THE TORCHタワーのペントハウス、そのホールにあるグランドピアノは、もうしばらく歌っていない。どんな声だったのか、どんなくせがあって、どんな美しい……何もかもがあいまいだ。
両親が生きていた頃は、美しい声を響かせていた。「ブルース、母さんと踊るから一曲お願いできるかな?」こんなように、父が言って母と手を取って自分はピアノを弾いて――。もうずっとずっと前の話だ。思い出すことすら忘れていたくらい、前の話。だが屋根に指を滑らせてみたなら、埃が積もっていない。いかなるときも、隅までウェイン家の品格を守ろうという気概が感じられる。
慎重に鍵盤蓋を開けると、驚いた。こんなにも軽かっただろうか? 子どもの頃は、片手で開けるのはひと仕事だった記憶が、体に染み付いている。いまやひょいと、簡単に片手で持ち上げられてしまう。
椅子へ座り、上げた鍵盤蓋の丸みの上へ置いた左腕、その上へ頬を寄せた。鍵盤を押したなら、きっとその感覚もまた違って記憶が混乱をするのだろうか――。と、伸ばした人差し指は、無意識のうち震えている。両親の寝室を開いた時のように、長く閉ざした記憶に触れるのを、本能が恐れているのだろう。数回深呼吸を繰り返し、それでもまだためらいたがる心を押し殺した。
Aの白鍵を押したならば、二十年前と変わらない澄んだ音がホールに響き渡る。A、始まりの音、世界が広がる音。連れられたコンサートでまずオーボエが鳴らし、楽器が追従する。始まりの予感をさせる音だと、耳が覚えている。
ひずまず狂っていない澄んだ音は、アルフレッドが定期的に調律師を呼んでいるのだろう。子どものころ、良家らしくピアノを習っていた。いまや両手はすっかり動かないし、譜面を読むのだってひと苦労だろう。線を一本ずつ読んで、C、D、E……一曲弾き切る頃には、日が落ちてしまうに違いない。今弾ける曲といったらなんだろうか。簡単なーーああ、ぴったりな曲がある。G、G、A、G、A……確かこんな音の並びだっただろうか?
人差し指一本で子どもでも弾ける、簡単な曲。
ふうと吐いた息には、はっきり緊張が含まれていた。まるで戦いに赴く前の緊張みたいに。指をGの位置に置いて、ぐっと押す。
<ハッピーバースデー、トゥーユー……>
ところどころ音を外しながら、不安定な曲を一音一音鳴らしていく。ここへ自分の名前が入るのを最後に聞いたのは、十歳の頃だ。まだ父と母がいて、自分の誕生日はタワーで盛大に(それこそタワーのごとく積み上げられた誕生日プレゼントを背後にして)祝われていた、幸福な日常。
十一歳の誕生日から、その歌は聞かなくなった。
十一歳の誕生日で、その歌を拒絶した。
十一歳の誕生日、アルフレッドと家の者は精一杯誕生日を祝おうとしてくれたし、両親の取り巻きだった連中も、莫大な遺産を継いだ坊ちゃんの機嫌を伺おうとした。すべて断った。冷たくあたって、歌をやめろと叫び、二度と誕生日をするなと言った。それきり。
<ハッピーバースデートゥーユー……>
それどころか誕生日は疎ましくなった。両親と過ごした幸福な日々が遠ざかっていくようで。それから人の視線が怖くなった。両親の葬儀で向けられた、腐った慈愛に耐えられなくて、透明なレンズの向こうの顔の見えない誰かを恐れるようになって、街にも出なくなった。ずっと現実から目を逸らしていた。きっと、自分は十歳で止まったまま。体だけ大きくなって、知識だけ身につけた頭でっかち。そして体が大きくなり年齢が父母に近づくにつれ、十歳のブルース・ウェインがうずくまって叫ぶのだ。
まだ行かないで、まだ行かないで、まだ行かないで。大人にならないで、置き去りにしないで、どうして、なぜ。
歳を重ねるごとに、なぜ両親は殺されなくてはならなかったのか、どうして、いったい誰が。何が悪いのか、街が悪いのか、住む人間が悪いのか、犯罪はどうして起こる、何が人を動かす、悪のせいか、悪とはいったい何か。悪、悪、悪。
復讐という手段に至ったのは、自然流れだった。何より、自分を救うために。
元特殊部隊所属の執事は長年の訓練の賜物か、抜け出せない職業病か、感情の出づらい顔へわずかに、ほんのわずかに不同意を示したが、戦う術を叩き込んだ。体の動かし方から、知恵に至るまで。どうせやるなら、死んではならない。だから私も容赦せずあなたへ教えます、と。
