ひたり。ひたり。
大理石の床に両の足を付ける音が部屋に響く。
常人は裸足のままでは足の裏を火傷してしまうくらい冷たい床に、その男──アイク・イーヴランドは立っていた。
その目はまだ半分も開いておらず、虚空を見つめている。広い部屋は音を吸い込む程の冷気に包まれており、アイクが立っている後ろには今し方彼が浸かっていたバスタブのみが置かれている。そのバスタブには、液体窒素よりも低い温度なのでは無いかと思うほど冷たい特殊な液体で満たされている。その水でアイクは眠っていた。
元々特殊な体質であるアイクは特別な力を手に入れると共に、常人よりも睡眠が必要な身体として生を得ることとなった。幼少期はこの体質の所為で多くの楽しみが奪われ辛い思いをした。けれども他の特別な力を持つ四人の仲間に救われた。この出会いは彼の人生を大きく左右し、また四人の人生も大きく左右した。この土地を治める者として成長すると共にこの体質は常人に理解され、崇拝される事となった。同時に更なる力も手に入れる事が出来たが、沢山の犠牲と敵を増やした。それでも、アイクがここまで歩み続ける事が出来たのは彼らの支えがあったからだ。
「...ふふ」
目を閉じて今まであった事を思い出す。思わず笑ってしまった。愛されていると思う。自分には勿体無い位に。この土地を五人で統治するのは簡単では無かったし、何度も危ない橋を渡ってきた。失いかけた命もあった。その都度支え合ってきたのだ。家族と言っても過言ではない彼らに、これ以上無いくらいに愛されている。ああでも、僕にはそんな価値があるのだろうか。こんな、日々大半を睡眠時間としなければいけない身体に──
覚醒していない脳ではまだそこまでの思考回路を回していくには血が足りていなかった。いけない、とても幸福な夢を見た後は不安になる、ミスタもそう言っていたが、その気持ちが今分かった気がした。ふるふると頭を振って思考を飛ばす。
「喉乾いた...」
目覚めてきた心臓と神経を動かして部屋を歩く。部屋の扉を開けば一気に冷気が外に逃げていく。半ば湯気のようにも見える冷気がアイクの睫毛に乗る霜を優しく溶かした。
しっとり濡れる髪に置いてあった清潔かつ柔らかい生地のタオルで適当に頭を拭く。そのままタオルは頭に乗せて 、そのすぐ隣に置いてあったサラリとした触り心地の衣服を体に巻く。
「ヴォックスがまた用意したのかな」
異国の文化である着物という物らしい。という話は何度も聞いているがこの世界の文献にはどこにもそんな記載はない。本当にこの世界のどこかにそんな文化があるのだろうか。ヴォックスの事だ、もしかしたら異世界の話をしているのかもしれない。
そんな事を考えていたら、洗面所の前の扉からコンコンと二回のノックの後に控えめにもう一度だけノックする音が響いた。
「シュウ」
ガチャリと少し重ために造られている洗面所の扉を開けて入ってきたのは、今しがたアイクが名前を呼んだ相手、闇ノシュウだった。
「エスパー?」
「違うよ、僕はノックの癖を覚えてただけだよ」
「ふふ、僕そんなに特徴的?」
「まあね」
そんな控えめなノックの仕方はシュウしかいないよ、という言葉は飲み込んだ。
このタイミングでシュウが来たという事は、眠る前に約束していた時間に起きれたという訳だ。上等上等。
「おはようアイク、水、持ってきたよ」
「おはようシュウ、シュウこそエスパー?」
「それを使えるのは僕じゃないよ」
そう、水を持っていない方の手でシュウはどこかのサイキッカーのポーズを真似する。その姿に僕は目を細めて思わず吹き出してしまった。先に水を飲んでいなくてよかった。
はいどうぞ。と渡された水の入った瓶を両手で受け取る。その時アイクとシュウの指先が触れ合った。シュウは慌てたように、しかしアイクが水をきちんと受け取ったのを確認してから指を引っ込めた。
「あっ、ごめんアイク!火傷してない?」
「...大丈夫、もうコーティングは終わってるから」
コーティング、最終的に剥がしちゃうのはいつも僕だからさ、良かった、安心したよ。とシュウは困ったように笑った。
