番外編1─37.2℃
ピピッという電子音と共に、ほんのりと温まった体温計が脇の下から取り出される。液晶画面に表示されとるのは、そこそこの数字。ベッドの上の病人は、掛け布団を首元まで上げると瞼を閉じた。いつもはふわふわの前髪が一筋、日に焼けた額にしっとりと張り付いとる。
「熱、あるにはあるな」
「ん……」
せやけどルームメイトであり、俺のダブルスパートナーでもあるこの男は、体温以上にぐったりとして、この1LDKのアパートのベッドに横たわっとった。
「薬飲もか。食べ物何もないけど……。パスタとか茹でたら、食べられるか?」
東京のこの部屋には、昨日帰国したばっかりやったから、冷蔵庫には飲み物と調味料ぐらいしか入っとらんかった。
「……いらん」
「ほな買い物に行ってくるわ。何か欲しい物あるか?」
「ん……」
「ほな適当にヨーグルトとか買うてくるけど。何かあったら連絡してや」
「……」
ルームメイトはもそもそと動くと、頭の上まで布団を被った。布団の下からつま先が覗く。頭の方にはわずかに、ふわふわとした銀髪が見えた。
「……ほな、行ってくるな。修二」
布団の塊は無言のまま、一定のリズムでゆっくりと上下しとった。俺は玄関に鍵を掛けると、自転車に乗ってスーパーへ向かった。
風邪薬は、買い置きのがある。俺は適当な食料品を買うと、今にも降り出しそうな曇り空の下、急いでアパートに戻った。そっとドアを開ければ、ルームメイトはさっき俺が出掛ける時と同じ姿で。頭の上まで布団を被って、すうすうと眠っとった。
「……」
俺は心ん中でただいまって言うと、プリンやらヨーグルトやらを冷蔵庫に仕舞って、水を沸かしてお粥を作り始めた。
俺─白石蔵ノ介は、隣の部屋で丸まって寝とる種ヶ島修二と、ダブルスを組んでプロテニスプレイヤーになった。や、正確に言うとプロの申請をして、プロになってからダブルスを組んだんやけど。
申請は、結構すんなりと通った。これまでの実績もあったし、三船監督は知らんけど、黒部コーチとかも後押ししてくれた。修二は大学生になってから、少し練習をサボっとったみたいやけど。元々テニスには真面目な奴やから、頑張って仕上げてきて。プロになってからも、国内の大会ではぼちぼち勝つことが出来た。せやけど問題は、海外の大会で。
世界ランキング上位の選手やったら、専属のコーチとかトレーナーとか雇っとるし。飛行機の手配とかも、全部人にやってもらうんやろうけど。俺は飛行機も宿も食べ物もスリへの注意も全部せなあかんし。その上、飛行機嫌いの修二の世話まであって、ホンマに毎回へとへとやった。修二も修二で、俺に至れり尽くせりされとるのに、ずっとうわの空で。飛行機に乗る数日前から、乗った後も数日は具合悪くて、調子が出んくて。やっぱりプロになったのは早まったかもしれへんって、何度も頭をかすめたけども。
国内の大会に出とるだけで済むんやったら、ええんやけどな。国内の大会はそんなに数がないから、勝ってもATPポイントが全然貯まらへんし。ポイントが貯まらへんかったら、世界ランキングが上がっていかへん。ぎょーさん試合してランキング上げて、みんなが知っとるような大きい大会に出たいって。そんなんプロの選手やったら、誰でも思うことやけど。
海外の大会では毎回、予選1回戦敗退。顔を見合わせて、何も上手いこと言えんくて、とぼとぼと帰国して。それを繰り返して、それでも必死にしがみついて。海外に行くんは6回目の今回、ようやく勝てた。
ビギナーズラックかもしれへんけど、波に乗れていきなり予選突破して、ATPポイントが貰えるだけ勝ち進めた。スポンサーの社長さんもえらい喜んでくれたし、賞金も、ちょっと驚くくらいの金額が出た。トータルで考えたら、完全に赤字やねんけど。
せやけどこうして、俺達は世界で通用するんやって、証明することが出来たのはホンマに嬉しい。これまた正確に言うと、俺達やなくて、修二が飛行機に耐えられるって証明なんやけど。俺もほんまに安心したし。修二も、内心責任感じとったんやろな。ほっとしたんか、熱まで出してしもて。
まぁ、俺を大学中退させたんやから、それぐらいの責任は感じてもらわなあかんけど。ああ見えて気が小さいとこあるから、案外かわええ─っと、あかんあかん。俺は頭を振ると、お粥に刻んだ小ネギを乗せた。