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    6/4
    【You Know Something?】
    B6/novel/128P/装丁いろいろ
    ザ・バットマン+TENET
    映画(ざば)本編より二年と少し前。よく似た顔の彼らと執事のはなし。
    ※Before The Batman: An Orginal Movie Novel(前日譚小説)とArtbookの内容を含む
    !お届け6月下旬となります

    【レカペ2】本文sample/You know something1231 アルフレッド・ペニーワースの朝は早い。
     使用人としては広すぎる(と言ってもこの広すぎるペントハウスにはもうずっと、彼ともう一人しか勤めてなく、かの主人は狭い部屋を好んでいる)部屋のカーテンを開けた。朝日へ目を細める必要はなかった。広い窓から差し込む日は弱く、ゴッサム・シティは本日も曇天である。
     サヴィル・ロウ・スタイルの三揃えが彼のトレードマークであった。皺のないカッターシャツにベスト、ズボンは丹精を込め彼自身で毎日プレスされている。来客もなく誰にしめすでもないが、彼の姿はウェイン家の執事という自負の強さそのものであった。
     本日の気分に合うクラシックを流し、コーヒーを豆から挽いて淹れ、それを片手に朝刊を開く。これまた執事としては穏やかな朝の時間。主人の起床時間は時計の長針が天辺に近づいた頃である。手首にある時計は九時を示しており、ある意味始業前、自由時間とも言える。しかしこのタワーで暮らすアルフレッドにとって、仕事とプライベートという区分はないに等しい。特段、この二十年近くは。彼の人生の大半は、ウェインと共にあると言っても過言ではない──彼の使命も同様に。

     彼の仕事は文字通り、山のようにある。かの有名なイギリスの諜報部隊で鍛え上げられた確かなスキルをもってしても、彼を悩ませるそれら。主人にかわり、大の男が三人寝転がれる大きな机を埋め尽くす、山ほどの書類や持ち込まれるミーティングの数々と格闘するのが彼の主な仕事だ。
     一番の苦労はウェイン産業からの承認依頼。週に一度、渋い顔をする主人を数時間にわたり机へ縛り付け、永遠とサインをさせねばならない。決算期には右から左へ、何百枚もサインをする日もある。彼が体を鍛えているのはこのためでは? と思うほど。まるで夏休みの課題を溜めた子どものようだ、とアルフレッドは毎期気を重くする。学業においては、表彰されるほど優秀であったというのに。どんなトレーニングよりも疲労困憊であるといった主人へ、いくど経営に関わり、毎日書類へ目を通していればこんなことにはならないと、言い聞かせたことか忘れてしまった(一度も意味を成したことはない)。
     ブルースがどれほど〝遺産〟を無碍にし、関わりを拒否しようとも、莫大な株式とその他土地の権利等を含め、法律上ウェイン産業はブルースのものである。それから、ブルースの解任について議論されたことはない。上層部はトーマスに、あるいはもっと先代よりウェインへ恩があるものが多い。それと野心あるものは、余計な口出しをしないお飾りの会長のほうが都合がよいので。
     ブルース。
     ブルース・ウェインが、アルフレッド・ペニーワースの今の主人の名前だ。若干二十八歳にして誰もが羨むビリオネアであって、無類の外界─取り立てて社交界──と人嫌い。
     なぜそうなってしまったのかは、彼が十歳のころまで遡る必要があるため、説明は割愛をする。
     きっとあなたはご存知だろうから。
     つまり、複雑な理由がからみあってこうなった。無論、複雑な理由のひとつに、ほぼ親代わりであるアルフレッド・ペニーワースが含まれるのは言うまでもないのをお忘れなく。
     習慣と使命感は一心同体であり、朝刊を閉じた彼は息をすると同じように、山のように積まれた手紙たちと格闘をはじめるべく立ち上がった。
     朝に手を掛けるのはインビテーションから。ほうぼうから来る招待状へ、「残念ですがその日は……」「あいにくですがその日は……」「お招きいただき光栄ですが……」と代筆で文言を繰り返す。テンプレートの断り文句をいったい何順したか、さすがのアルフレッドでも覚えていない。アルフレッドなりに参加したほうがよいイベントを選別し、ブルースへ確認を促してはいるものの、よい返事があったことはほぼない。一部の招待客に限られた、車の展示会だけはよい返事が時折ある。ブルースは昔から車が好きだった。タワーへ移住する前のウェイン邸、客人たちが訪れたときだけ開かれるボールルームがその役割を果たさないとき、そこは小さなブルースにとってのハイウェイであり、パーキングエリアであった。磨き上げられた床の端から端まで、当時気に入っていた車の模型を走らせる姿は、いまだアルフレッドの瞼のうらへ焼き付いている。それからティーンの頃の、無茶極まりないカーレースについても……。
     ほかに、とことん暮らしへ無頓着であるブルースが興味をしめすものといえば、音楽だろうか。残念ながらアルフレッドと音楽の趣味は違うのだが、よい音で音楽を聞きたい考えは一致していて、ペントハウスにはすばらしい音響機器がひとしきり揃っている。アルフレッドが好きなジャンルはクラシック音楽であって、山積みの書類をリラックスして片付けることができるし、急ぐ場合には激しいオペラで気分に拍車をかける。クラシックは万能だとアルフレッドは思っている。
