夜も更けてきた午後10時。ようやく任務の終わった乙骨はトボトボと自室まで歩いていた。今日は早朝同級生の皆と朝練の約束をしていたのに寝坊して何故か側にいた伏黒に起こされる始末。慌てて出て行ったので朝食は取れずじまい。午前は授業を受け、午後からは任務。解放されたのはもう遅い時間。軽食以外、ろくに食事にありつけなかった乙骨はいつも以上に疲労困憊だった。
帰ったら寝よう。お腹は空いてるけどもう作る元気もない。深いため息を吐きドアノブに手をかけた瞬間乙骨は違和感に気づき手を止める。
誰もいないはずの部屋で微かに物音が聞こえる。そして人の気配。部屋間違ったかなと周囲を確認するもその扉は確かに自分の部屋に続く扉で。自分の部屋なのに入りづらくてしばらく扉の前で佇んでいるとふといい匂いが漂ってくる。どうやら扉の先で料理でもしているらしい。
誰かが僕の部屋で食べてるのかな。お腹空いてきたな…
疲れすぎてぼんやりとした頭が空腹に支配されていく。今日はあまり食事を出来なかった乙骨の腹がその香りに刺激され活発になっていく。意を決して扉を開くとそこには。
「あっ、先輩おかえりなさい。任務お疲れ様でした」
「あれ…伏黒くん?どうして…?」
部屋着姿の伏黒がキッチンに立って料理をしていた。もう遅い時間なのに何してるんだろう。まだぼーっとした頭が目の前の情報を処理しきれない。
「俺も少し前に帰ってきたんです。五条先生にパシられて。イライラしながら戻ってきたんですけど夜遅いのに先輩が学校にいたのが見えたので任務帰りで疲れてるだろうなと思ってお邪魔して何か食べる物作ってました。…邪魔でしたか?」
「へ…?ううん!嬉しいよ!!」
ぽかんとした顔で聞いていたせいか伏黒が心配そうに眺めていたが気を取り直したようにふにゃっと笑う乙骨に優しく微笑み返す。
「先輩、もう少しでできるんで着替えてテーブルで待っててください。」
「ありがとう。お言葉に甘えて」
かぐわしい香りを通り抜けリビングに入った乙骨は刀を置き白の制服を脱ぐとテーブル脇に座る。ほどなく伏黒が2人分の器と箸を持ってきてテーブルに置くと冷蔵庫から自販機で買ってきたお茶を2本取り出して1本乙骨の側に置く。
「お待たせしました。もう遅い時間ですし、野菜も肉もさっと食べれる豚汁にしました。どうせ先輩今日大したもの食べてないでしょうし…先輩どうかしましたか?」
ずっとにこにことしながら伏黒を目で追いかけていた乙骨の視線に耐えられず少し顔を赤らめる伏黒。
「あ、えっと、ごめん。なんか今日目覚めたら伏黒くんがいて起こしてくれて、夜帰ったら部屋は片付いてるし、何も言わずに伏黒くんが料理作って待っててくれてたのが嬉しくて。こんな日々が毎日続いたらずっと幸せなんだろうなーって思って」
「…それって同棲したいって意味ですか」
「えっ?!えっと…毎日一緒にいれたら嬉しいなって思っただけで…」
「だから一緒に住みたいってことですよね?同棲したいってことでしょ」
「う、うん…そうなのかな、そうなんだと思う」
顔を真っ赤にして俯いてしまう乙骨。下手くそな言い訳に苦笑いする伏黒。冷める前に食べましょうと言うと首を縦に振り静かに食前の挨拶をして食べ始める2人。
小ぶりなどんぶりを手に持つと豚汁を眺める乙骨。大根、人参、ごぼう、さつまいもの根菜にキャベツと豚肉の具材がゴロゴロと入った贅沢な豚汁だ。ひと口、汁を口に含むと野菜の旨味が溶け込んで深い味わいにホッとする。自分の今日の食事事情を考えてボリュームたっぷりにしてくれたのだろうか。時刻は11時過ぎているのにこんな贅沢なものを伏黒くんは作って待っていてくれていたのかと思うと自分は本当に幸せ者だと身に沁みる。
「すっごく美味しい…これ作って待っててくれたの?」
「まあ野菜は切って冷凍してたやつですけど。汁物なら先輩が疲れてても食べやすいだろうと思ってこれにしました」
ズズッと音を立てて汁を飲むと大きな口を開けて野菜を食べる伏黒を見つめる。チラリと見える歯にあの時噛みつかれた感触を思い出して思わず目を逸らし、照れ隠しに自分も野菜を頬張る。ゴクリと汁まですべて飲み干した乙骨は満足気に箸を置く。
