たまにはそんな日もそいつはいつも家の窓にいた。ヒトなんていないこんな奥地の崖までやってくるとは物好きにも程がある。風呂から上がりタオルで髪を拭きながら見ていると、黒い毛並みのその念子は突然窓をカシカシと爪を鳴らした。いつもならそんな事を気にすることなどはなかったが、外は雨、ニャァーニャァーといつもよりうるさいその声に俺はため息をついて、優しく窓を開けてはその念子の体を持ち上げて家の中に招き入れた。タオルでそいつの体を拭きながら、炎で驚かないようにそれを糸のようにして体を乾かした。すっかり体が乾けば、勝手に腕の中から飛び出て、我が物顔で家の中を歩き出した。
「…はぁ、いいか雨が上がるまでだぞ」
そう俺が言えば、理解してるしてないかわからないがにゃっと短く返事をした。ぴょんとそいつは二人掛けのソファへと飛び乗っては寝床を整えその場に寝始める。
「おい」
怒りの声を漏らそうがそんな事は一切気にせず、スヤスヤと寝続けた。
「…そこはシチロウの場所なのだが」
「にゃ」
ちょんとその念子の頭を突くとあくびで返してきた。そんなやつにため息を出して、俺もソファに腰をかけて読みかけの小説を読み始めれば、そいつはなぜか俺の膝の上にやってきては今度はそこで寝始めた。そんな自由なやつにため息が出てもう気にする事なく俺も自分の時間を始める。そこからは特に何もなく静かな時間が流れた。念子はただずっと俺の膝とシチロウの定位置を何度も行き来する。そんなやつもう許してしまっている俺がいた。
「あッ待てこら。それはシチロウのクッションだッ爪を立てるなッあとで俺が文句言われるだろ」
「にゃっにゃ」
念子の体を持ち上げるとそいつは俺も見つめてきた。
「…そうだどうせならシチロウに写真を…」
「にゃあーん」
「?」
やたらとご機嫌になった念子を不思議に思いながらももう一度ソファに座らせて、ズボンのポケットに仕舞っていたス魔ホを取り出してその姿を写真に残した。
「よし、ククッシチロウの悔しがる姿が想像つくな」
「にゃーんッ」
ご機嫌な念子の隣に座り直しては先ほど撮影した写真をシチロウ宛に送信しては、ス魔ホを顎に当てて俺は笑った。一人で笑っていたのも束の間、顎に当ていたス魔ホが震えた。それは予想通りの相手からの着信にまた笑が溢れる。
「もしもしシチロウ」
「にゃーんッ」
『カルエゴくんの家にまだいるの!?今すんごい可愛い声が聞こえたッ』
「お前な…挨拶もなしか」
『だって!!』
「ククッ、やはり予想通り悔しがったなシチロウ」
「にゃーん」
『えぇいいなぁ。でもなんで?飼い始めたの?』
「いやたまたま家に入って来ただけだ」
『えぇ…じゃぁ今から会いに行こうかな』
「は?お前今日仕事じゃ…」
『なんとかなるとこまで行ったから大丈夫だよ』
「……嘘でも俺に会いたいとか言え」
『ふふ、言ってほしい?』
「馬鹿言え。来るならさっさとしろ」
『へーい』
「あぁそうだシチロウ」
「にゃーん」
「……ちょっと待ってくれ」
『うん?』
ス魔ホを目の前にあるテーブルに置いては念子を見つめた。尻尾はピーンと立ててはにゃんっと鳴く。
「…シチロウ」
「にゃーんッ」
「…ねこ」
「……」
「サボテン」
「……」
「シチロウ」
「にゃーん」
繰り返し試してみれば、その予想は完全に当たってしまった事に思わず目を手で覆ってしまう。
「…そうかお前いつも窓にいたから、自分の名前と勘違いしたのか」
どれだけ自分がこの家でシチロウの名前を呼んでいたかと思おうと体中が熱くなった。ス魔ホ越しに叫んでいるその名前の本当の主になんて言えばいいのか頭を悩ます。ゆっくり震える手でス魔ホを取って耳に当てた。
「…お前名前改名しろ」
『急に何の話!?ねえさっきから僕の名前出てたんだけど何なの!?』
「そうだお前が改名すれば何も問題ない…そうだそれがいい」
『キミさては混乱してるね?』
「それでは」
『えッちょ』
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「ふふ、キミしちろうなの?」
「にゃーん」