     ちょうど彼がひと息つこうとしたところ、朝一番から回っていたレコードが一枚終わりを迎えた。アルフレッドは背後の作曲家ごとに整頓をされた棚から一枚を引き抜いて、針の細さから浮き具合まで調整されたプレーヤーへレコードを置き、溝へ静かに針先を落とした。

     レコードのB面を滑った針が、中央へ近づき針がオートで上がったのと入れ替わりに、ペントハウス直通のエレベーターが音を立て、ランプが点灯していた。誰かが昇ってきている。誰が? ドリーがペントハウスを出入りする際は、律儀にアルフレッドへ声をかけていく。歴戦の家政婦である彼女は、ブルースがさらされる危険についてよくわかっている──本人よりもずっと。
     まさかブルースが早朝から外へ? 天変地異の前触れだろうか、明日は槍でも降るかもしれない。朝刊に載る天気予報は曇り、夕方より雨である。槍の予報はない。外ではなく階下のジムでトレーニングをしていた可能性も否めないが、いずれにせよ、ブルースが執事より早く起きる事態は彼の記憶する限りなかった。アルフレッドはデスクに座ったまま、じっとエレベーターを見た。
     ランプとベルが最上階への到達を告げる。オールド・ゴシックスタイルのエレベーターの格子が金属を擦れ合う音をさせながら開き──
    「おはよう、ミスター・ペニーワーズ」
     朝にふさわしい爽やかで、思わずすぐさま返事をしたくなる声音の挨拶であった。挨拶を受けたアルフレッドは、自分の頬をつねりたくなった。もしくは誰かに、強く頬をひっぱたかれたくてたまらなくなったが、この場には彼と、エレベーターから一歩を踏み出した来訪者しかいない。
    「どちらさまですかな?」
     立ち上がりつつ眼鏡をはずしたアルフレッドは、あくまでもウェイン家執事としての体裁を保つために、ていねいな口調で問い掛けたが、とてつもなくおかしなことを訊ねている気分になった。
     どちらさまですかな。
     なぜか。訪問者のほとんどは、アルフレッドにとって馴染み深く知っているものだった。
     髪は夏に、パンプシャーで豊かに実った小麦みたいな色をして、あちこち好き勝手跳ねている。比較対象より細身に見えるが、無駄のなさがはっきりわかる。身長は同じ。顔立ちはすこしばかり違うが、パーツの位置を含め誤差の範囲内である。ただ、特殊メイクでは再現できない細かい笑いじわが、訪問者はアルフレッドのよく知る彼──ブルース・ウェインとは別人である、なによりも証拠だ。それと上等な、彼に合わせて仕立てられたスーツ。執事の価値観からすると、ブルースは身の回りのものに無頓着なのだが、ブルースなりのこだわりがあるらしい──それはかなり強い。訪問者がまとっているのは、ブルースが袖を通すタイプではない明るい色をしている。
    「あなたの反応を見るに僕らって、本当にそっくりなんだね」と明るい口調の訪問者は、誰という部分に触れず話を続けた。「だって堂々と正面玄関から入ったのだけれど、誰も僕を止めなかったんだ。ちょっと奇特な目で見られた以外は」
     そうでしょうとも、アルフレッドは心の中でうなずいた。守衛や出勤をしてきたウェイン産業の社員へ、アルフレッドへ最初にそうしたように、やあやあおはよう! と笑顔を向けたのだろうか。それはそれは戸惑っただろう。かつてブルースが、ウェイン産業のみなへ笑顔を振りまいたことがあっただろうか。愛想を蒔いて評価取りをするどころか、どれだけアルフレッドが会議──役員会議からショートな打ち合わせまで──への参加を促そうと、がんとして拒否をし続けているのに。
    「立派なペントハウスだ、さすがウェインは違うなぁ」
     男はそのスーツにしてはミスマッチなぼろぼろすぎる、右肩へ掛けたバックパックを掛けなおし、ペントハウスの高い天井を見上げながら感心した。
    「ゴシック建築──ミスター・トーマス・ウェインはずいぶんと、敬虔だったんだね」
     美術館へ見学へ来た客のごとく、感じ入るように言った男の声音には親密さが含まれていたが、アルフレッドは身構え警戒を解かない。彼ご自慢のナイフコレクションを、キッチンへ取りに行く時間はない。男の足運びはよく訓練されたものと分かるがゆえに、わざと足音を立てて歩いている。気楽な様子は芝居か? 口調こそ親しみが込められているが、感情を完璧にコントロールする術を知っている波長であった。
     アルフレッドのなかの嗅覚鋭いイギリスの獣は、相手のにおいを探るべく、鼻をひくつかせる。ウェイン一族に主人と同じ年ごろの親戚はいない。そもそもこんなに似た顔を持っているならば、もっと騒ぎになっているはずで、ブルースの代わりとしてうまく利用をされていただろう。まさか、有り得てはならない隠し子……などというくだらない考えは、アルフレッドの中に一切浮かばない。忠実さと恩義より、彼のトーマスを疑ったことなど、一度もないように。
     男はアルフレッドから数歩離れた距離まで近寄り、向き合うように立った。
    「ミスター・ペニーワース、僕はこの通り丸腰だ。なんなら、全裸になったっていい」両手を挙げ人懐っこい笑顔を作った男は言った。「だから話を聞いてもらえるかな?」
