勿忘草 ②「………………気持ち悪い……か」
持っている書類を破きそうになるのを必死にカルエゴは堪えた。震える足を懸命に動かし、ポーカーフェイスを装った顔を崩していく。
「元に戻りたい??あの頃のように?ふざけるなッッ」
___俺にはもう、お前に愛情以外を向けられない。親愛など遠の昔に消し去った。
甘い蜜を知ってしまえば、もうそれ無しで生きていけない虫のようなものだ。
下唇を噛んでは深呼吸をして、もう一度感情を押し殺す。
「大丈夫、隠せる自信はある。嘘はつかない。それでいい……」
いつかはちゃんと元に戻るからと、カルエゴは何度も自分に言い聞かせ、深呼吸をする。
「書類取り行くだけでどれだけ時間掛けてるんですか。サリバン様がお待ちですよ」
廊下の角から赤い耳を揺らしたオペラが顔を出す。やれやれと態とらしく顔を歪まそうとした瞬間、その顔は小さく閉じた。
「キミ……、何かありましたか?」
「別に。書類はちゃんと持ってきたんで文句ないでしょ?早く行きますよ」
「おい」
「……」
前を通り過ぎ先を進もうとすれば、簡単にカルエゴの腕は掴まれる。その自分とは違う腕力に舌打ちをした。
「お前……何があった」
「口調、昔に戻ってますが?先輩」
「匂いがいつもと違う。どういうことです?」
「アンタは気付くんだな」
「はい?」
「いえ別に。理事長が待ってるんですよね」
「……そうですね。先に仕事を終わらせましょうか」
「えぇ」
いつもより疲れが溜まった体を、ホテルのベッドにカルエゴは体を埋めた。ホテルは一度場所を変えていた。こんなにも長くシチロウの体が治らないと思っていなかったからだ。近場にあったホテルから、長期泊まっても問題無いホテルへと変わっていたのだ。そうして、シチロウがいない間に回収してカルエゴは自分の枕を抱き締めては、体を丸めた。
「…もうシチロウの匂いはしなくなったな」
それはもうカルエゴの匂いだけだった。自分の枕だったが、カルエゴ自身よりシチロウが使っている頻度が高かった。なぜならカルエゴにとって頭を置く場所は決まってシチロウの腕だったからだ。だからこの抱き締めている枕はたまにしか使っていなかった。けどそのことをシチロウは覚えてすらいないんだろなと目を閉じた。
「(…俺がこれを持ってきた理由なんてお前は気づきもしないんだろうな)」
_あぁ一人で眠る夜は何年振りだろうか
本当は自分が何をしなくちゃいけないのかカルエゴはわかっている。一緒に原因を探して、一緒にシチロウの体を気遣うのだ正しいのだろう。それが一番の近道であり、平和なものだとちゃんとわかっている。それでもこうやってシチロウと距離をとって、住む場所も変え、距離感を変えて、シチロウからカルエゴは逃げた。
自分たちの関係に嘘だよねと困惑したあの顔、
夢であって欲しいと願っていたこと、
腐れ縁に戻りたいと笑ったこと、
職員室で気持ち悪いと言ったこと、
そのどれもが今の真実。元に戻ることが本当に正しいことなのか今のカルエゴに考えることはできなかった。
「俺も同じ薬でも飲めたらな」
__寂しいなんて感情も無くなるのに
___________________
カルエゴへの愛情がなくなってから一ヶ月が経過していた。それでもまだ、シチロウの体は何も変化はない。自分の部屋を調べてみても、記憶を消した手がかりが何もない。ただ一つだけわかったのは、少しだけ悪周期制御剤にレシピが似ていたことだ。だから何かストレスに関係するものだと予想は立てられたのだが、それは予想を超えることはなかった。
「何かを作ろうとして失敗した結果だとは思うんだけど…うーん、成功していたら答えはわかるんだけど、不正解から答えを探すのは難し過ぎる…」
昔の関係に戻りたいと伝えてえてから一週間、それはちゃんと叶えられてるとは思う。建前は。
どこか一線を引かれては、壁がある今の関係にシチロウは何も言えなかった。なぜなら自分自身で望んだ距離だからだ。
「……まただ」
心の中で渦を巻くような感覚、気を抜けばどこまでも落ちていくのではないかと錯覚するそれを再び感じては、机の上に置いてある悪周期制御剤を口に含む。
「今月で三度目だ。僕にしては頻度が多すぎる。もしかしてこの薬が効かなくなってきていて新薬を作ろうとしていた?それならレシピが似ていることにも納得できる…だけどそれでも今の症状は…」
あー!!もう!!っと頭を掻きむしっては、シチロウは逃げるように広くなったベッドの中に潜り込んだ。
「(……やっぱり落ち着かない)」
この家に、今のシチロウからすれば来た時から、シチロウは上手く睡眠を取る事が出来なくなっていた。眠たいはずなのに、体は疲れているはずなのに、迫り来るのは不安ばかり。