「あははっ僕と同じだねぇ」
「…」
電話を切ったすぐにシチロウは我が家に飛んできた。偉く花を飛ばしては家に入ってくると、その勢いに念子は驚いて家具に隠れてしまったが、何とかシチロウが体を丸めて床に座る事により家具の隙間からは出てきた。そうしてあっという間に例の名前の件はシチロウ本人にバレてしまい、笑うどころかシチロウはそのことに大いに喜んだ。シチロウがしちろうと呼ぶ不可思議な空間に俺は羞恥心で倒れそうになっている。
「この子ご飯食べたの?」
「いや、何あげていいのかわからなかったからな」
「だと思ってご飯買ってきたよ!」
「ノリノリだな。シチロウは食べたのか」
「ま…」
「にゃーん」
「ンク…ッ」
「…バラムは!!食べたのか!!」
「あ、まだですまだです」
「そいつの食事の用意の仕方はわからんから任せた。俺は適当にパスタでも用意してるから」
「ふふ、わかった。ご飯食べようねしちろー」
距離を詰めた瞬間念子は素早く俺の足元にやってきて、避けられた事によりシチロウは分かりやすく落ち込み、その事に笑いで肩を揺らしてしまう俺をシチロウはジト目で睨んできた。
そんな俺たちを気にすることなく念子は俺の足に擦り寄ってきは甘えた声を出してくる。ほんの少しだけ可愛いだなんて思ってしまって、負けた気になった事は誰にも言うまい。
「お前の食事はアイツが準備する。火を使うからあっちに行っていろ」
「……」
「…しちろうあっちに行ってろ」
「にゃーん」
元気に返事をするがその場から動く事はない。甘え続けるそいつに少し笑がこもった息を出してしまうとゾクリと背筋に冷たい冷気が通った気がして振り向けば、壁に体半分を隠してじっとシチロウが羨ましそうにこちらも見ていた。
「…こっちちゃんとキミのご飯準備したんだけどなーー」
「だそうだぞ」
そんなシチロウの声かけに見向きもしない念子にシチロウはわざとらしく泣いた。
「…めんどくさ」
「カルエゴくん聞こえてますけどッ」
今度は疲れの溜息を出して、念子に重量調整(フラクタル)を念子にかければ、宙に浮いたのをしっかりと確認してシチロウの元へと飛ばした。
「火は危ないからしっかり面倒見てろバラム」
「わ、わかった」
他愛もない話をしながら食事を済ませれば、洗い物をする俺の体をシチロウがそっと優しく抱き締めてくる。水を止めて、軽くタオルで手を拭いてからシチロウの頭を撫でると、頭を首に擦り付けてくる。それはあの念子みたいな仕草だと笑ってしまうと何となく理由を察したのかシチロウはじっと俺を見つめた。
「ニャン」
「偉く野太い声の念子だな」
「えー可愛くない?」
「いいおっさんが何言ってんだ」
「へーい」
「…シチロウ、今日は泊まるのか?」
「うんもちろ…」
シチロウの甘い声に重なるようにまたその元気な念子の鳴き声が耳に届くと、俺とシチロウは目を見開いてお互いを見つめた。
「…あぁそうだな。お前のことも考えなくちゃいけないな」
「そ、そうだね」
シチロウの腕から抜けると、俺はしゃがみ込んで念子の頭を撫でた。少し寂しげにしているシチロウを知らないフリをして。
「雨は明日まで続くらしいから今夜はここにいろ」
「にゃあ」
「あー、バラムは少し待っててくれ。じゃあしちろうはあっちの部屋まで運んでやるから」
念子の体に手を伸ばした瞬間、その間にシチロウが割り込んできて、念子は驚き後ろへ素早くジャンプした。おい何してるんだと口を開く前に横から強く抱き締められる。
「し、しちろうくん!!カルエゴくんのシチロウは僕だよッッ」
「…っぷ…クク…」
「にゃ?」
それはやけに真剣な顔で本気で念子に言い放つものだから思わず吹き出せば、シチロウが何さとこちらを睨みつけてくる。
「キ、キミが悪いんだよ?僕の呼び方変えちゃうんだもん」
「なんだ拗ねたのか」
「ちーがーいーますー。キミにバラムって呼ばれるのすごく気持ち悪いの」
「へぇ?」
「………まぁ少しは…拗ねたかな」
「素直でよろしい」
「んにゃ」
まるで念子もそうだと言わんばかりに鳴くと、シチロウの前に座り、軽く毛繕いをしてはシチロウの方を軽く見た。