     男の英語は、行儀のいいニューヨーカーの発音であったが、アルフレッドはどこか彼の愛すべき祖国──かつて彼が守っていた心はあれど形のないもの。アルフレッドがそばで身を捧げてきた彼ら──に通ずる何かを感じていた。言語のイントネーションでなく、立ち振る舞いとでも言うのだろうか。彼の勘はほとんどが正しい。それはアルフレッドがよくよく分かっていることであって、警戒を緩めるには十分たる根拠となった。
    「全裸は結構です。ならば先に、あなたの名前をお伺いしても?」
     それと所属も、と言いかけてアルフレッドはやめた。軍人や公的な何かに縛られている、独特な雰囲気を訪問者は終始漂わせていない。かわりに彼が肌感覚で得たのは──国を定めない何かによって運用され、組織に所属しながらも何かへ忠義を捧げている。金以外の目的を持つ、使命感のようなもの──つまり知らない方がよい思想。ややこしい事態にするのは面倒だと判断した。
     えへんとひとつ咳払いをした男は、彼の主人が絶対に作らない笑顔で右手を差し出した。
    「僕はニールというんだ」
     その手を取ろうとしたアルフレッドは一旦動きを静止させ、再度訊ねた。
    「できればブルースの客人として、ミスターを付けてお呼びしたいのですが?」
     すると困った、といいうように頬をかいたニールが言った。
    「ええと、そう、うん、ただのニールで頼むよ」
     そうですか、ニール。とアルフレッドはうなずいた。ただのニール。彼はすぐさま理解をした。それから、邸の場所が変わろうが、何代もウェイン家の監視役をつとめてきた、大きなダイニングテーブルの上へある、錫のトレイに乗ったコーヒーポットと、マクヴィティズのリッチ・ティー・ビスケットへ目を落とした。
    「コーヒーでよろしいですかな?」
    2 ブルース・ウェインの朝は遅い。
     もともと朝は苦手であった。早起きを義務付けられた期間、ボーディングスクールは彼にとって苦痛の日々であった。毎朝は早く、落ち着かず、窮屈な共同生活に加えて、ブルース・ウェインに向けられる好奇の目──悲劇のビリオネア、かわいそうなミスター・ウェイン──とのレッテルをべたべた貼られ、他人から役割の期待を寄せられ押し付けられた四年間は、心底、人付き合いとは厄介で生産性のないとの認識をブルースにしみつかせ、うんざりさせた。寄宿舎で唯一の利点は、日々服を考えずに済む制服くらいだっただろうか。
     かといってタワーに戻りたいかと問われればそうでもなかった。休暇はいつだって憂鬱だった。彼にとっての行き場はどこにもなかった。それはいまもなお。
     ベッドから這い出てカーテンを開ける。本日もゴッサムはぐずっており、日の高さは曖昧である。最低限が揃えられた部屋の、最低限のワードローブから、もう何年も着古しているダウンタウンの古着屋で買ってきたような、Tシャツとコットンパンツを引き抜いた。
    「はは! おもしろい。彼、結構やんちゃなんだ」
     自室を出るなり、談笑が聞こえてきた。一体誰が? ここへ戻ってきてから来客はすべて断れと伝えてあり、執事は「サー」と言ってその命令を忠実に守って誰も通してこなかったというのに。彼に招き入れ、声を上げて笑い合うような友人があると聞いたことがない。もっともブルースは、ろくにアルフレッドと話をしてこなかったので、知らなくともおかしくはないが。ブルースが彼について知るのは、家族や、何かあった際に連絡をすべき誰かがいないことだけ。
     眠気の残る頭を揺らしながらブルースが階段をくだりホールへと姿を現すと、
    「おはようございます、ブルース」
     ダイニングテーブルの椅子から立ち上がった執事が、穏やかな顔で言った。そして執事と談笑をしていた、向かいに座る男が座ったまま、背もたれにひじをかけて振り向いた。
    「やぁブルース、君だね。おはよう」
     ブルースはまだ自分が夢の中にいるのではないかと思った。階段のレールへ頭をぶつけたなら、あるいは派手に足を滑らせて転げ落ちたなら目は覚めるだろうか。
     自分が自分に挨拶をしている。
     ドッペルゲンガー。ブルースは胸中で現象の名を唱えた。
     古くから伝承や迷信で語られてきた、自分とそっくりの姿をした分身。題材として魅力的であり、多くの伝記に登場し、フィクションにも取り入れられてきた。ドストエフスキーの「二重人格」にオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」が有名どころだろう。
     なぜ題材として魅力的なのか? 
     歴史上の著名人たちが死ぬ前に見たとされ、それの出現は「死の前兆」のシンボルとされてきた。権力者や才能ある者の破滅の象徴、それはそれは、下々の者にとって魅力的ほかならない。
     だがどう見ても、ブルースの目の前へ立つ男には実像があり、自分とは違う意思を持っている。
    「ブルース、彼はニール」
     とアルフレッドがごく自然な様子で主人へと胡乱な訪問者──いわく、ニールを紹介したが、いったい、どこのなんのニールなのか、ブルースにはなにひとつ理解できなく、ただただニールを訝し気に見た。自分が忘れているだけでニールの後ろには、ウェインが付いたりするのか?
