first kiss 想像したことがある。好きな人と、初めてキスする時のことを。
口と口がくっついて、好きやなって思て、相手も嬉しそうで。俺は世界一の幸せ者やなって。ファーストキスっちゅーんは、そういうものなんやろうと思っとった。なのに――
俺は今、種ヶ島先輩とキスをした。
俺からしたい言うたし、先輩もええよ言うて、少し屈んで目ぇ閉じてくれた。俺も目ぇ閉じた方がええかなと思ったけど、閉じとったらどこに向かってキスしたらええか分からんし、そのまま顔を進めて口と口をくっつけた。意外と男の唇でも柔らかいんやなと思て、不思議な感じがした。そんだけ。
夕暮れの、テニスコート脇のベンチ前で。ムードもばっちりでここしかないやろ思った。目が合うて、種ヶ島先輩ってめっちゃ格好ええなって、キスする前はドキドキしとったのに。いざしたら、どうせこの人慣れとるんやろうなって卑屈な感情が湧いてきて。俺からしたい言うたのに申し訳ないけど、あーあって気分になってしもた。事が済んだら種ヶ島先輩も「ほな帰ろうか」ってさっさと歩き始めて、こないなことならキスなんかせん方がよかったって思った。一生誰ともキスなんかせんで、キスってきっと素敵なんやろうなって思いながら生きとった方が、ずっとよかった。
「……種ヶ島先輩」
「何?」
「俺って、キス下手でした?」
「こないなキスに、上手いも下手もあれへんやろ」
ひょっとしたら俺のキスが下手やったから盛り上がらんかったんやろか、という可能性に賭けて聞いてみれば、つれない返事が返ってきた。そういう意味やないのは分かってるけども、「こないなキス」という言葉が胸に刺さる。
「こないなキス……」
先輩は、こないなキスも、こないやないキスも、ぎょーさん経験しとるんやろうけど。
「先輩って、今まで何人ぐらいの人と、キスしたことあるんですか?」
「……それ聞いてどないするん?」
「や、答えたないなら答えんでもいいんですけど」
「俺が答えたいかやなくて、ノスケがそれ聞いて嬉しいんか聞いとるんやけど」
そう言われてしまえば、ぐうの音も出えへん。その人数が多くても少なくても俺は嬉しない。ゼロやったら嬉しいけど、きっとそれはありえへんから。数歩先を歩く先輩の背中を見て、その数歩が果てしなく遠く感じられた。
「やめよこんな話」
「……はい、すみません」
せや、先輩は悪ない。しゃーないんや。年上で、しかもこんな魅力的な人を好きになってもうた俺が悪いんや。
「せっかく――」
「せっかく、何ですか?」
珍しく言いよどんだ先輩に尋ねると、歯切れの悪い返事が返って来た。
「……せっかく、ファーストキスしたとこやん」
「ふぁー…?」
種ヶ島先輩の口からファーストキスという似つかわしくない単語が飛び出してきて、俺はオウム返しとも笑い声ともとれる音で返事をしてもうた。この人でもファーストキスがどうかとか、気にしたりするもんなんやな。
「せやろ?」
「俺は、ですけど」
「俺かてノスケとはファーストやし」
俺とはファーストという、いかにも手慣れた言い回しやったけど、やっぱりこの人は憎めへんなと思った。付き合うた人それぞれとのファースト、大事にしてくれるんやろな。だからきっとモテるんやろうし、俺も好きになってしもたんやろな。
「種ヶ島先輩、俺のこと、好きですか?」
「ん? 好きやで」
先輩の視線はどっか遠くを見とって、俺は何やら寂しなった。
「やましいことがないなら、俺の目ぇ見て言うてください」
「やましいことはないけど……」
先輩は近くにあったアーチ型の車止めに腰掛けると、背負っていたラケットバッグを下ろして両手で抱え込んだ。
「恥ずいやん。今、ファーストキスしたばっかやのに」
繰り返される言葉に、じわじわと俺の体温が上がっていく。何でこの人、ファーストキスって連呼するん? からかわれとるんか知らんけど、全身がもじもじしてもうて、何とも落ち着かんくなってく。そうや、俺は今、種ヶ島先輩とファーストキスをしたんやって、しっかりとした実感が湧いてくる。
「先輩でも、キスして恥ずかしいとかあるんですか?」
「そらあるやろ。テニスだって、初めて試合する相手とは緊張するやろ」
「緊張するんですか!?」
予想外な言葉の連続に驚いて、俺はデカい声を出してもうた。
「そらするやろ」
「俺はしますけど、種ヶ島先輩は、せえへんのやろと思ってました」
「ガチガチに緊張はせえへんよ?せやけど強そうな相手なら負けたない思うし、強そうやなくても、かっこ悪いとこ見せたないやん」
その言葉が本当やとしたら、公式試合ではないけど先日俺の相手をしてくれた時も、そう思ってくれとったっちゅーことやろか。全然余裕そうに見えたけど、少しだけ緊張しとったんやろか。俺にいいとこ見せたくて。そう思ったらもう、居ても立っても居られぇへんようになってしもて、地面に膝ついて先輩にせがんでしもた。
「俺の目ぇ見て、好き言うてください!」
「あかんてほんま」
「一生のお願いです!」
「一生のお願い、ここで使たらあかんやろ」
「ファーストキスは、一生に一度やないですか」
「そらそうやけど、恥ずいわ」
けらけらと笑いながら先輩はラケットバッグに顔を埋めた。「あー、ほんま恥ずい」って何度も言うと、指先でちょいちょいと俺を呼んだ。俺が顔を近付けると、内緒話するみたいに手ぇ添えて小さい声で言うた。
「俺な、赤面症なんやて」
「赤面症……?」
俺の心臓がどくんとなった。いつもやったら絶対嘘や思うのに、今は先輩の言葉、全部本当に聞こえてまう。夕暮れの中で全然分からへんけど、先輩が赤なってるとしか思えんくて、俺の顔も焼けるように熱なった。
「ほんま。恥ずいから、バレへんように肌焼いとるんや」
「さわってみ」言われて、せやかて先輩の顔さわるとか失礼かと思て、先輩のほっぺたに手の甲をそっと当てた。
「あっつ……」
「な?」
絶対に俺の顔の方が熱なってるけど、夕暮れの、テニスコート脇の道で。目が合うて、種ヶ島先輩ってめっちゃ格好ええし、ほんでもってめっちゃ可愛いなって思った。
「あのっ、もっかい、もっかいしてもええですか?」
キスをと言うんを忘れたし、先輩も「ええよ」言うてくれたけど、返事もらう前にしとったかもしれん。先輩と俺の鼻がぶつかってしもた気もするけど、気にしてられへんかった。口と口がくっついて、種ヶ島先輩の柔らかい唇から熱が伝わって、俺の全身がぶわっと熱なって。何やもう、世界に俺と種ヶ島先輩しかおらへんのやないかって、俺と先輩のために世界があるんやないかって、そんな気がした。
「俺、種ヶ島先輩が好きです!」
「俺も」
先輩が俺の目ぇ見て嬉しそうに言うてくれたから、俺は世界一の幸せ者やなって思った。
これが俺のファーストキスの話っちゅーわけや。