死ぬまでにしたいnのこと 前日譚『FBIを辞めたってほんと?!』
電話に出るなり、声の主は開口一番そう尋ねた。ストリートベンダーの列に並びつつ、赤井は小さく溜息を吐く。
「何だ藪から棒に……誰から聞いた」
『……とある情報筋ってとこ』
「どうせジョディだろ……ったく」
あ、バレた?と、まだ若い日本の名探偵が笑う。
黒ずくめの組織との戦いの頃から、ジョディは彼に対して驚くほど口が軽かった。
FBIを辞めると言った時も、辞表を出した時も、一番反対したのは彼女だ。
赤井が自分の意見など聞きもせずFBIを辞めると決めてしまったことを、誰かに愚痴りたかったのだろう。
列が進み自分の番が来て、赤井は店員にブラックコーヒーを注文する。
『赤井さんがFBIじゃないなんて、なんか変な感じ』
「そうか? ボウヤの差し金で大学院生だったこともあるがね」
『それでも、赤井さんはFBIの捜査官だったよ』
懐かしい話だ。
その組織を壊滅に至らしめてから、もう10年は経つ。
枝葉のように広がる末端を虱潰しにするのはそこからさらに数年を要したけれど、その為に日本で長い時を過ごした。
皮膚が、ひりつくような日々だった。
何度も命の危機を掻い潜ったし、また、その中で守れなかった仲間達もいた。
つい昨日までのことのようにも、遙か昔のことのようにも思う。
ぼんやりとその記憶に想いを馳せ宙を眺めていると、ベンダーの店員の元気な声が、赤井を現実に引き戻す。
コーヒーを受け取り、「良い1日を!」とかけられた声に、ありがとうと応えた。
『それで、これからどうするんだ?』
「……しばらくのんびりするよ」
『に、似合わねー……ほんと、何で辞めちゃったんだよ』
「事のあらましはジョディから聞いてるだろ」
『聞いてるけど……それだけじゃないんだろ?』
訝しげな名探偵の声は、あの頃とは違う声だけれど、いつも確信をつく。
赤井はそうだな、と笑って、公園のベンチに腰掛けた。
春の日差しは柔らかく、ジワジワと肌を温める。
2年前に、現場で怪我を負った。
街中で犯人を追いかけている最中、不意打ちを食い店の窓ガラスに犯人諸共突っ込んだのだ。
犯人は敢え無く逮捕されたが、ガラスの破片が左腕を深く傷付けた。
それ自体は完治したけれど、わずかな感覚の違いのせいか前のように引き金を引けなくなった。
スナイパーが遙か遠くの標的を狙い撃つのに、失敗は許されない。
ジョディがその程度問題ないと赤井を説得するも、赤井自身が持つ許容範囲があり、それを満たさないことはFBIを辞めるに足る理由だった。
そう、表向きには。
コーヒーに口をつける。
その香りに、春の空の色に、かの男の顔がチラつく。
日本での捜査を終えアメリカに帰国してから、赤井は言いようのない虚無感のようなものを抱えていた。
もちろん組織を潰したとしても悪人は絶えず、本国にいて暇だったわけではない。
けれどあの、少しでも采配を間違えれば全てが水泡と帰す緊張感が、身体中の毛が逆立つような空気が、その中を、国境を越えた仲間達と走り抜けたあの日々が、妙に輝かしく脳裏に焼き付いていた。
誰かに話したとして、きっと誰にも理解されないし、理解されたいとも思わない。
ただその空虚な毎日に嫌気が差した。
後進も育ち、率先して現場に出るのも憚られ、書類仕事が増えた。
昇進を何度も打診され、性に合わないと固辞し続けたけれど、それもそろそろ限界だった。
『……赤井さん?』
「……あぁ、悪い、何だ?」
『だから、一度日本に帰っておいでよ。世良のやつも会いたがってるぜ』
「……そうだな……」
『旅行なんていいんじゃない? 沖縄とか今なら人も少ないし』
「考えておくよ」
『全然来る気ねーじゃん……』
「まぁな」
『そういや降谷さんも……あっ』
「――降谷くんがどうした?」
その名前を聞いて、赤井は少し前のめりに食い付いた。
新一は「あー……」とバツの悪そうな声を出して少し考え込んでから、小さくため息をつく。
彼とは日本を経つ日に挨拶をして以来、全く連絡を取っていなかった。
『……本当は口止めされてたんだけど』
「何だ」
『降谷さん、警察辞めたんだ』
新一から告げられた信じられない言葉に、一瞬周りの全ての音が時を止めた。
彼が? 警察を?