    「はじめまして、会えて嬉しいよ」
     ニールは立ち上がり、ブルースには一生かけても、浮かべることが困難な種類のほほ笑みで手を差し出したが、ブルースはその手を取らなかった。かわりに、
    「何の用だ?」
     うなるような声で訊ねた。まず他人を疑う。それが自分と同じ顔をしていようが──むしろ同じ顔をしているのだから、ことさらに疑いは深まる。本来危険を排除すべき執事は、なぜかすっかり心をゆるしてしまっているようだが、自分はそうはいかないとブルースは威嚇をした。
     お前は何者か。いったい自分へなんの害をもたらしに訪れたのか。
     ああとうなずいたニールは手を引っ込め、すっと真顔になって言った。
    「君を守りにきた。ブルース・ウェイン」
     往年からの伝統的なヒーローのごとく、堂々とニールは言った。ブルースは眉を寄せた。あまりに突然すぎるうえ、普通であれば何らかの告知があって、また大勢でやってくるはずだ。GCPDからの派遣か? それともFBI? CIA? とにかく、護衛だろうがなんだろうが、彼はお断りであった。具体的に表現するなら他人と四六時中場を共にするのは拷問である。
     しかしブルースが護衛など必要ないと口にする前に、彼が断ると予想していたニールは、
    「君が殺されると困るんだ」
     念押しするように言った。一体誰が自分を殺す? 浮かんだ疑問をブルースは、少し考えて呑み込んだ。形のなかった疑問は腹に落ちるなり、石のようになってブルースの体を重くさせた。いままで機会に恵まれなかっただけで、冷静に考えたならば、自分の死が都合のよい人間など、山ほどいるのでは。今のブルースはウェインの家柄を持つだけのお飾りにすぎない。ウェインの生き残り、つまり彼がいなくなれば、ウェイン産業は誰にでも継げる。ブルースはじっと、彼なりにニールを観察してみた。十歳の頃から、ウェインの財産目当ての信用ならない連中、あることをすると言いながらまったく別のことをする人間について、ブルースは飽き足りるほど見てきた。それらをあしらってきたのは、アルフレッドで、やがて面倒になったブルースはまるごと拒否をしたわけだが。だから、そういった連中か否かは判断できる自信がある。ブルースと同じ色をしたニールの目には、いやしい光が宿っておらず、下劣な好奇心とは無縁に見えたが、ブルースはまだ信じない。
    「逆では?」ニールは首を傾げるのを見て、目を細めたブルースは続けた。「警護するふりをして、お前が替わるためじゃないのか? 」
     鼻を鳴らして大袈裟に訊ねた。しかしニールはブルースの挑発に乗ることなく、
    「僕が? おもしろいアイデアだね」と挑発を楽しむようにすら感じさせる態度で答えた。
     ブルースよりも余裕があり大人びた対応に、ブルースはたまらず唇を噛んだ。うまくあしわれた遣り取りへ、アルフレッドがほほ笑む気配を感じる。ニールは柔らかな表情で言った。
    「ウェイン産業の運営もおもしろそうだけれど、僕は他にやらなくちゃならない──重大で失敗のゆるされない──ことがあるから、お断りするよ」
     一生困らない金と身分が手に入るというのに、そんなものはどうでもいいと、それも柔和なほほ笑みで言い張ったニールへ、ブルースは虚をつかれた。〝ウェイン〟をこけにされた気は全くせず、むしろすがすがしさすらあった。ブルースは寄せた眉同士の感覚が、わずかに広がるのを感じた。右手をポケットに突っ込んだニールは、左手を軽く振って続けた。
    「心配しなくていい。君を狙っているのは、君の身内じゃない。もっと言うのならゴッサムの人間でもない」首を大きく左右に振ったニールが言った。「君たちの、考えつかないほど遠くから来た連中さ──僕と同じように」
     ウインクを付け足したニールが言った。
    「遠く……」とブルースがぼそりと口にすると、
    「そう、とても、とても遠く」とニールは言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で繰り返す。彼が来たところより長く引かれてきたラインを辿るような、思わせぶりを含ませて。「ま、複雑な事情があって深くは話せないし、君は知らなくていい」
     ニールは胸の前でパズルを合わせるみたいに、四本ずつ指の間に指を差し込んで、「手を組む」とは違う何かを形作って言った。何かのシンボルのようだとブルースは思った。だが口元に浮かぶ人懐こい笑みは、使い分けたなら警告灯でもあった。明かせないということは、詮索は無用と同義。「調べること」はブルースの数少ない趣味のひとつであるが、実行にはニールの引いた〝立入禁止〟ラインへ立ち入らねばならない。彼は諦める。彼はまだ、犯罪現場に足を踏み入れていない。まだ。
    「……俺は知らなくていいのに、俺がこの世から消えると困るのか」
    「その通り」とニールは授業でよい答えをした生徒に向けるみたいな笑顔で言った。
     ブルースは横目で優秀な執事の反応を伺ったが、顔に警戒の色はない。ブルースにとってアルフレッドの沈黙こそニールを信頼するに至る証拠である。アルフレッドは本物だ。彼の生まれた国が、そしてトーマスが何よりもそれを認め、評価をしてきた。ブルースよりもはるか立場のある人間を護る職に就いていた。アルフレッド自身もその自負──プロ意識が高く、同時に誇りに思っている。執事以上のスキルを持ち合わせ、なんでも器用にこなしてみせるアルフレッドが唯一できなかったことといえば、ブルースを育てることだけだった、といっても良いほどに。
