冷たい雨が降る日には「ああ、雨だ……」
「アイリス、ほら 傘」
ボクたちは今朝、紅蘭のお使いで浅草花やしきを訪れた。行きはどんよりした曇り空、紅蘭が出してくれたお菓子を食べている間に雨が降り出しているのは知っていた。かえでさんに持たされた、アイリスのピンクでリボンがついた傘を手渡す。
「きゃあ、レニの手とっても冷たいよ」
「あっ、ごめん」
アイリスに言われるまでちっとも気づかなかった。確かに手の感覚はもう無くなっていて、きっとひどく冷たいのだろう。自分の手なんてどうでも良いけれど、アイリスが傷つくのは嫌だ。慌てて手を引っ込める。まだ上手く渡せていなかった傘が地面に落ちた。
「本当に、ごめんね」
今日は上手くいかないな。何だか変だ。心の中でため息をつきながら、急いで傘を拾う。あまりに土砂降りなものだから、持ち手も濡れてしまっていた。小さな石ころを払って、ハンカチで念入りに拭う。
「ほら、アイリス」
今度はなるべく手が触れ合わないように持ち手の下の方を握って渡した。でもアイリスはきゅう、と眉をひそめてボクの手をきつく握る。訳が分からなくなってアイリスの顔を見ると、酷く傷ついた顔をしているようにみえた。
「だめだよ!レニ、もっとレニのこと大切にしてよ!」
「えっ?」
アイリスは怒っているの?急すぎてなんだかよく分からないけれど、アイリスの手はぽかぽかして、じんわり熱くて、凍った指先が溶けていく。
「レニはもっと……沢山暖かいお洋服を着てよ!沢山美味しい物食べてよ!」
ぎゅうぎゅうと手を更にきつく握られる。周りには人っ子一人居ない。アイリスの高くて柔らかい声と鈍い雨の音だけが響いていた。
「さっきだってお菓子全然食べてなかったんだよ!紅茶のおかわりもしなかった!」
ここには二人以外誰もいないのに、アイリスは誰かに訴えかけるように叫ぶ。
「アイリス、レニが大切じゃなくなるのは嫌だよ……」
アイリスは俯いて、何も言わなくなってしまった。どうしよう、何か悪いことをしただろうか。傘を落としたから?手が冷たかったから?いや、違う。本当はボクだって分かっているんだ。アイリスはボクが自分を大切にしないから、心配してくれているんだ。こうして手を握っていてくれるんだ。
「……ありがとう……」
それからしばらくして、ボクに言えた言葉はそれだけだった。アイリスの柔らかな手のひらはだんだん冷たくなってきて、代わりにボクの手が痛いほどに熱い。いつの間にかアイリスは顔を上げていて、にっこり笑っている。
「また握ってねって、言ってよ、レニ」
うん。また握ってほしいよ。そう言いたいけれど、ひりつく喉につっかえて言えない。今までボクは自分が傷ついてもいいと思ってたんだ。今でもそう思ってる。でも……
「アイリス、もっとレニのありがとうを増やしたいなぁ」
アイリス、ありがとう。ボクは今とっても暖かい。アイリスが本当に望んでくれているなら、ボクはもう少し、自分を大切にしたいよ。ボクが少し頷くと、アイリスはその何倍も大きく頷いた。
「ねぇレニ」
「……なあに?」
アイリスの手が離れて、傘に伸ばされる。なんだかすごく寂しかった。
「帰ろ」
「うん」
またびしょ濡れになってしまった傘の持ち手をハンカチで拭う。青とピンクの丸が二つ、天に向かって開かれた。ゆっくり、雨の中を歩き出す。雨はますます強くなり、袖口を濡らす。また手は冷え始めていた。
「ねぇ、アイリス。手を……握ってほしいんだ」