特別捜査官×教授秘書の一ぐだ♀のつもりだったもの1
鐘の音が鳴った。講義の終わりを知らせる音だ。研究室にあるソファの上でペンを走らせていた藤丸立香は、その手の動きを止めた。そして、瞬きを数回し、顔を上げる。
鐘が鳴ったということは、そのうちに授業を終えた教授がここに戻ってくる。立香は、ペンと数字が詰まった紙束を座っていたソファの上に放り、腰を上げた。
ミニキッチンへ移動し、ケトルの電源を入れる。珈琲をいれるためだ。
豆は、珈琲にこだわりのある友人が立香宛てに季節ごとに適したものをセレクトして送ってくるので、それを使う。彼が送ってくるペース的に、仕事場でも消費しないと間に合わないのだ。
コーヒードリッパーをセットし、紙フィルターの中に週末にあらかじめ挽いておいた珈琲豆をいれる。立香自身は、そこまで珈琲に関してこだわりはない。そのため、1週間分纏めて挽いたものをストックして使っている。
ここまで準備したところで、研修室のドアがノックされた。教授が戻ってくるには少しばかり早い。
「どうぞ」
「失礼します」
入室を促せば、入ってきたのはスラリと背の高い青年だった。Tシャツにチノパンというラフな装いから、学生かと思った。しかし、学生にしては大人びた顔つきと纏う雰囲気から、恐らく教授の仕事相手だと察する。
「こんにちは、モリアーティ教授と15時から約束があるんだ。待たせてもらってもいい?」
「そういうことでしたら。お掛けになってお待ちください」
「どーも」
へらりと人好きのする顔で礼を言った彼に対して、立香も小さく笑みを返す。予想通り、学生ではないようだ。
ケトルからピピピと軽快な音が鳴った。ドリッパーに湯を注げば、ふわりと珈琲の香りが広がる。立香は大して繊細な嗅覚はもっていないが、この瞬間に広がる香りはとても贅沢なものだと思う。
「えっと。すみません、お名前伺っても?」
「僕?サイトウでいいよ」
「サイトウさん、珈琲どうぞ。あともし良ければチーズケーキ、お口に合いましたら召し上がってください」
「わざわざどーも。僕甘いもの大好き」
サイトウと名乗る彼に、淹れた珈琲と茶請けを運びつつ、立香は彼の顔に視線を移した。切れ長のタレ目とゆるく結ばれた口元は柔和でいて、ニヒルな印象を受ける。ラフな格好から若く見えるが、実際の歳は20半ばか、もう少し上だろうか。その外見にしては、やたらと落ち着いた雰囲気を持つ男性だと思う。
「可愛い子に見つめられると照れちゃうなぁ」
「あ、不躾でしたね。ごめんなさい」
「いーえ?存分に見ていーよ」
「いえ、もう結構です」
軟派な質なのだろう。へらりと自然体で洒落を言う彼に対して、立香は苦笑いを返す。それでいて、彼は未だ笑みを浮かべたままである。それから、彼は、機嫌良さげなままで、カップを口に運んだ。
「ところで、秘書ちゃん名前」
「こーら、私の秘書くんに手を出さないでくれたまえよ」
サイトウの言葉を、重々しいテノールの声が遮った。いつの間にか、立香の上司、モリアーティ教授が、腕を組み、呆れた様子で、ドアに寄りかかるように立っていた。立香が腕時計を確認すると、鐘が鳴ってから23分が経過していた。前回の講義より戻りが10分早い。あとは教授に任せようと立香はサイトウから背を向けた。
「出してませんって。こんな可愛い子何処で拾ってきたんです?教え子だったり?」
自分に関する話題に立香の脚が止まる。スルーしてこの場を離れるのはやや感じが悪いと思ったからだ。
「人聞き悪いこと言うねぇ君は」
「教授、こちらの方はどちら様?」
困った立香は、教授に無難な質問を投げた。モリアーティは、サイトウの座る正面側のソファに腰を掛けて、彼を一瞥した後、鼻を鳴らした。
「ちょっとした手伝いを頼んでいてね。今後もここを尋ねてくるだろうから適当に対応してネ。無論愛想は不要だよ」
「愛想あった方が嬉しいかなぁ僕は」
「そうですか、わかりました」
「あ、秘書ちゃん秘書ちゃん」
曖昧に会話を濁して今度こそその場を離れようとした立香を、再度、サイトウが引き止める。
「名前、教えてよ。今後長い付き合いになる訳だし」
「私は長い付き合いにはしたくないけれどネ」
「長い付き合い」という表現と、それに対するモリアーティにしては珍しく突っぱねきらない反応に、立香は、若干の違和感を持った。そして、確かに、自分が名乗っていなかったことを思い出した。