     そのアルフレッドがニールを認めている。なので本当にブルースの命は狙われていて、ニールは阻止に来たのだと、ブルースはアルフレッドを信じることにした。つまりそれは同時に胡乱な男、それも自分と瓜二つの顔をした、を信じることと同義であった。
     だがいまだ腑に落ちないブルースは、眉を寄せしぶしぶといった了承のうなずきを見せた。
    「オッケー、これで僕もボスに渋い顔されない」
     ニールは胸に左手をあて、表情をくしゃりと崩しほっとしたような息を吐いた。そのさまを見て、アルフレッドは違和感を覚えた。ニールは確かに「ボス」と言った。組織は頂点のある形式らしい。
     アルフレッドが身を置いたのはイアン・フレミングにジョン・ル・カレ……。さまざまな人物を通し世界的にカルチャーへ取り込まれた、公然の周知のような秘密組織だった。しかし彼の見立てとしてニールは違う。もっと深い、一般へは開示されない、おおよそメンバー同士でさえ互いの顔も名前も知らないような組織だと読んでいる。なので、「ボス」という単語に凝縮された親密さにアルフレッドの耳は反応をした。相当近しい関係あるいは右腕といった、重要なポストへニールは就いている。もしくは、重要だからこその遊撃兵。
    「それで、宿を取っていなくて。別にお金がないわけじゃないんだけど──」と言葉を途切らせたニールは、またしてもブルースが絶対に作らないたぐいの顔で──片目を閉じて言った。「泊めてもらってもいいかい? そうだな、多く見積もって五日くらい」
     まさかの申し入れへブルースは寄せた眉の溝を深くした。トーマスとマーサが亡くなってのち、アルフレッドとドリーを除いて、他人が住まうどころか侵入すら拒否してきた。誰がいつどこで、ブルース・ウェインについての、余計なうわさを流すかわかったものじゃない……。極力他人とは関わりを持ちたくなく、また他人と関わりを持つ理由がブルースには分からなくなっていた。
     だが、ニールについてはそれ以上の懸念が彼の頭へ浮かんでいた。同じ顔をした男が街中をウロウロしたなら? そこらのホテルなど比ではないウェイン・タワーがあるというのに、ブルースが街のホテルに宿泊するのは、何かがあるに違いないぞ──一番おもしろがられるのは密会だとか。なんと盛んに書き立てられたものか、考えるだけで寒気がした。マスコミが大好きな話題を、ばら撒いてたまるものか。しかも他人のせいで。ブルースはマスコミも例外なく疎んでいた。
    「……わかった、いいだろう」
     メリットデメリットは天秤にかけるだけ無駄だった。答えなど最初からわかっていて、ニールは訊ねたに違いない。ブルースはむっつりと、しかし素直にうなずくしかなかった。
    「感謝する、助かった。それじゃあ改めて」
     ニールは再び右手を差し出してきた。数秒の間、ブルースはその指先を見つめたあと、目線だけニールを見上げた。にっこりと笑い続けるニールは、握手にこだわっているようで、手を取り合うまで引っ込めるつもりはないといった雰囲気を全身からにじませている。やむを得ず、ブルースは気のない握手をすることにした。握った手は、別物であった。厚い手の皮、何かを握り続けているような手のたこ。知識を持ちうると言っても、ブルースはシャーロック・ホームズではないので、それが何の癖かまでは分からない。
     手は数秒の間に重なって、先に力を抜いたのはブルースだった。離れるのを見計らった執事が、
    「ゲストルームの用意をいたしましょう。それから設備の案内を」
    「ありがとう、ミスター・ペニーワース」とニールはアルフレッドの申し出を受けてから、何かを思いついたように手を打ち鳴らした。「折角のタワーだ、君が案内してくれると嬉しいんだけど」
    「俺はやることがある」
     ブルースは仏頂面で歩み寄りを拒否した。いつこの身に危険が迫るのか、何が迫っているのか、具体的な情報はそのうち開示されるのか? どれだけ居座る気か知らないが、長く続く関係でないのは確かであって、不要に親しくする必要ももてなす必要もないとブルースは考えていた。
     地下へ降りるためエレベーターへとブルースは足を向ける。彼にとっての計画は、大詰めを迎えていた。少しの時間も惜しく、一刻も早く計画を実行に移したくてたまらなかった。この数ヶ月、ようやくブルースは意味もなく意義もなく、怠惰にむさぼるだけの人生において、何者かになれる、見出せそうな人生の岐路、境目に立っているような予感がしていた。トーマス・ウェインは信じた、ゴッサムは光を見ると。だからブルースは決めた。彼なりの方法で自らの手でよくしてみせる……。
    「ブルース、朝食はよろしいのですか?」
    「必要ない」
     既に用意された朝食の辞退はブルースの中に、ほんの少しの罪悪感が生まれたが、かわりに自分と同じ顔をした男が食べるだろうと勝手な希望を投げつけた。おそらくそういう男だ。