その肩に使命を背負い立つ、凛とした姿を今でも鮮烈に思い出す。
あの輝かしい日々に想いを馳せる時、必ずと言っていいほど彼のことを考えていた。
いや、それだけではない。
彼のような背格好の人を見かけるたび、喫茶店に入るたび、コーヒーの香りを感じるたび、テレビで日本のニュースを見るたび、バーボンを飲むたび、赤井は彼のことを思い出した。
記憶の中にはいつも彼の存在があり、それはこの空虚な数年を過ごす標だった。
その彼が、警察を辞めた?
「何故だ」
『俺も訊いたんだけど、理由は教えてもらえなくて…』
「……そうか」
『……降谷さんも、今何してんのかな』
電話の向こうの彼は、かつて共に戦った仲間達が散り散りになっているのを嘆いているようだった。
恐らく新一も、あの日々を輝かしく思っているのだろう。
彼は、どうだろう。
自分と同じように、あの日々を、自分のことを、思い出すことがあるだろうか。
そう考えた時、赤井は唐突に理解した。
「ふ……」
『え?』
「ふふ……ふふふ、あははは」
『え、何、どうしたの』
「なるほどな……そういうことだったのか」
青天の霹靂だ。
あれほど輝かしく感じていたのは、あれほど焦がれていたのはあの日々ではない。
彼だったのだ。
互いの正体を隠してあの組織に潜入していた時も、死んだ自分を彼がひたすらに追いかけてきた時も、共に戦線を組み巨悪と立ち向かった時も。
いつだって彼は、自分の世界の光だった。
こんな簡単なことに気付かなかったなんて。
『あ、赤井さん? 大丈夫?』
「大丈夫だとも。いや、流石は名探偵だなボウヤ」
『何のこと???』
「旅行か……そうだな、いいかもしれない」
『え? ほんと何、どうしちゃったんだよ?』
突然訪ねたら彼はどんな顔をするだろう。
彼を連れ出そう。東都でなければどこでもいい、少し遠い場所へ。
新一の言う沖縄はなかなかいい。
あの頃では考えられなかったことを沢山しよう。
目の前の風景が突然拓けたように感じた。
こうして彼はまた、自分の世界を照らし出す。標となる。
彼はきっと知る由もないけれど。
「忙しくなるぞ」
『え? 何で?』
「じゃあな、ボウヤ。また連絡する」
『ちょ、待っーー』
半ば一方的に電話を切って、赤井は冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。
少し距離のあるゴミ箱に空のカップを放り投げると、綺麗な弧を描いてゴールする。
それに口角を上げて、幸先がいいと立ち上がった。
まずは飛行機のチケットを取ろう。
日本へのチケットを1枚と、東都から沖縄へのチケットを2枚。
宿も予約して、レンタカーも借りよう。赤いオープンカーがいい。
頭の中に次々とやることが浮かぶ。彼の顔が浮かぶ。頬が緩む。浮き足立っている。
こんな晴れやかな気持ちになるのはいつぶりだろうか。
FBIを辞めて、やりたいことがあったわけではない。
けれど不思議なことに、彼のことを考えるとあれもこれもとやりたいことが浮かんでくる。
これはきっと、“恋”という名の熱病だ。
空を見上げれば、高いビルに切り取られた青空が広がっている。
春の淡い青色に、彼の瞳を思い出す。
赤井は目を細めて、新たな未来への一歩を踏み出した。
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