舌の上にハチミツ【原作軸両片想い】「恋人」であるヴィクトル・ニキフォロフと勝生勇利には、互いに明かすことの出来ない小さな秘密があった。
「ああ。後悔してるよ、クリス」
ヴィクトル・ニキフォロフは電話口に静かな声で言った。
「あの夜に、あんなに酔わなければって。おれだって、あんな形でユウリとセックスしなかったのに」
その時であった――部屋の扉の、軋む音がした。はっとして振り返った男が見たものは、結ばれたばかりの「恋人」勝生勇利の姿。青年の顔色は青く、そのアーモンド色の瞳は確かにヴィクトルを映していた。男の姿が、じわり、あふれる涙に滲んでいく。
「……ヴィクトル。やっぱり、僕と『した』こと、後悔してるんだ、」
「違うんだ、ユウリ。これは……!」
焦った様子のヴィクトルが、青年へと手を伸ばす。しかし、差し出された指先は、無情にも振り払われてしまう。涙をこらえるように一文字に引き結ばれていた勇利の唇から、震える声が絞り出された。
「――ごめん。もう、いい。ヴィクトル、本当は嫌だったんでしょ。『恋人』になんてしてくれなくていいから。『あの日』は何もなかったんだ。もう、全部忘れて」
「ユウリ……!」
ヴィクトルの制止も虚しく、勇利は扉の向こうへと駆け出して行ってしまった。通話相手の友人に一言詫びを告げてから、電話を切ったヴィクトルは急いで青年の後を追った。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう――全ては、ヴィクトルと勇利の小さな『嘘』が始まりだった。
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チムピオーンのリンクは、今日もいつも通り平和な日常であった――ただ一つ、ヴィクトル・ニキフォロフのテンションの高さを除いては。
「ねえ、ユウリ。今日の帰りはどこにご飯食べに行く? それともテイクアウトにする?」
リンクサイドのベンチに座るヴィクトルは、自らの隣に腰掛ける愛弟子――勝生勇利へと声を掛けた。
「えっ!?」
突然話しかけられた青年は驚き、スケート靴を結んでいた手を止めてコーチを見やる。大きく揺れるアーモンド色の瞳。わずかな戸惑いを浮かべる青年のその肩を、構わずヴクトルは抱き寄せた。
「時間もあるし、二人で一緒に作るのも良いね?」
「あっ……えっと、あの」
「あっ、それと明日はオフだから、デートに行こうよ。ユウリはどこか行きたい所ある? おれはねー、」
吐息が触れるほどの距離。矢継ぎ早の質問。勢いに押され、答えられずにいる青年を気にすることもなく、尚も語り続けるヴィクトル。
「……び……ヴィクトル。あの……大丈夫?」
「? 何が?」
ようやく控えめに口を開いた青年の言葉に、男は美しく首を傾ける。しかし、その問いかけに応えたのは、残念ながら勇利本人ではなかった。
「ヴィーチャ! いい加減、カツキから離れろ!」
少しばかり遠くから怒号が聞こえる――声の方向を見やれば、廊下へと繋がる扉の前に真っ赤な顔をしたヤコフが仁王立ちしている姿が見えた。ヤコフは、苛立たしげに腕時計を叩きながら言った。
「お前は3時からミーティングだと、言っただろうが!」
「あっ、そうだった! ごめんねー、ヤコフ!今すぐ行くよ!」
言葉とは裏腹に反省した様子のないヴィクトルは、薄い笑み浮かべたままベンチから軽やかに立ち上がる。そして、
「わっ……!」
「ユウリ、また後でね――愛してるよ」
無防備な青年の頬へ口づけたのだ。更にひどく甘やかな声で愛の言葉を囁いたロシア男は、軽やかに足取りで嵐のように立ち去ってしまった。
不意打ちのキスに驚き、耳まで真っ赤にした勇利だけがその場に残された。
その光景を目撃してしまったのは、リンク上で緩やかに流していた、ユーリ、ギオルギー、ミラの三人である。
「ちょっと、あれ何? ヴィクトル、『愛してる』って言ってなかった?」
襟足の髪を払いながら怪訝そうにミラが言う。常日頃スキンシップが多いヴィクトルと勇利ではあったが、今日はいつも以上にふたりの距離が近い。おまけにヴィクトルは、あからさまに何時もより浮かれているように見える。
「私も気になって、ヴィクトルに聞いてみた。何やら『長年の恋が成就した』などと言ってたな」
「まじかよ……」
神妙な面持ちで呟かれたギオルギーの言葉に、不機嫌そうにユーリが眉をひそめる。真相を追い求める三人の目の前に、休憩を終えた勇利がやってきた。そのまま氷の上を通り過ぎようとする青年に、ユーリが声を掛ける。