     ところでブルースは、ふと背後に気配を感じていた。肩越しに振り返ったなら、先ほどまで普段誰も立ち入らない、森林の奥にある湖の底のような、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた青灰色の目が、いまやハロッズのウィンドウを見る子どものようにきらきらと輝いているではないか。何に? ブルースはニールの興味を引く何らかを持ち合わせる、面白い人間ではない自覚がある。
    「付いて行っても?」とニールは期待を込めて訊ねた。
    「来るな」ブルースは背中を向けて言ったあと、ぴたりと足を止めた。それからもう一度肩越しにニールを振り返って(まだ後追いを諦めていない表情であった)言った。「絶対に」
    3 深夜、自室に響き渡るノック音で、ようやくうとうとしていたブルースは目を開くことになった。誰かがマホガニーの厚い扉を拳の出っ張った骨で叩いている。深く眠っていたならば気付かないほどの、控えめなノックの音であったが、今夜は一段と感覚は過敏になっていた。ドアを一枚隔て、階段を降り廊下を曲がった先のゲストルームへ、見知らぬ人間が眠っている。ほんのかすかな音ですら起爆装置。抜け切れていない警戒心が、すぐにブルースをうつつのラインを飛び越えさせた。
    「アルフレッド?」
     ブルースは上半身を起こしドアへ問い掛けたが返答はない。あの訪問者が何かをやらかしたのか、いらぬ考えが過ぎってゆく。やはり、あいつを受け入れるべきでなかったのでは? 産業スパイで、ウェイン産業の経営状況を、コンフィデンスな技術を盗みに来ただとか──ブルースにとっては、どうでもよいことであるが、アルフレッドは違う。ウェインを守ることが彼の使命。
     コンフォーターを跳ね上げてベッドから降り、素足のまま扉に向かった。カーペットの敷かれた領域から出ると、温まったつま先へひやりとした床が触れて、反射として鳥肌が立った。
    「アルフレッド、どうした、なにか?」
     再度呼びかけても返事なし。ブルースは執事より教え込まれた、もしもの際の心構えを頭の中で唱えながら、慎重にドアを内側へ引いた。
     隙間から見えたのは執事ではなく──枕を抱えTシャツにスウェットを着た同じ顔をした男であって、ブルースはとにかく嫌な予感がした。根拠のない勘へ従ったブルースがドアを閉める前に、
    「ブルース、パジャマ・パーティーをしよう」口元へ弧を描きニールが言った。「アルフレッドが用意してくれた部屋は、広すぎて落ち着かないんだ。それに自分と同じ顔をした誰かと、夜更かしするだなんて楽しそうだろ?」
     ニールは何を言っている? 彼の中には用意されていないイベントについて、ブルースがドアの前でフリーズをしていると、すいと隣を抜けてニールが部屋に入り込んだ。
    「このタワーの主人は君なのに、随分狭い部屋だね。もしかして君、相当に変人?」
     と部屋を見渡しながら言った。お前に言われたくないという言葉をブルースは呑み込む。
    「分かりやすくていい」と端的に答えた。
     広々とした部屋も、そこへ置くための娯楽もブルースには不要だった。多感なティーンの頃から、この狭い部屋が彼の居城である。もっともいま、彼にはもう一つの自室がはるか真下にあるのだが、誰にも教えるつもりはない。十三歳の頃から誰にも邪魔されない、ブルースだけの特別な秘密基地。使われることのなくなった古くて暗い、ウェインのための停車駅。そこへ潤沢な資金で惜しみなく揃えられた、彼の計画に必要な道具たち。
    「それで、お前、何の用だ」
     苛立ちを隠す気のない荒い声でブルースは、理解し難い理由については聞かなかったこととして、窓際からゴッサムの夜半を見下ろすニールへと問い掛けた。急用──ニールがここへ訪れ滞在する内容に関わるような──であれば聞くつもりであったが、ブルースにとって心底からどうでもいい馴れ合いなら、さっさと追い出してしまいたかった。
     あかの他人と会話をするのは彼にとって本当に久しぶりなのに、一段とおしゃべりな来客の快活さは浴びているだけでブルースを苛つかせ、疲れさせている。そしてそれが自分と同じ顔をしているのも──心の負担を重ねるのに一役買っている。ニールの持つ明るさに話し上手で社交的、見た目にも気を遣い服装にいたるまで。本来のブルース・ウェインに求められている〝ふさわしさ〟を当てつけられているような心地になる。
    「ミスター・ペニーワースとは一日楽しく話させてもらってね」口調と反対に、ニールは不満げな息を鼻から吐いた。「君とも話したかったんだけど、ずっと姿を現さなかっただろう?」
     だから一晩を使って語り明かそうと? ブルースはニールがいくつかを知らないが、成人男性が二人、ベッドに寝転んで互いの話をし合うだって? ティーンエイジャーでもしない。少なくともブルースはしなかった。断固拒否だと無言でニールを見つめ返す。
     さっさと出て行ってくれないか。何ならこの部屋からだけではなく、タワーからも。
     夜はブルースにとって誰も立ち入れない聖域のようなものであった。昼間ゴッサムを歩いてみたなら? 窓ガラスに貼られた店名が剥げかけの、常連客でなんとか成り立っているようなコーヒースタンドに入り、一ドル五セントの薄いアメリカーノと粉砂糖たっぷりのオリジナルドーナツでも頼んだとしよう。ぶっきらぼうに告げられた金額をトレーに置いて、客などに無関心な店員が顔を上げた瞬間──ああ! お前を知ってるぞ、ブルース・ウェイン!