コーティングとはアイクの特殊体質の1つであり、直に肌に触れさせない為に張る防御の種である。氷を身体に宿すアイクは体温もどちらかと言えば冬の恐ろしく冷たい海水の方が住みやすい。それほどにまで冷たい体温は常人の肌が直接触れるだけで火傷をしてしまうのだ。それを避けるために人の目では確認できない程の薄い、しかし硬い膜を張る。睡眠中、バスタブの液体がそのコーティングを助けてくれる役割を持っている。戦闘等で剥がれたらその都度コーティングを張り直す。アイク自身の精神状態にも直結する為、その都度睡眠を選んでいる。一番安心できるように皆が作ってくれたこの部屋でゆっくりと眠り、心身共に休む時間は嫌いではなかった。
「そうだ、アイク、もう着替える?持ってきたよ、新しいレース」
「え!もう新しいの出来たの?やっぱりシュウに頼んでおいて正解だったね」
「ふふ」
でもね、生地はミスタが選んだんだよ?内緒にしてって言われてたけど、誰に、とは言われてなかったからね。とシュウは口の前で人差し指を立てて楽しそうに笑った。つられてアイクも笑みが漏れた。ミスタの優しさにじんわり心臓に広がる血液の水溜まりのような感覚が温かかった。
「前のレースはもう処分した?」
「うん、流石にあそこまで汚れたからね」
「......そう」
まずかった?とアイクは疑問符を投げかけたがシュウはなんでもないよと笑うだけだった。早く付けてみてとシュウの細長い指先が伸びてくる。その手を享受し、肩に、腕に、かけてレースを付けていくシュウの指を黙って目でなぞった。慣れた手つきでレースを付けていくシュウの指が、アイクは好きだった。長い爪が、まるで蜘蛛が丁寧に一本一本糸を繋ぎ合わせ、紡いでいくようで。そのまま絡め取られてしまいそう、と目を細める。迷いのない繊細な動きがアイクは何よりも好きだった。
「ふふ、出来たよ、うん、やっぱり似合ってる」
「ありがとうシュウ」
ふわりと掛けられたレースをその場で回ってシュウに見せる。嬉しくて顔が綻ぶアイクをシュウは目を細め、とても似合っていると褒めた。
その後は身なり等を2人で整え、時刻は約深夜の2時になった頃、アイクは本来である騎士の仕事をする為に所有する領地へと戻る事にした。シュウは今日の仕事はもう終わっているんだ、手伝ってもいいかな、とアイクに問いかけ、それを快諾した。
した、までは良かったのだが。
「あれ、転送鏡が作動しない」
「?」
転送鏡は文字通り、ワープができるような鏡であり、本来魔力あれば一定範囲は自由に行き来することができる優れものである。が。
鏡の中に入り移動する筈なのだが、そこにはごく普通の鏡しかなかった。
「もしかして、アイク、今魔力空っぽ...」
「...そうかもしれない」
魔力が無くても生死に影響はない。しかし魔力が篭もりすぎている場所に、魔力が無い者が入れば、魔力の過剰摂取で体の内側から溶解してしまう。食事や休息で普通の人間であれば充分に回復するが、アイクは睡眠だけでは効率良く回復できない体質だった。魔力の吸収法はさまざまあり、食事は効率のいい吸収法の一つとしては一般的である。さらにもう一つ、効率の良い吸収法に、
「アイク、君が良ければなんだけど」
「......シュウ、ここじゃだめ、だから」
「急いでない?」
「ゆっくりでいいよ」
ゆっくり、という言葉にシュウの目が細まる。シュウの手袋越しの体温が指先に触れる。そう、もう一つの効率的な吸収法は、他人からの補給。
粘膜摂取での受け渡しが実は一番効率がいいのだ。唾液や涙、血液、どれでもいい。それこそ体液であれば、なんでも魔力の糧となる。
睡眠前に食事をしなかった自分の落ち度だと、反省し、ふう、と声に出して少し溜息を吐けば、シュウがこちらを向いて新しいレースを少しだけ指先で遊んだ。
「キャビアトーストも後で食べようか」
「一緒に食べてくれるの?」
「もちろん、でもその前に、目の前に食べるものがあるけどね」
「うわ、シュウ、今のおじさんみたいだったよ」
「えっ、ほんと?」
そういう事をサラリと言って退けるシュウに若干の揶揄いを混ぜればお互い和やかな空気が流れる。
アイクはまだ知らない。ゆっくりと言ってしまった事や、この時シュウの目が細められた事によって自分の首を絞めることになるとは思ってもいなかった。