2月15日の攻防「ハァ────」
目の前に置かれた小さな赤い箱と睨めっこしながら、おれの口からこぼれ出たのは長い長い溜息だった。
今日はニ月十五日で、つまりバレンタインの翌日。そして手元のこの箱は、昨日渡すべき相手に渡されなかった悲しきチョコレートだ。
──いや、厳密には渦中の相手にはチョコを渡している。『ありがたく受け取ってよねェ』なんて言いながら、ショコラフェス用の手作りチョコをユニットメンバーと一緒に送り合ったし、ヒロくんも『ありがとう!藍良からチョコを貰えるなんてすごくうれしいよ!』と弾けんばかりの笑顔で受け取ってくれた。当然自分だって彼からちゃんとチョコを貰っている。そう、ユニットメンバーとしてのチョコレート交換はそこで終えてしまったのだ。そして、そんな出来事があったからこそ、もう一つ用意していたこの箱を渡す機会も──口実も、完全に失ってしまった。
仕事も練習もオフだったいつかの帰り道。いつものアイドルショップで手に入れた戦利品たちを片手に浮かれ気分で帰路についているときだった。自分と同じくらい浮き足だったショッピングモールの特設コーナーを何気なく覗いてみると、たくさんのチョコレートの中からひとつ気になるものが目に留まった。それは可愛らしい小鳥のかたちのチョコレートで、それらがふたつ仲良く赤い小さなハート型の箱に入っていた。どうしてそれが気になってしまったのか、そしてそれを誰に渡すつもりなのか、答えを出さないまま気付けばおれはレジでお会計を終えていた。
「もう……食べちゃおうかな」
今さら渡すための理由も思いつかないし、そもそも自分はこれを何と言って彼に渡すつもりだったのだろう。目の前のチョコを見れば見るほど、いろんな含みを感じてしまって急激に顔が赤くなってきたのが分かる。
こんなのもうどうしたって渡せる気がしないよォ。あの日のおれはきっとどうかしちゃってた。勢いのままにがさがさとラッピングをほどき、箱の中の二羽の小鳥たちと対面する。なんだか目の奥がじわりと熱くなってきたのはきっと気のせいだ。
「んギャァ!」
頭上に軽い衝撃を感じ、思わず可愛くない悲鳴が飛び出した。ついでに驚きで涙も引っ込んだ。
「よォ!藍ちゃん。ご機嫌いかが?」
そこには今この世で二番目に会いたくなかった人物がずいぶんと上機嫌な様子で立っていた。
「ええ〜なになに?チョコレートなんか見つめちゃって?藍ちゃんも隅におけないねェ」
「はァ?そっ そんなんじゃないも……そう!そうなの、これはファンの子からもらったの!」
「ほーん。そっかぁ〜、そんな人気者な藍ちゃんにはこーんなチョコなんて用はなかったなァ」
先程頭の上に感じた衝撃はチョコレートの箱だったようだ。
「どうせパチンコの景品でしょ?アイドルがパチ屋通いなんてサイテー」
「手厳しいねェ。昨日は案の定大勝ちしちまってよ、こうしてみんなに戦利品を施し歩いてるってワケ」
俺っちってばやさしーなどとのたまう彼の手元を見ると、たしかに様々な種類の箱がたくさん詰め込まれたビニール袋を持っていた。せっかく大勝ちしたらしいというのにこうして散財していたら意味がないのではないだろうか?いや、きっとこの人はお金が欲しいのではなくただギャンブルという行為を楽しんでいるのだ。──それっていちばん救えないやつだよねェ
そんなおれのじとっとした目線など意に介さず、燐音先輩はけらけらと笑いながら話しだす。
「たとえどんな理由で手に入れたものだとしても、渡された側にとってはそこにあるものが全てっしょ?」
「……」
「いくらたいそうな想いを込めたって、伝えられなきゃ無いのと同じかもよ?」
「……ちょっとおれ!用事思い出した!」
手元の箱を、元通りにとはいかないもののきれいに包み直す。
「おーおー。頑張れよ」
去り際に見えたあのにやついた顔!きっと色んなことがばれている気がするが、今はそれどころではない。
確か今日は朝から空手部の練習があると言っていた。だったらもうすぐ練習を終えて部屋に帰ってくる時間だろう。寮の部屋を目指しつつ、さっきまで一番会いたくなかったはずの人物を必死で探す。
「……っていうかスマホに連絡すればいいじゃん」
いつも誰かさんに何度も文句を言っていた行動を、まさか自分がする羽目になるなんて。興奮でそれだけ気が急いてしまっていたのだろう。いったん足を止めて震える手でメッセージを打つ。『今どこにいる?』短いメッセージを送信しようとしたとき、
「おーい!藍良っ!」
聞き慣れた弾んだ声が、少し遠くからおれの名前を呼んだ。
その声の主を探していたはずなのに、いざ出会ってしまうと心臓の鼓動がうるさくて体が固まってしまう。ヒロくんはそんなことおかまいなしに、にこにこしながらこちらへやってきた。
「どうしたの?こんなところで。ええっと 今日は何か約束をしていたっけ?」
「えっと……」
──伝えられなきゃ無いのと同じかもよ?先ほどの言葉が頭の中に響く。だってあの小鳥達を見たとき、自分たちもそうなりたいと思ってしまった。これからもずっと、一緒に飛んでいけたら。昨日は伝えられなかったけど、今だって逃げ出したいけれど、この気持ちは無いものなんかじゃない。
「あのね、ヒロくん。おれ、きみに渡したいものがあるの」