「すみません、名乗っていませんでした。藤丸立香。モリアーティ教授の秘書みたいなことやっています」
「みたいな?」
「あんまり秘書としては役に立ってないと思うから」
立香の返事にサイトウは目を大きく開いた。次いで、彼は、全面に悲壮感を出しているモリアーティに視線を移し、どういうことだと目で説明を促した。
「そんなことはないとも!君は実によく働いてくれてるといつも言っているだろう?」
「教授は私に甘すぎるんです」
「これ僕聞いていい話?」
サイトウは、若干戸惑った様子で立香に問うた。立香はその反応を見て、少しばかり考えたあと、彼の思ったことを察した。
「決してやましい関係ではないので問題ないです」
「そうそう、私達はそんな単純な関係ではないとも」
「教授、話ややこしくしないで」
未だ訝しげな目で見てくるサイトウとその視線を受けても何処吹く風といった様子のモリアーティを見て、立香はため息をつく。モリアーティのこういった振る舞いは、しばしば立香を悩ませる。
「秘書としての事務を全くやっていない訳ではないですけど、どちらかというと、教授の話し相手がメインなんですよ。私も数学を少し齧っているのもあって」
「へぇ」
「露骨に興味示すなよ君。あ、立香くん、私も珈琲飲みたーい」
「はい、今用意しますね」
教授の露骨なおねだり仕草に立香はくすりと笑いながらミニキッチンへと向かった。おしゃべりはこの辺で充分のようだ。もっとも、モリアーティは、立香のいれる珈琲を気に入っているようで、このように強請られるのは日常的なことだ。立香が手を動かしながら再度2人の方を見れば、彼らは仕事の話を始めている様子だった。
「藤丸ちゃん」
掛けられた声に立香は息を飲む。立香は、モリアーティに珈琲を渡した後、早々に仕事のメールの返信を終えて、それから本を読んでいた。壁にかかった時計を見れば、本を読み始めた時から38分が経過していた。窓から差し込む光は先程よりも薄く、弱くなっている。
「もう帰られるんですか?」
「必要な話は済んだからね。珈琲にケーキご馳走様」
そう言いながら、斎藤は椅子に座っている立香に片手を差し出した。手のひらには苺模様の包装紙に包まれた飴玉が3個乗っている。
「よっぽど集中してたみたいだから。ちゃんと休憩もとりなね」
「お気遣い、ありがとうございます……?」
先程知り合ったばかりである人間からの気遣いに若干戸惑いながら、立香はおずおずとその飴玉を受け取った。幼児が好むようなファンシーな包装紙に包まれたそれは、サイトウのイメージには全くそぐわないもので、彼の人物像がさらに分からなくなる。
「出口が分からなかったのかな?」
「わぁ、怖い目。心配しなくとももう退散しますよっと」
彼はひらりと手を振り、またねと告げた後、研究室から出ていった。距離感が掴みづらい変な人だ。立香はぽかんと出口を見つめ、モリアーティは不機嫌を隠さずに再度鼻を鳴らした。
2
「おや、今日は藤丸ちゃん1人?」
かけられた声に、PCと向き合っていた立香は顔を上げる。研究室入口のドアの前には、斎藤が立っていた。
斎藤が初めて研究室を訪れてから、3ヶ月が経つ。彼はおおよそ週に1回、この研究室にやってくる。そこそこの頻度で現れる彼は、結構な話好きだった。彼に合わせて世間話を繰り返すうちに、立香と斎藤の仲は、そこそこ顔馴染み程度にはなっていた。
「教授は今講義中でして」
「あら、珍しく働いてるんだ」
「あれでいて働いてない訳じゃないんですけどね。今期は講義を受け持っているので、木曜日のこの時間は不在にしてます」
立香の返事に、ふうんと軽い返事をした彼は、数秒窓の外を見つめた。立香も併せて視線を動かせば、晴天の空と初夏の装いを始めた木々がその目に映る。外に出たら、とても気持ちが良さそうだ。
「ひやかしに行っても内容さっぱりだろし、ここで待たせてもらうよ」
彼は、定位置である来客用のソファに腰を掛けた。この時間の講義が終了するまではあと20分以上ある。つまり、それまでの間、おしゃべり好きな彼の相手をする必要がある。