「おいカツ丼! お前、ヴィクトルと付き合うことになったのか?」
「えっ?! あ……その……う、うん」
わずかに躊躇いながらも、嬉しそうに頷く勇利に、三人から賑やかな歓声があがった。
「……愛だな」
「浮かれて練習さぼるなよ、ってジジイに言っとけ」
どこか遠くを見つめるギオルギーに、素直ではない祝福を送るユーリ。
「まあ、付き合ってないのが不思議なくらい、二人共くっついてたもんね。でもなんで今のタイミングで? 何かきっかけがあったとか?」
そして、リビングレジェンドのゴシップに興味津々のミラ。
「……きっかけっていうか、」
きらきらと好奇心に輝くまなざしに覗き込まれた勇利は、あからさまに目を泳がせ、動揺した様子を見せた。徐々に真っ赤に染まる頬。開きかけては、真一文字に結ばれる唇。
質問の答えを待つ、まっすぐな三人の視線に耐えきれなくなった青年は、突如慌てたようにゆるゆると首を振った。
「ひっ、秘密……っ!」
「あっ! おいっ、カツ丼……!」
とっさに伸ばされた少年の手をすり抜けて、勢いよく氷の上を駆け出してしまう勇利。
「――なんだよ、いきなり」
突然会話を終了させられ、不服そうに肩をすくめるユーリの後ろで、勝生勇利の態度を見た大人ふたりは、言われずとも『事情』を察してしまったようであった。
「ヴィクトルが、やらかしたに一票ね」
「まあ、カツキが幸せなら良いだろう。それもまた、愛だな……」
「何言ってんだ、二人共」
それぞれ、思い思いに呟いて練習へと戻るユーリ達。チムピオーンの午後は、こうして表面上は平和に過ぎていくのであった。
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「ヴィクトル、牛乳買った?」
手元に握った携帯電話のメモアプリに目を落としながら勇利が問いかければ、カゴの中を確認したヴィクトルが珍しく慌てる。
「あっ、忘れてたね。ユウリはこのまま並んでて」
「うん、ありがと」
軽やかに駆け出していったヴィクトル――「恋人」の後ろ姿を見送りながら、勇利は落ち着かなそうに周囲を見回した。
オフの12時頃――二人が訪れていたのは、近所にある大型のスーパーマーケットであった。ちょうどピークの時間と被ってしまったため、レジ精算の列には沢山の人が並んでいる姿が見える。ペットボトルだけを胸に抱えた女性、大量のお菓子をかごに詰め込んだ少年たち、小さな子供連れの家族、そして――恋人たち。
「……」
この場所の中で、一体、自分とヴィクトルは、周囲の人達からどのような関係に思われているのだろうとふと勇利は思った。
「お待たせ、ユウリ」
そんな思考の海から現実へと引き戻してくれたのは、聞き慣れな明るい想い人の声だった。
「あっ、ありがとう。ヴィクトル……」
いつもの銘柄の商品をカゴにそっと入れるヴィクトルを、じっと見つめるアーモンド色の瞳。その視線に気付いた男は「恋人」に向かってフッと優しく目を細める。
「……どうかした?」
「ううん、ごめん。何でもない」
「そう?」
いつも通りの様子の勇利が左右に首を振れば、その話題がそれ以上掘り下げられることはなかった。
会計が終わり、二つのエコバッグに品物を詰め込む。店の外へと出れば、薄い水色の空が広がり、やわらかな春の風がふたりの頬をそっと撫でた。歩き出してすぐのことである。ヴィクトルは荷物を持っていない方の左手を青年の前へとそっと差し出した。
「手、繋ごう? ユウリ」
「あっ……」
――手を繋ごう、と。
問いかけはしたがその返事を待つことなく、まるで当たり前のように勇利の右手を握る男の手。骨張った指先が絡められ、探り当てたペアリングをそっとなぞりあげた。
「び、びくとる……」
初めての触れ方に動揺してしまう勇利。そんな「恋人」の顔を覗き込みながら、ヴィクトルは少しばかり意地悪く微笑んだ。
「何? もしかして緊張してる?」
「手、繋ぐだけで、緊張なんてするわけないでしょ。僕だって24歳の成人男子なんだから!」
負けず嫌いの弟子が、コーチの挑発に乗らないわけがないのだ。不服そうにに頬を膨らませた青年は、繋いだ手をぶんぶんと振ってみせる。
「そうだね。帰ろう、ユウリ」
ふわりと笑ったヴィクトルは、やわらかく「恋人」の手を引いた。風をはらんだコートが静かに揺れる。穏やかな沈黙が流れた。
その隙間に勇利は、言った。
「……ヴィクトル、お腹空いた?」