寝る体勢を変えても、何か人形を抱いてみても落ち着くことは無かった。
そうして結局落ち着かないまま、また今日もシチロウは睡眠導入剤を服用しては、不自然な眠気で眠りについた。
『お前……また徹夜したのか』
目を開ければカルエゴがシチロウの顔をのぞき込むようにしては微笑んでいた。膝の上で寝転がるシチロウに悪態をつきながらも優しげにずっと頭を撫でた。
___楽しくてさ
『楽しむのは構わないが、自分の限界値をちゃんと理解しておくんだな』
___あはは、手厳しいな
『まぁ好きなことに集中する姿は、嫌いでは無いがな』
__じゃあ好き?
『さぁな?徹夜してぶっ倒れなくなったら言ってやる』
__キミだってよく徹夜するくせに
『俺の場合は仕事で必要な徹夜だ。だがお前の場合は趣味だろうが。一緒にするな』
__それ、屁理屈じゃない?
『違う』
__口尖らせて、不服なんだ
『一々言うところは嫌いだな』
__ええ?その拗ねたら尖らせる癖、僕可愛くて好きだけどな
『ッ……うるさい』
__ほら可愛い
『……お前くらいだぞ。俺のこと可愛いという奴は』
__いいじゃん僕だけで。僕だけが知ってればいいと思うよ。
真っ赤になった顔でフンっと鼻を鳴らして、そっぽを向いても、カルエゴはすぐに『物好きめ』と笑った。
___(…あぁ…いいな。す…)
「…………」
朝日が窓から入っては、それでシチロウは目が覚めた。重たい体を起き上がらせては、マスクも何もつけていない顔を、手で覆い隠した。
「…あんな顔するカルエゴくんなんて…知らない」
___あれはただの夢…?僕の脳が勝手に作りだしたもの?それとも記憶なの?
「………」
___夢の中の僕はやけに幸せそうで、そして、心地いい胸の苦しさを感じていた。
カルエゴが笑う度、カルエゴが頬を染める度、夢の中のシチロウの心音は騒がしがった。
そうして夢の中の彼と今の彼の差にシチロウの背中は濡れて行った。
「……はは、笑えない…本当に笑えない」
___ただの仲のいい悪魔だと信じていた彼のあんな顔見た事への嫌悪感?
今、腐れ縁でもなくただの同僚扱いされていることへの絶望感??
そのどの理由にもしっくりきて、そうして納得できなかった。
どれも正解でどれも不正解。シチロウの中の感情は言葉として表せなく、ただそれは乾いた声として出ただけだった。
_____________
「こんにちは。バラムくん」
「あ、オペラ先輩来ていたんですか」
「はい、今珍しく理事長が会議をなさっているので」
「め、珍しく…」
学校の授業も終え、放課後になった頃、生物学問準備室にオペラが顔を出した。何も言わず、椅子へと座るオペラの前にシチロウも慣れたように魔茶を出した。
「体調はいかがですか?」
「え?あ、聞いてたんですか?」
「えぇ記憶が所々無くしたと聞きました」
「あー…そういう感じで」
「違うのですか?」
「いえ、間違いではないですね。で、先輩は僕を心配しにこちらへ?」
「いえ少し聞きたいことがありまして」
「聞きたいこと?」
「えぇ、カルエゴくんについて」
「ッ………」
「どうやらその反応は、理由を知ってるみたいですね。聞いてもカルエゴくん教えてくれないんですよ」
「あー…と」
「やはりあなた方、何かあったんですか」
「………まぁ、はい。えっと…先輩は僕たちの関係をどこまで?」
「どこまでとは…恋仲であることを知っているかどうかということですか」
「えぇまぁ。知ってはいるんですね」
「…記憶を無くしたと聞きましたが、本当に」
「…はい」
「知ってるも何も私が二人の恋のキューピットですからね」
「そうなんですか!?」
「はい嘘です」
「!!」
顔色を変えることなく、オペラは魔茶を啜った。
「こんな嘘も見抜けないんですか?」
「いや反応はありませんでしたけど」
「あなた方は気付いたらくっ付いていたので」