別に、立香は特別彼と話をしたい訳ではないし、仕事にはそのような業務は含まれていない訳だが、立香が仕事を進めようとしても、斎藤がちょくちょく話しかけて気を散らしてくるので、単純に相手をしないというのは立香にとって非効率的だった。
「珈琲でいいですか?」
「悪いね」
「いえ、今ご用意しますから座ってお待ちください」
「藤丸ちゃんってさぁ、若く見えるけどまだ学生さん?」
斎藤は、たまに、立香自身についての質問をしてくる。そして、その質問内容については、仕事相手にするには些か遠慮がないものが度々含まれていた。余計なお世話ではあるが、立香は彼のコミュニケーション方法について、若干の疑念を持ちつつある。ただ、普段の振る舞いからして、その辺りの塩梅が下手には見えないのがまた奇妙に感じていた。
「最近成人年齢が引き下げられたので、もう成人してます。院まで飛び級で卒業しちゃったので、学生ではないです」
「うわ、優秀なんだ。流石あの偏屈爺さんの秘書やってるだけある」
彼の質問に正直に答えれば、斎藤から返ってきたのは純粋な驚きの反応だった。反応に困る嫌な感情が含まれたものではないことに、立香はほんの少しホッとする。
「あの人の近くにいたのでそんなこと思ったことないですよ。私なんかはただの凡人」
立香は、使い慣れた返事をした。
これは、謙遜でも自虐でもない。まっさらな立香の本心だ。立香は、博士号を取得できた程度には充分な頭脳も才能もあったが、ただ、それだけだった。幼少から、モリアーティを始めとした、アカデミーの中から頭が何個も飛び出た、その時代の先頭を行く天才たちが身近にいた立香は、自分を彼らと同等だと思ったことはこれまで1度たりともない。
「斎藤さんこそ。あの人にお仕事任されるなんて何やってる人なんですか?」
少し喋りすぎたと立香は思った。これ以上この話を続けても下手に要らぬ気を遣わせるだけなので、彼女は話題を変えた。
僅かな時間、斎藤は、立香をまっすぐ見ていた。見慣れない真面目な表情をしていた彼は、一瞬立香から視線を外した後、それから間を置かずに彼女に視線を戻した。その表情は、3ヶ月で見慣れた緩いものに戻っていた。
「僕?ただのフリーターのお兄さんだよ」
「前職とかは?」
「秘密」
次に彼が表情に貼り付けたのは、他者に有無を言わせない圧のある微笑みだ。
立香は、斎藤が彼自身についての質問を受けることを好まないことはこれまでで察していた。この点、彼自身の振る舞いに比して、全くフェアではないと立香はそこそこ腹ただしく思っている。といっても、その感情には、彼に噛み付く程の熱量はないので、立香は、すぐに彼から目を逸らした。
「なら聞きません」
立香が彼に忖度した返事をしたことで、彼女にかけられていた圧迫感は霧散した。出力先であった当人は、猫のように目を細めた笑みを浮かべており、立香の返事に満足した様子だ。立香は小さくため息をつき、彼の前にあるテーブルに珈琲と茶菓子を置いた。
「珈琲です。シフォンケーキはお好きです?よかったらお茶請けにどうぞ」
「好き好き、ありがとう」
斎藤は、シフォンケーキを三等分に切り分け、その一つを口にした。彼は、一口がやや大きい。
「教授はフランクそうに見えて相当癖あるでしょ。だけど上手くやってそうだよね」
「付き合い長いんです。というか育ての親なんですよ」
「……へぇ、そうなんだ?」
「私、孤児院育ちなんですけど、10歳の頃にあの人に引き取っていただいたんです」
立香の雇い主であるモリアーティは、立香が10歳の時に、孤児であった彼女を引き取り養子に迎えた。その時から今現在まで、立香はモリアーティと暮らしている。
モリアーティは、理知的で、ユーモアがあって、傍に居て楽しい人だ。彼は、立香を実の娘のように愛してくれた。時折うざったいところもあるが、そこを含めても良い養父だと思う。
そんなモリアーティは交友関係が広い。彼が交流する人達は、学者や研究者だけでなく、軍や警察関係者、中には表社会には属していない素性が知れないような者もいた。モリアーティと暮らし始めた立香は、彼との生活が1年経つ頃には、彼が持つ仄暗い一面を察していた。
直接的な犯罪行為を見聞きした訳ではない。しかし、モリアーティと交友する一部の人間は、通常、一般人が接するような人間ではなかった。