     彼はその経験を何度もしてきた、皆が自分の顔を知っている。街とそこへ住む人々は彼を逃さなかった。ウェインウェイン……。ボーディングスクールを卒業したブルースは、逃げるようにしてゴッサムを出たが、結局街はブルースの影にぴったりと、どっぷりと付きまとった。どこへ行って何をし、ウェインを知らない人間に囲まれ、自由に浸ったのは一時の気休めでしかなかった。彼がティーンの頃よく好奇心から収集をしていた、駅の欄干や階段の手すりに貼り付けられた謎の物質──チューイングガムのようにへばりついて離れない。
     結局ブルースはゴッサム・シティへ、彼の居場所ではないウェイン・タワーへ戻ってきた。
     戻ってきてしまった。
     明確な拒絶を発するブルースの意に反し、ニールは鋭い視線を受け流し足取り軽く、ブルースへ近付いた。それも鼻先が付きそうな距離で。鏡ではなく動く自分が自分を見据えている──自分の姿を見ることが億劫で、鏡からも目を逸らしてきたというのに。
    「きれいなブルーグレーの目だ、僕と同じ色をしてるな」
     網膜や結膜の血管まで一緒なのかな、そうしたらウェイン産業の一流セキュリティも形無しだ。いたずらっぽいほほ笑みを付け足したニールはわずかに首を傾け、覗き込むようにブルースの目を見て言った。自分の姿を見たことがあるかい? 同じ色の瞳が語りかけてくる。
    「でも君の目は僕も、ミスター・ペニーワースも見ていない。どこを見ている?」
     ニールからの問いかけは、ブルースの胸を撃った。ブルースはゆるゆると目を見開いた。
     どこかへ行ってしまいたい。でもどこへ? どこへも行けないと、彼は実践済みである。
     ニールの砲撃は、核心的であって彼にとっては──致命的であった。ブルースなりにひた隠しにしてきた昏い感情へスポットライトをあてられた。誰かに中身を暴かれる衝撃。ニールの行為は、麻酔無しで傷から銃弾を取り出すようなものである。ずかずかと遠慮なく踏み込んでくる、接するのを避けてきた部類であるニールは、あまりにもブルースの手に余った。
     ブルースは回れ右をしてハンターへ背を向ける。ドアを押しこの上なく息の詰まる自室から出た。追い詰められた結果、ブルースは自室を放棄する選択肢を取った。
    「ブルース? どこへ?」
     待ってくれ。背後から迫る声へ、目的地へ足を早める。脇目も振らず向かう先はゲストルーム。本来ニールにあてがわれた部屋のドアを軽く開け、隙間から室内へ体を滑り込ませたブルースは、内側から施錠した。それからベッドに潜り込んで、コンフォーターを深く被った。
     数度ノックがあったが、すぐに止んだ。存外ニールという男は諦めが早かったらしい。それとも、今日のところは諦めただけか。そのどちらだろうが、ブルースにはどうでもよかった。

     廊下に一人残されたニールは、抑えきれない笑いを外へ漏らした。彼にとって、鍵とは無意味なものである。もちろんブルースは、彼の特技を知らない。最新式でもなんでもない単純な錠前など特殊な器具を使う必要もなく、その辺りに落ちている針金を使って、息を吸うように開けられる。
     でもニールはそれをするつもりはなかった。少なくとも──今夜は。
     スマートにドアをこじ開けたとしても、心を開く対象ではない。おおよそ彼の知る大人のうち、ブルースはもっとも子供であった。「彼」からすれば、ニールもまた子供かもしれないが、少なくともニールは──一概に大人の基準とは言えないが──セルフコントロールに自信があった。
     この数週間。目的地へ辿り着き、時間を矢の通りにしてから。ニールはずっとわくわくしていた。彼の心は比較的常に童心に近く、刺激や珍しいものを好む性質にあって、ブルースの存在は直近の何よりもニールの心を弾ませた。
     時間を行き来する行為は、世間常識にあてはめれば常識ではないが、科学的に証明できること。それに順行逆行を繰り返した結果、もはやそれは日常に溶け込んでしまっている。だがどうだ? 同じ顔をした誰か! こんなにも興味深い事象はない。同じ顔をしているというのに、中身は真逆。部屋はシンプル、洋服にも見た目にも無頓着、食事もどうだっていいというようすだった。趣味はあるのだろうか。ホールにあった音響設備は凝ってた、それから部屋の隅に立て掛けられたエレキギター。訪れたときにアルフレッドが流していたのはクラシックであったから、ブルースの趣味なのだろうか。彼が弾いている姿は……イメージできないのだが。
     ニールは「彼」より任務のひとつとして請け負っていた。驚くべき、先の技術に依ったクローン──彼の時代でもまだそれは不可能である──かと見違うほどの、そっくりさんを守ること。
     ブルース・ウェイン。
     記録によれば、数日後、一切パーティー嫌いのブルース・ウェインが突然パーティーへ姿をあらわすそうだ。そこで、遠くから来た連中がブルースを狙う。だが彼は死なず未来に存在する。
     争いは記録によっても行われる。組織は情報戦においてほぼ勝ち続けていた。烏合の衆ではなく厳格なテストをクリアし、崇高な使命を崇高な精神のもと、共通の目的のためならば、自己犠牲をいとわない者たちによって形成された組織。
     組織の人間はどこにでもいる。書いて字の通りどこにでも。さまざまな時代にいる、さまざまな知識を有した優秀な構成員が。前からきた人間も後ろから来た人間も。本作戦においてもニールをサポートする要因は数名いて、連絡を取り合っている。
     その偉大なる組織が、ブルース・ウェインは守るべき対象と判断しニールへ命令をした。
     なぜ?