「うん。早く、ユウリとカツ丼作って食べたいよ」
オフの日が被る度に二人揃って買い物に出掛けてランチやディナーを作り、食卓を囲む――勇利がサンクトペテルブルクに拠点を移し、ヴィクトルの部屋で「同居」を始めてから三ヶ月。いつの間にか、そんな習慣がヴィクトルと勇利の間に出来ていた。
「カツ丼、一緒に作るのもう二回目かな」
「そうだね。ユウリ、ちゃんと体型もキープしてるから。『こぶたちゃん』になったら、カツ丼は禁止だけどね」
「もう、こぶたになんかならないよ!」
少しだけ意地悪く笑うヴィクトルに、青年は抗議の意味も込めて、繋いだ手の力を強めた。しかしその直後、深いアーモンド色の瞳を大きく揺らしながら小さく口を開いた。
「一ヶ月前にも作ったね……ヴィクトルと……その、こ、『恋人』になる前も」
恋人、という言葉がためらいがちに発せられる。ほんのりと赤らんだ青年の頬。ヴィクトルはやわらかく首を傾けた。
「? そうだね」
「なんか変な感じ、」
「どうして?」
大通りを通り過ぎて、ヴィクトルのマンションがある小道へと入っていく。人の目が途切れた。緑木の影が優しく青年の頬に落ちる。
「僕たち……付き合ったけど、何も変わらないんだなって。その……良い意味で」
少しだけ驚いたように見開かれた青い瞳は、すぐにふっと眩しそうに細められた。
「変わらないよ、ユウリ。気持ちは確かめたよね?……おれたちは、ずっと想い合ってた。実際、恋人同士みたいなものだよ」
微笑みながらそう言ったヴィクトルは、「恋人」の右手を取るとその手の甲にそっと冷たい唇を寄せた。吐息が触れたまま、男は勇利を見つめる。その眼差しの真摯さに戸惑ったように、青年はなぜか泣きそうな顔で唇を噛み締めた。
「ヴィクトルは、嫌じゃないの? 僕とその……『セックス』、した、こと」
問いかけの答えに、一瞬の沈黙があったことに気づいてしまう勇利。しかし、その直後ヴィクトルはゆるゆると左右に首を振った。
「どうして? 後悔なんてするわけない」
「……」
「こと」の始まりは三日前――
久しぶりに二人揃ったオフの前夜、寝支度まで済ませたヴィクトルと勇利はそれぞれ好きなアルコールを際限なく飲みまくった。
他愛のない会話はいつの間にかスケートの話になり、完全に酔いが回った勇利は、ヴィクトルのスケートがいかに素晴らしいか、子どもの頃からいかにヴィクトルに憧れてきたか、そして今、ヴィクトルとスケートが出来ることがどれ程幸せなか、と――まるで二人が出会った夜のように、アーモンド色の瞳を輝かせながら語り続けた。
勇利の力説にヴィクトルはひどく感動したらしい。アイスブルーの眼差しで熱っぽく愛弟子を見つめながら絶対王者は言った。おれだって、おれだってユウリと一緒にスケートが出来ることが嬉しい――おれ達、同じ気持ちなんだねと。
感極まったヴィクトルは、青年の身体を抱きしめて、そして――
そして目を覚ました時――一糸まとわぬ姿で、ヴィクトルと勇利は一つのベッドの中で朝を迎えたのだ。強い光に瞼の裏を射抜かれ、起き上がったヴィクトルは、既に目を覚ましてぼんやりとしている様子の勇利に慌てて問いかける。
「……ユウリ。もしかして、おれたち」
頬を赤く染めたユウリは、何も言わなかった。ただ「状況」が、全てを示していた。
「……」
わずかな沈黙の後、黙って頷く勇利。そんな青年を見て、深く息を吐いたヴィクトルは、しかしその次の瞬間には告げたのだ――恋人になろう、と。勇利はためらいながらも男の提案を受け入れた。
そうして、順番こそ異なってしまったが、ヴィクトルと勇利は「恋人関係」となったのだ。
絞り出すような声で、勇利は言った。
「……今更なんだけど、ヴィクトルが『恋人になろう』って言ってくれたのは、僕と体の関係を持たことに罪悪感があるからなのかな、とか思っちゃって……」
「そんなことないよ!」
あまりに悲観的なことを告げる「恋人」に、ヴィクトルは必死に訴えた。伏せられるアーモンド色の瞳を覗き込みながら、切なげな声で続ける。
「ちょっと、『順番』が違ったのは申し訳ないなと思ってるけど、おれはずっと、ユウリのこと大好きだったよ。……どうしたら、君に伝わるかな。心の底からユウリを『愛してる』ってこと」
「……ありがとう。ヴィクトルは、優しいね」
わずかなほっとしたような、けれどどこか寂しげな笑みを浮かべる勇利。
「変なこと言ってごめん。行こう、ヴィクトル」
――その眼差しの意味をこの時のヴィクトルは知るよしもなかった。
* * *
続く