「そうなんですか。…というか、その…付き合い初めて何も思ったりしなかったんですか?」
「別に?」
「そ、ですか…」
「まさかそんな昔のことまでの記憶を無くしてるとは。かなり報告書と違いますが?」
「あーと…じ、実は」
困ったなと頬を掻きながら、シチロウはカルエゴの恋愛的感情を含め、恋人同士だった頃の記憶だけを無くしたということを説明した。
もちろん原因も含めて。
全ての説明を終えた頃、オペラはなるほどと小さく頷いた。
「では今あなた方は恋仲ではないと」
「え、えぇそうですね」
「へぇそれは中々に愉快」
「愉快…ですか」
「納得しました。最近の彼の変化に」
「…だいぶ気を遣わせてるみたいで」
「いや態度の話はしてませんよ」
「ん?」
「もしかして気づいてないんですか?」
「何をですか?」
「匂いの変化です」
「に、匂い?」
「気づいていないのならいいです」
触らぬがとオペラはまた魔茶を啜った。
そんな態度にシチロウの体は震えて、思わずテーブルを叩く。
「お、教えてください!!!知りたいんです!!」
「………」
しばらく考え込んだ後に、オペラそっと湯呑みを置いた。
「…毎日匂いが違うんですよ。カルエゴくんの」
「…それってどういう」
「ここ数年変わることのなかった彼の匂いが変わった。しかも毎日。あなたの匂いといつもの香水の匂いしかしなかったのに、今は毎日知らない香水の匂いがしています。…意味はわかりますよね?」
「…………はい」
それは少しシチロウの中で、心当たりがあった。電話番号が書かれたあのカードたちだ。複数枚あったそれ。全部名前が男で、そして…そして
「バラムくんと付き合っているのにと思っておりましたが、別れていたのであれば何も問題はありませんでしたね」
「………」
「おや?やはり気になりますか?」
「あ、いや!そういう訳ではないです!!」
「そうなんですか?」
「正直まだ恋人だったって言われてもピンと来ませんし、想像もできませんから」
「ほう」
あははと笑うシチロウの顔をじっとオペラは見つめた。
「なら、私が何してももう問題はありませんよね?」
「え?」
魔茶を飲みきると、ご馳走様でしたと言っては空の湯呑みをシチロウに渡しては、襟を整え直す。
「一度彼と寝て、あの体にもう一度触れたいと思っておりましたから」
「……は、い?」
「流石にキミに悪いと思って二度目はなかったのですがもういいですもんね」
「い、いや!!あ、あの!!」
「おや?気にならないんですよね」
「ッ…」
「では、そろそろ会議が終わりますので失礼します」
尻尾を不気味に揺らしてはオペラ部屋を出て行った。そのゆっくり閉まる扉をただ呆然と見つめることしかシチロウはできなかった。
「……嘘じゃ…ない…」
「いや普通にムカつくんだけど」
覚えていないが、シチロウとカルエゴは何年も恋人同士だったのに、知らされた出来事。
恋人であるシチロウがいたのにも関わらず、一度だけ、いや回数では無い。一度でも他の相手と体の関係を持っていたという問題だ。
そして恋人ではなくなった途端毎日違う男と関係を持っているということ。
「…可笑しくない???」
苛立ちというべき感情に、シチロウは机を指で叩いた。
「………誰でもいいんじゃんか」
嫉妬…と呼ぶにはシチロウには愛情がない。しかしそれでも裏切られた感じがして苛立っている。悲しいとも少し違う。クソっとシチロウは頭をぐちゃぐちゃ掻き乱した。
「(…あの日からオペラ先輩がカルエゴくんに話し掛けてるところをよく見かけている)」
__僕に対して感情を無くしたように顔色を変えなくなったのに、先輩の前では苛立ったり、突っかかりに行ったりしている
「……………まぁ…ただの同僚の僕には関係ないか」
___きっと今の僕には束縛も、嫉妬も、何もかもしてはいけないから
「……全部本当はしたいのかな」
__…なんで?
_______________