「調律を欠かさなくてよかった。坊ちゃんは絶対に不要と仰いますから、承諾は取っていませんでしたが」
奥から聞こえた穏やかな声に、なんとも言えない気まずさを感じ、指を鍵盤から上がる。声が発せらる前から、三本の足が立てる音は聞こえていたのに、弾くのをやめなかったーーつまり、確信的、見つけて欲しかったからだ。ここにいて、ピアノを弾いていて、その曲を聴いてくれ。そんなように。
両親が死んで、数えきれないほどいた(それでも父と母は名前を憶えていた)家の者たちへまた一人、一人と暇を与えた。残ったのはふたりだった。ふたりは拒絶しようと、給金が払われなかろうが残ると言った。アルフレッドは彼なりに思い悩んでいたようだけれど、父にも母にもなれない。それはそうだ、アルフレッドは他人なのだから。しかし血の繋がらない他人だからこそ、両親が遺してくれた財産以上に価値のあるーー家族。
謝りたかった、ひどいことをたくさん言ったし、たくさんしてきた。しかし、相応しい謝罪方法を知らない。通過儀礼、他人との折衝を避け、経験すべき子どもの卒業もいまだ自覚のない、他人へかけるふさわしい言葉が浮かばない自分を疎ましく思う。いままですまなかった、それで十分か? どうしたなら今の自分を、今までありがとうを伝えられるだろうか。
考えた末がこれだ。本当に十歳の子どもがやることすぎてどうしようもないが、考えた末なのだ。
だから意思を伝えるために、鍵盤へ続きを、指を落とす。
<ハッピーバースデーディア――>
「ブルース」
静かに呼ばれた名前に、また指が止まる。途端に、身を潜めていた恥ずかしさが表面にあらわれてきた。今日がなんの日かなんて、アルフレッドが忘れてしまっていたら? ばかだ、そんなことあるはずないのに。甘えだと重々自覚がある。甘えについてはいまさらだ、甘えにどれだけ全身を預けてきたか。だからこの曲を弾いたんだ。簡単で分かりやすく、人差し指一本で伝わる、声や言葉がなくとも……。
「ケーキをご用意しましょうか?」
という提案へ、いよいよ白黒はっきりした鍵盤から顔を上げ、答えのない千差万別である人の表情を見やる。しわは増えたものの、変わらず嘘のない慈愛のほほえみだ。自分もいつかそのような表情を、浮かべることはできるのだろうか。
真似を試みが、強力な接着剤で固められてしまった口角は、ほん少し、下手したなら分からないくらいわずかに上げただけで限界を迎えてしまった。ゆっくり、ていねいにはがなさなくては口が裂けてしまうだろう。
「……頼むよ、アルフレッド」
もちろんですとも、アルフレッドはにっこり笑う。まるでこのひとことを、長年待っていたように。
「喜んで、坊ちゃん」
それからアルフレッドの背が、気のせいではなく軽い足取りが部屋から出るのを見送って、最後の一節を弾きはじめる。
<ハッピーバースデー、トゥーユー>
弾き終わった前と後で、変化があるかと言われたならそうでもなかった。変化はあった。ほんの少し前に。変わらなくてはならないと気付いた。自分の立場と行わねばならぬことと向き合わねばならないと。
今日も、この街のどこかで歌われているに違いない祝福。英語だけではなく、各国の言語で、しかし同じメロディで歌われている歌。
終わりを告げた美しい日々は戻らない。忘却は悲嘆することばかりではなく、忘れねば前に進めないことも。記憶が薄まったとしても、あったという事実は変わらない。残り続けている。
リドラーがその正義から正そうとした街で、傷付けられた無辜の人々を見た。街に住まう多くの人々の美しい日々が終わりを告げている今。
目を閉じたなら、流れ込む泥を含んだ重い水をかき分け進む。消すまいと高く掲げた発煙筒の光がまぶたの上によみがえる。洞窟の奥へ、より暗闇へ進む復讐者ではなく、暗闇から抜けるため、トーチを掲げる存在でありたいと願ったあの時の。胸に灯った炎の温度は、いまなお裡に残っている。
燃えている、心が燃えている。怒りや悲しみからおとずれる、地獄で深くから煮えたぎる火ではない。温かく、凍えに打ち勝ち、先を照らし、人々を祝福する灯り。
一年を、また次の一年を灯す、ろうそくの光が。その一本の灯は小さくとも、増える喜びを、多くの誰かが喜べるように。
そしていつか街のあらゆる窓から溢れる光で、蝙蝠が闇を飛び回れなくなる夜が訪れるまで。