犬飼がここ数日悩んでいるのは、敬愛するハンター協会長である後藤清臣の誕生日についてだった。
協会に勤めはじめて早数年──気付けば右腕とも称される立場になった。
いわゆる誕生日プレゼントを贈るようになったのは今年からだった。
それというのも、ハンター協会では月替わりでカレンダーをダウンロード出来るように用意している。
それに有名ハンターたちの誕生日を記載するようになったのは今年に入ってからだった。
一月の自分の誕生日には祝いの言葉をもらった。
何だかんだで忙しい後藤に言葉をもらっただけで犬飼は満足だった。
とはいえ、上司でもあり敬愛する相手でもあるのに言葉ひとつというのは味気ない。
頭の中がそれ一色になっていた所為で、背後の気配に気付くのが遅れた。
するりと首に回される両腕。犬飼の頬にぴったりと己がそれをくっ付けて。
やや不機嫌そうに姿を現したのは旬だ。
「犬飼さーん、今何時でしょうかぁ」
間延びした口調ではあるが非難のそれに、時計へ目をやった犬飼はサッと青ざめた。
旬と出かけると約束した時間から長針は半分過ぎたところにある。
「も、申し訳ありません」
自分に非があるので犬飼が謝罪を口にする、旬は拗ねてしまったようでくっ付いた頬はそのままにぷうと膨れてみせた。
触れるもちもちとした感触に、責められているのか単なる幸せを感じていいのか犬飼が戸惑っていると、くるりと回り込んだ旬が膝の上に。
「三十分も何してたんですか」
ジト目でねめつけられて、犬飼は白旗を振る心持ちだ。
「……後藤会長の誕生日プレゼントについて考えていました」
旬の機嫌が降下するだろうが、犬飼に正直に話す以外の選択肢はない。
だが、そんな心配とは裏腹に旬は納得がいった様に頷いた。
「会長の誕生日って今月末ですもんね」
それは悩むはずだ──と一定の理解を得た上で、どうせならと案を募ってみる。
「お酒、とかは──」
「心臓のことがあるので、週に一度の一合までと決められてらっしゃると聞きました」
犬飼も真っ先に酒類を思い付いたのだが、年齢と心疾患を抱えていることを考えるとよろしくない。
かといって焼き菓子などの消え物ですませるのも、奥様とふたり暮らしなことを考えると消費しきれない。季節の折々、挨拶に来る者たちから貰って……と言いながらちょっといい菓子が渡される。
ご相伴に預かる身であるからして、菓子類もアウト。
うんうん唸る犬飼を面白そうに眺めた旬は、消え物にこだわる必要性があるのか問うた。
「いえ、そういうわけではないのですが。会長の持ち物はどれも長く使ってきたことが分かる物ばかりですし、無駄なものは増やされないので……」
下手なものをあげるわけにはいかないが、逆に上等な物になると贈る方も贈られた方も負担になる。
「いっそ物はなくても……」
言葉を尽くせばいいのでは、と本末転倒な考えに至った犬飼に旬はぽむ、と手を打った。
「手紙を差し上げたらどうですか?」
「……手紙?」
「後藤会長なら、喜んでくれますよ」
「……」
確かに、下手な物より数倍は喜んでくれるだろう。
何を書けばいいのか、という根本的な問題には蓋をして犬飼は頷いた。
一先ず悩みについては解消したが、今は不埒な動きを見せる手を咎める方が先だった。
***
誕生日当日、犬飼はそわそわしながら会長室を訪ねた。
快く迎え入れた後藤に、持っていた包みを手渡す。
「お誕生日のお祝いです」
「ありがとう、開けても?」
犬飼が頷きを返すと、後藤が布を解き中の木箱を開けた。
「これは……」
慎重に後藤が箱の中からグラスを取り出した。
一般的にぐい呑みと言われる大きさの、切子細工。
光に透かすと薄っすらした琥珀とも金とも取れる色だ。
「美しいな」
思わず、といった様にこぼした言葉に犬飼の笑みが深くなる。
手紙を書きはしたもののやはり諦めきれず、たまたまネットで見かけた切子細工に目を奪われた。
瑠璃や銅赤といった定番色ではなく、古式と呼ばれるものに辿り着いたのだ。
「本来は酒器ですが、気分だけでも味わえればと」
「いや、これはいい。ありがとう、大事に使わせてもらおう」
薬の水をこれで飲むのだ、と主治医を驚かせることにしたらしい後藤は上機嫌だ。
犬飼が胸を撫でおろしていると、来客の連絡が入った。
旬が訪ねて来ていると知って、後藤は会長室に通す様に指示する。
今更旬が来るからといって席を外すのもおかしな話だし、ソファで後藤と世間話をしているとドアのノック音。
誰何の声に水篠ハンターをお連れしましたと職員の声がして、犬飼はドアを開けるべく立ち上がった。
「あれ、犬飼課長もここにいたんですね」
会釈して去っていく職員に目礼で返した旬が存外に明るい声で言う。
そのまま失礼します、との声でドアをくぐると後藤に紙袋を差し出した。
「誕生日とお聞きしたので」
それなりの重さがありそうな包みをテーブルに乗せて、後藤が期待しているように包み紙を剥がしてく。
そこには【利き酒セット】が鎮座していた。
思わず喜色をあらわにした後藤だったが、犬飼の視線に気付いて空咳で誤魔化した。
「たくさん飲んではいけないと聞いたので。これなら一回の量も少ないし色んな銘柄を楽しめますから」
くれぐれも、気を付けてくださいね、と重ねる言葉に神妙に頷く姿は祖父と孫の様でもある。
そして同じようにテーブルの上にあった切子細工に旬が気付く
後藤が犬飼からだというと、虚を突かれた顔をした後ににやりと笑った。
嫌な予感に犬飼が止める間もなく旬が言い放った。
「犬飼課長、お手紙も用意するって言ってませんでしたっけ?」
その時の犬飼の気分としては、やられた、のひと言に尽きるだろう。
旬の言葉に後藤から期待したような視線を感じる。観念して、スーツの内ポケットから封筒を取り出した。
親にだってこんな手紙を書いたことはない。夜中の勢いで書き上げ、朝になって読み返して悶絶し、昼に幾度も書き直した一通である。
くれぐれも、他人の目には触れさせないでくださいと念押しして渡した。
渡した傍から回収したくなる。
犬飼の心にちょっぴり傷を残しつつ、会長室には暖かい空気が広がったのだった。