「も、もしかして抱っこさせてくれるの?」
ゆっくりシチロウが視線と共に体を低くすると、念子は伸ばしたその腕の中に収まりに行った。チラっとシチロウを見れば、それはもう目を輝かせて、見てカルエゴくんと言わんばかりの顔で俺を見つめてくる。
「はいはい良かったな。…おいシチロウ」
「…どっち?」
「馬鹿言え。俺のシチロウの話だ」
「…じゃあ僕だ」
「あぁ」
シチロウの頬に手を添えてじっと俺が見つめれば、シチロウが体を低くしてくれる。目線が合うとそれが合図として俺はシチロウの頬にキスを一つすれば、少しだけ満足気にシチロウは目を細めた。
「風呂、さっさと入れよ」
「えーせっかく抱っこさせてくれたのにぃ」
「俺より念子か?」
「うむ…」
「おい悩むな。即答しろッ」
「痛い痛いッ髪掴まないでぇ」
肩くらいの長さになったその髪を思いっきり掴んでは、大きく舌打ちをした。シチロウの腕に収まってる念子を無言で取り上げると俺はそいつを優しく抱き締める。
「没収」
「あぁ…僕の癒しが…」
「フンッ」
「キミ、ヒトのこと言えないじゃん。拗ねてる」
「黙れッ俺はもうこっちのしちろうと一緒に寝ることにしたから」
じゃぁなとシチロウに背を向けて歩き出そうとすれば、ふわりと体が浮いて一瞬にして念子とともに持ち上げられる。同時にカチャリとシチロウのマスクが地面へ落ちた。
「だぁめ」
にこっと笑うとその歪な唇が俺のそれと重ねられる。離れた瞬間、俺の口角が上がったのがわかった。ゆっくりシチロウの髪を耳に掛けさせて頬を撫でると、その俺の手にシチロウ自身が頬を擦り付けてくるものだからクスリと笑ってしまう。
「何がだめなんだ?」
「二人だけで寝ること」
「お前はどっちに嫉妬してるんだ?」
「さぁ?どっちでしょ?」
「ハッどっちもとは欲張りだな」
「そんなの嫌ってほどわかってるでしょ」
「あぁそうだな」
「そうだ、ねぇこのまま皆で入ろうか」
「…俺は既に入ったんだが」
「別にいいじゃん。ね、しちろう」
「にゃ」
「お前わかってるのか?風呂に入れられるんだぞ」
「多分この子そんなに水苦手じゃないんじゃないかな」
「?」
「普通雨降ってたらどこかに隠れちゃってるもん」
「そういうものか?」
「まぁそれよりもこの家に入ってキミに構ってもらいたかったのかもしれないけど」
「…ふーん」
「あ、嬉しそう」
「気のせいだ」
短いその念子の毛並みを楽しむように撫で続けるとペロリとその独特の舌が頬を舐めた。
「ぅお」
「はは、念子の舌って驚くよね」
「ん」
甘えるように何度も俺の頬を舐める。感覚に少し慣れてきてそれが擽ったくなってきて笑っていると、明らかに不服そうな声が漏れ出る。
「僕もするし」
「は?」
不貞腐れた声はだんだんと顔に近づいてきて、キバを軽く鳴らした後にそれが俺の顔に擦り付けられる。吐息が耳にかかった瞬間、念子の時とは全く違う大きな熱い舌が先を使って、俺の頬を舐めてきては偉く満足そうに鼻を鳴らした。
「カルエゴくんばっか念子ちゃんに甘えられてズルい」
「ほーう、お前はそう勘違いするんだな」
「?」
俺たちを運び続けるシチロウの肩に念子は飛び乗り、俺はその太い首に腕を絡ませた。
「どうやらこっちのしちろうは、俺のシチロウよりわかってるみたいだぞ」
「もうだから何」
「鈍感野郎はささっと風呂に連れてけ。歩きが遅いんだよ」
「…それはキミが色々するからでしょ?」
「さぁ知らないな」
もーと唸る動けないシチロウにこれでもかとキスを落とす。首筋、額、鼻先、頬、そして唇。小鳥の鳴き声のようなその音がしっかりシチロウの耳に届いたのか、耳先から赤く染まっていくのが面白くて仕方ない。
浴室につけば、床にやっと下ろされ、服を二人で脱いでいるのを念子は黙って不思議そうに見つめてきた。ドアを開ければまだ俺が入った温もりが残っていて、湯気が肌を撫でた。念子もずっと不思議そうに俺たちの後をついてきて、体を軽く流すためにシャワーを出した瞬間、それは今まで大人しかったやつとは思えないくらいに泣き叫ぶ声とともに、毛を全身たてて足を滑らせながら浴室から逃げ出すのを俺とシチロウはただ見つめた。