     ウェイン産業は将来〝組織〟へ間接的ながら貢献する。活動の資金、技術開発支援に武器支援、人的支援。大きな森は格好の隠れ場である。だから僕たちのボスは、君に消えられると困る。
     それと。すべてがつつがなく進んだ未来において、悲しきかな、ゴッサム・シティは犯罪都市のさきがけとなる。それを止めるのが君の役割。世界中の悪人側へ金が流れないようにするためにも、ゴッサムの治安を君に守ってもらわなくてはならない──ねぇ、バットマン。
     ウェイン産業と組織との未来が、この度の接触でもたらされる結果ゆえか、ニールは詳細を知らされていない。無知こそが武器である。ボスからは、「命を守る以外は好きにしていい」とだけ。
     含蓄ある指令はニールの洞察力に頼ったものと、ブルースを見た彼は悟り始めた。
     ニールが今回の任務に選ばれたのは、彼らの顔がさやの中のえんどう豆であるという、替え難い特別さが最たるだ。ブルース・ウェインがパーティーに出た記録は、ニールでなくては作れない。
     加えて「彼」が意味深な指令をした、ニールにしかできない何かを遂行するためには、まず知る必要があり、彼はブルースに先んじて、興味深い経歴を持つアルフレッド・ペニーワースへ接触を試みた。いわば、業界においてニールにとっての大先輩。
     ブルースとの距離感は測りかねているがアルフレッドについては、さすがの話の速さであった。いかにも英国ふうの馬鹿げた素性の探り合いを、アルフレッドのほうから早々に切り上げたように。ニールが彼の母国で育ったのは人生の半分と少し。そんな感覚を引き出したのは久々でもあって、楽しさ半分煩わしさが半分といったところであったが。ニールにとって心地の良いジャブであった。
     ブルースについてはまだそのアプローチに方法ついて、探り探りといったところだった。なんせ対象がとことん対話を拒むものだから。
     同じ色をした青灰色の瞳は常にかげっている。十歳の頃に目の前で両親を殺された彼の目には、ニールがゴッサムの街に抱いた感想と同じ、恐怖が沈澱している。しかしそれでも澄んだ虹彩は、彼が十三の時、母親と心を許した家政婦と訪れた、アイスランドのヴァトナヨークトル氷河。そこへできたアイスケーブを思い起こさせた。氷河は、訪れる観光客を拒絶する冷たさを放っていた──ただし時折上から日が差すと、矮小な人間へ息をのむほど美しい表情を見せもした。
     それから、あの瞳の奥! 見たかい、炎がちらついているのを。目の奥深く燃え続ける青白い炎。実は赤い炎よりも熱い、最も熱い高温な状態の炎。そうは見えないのに。
     相反するものの同居、情熱と冷静、街と住人に対して深い失望を覚えているくせ、ほんの些細な希望と善を捨てられないでいる、ブルースそのもの。十歳のまま時が止まってしまった、どこにも行けない子供。同じ顔のよしみだ、救ってみたいと思うのはおかしなことだろうか? 
     だから多分僕は、君を放っておけないのだと思うし、「彼」もこれを期待したに違いない。
     これはエゴだが、何より自分がしょぼくれているのを見るのが、僕は嫌なんだ。
    「ブルース、親愛なるきみ。それじゃあまた明日」
     固く閉ざされたドアの表面を指先で撫で、この時代において、数人しか知らないヒット曲の鼻歌交じりに、彼は廊下をスキップした。
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    isu_kukuritsuke

    INFO6/4
    【You Know Something?】
    B6/novel/128P/装丁いろいろ
    ザ・バットマン+TENET
    映画(ざば)本編より二年と少し前。よく似た顔の彼らと執事のはなし。
    ※Before The Batman: An Orginal Movie Novel(前日譚小説)とArtbookの内容を含む
    !お届け6月下旬となります
    【レカペ2】本文sample/You know something1 アルフレッド・ペニーワースの朝は早い。
     使用人としては広すぎる(と言ってもこの広すぎるペントハウスにはもうずっと、彼ともう一人しか勤めてなく、かの主人は狭い部屋を好んでいる)部屋のカーテンを開けた。朝日へ目を細める必要はなかった。広い窓から差し込む日は弱く、ゴッサム・シティは本日も曇天である。
     サヴィル・ロウ・スタイルの三揃えが彼のトレードマークであった。皺のないカッターシャツにベスト、ズボンは丹精を込め彼自身で毎日プレスされている。来客もなく誰にしめすでもないが、彼の姿はウェイン家の執事という自負の強さそのものであった。
     本日の気分に合うクラシックを流し、コーヒーを豆から挽いて淹れ、それを片手に朝刊を開く。これまた執事としては穏やかな朝の時間。主人の起床時間は時計の長針が天辺に近づいた頃である。手首にある時計は九時を示しており、ある意味始業前、自由時間とも言える。しかしこのタワーで暮らすアルフレッドにとって、仕事とプライベートという区分はないに等しい。特段、この二十年近くは。彼の人生の大半は、ウェインと共にあると言っても過言ではない──彼の使命も同様に。
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