この点について、今まで、立香とモリアーティの間では、直接に話題にしていない。立香からすれば、自分が直接に知らないモリアーティの一面にはあまり関心を持っていなかったから、モリアーティの立香に対する距離の置き方は、好ましく感じていた。
「感謝してるんですよ。だいぶおかしな人だけど、良くしてもらってます」
「ふうん」
立香は、斎藤という人間も、モリアーティの影の一面に関係する人物なのだろうと察している。養父にとっての敵か味方かは、立香には分からない。首を突っ込むつもりもない。
ただ、彼のこの掴みどころのない距離感を見誤ることの無いようにしないと、立香自身の身が危うくなるだろうとは思っている。
「恋人はいるの?」
「……なんですか、いきなり」
突然降ってきたデリカシーのない話題に、立香は眉をひそめた。
「いや、気になっちゃって。藤丸ちゃんそういう気配全然しないから」
斎藤は、立香の不快感を隠さない微妙な反応には気にしない様子で、からりとした様子で話を続けた。
立香は、斎藤に対して、相手がマイナスの反応を返しているのだから、少しは自重するなり気遣う返しをするべきだと呆れた。しかし、それを指摘するのは面倒だったので、そのまま適当に話題に乗ることにした。
「お察しの通りですよ。色恋沙汰には縁がなくて」
「意外。こんなに可愛いのに」
「歳の離れた人と接する時間が長かったから。そういう空気になること無かったんです」
立香は大学に入る前まで、同年代の友人と接する機会は多くはなかった。モリアーティが彼女の交友を制限していたなどという訳では無い。孤児院をでて、生活環境が変わった立香の周りには、昔からの馴染みの友達はいなかったし、立香が飛び級を重ねたことで、学校で同年代友人を作ることは少し難しかったのだ。
そのため、彼女が接する相手は、歳上の同級生、若しくはモリアーティと接している大人達が大半の割合を占めていた。そうなると、彼らの中に、歳の離れた幼い立香に恋愛的なアプローチをしてくる者はおらず、立香自身も彼らに恋愛的感情を抱いたことは無かった。
「ちょっと歳の離れた男とかにキュンとしたりとかなかった?」
「はぁ、特には」
「女の子って年上の男好きになる時期ない?」
「少なくとも私にはなかったですね」
斎藤は、珍しい生き物を見るような目でまじまじと立香を見つめた。立香はそんな彼に呆れた視線を返した。
「サイトウさんとかモテそうですよね。フットワーク軽そう」
「それ、褒めてないよね」
「貶してるつもりまではないです」
「はは」
面倒だからいいかげん自重しろといった趣旨は察しのいい彼には恐らく伝わってはいるだろうが、彼は楽しげな様子だ。立香は、ソファの背にもたれて、斎藤から視線を逸らした。
「僕、教授が藤丸ちゃんのこと気に入ってるのなんか分かってきたなぁ」
「別に分からなくていいですよ」
「つれないなぁ。でも媚びないとこも好き」
「反射的に口説き文句が出る仕組みなんですか?」
「本心だよ」
「センスのない冗談はやめてくれたまえよ」
不機嫌を隠さない声の主は、モリアーティだ。そういえば、少し前に鐘の音が鳴っていた。立香が腕時計を見れば、講義の終了時刻から17分が経っていた。
モリアーティは、足早に2人に近づき、斎藤の左正面である立香の隣のソファに腰を掛けた。
「教授、お邪魔してまあす」
「立香くん、真面目に相手しなくていいのよこういうタイプは。相手にすると余計に面倒くさい絡み方してくるから」
「でたー過保護」
このようにあからさまに不機嫌を隠さないモリアーティは珍しい。基本的に誰に対しても人当たりの良いモリアーティは、単に立香に近づく男性というだけではこのような対応はしない。斎藤の何が、モリアーティの琴線に触れるのか、立香は少しだけ気になっている。
立香は、斎藤に視線を向けた。立香の視線を受けた斎藤は、さも自然に笑みを返す。立香は、笑みを返すことなく、そのまま彼を見つめ、それから視線を逸らし、ソファから腰を上げた。
「斎藤さん、教授に用があるって」
「ん、あー、はいはい」
「私は別件の用があるので失礼します」
立香は返事を聞く姿勢は見せずに足早に研究室を出た。本当は別件の用事などなかったが、あの場にいると面倒くさそうだったし、今日みたいに天気の良い日は室内にいるべきではないと思ったからだ。
