…しっかりと刻み込みてェの。それ、マルコに頼んで良い?」
マルコの瞳が、一瞬ぱちくりと瞬いた後にすぐに破顔する。あどけなさがないだとか、少年の名残がないだとかは全部嘘だ。サッチが、そう思い込もうとしていただけに過ぎない。
「良いに決まってんだろ…!おれもおまえが戻って来たら入れようと思ってたんだ。どこにする?オヤジと一緒に背中に背負うか?それとも、おれは胸に大きく入れようと思ってんだ、真っ先に敵の目に入るように」
「あぁ、おれは…そうね、コックとして普通の店にも出入りするだろうから、おれだけが分かれば良いかなァ。脱がなけりゃ分からない…、傷を付けにくい…腰か、太腿か。それともうひとつ」
サッチは風に遊ばれる茶の髪を掻き上げる。
タトゥーは、ただの図案じゃない。それぞれ植物、生き物、象徴にひとつひとつ確かな意味を持っている。普遍的に、詳しくなくとも有名どころなら皆が大抵知っている。
「タトゥーの隣に、ちっちゃく入れて欲しいんだ。薔薇の蕾、図案はもう探してある。想い出の花でさ、……そんな顔するなよ、マルコ」
「……そんな顔って、どんな顔だい」
掌越しに見やる兄弟の顔が、何となく見られなくて目を逸らす。さっきまでの明るく弾んだ声色に戸惑いの色が確かに乗るのを意識的に遮断する。
驚くのは当然だ、マルコにとっては自分はいつまでも手を引いてやらなきゃならない、弟なのだから。
「おまえにはまだ早いって顔。おれもね、そろそろ良い歳だし、大恋愛の一つや二つするのよ。咲きはしなかったけど忘れたくないから、一番大事なところに刻んでおきたいの」
「………咲きはしなかった?」
「そう、やっぱり腰にしようかな〜、セクシーな感じでさ。おれの大人の魅力っての?」
わざとらしく、投げキッスを飛ばした指先で、そっとサッチは軽くシャツの下の肌に触れる。
刻んでおけば戒めになる、忘れないでいることを、そのせいにしたとしてもほんの少しの甘えは許されるだろうか。
「─── 好きだったんだ、ソイツのこと。多分、もうソイツ以上に…誰かを好きになるってことは、ないと思う」
頃合いだと言葉を区切り帰りを促すまで、マルコからめぼしい返事はなかった。離れていた間に、おまえこそ恋人でも出来たの?だなんて、未練がましく聞きたい言葉は有耶無耶なままで。
ザザァン……、ザザァン……
潮騒ばかりが、役目を終えた花弁を海の彼方に運んでいく。ロマンチストな自分を笑って、笑って、笑って、全てなかったことにしてしまいたい。
ぽつり、唇から吐息が溢れる。
「( ─── あァ…、花の葬列だ。)」
TO BE CONTINUED_