「……何が平気だって?」
「あはは…いきなりはびっくりしちゃったのかな」
「はぁ…仕方ない俺たちだけで入るか」
「だねぇ」
ほら先に座れよとバスチェアに促すとシチロウは黙ってそこに座った。髪を軽く濡らしてすぐに頭を泡でいっぱいにしてやると丁寧にそれらを流すと、ぽつりとシチロウが呟いた。
「ねぇあの子さ、本当にカルエゴくん家の子にしないの?キミ結構あの子気に入ってるでしょ。それにあの子がここの子になりたいって望んでる気がする」
「…あぁ俺もそう思う。ずっといたからな。けど俺は仕事の終わり時間は不規則だし、いつあのアホ理事長に無茶振りされるかわからん。そんな状態でしっかりとアイツの面倒を見れるかわからないからな」
「ふふ、しっかり考えていたんだね」
「当たり前だ。命を育てるということはそういうことだ」
「うん、そうだね。確かにキミの言う通りだ。キミ一人で育てるのは大変だ。でも二人一緒なら育てられるんじゃない?」
「…何が言いたい」
シチロウの大きな背中を洗っている手が思わず止まる。じっとその意味を探るようにシチロウの顔を強く見つめれば、へにゃりと情けない面で笑いながら振り向いてきた。少し気恥ずかしそうに頬を指で擦りながら少しだけモゾモゾしてはやっとその口は開く。
「前々から考えてはいたんだけど、タイミング見つかんなくて」
「だから」
「一緒に住まないかって話。一緒に住んだらさ、あの子のことどっちかが面倒見れるでしょ?」
「…確かにいい案だとは思うが」
「?」
「ぁ…」
「えッな、何その反応!?嫌なの!?」
「違うわ。ただそういう大事な話、今ここでするかフツー」
「え?え?」
「ここは風呂で、二人とも裸で、しかも今お前の背中を洗ってるこの最中にするか?ムードもクソもないな」
「え、え、そんなにだめ?」
「同棲の話を持ちかけるにしてはそうだな…十五点くらいだな」
「及第点にも行ってなかったッ」
「ちなみにこのうちの十点は念子の点数だな」
「まさかの僕五点…」
さっとシチロウの体の泡も流してやれば、俺はその大きな背中に体をくっ付けた。同じソープの匂いと暖かい体温、安心してきて少しだけ瞼が重くなる。
「…まぁでもお前がそこまで言ってくれているなら、家族に迎えてもいいかもな」
「!」
「いつもあの窓の外じゃな。だったら明日はアイツのための買い物でも行くか」
「うん!」
「それからお前の分のものもな」
「ふふ、お揃いの茶碗とか買っちゃおっか」
「浮かれ過ぎだ馬鹿者」
いきなり体を大きく動かすものだから、バランスを崩してはシチロウの胸に体が収まるとぎゅっと強く抱き締められる。
「ふふ、これからよろしくお願いします」
「あぁ」
「じゃあキミを洗ってあげるね」
「俺は既に洗ったんだが」
「はーいやりまーす」
「こいつ」
「ーーっと言うことでこれからよろしくね!」
風呂から上がってみれば念子はソファの上で勝手に寛いでいた。ご機嫌にシチロウは床に座っては念子の側に寄っては念子に話しかける。そんな姿が少しバカらしくクスリとシチロウにバレないように手で抑えて笑った。
「今日からカルエゴくん家の子になるんだって」
シチロウが話しかければフイっと念子はそっぽを向き、ソファの端へと移動してしまい、またシチロウが分かりやすく落ち込む。
「ハッこれから一緒に住むんだから、仲良くなれるようにならないとな」
「うぅ…」
念子の隣に座ってそいつを抱き上げては、自分の膝の上に乗せて空いたシチロウの席に本人が座った。
「それよりもお前の名前だな…しちろうだと色々困るぞ」
「にゃん」
「…もうお前をバラム呼びに変えるか」
「もう!それはヤダ!」
「ククッ冗談だ」
「ムゥ…これはシチロウ争奪戦だ…」
その単語に思わず吹き出しては、肩の揺れは治まらない。いつの間にか用意した念子の玩具をブンブンとそれを振り回す。にゃーにゃーと念子のモノマネすらし始めるそのバカらしい恋人の姿が微笑ましく、そして笑いが止まらない
「どっちがシチロウか勝負だよ!」