「ごちそうさま。美味しかったよ。僕今日ちゃんと食べたの移動中のサンドイッチくらいだったからいつもよりパクパク食べちゃった」
満足したように腹をさする乙骨を見てよかったですと微笑む伏黒。自分も疲れてるだろうに献身的に支えてくれる伏黒くんに頭が上がらない。こんな人が自分の恋人だと思うと嬉しくて鼻が高くなってしまう。思い切ったように先程の続きを話す乙骨。
「ねえ、さっきの話だけど、伏黒くんは僕と一緒に住みたいって思ってくれてるのかな?聞かせてよ」
「…すみません、それはできません。今は学生だし寮ですし…それに先輩、周りから茶化されるの好きじゃないでしょ」
少し考えて、出てきた言葉は思っていた答えとは違う。でも確かに今の自分達は学生でまだ自分達だけで責任を負うには未熟すぎる。伏黒の言う通りだ。
少し悲しそうな表情で俯く乙骨に罰当たりなことを言ってしまったなと気まずくなってしまう伏黒。しんとした空気になってしまったがでも今の中途半端な意思では伝えられない。だから。
「俺が高専卒業したら改めて言わせてください。大人になって何もかも自分でできるようになってからちゃんと先輩を支えたい。肉体的にも精神的にも、経済的にも。先輩には卒業して1年待たせることになっちゃいますけどね」
「うん、わかったよ。…なんかここに指輪があったらプロポーズみたいだよね」
何もつけられていない左手の薬指を隠すように握る乙骨に期待されているのだろうかとドキリとしてしまう。
「プロポーズですか…同棲よりもさらに重いですね。でもわかりました。それまでに先輩に見合う人間になってみせます。その時は正式にプロポーズさせてください」
軽い冗談くらいの気持ちで言ったはずなのに伏黒が本気に受け止めたので焦る乙骨。
「えっ、いいの…?伏黒くん、僕は男なんだよ?結婚出来たとしても子供なんて作れないし、それに伏黒くんには将来伏黒くんを支えてくれる綺麗な女性がきっと現れると思う。それなのに僕なんか選んで───」
乙骨の言葉を伏黒の唇が遮る。
「今さら遠ざけないでください。せっかく先輩と思いを共有できたのに…」
こんなに両思いのはずなのにそれでも伏黒の将来を案じてくれる先輩に少し虚しささえ感じる。
「先輩こそ揺らがないでくださいよ。まあこれは俺の我儘でしかないですけど、これから先も先輩との時間が続いて欲しいと思ってるんですから」
「…僕はきっと、君に一途だと思う。僕みたいな半端者を離さないでいてくれるの、これから先も伏黒くんだけだから。ずっと待ってるね」
ほっとしたように優しく微笑む先輩が明るく眩しい。今日また乙骨先輩の想いを聞けてよかった。先輩はお人好し、悪く言えば人誑しなところがあるから誰かに盗られないか、先輩の情がそっちにいってしまわないかいつも不安になってしまう。それでも何度聞いても返ってくる言葉は同じ。自分の不安を吹き飛ばすような笑顔に胸を撃たれる。この人を好きになってよかったと本当に思う。これからも俺が先輩を支えていくんだ。
「先輩、後は片付けとくんで先に風呂入ってきてください」
「えっ!?いいよ!僕まだ何もしてないし!伏黒くんも疲れてるでしょ、入ってきていいよ」
テーブルの皿を片付けようとする乙骨の手を握って止めるとその手に軽く口づけをする。その様子をポカン見つめる乙骨を他所にさっさと片付けを始める伏黒。
「風呂、冷めますよ。早く入ってきてください。先輩があがったら俺も入らせてもらいます」
「へ…あ、うん。わかった…」
呆然とした顔のまま伏黒を見つめていた乙骨はようやく立ち上がり浴場へ歩き出した。
「伏黒くん、いつもありがとね」
乙骨は伏黒の背後から一言呟くと風呂場への扉を閉める。その言葉を背中で受け止めた伏黒は無言で微笑む。
その言葉にどれだけ心が満たされるのか。先輩のために尽くすことが己の幸せとなってしまっている。だからこれからもずっと先輩に尽くし続ける。先輩の心も体も完全に自分がいないと駄目になってしまうくらい先輩の全てを求め続ける。
汚れた食器を洗いつつ乙骨との未来を渇望する伏黒だった。