立香が部屋から出て行き、扉が閉まると、斎藤が纏っていた雰囲気はその性質を変え、場の空気を重くする冷ややかなものへと変わった。口元の笑みは残したままだが、その目からは感情らしい色が消えている。
「なぜ、彼女を引き取った?」
「第一声がそれかい。君のその質問に答える理由はないよ」
「純粋な社会奉仕の精神なんてもち合わせていないだろう、あんたは」
「全くもって失礼だな」
モリアーティは小馬鹿にするように笑って、珈琲を口に運ぶ。斎藤は、視線を逸らすことなく、真っ直ぐにモリアーティを見る。
「君たち国側の人間は、さも当然のように人のプライバシーにズカズカと踏み込むが、全く気に入らんね。港町の野良猫の方がよっぽど品を持っている」
「あんたのほうこそよっぽどタチの悪い踏み込み方をするだろうが」
「それが悪だという自覚を持ってね」
にこやかに毒を含んだ返答をしたモリアーティに対し、斎藤は表情を変えることなく、目の前の相手をそのまま刺すように見詰める。モリアーティは、それをつまらないとばかりに、ため息を吐いて、斎藤から視線を外した。
「生憎、相互理解しあうことないとわかっている議題に時間を溶かしている時間は私にはなくてね」
「話を逸らすな」
斎藤は口元から笑みを消して告げた。斎藤の言葉を受けて、モリアーティがつまらないといった表情で、再度目の前の相手に視線を向ける。細めた目から出たその視線は、先ほどにはなかった鋭利な冷たさを帯びている。
「彼女のことで、君に、話すことはない」
底冷えのするような声でモリアーティは告げた。斎藤は片眉をあげ、視線をそのままに首を少し横に傾けた。
「君たちは人間社会でいう契約というシステムを理解していないようだから再度言うが、私と君らがかわしている契約は隷属契約ではない。君たちが私に頭を下げる形で望み、結んだ、犯罪捜査協力契約だ」
「頭を下げた事実はない」
「実質的には変わらないだろう」
モリアーティは、大学で教鞭を打つ数学教授である。研究者として、その成果は学会で評価されており、メディアにも露出していることから一般的にもその名は知られている。
一方で、彼は、その光の側面の裏に、犯罪コンサルタントとしての顔も持ち合わせていた。モリアーティは、人が持つ自らの力では咲くことがないであろう負の種を、華麗なる完全犯罪へと開花させる。
そして、彼の活動範囲は、この国のみにとどまらない。世界中の大小を問わない数多の犯罪が、彼によってプロデュースされているのだ。
国家は、数年前からモリアーティを重要人物として秘密裏にマークしていたものの、一切の証拠が得られず、未だその身を拘束できていなかった。
そこで、国は、捜査の方針を大きく変更した。モリアーティを国への協力者という形式を採って、その身を直接監視することにしたのだ。そして、彼の監視役として拝命を受けたのが、保安局刑事二課所属の特別捜査官、斎藤一であった。
「あんたこそ勘違いするなよ。この契約の主たる目的は、あんたの監視だ」
「一応本人相手にはそういうのは隠すべきだと思うがね」
「隠すも何も、全部知ってる相手に隠す素振りをするのはあまりに間抜けだろ」
「面白いエンターテイメントが見れなくて残念だよ」
斎藤は、藤丸立香について、この場で情報を引き出せることはないと判断し、モリアーティから視線を外した。もとより、一通りの情報は手元には揃っており、彼女の身が潔白であることは疑いようがない状態である。しかし、それは、目の前の悪のカリスマ、モリアーティについても言えることであり、それ故に彼女の潔白は晴れていない訳だが。
モリアーティは、ソファから立ち上がり、執務机から角形封筒を取り出した。
「さて、これは君たちが欲しがっていた情報だ」
「今回の交換条件は」
先の通り、モリアーティと保安局が結んだ契約は、双方にその選択に裁量があり、相手の要求に応えた場合、大きなリターン、そしてリスクがある。つまり、保安局がモリアーティに協力を求めれば、彼はその要求について、許諾の選択肢があり、応えた場合、その対価を保安局に求めることができる。もはや司法取引の限界を越えた契約である。
斎藤は、口に出しながら、あまりに馬鹿げているこの取引きの内容に嘲笑が溢れる。目の前に立つ、この前例のない契約をこの国の保安局相手に結ばせた怪物は、目を細めて上品な笑みを口元に浮かべた。