白い紫陽花6月に入って、僕はどこかソワソワしている。
理由は分からないけれど、毎年6月に入る前はドキドキしていた気がする。
このワクワク感というのか、心臓が蠢く感覚にいても立ってもいられない。
気がつけば、僕はカメラを手に取って、外へと繰り出していた。
何かを撮らないと落ち着かない。
それがなんなのか、僕には分からなくて。
僕はこのカメラで何が撮りたいのか、それは僕にも分からない。
それでも何かを期待して、外に出ていた。
僕の一眼レフカメラは、モニターにプレビューが映る。
外の景色はここ数日続く生憎の雨だ。
それでも、カッパを被って、カメラにカバーをかぶせて。
梅雨の季節。
何度も来たこの公園で、毎年綺麗に咲き誇る紫陽花を見た。
今年も例年にならってピンク、青、緑、白、様々な色に咲いて、色鮮やかに公園を彩る。
僕はその綺麗な光景にカメラを向けて、シャッターを切っていた。
その中でも雨がしたる白い紫陽花に目を惹かれた。
それにカメラを向けたのは、あまりに僕の心を揺さぶったから。
どんよりとした雨雲さえもそれを引き立てるためのひとつでしかない。
その紫陽花はまるで僕に撮られるために存在しているようにまで感じる。
カメラの設定を調整して、何度もそれにシャッターを切って、その一瞬を切り取ることに集中する。
「...綺麗だ...。」
口からそんな言葉が出た。
紫陽花は、土の成分で色が変わる。
それは理科の実験で使うリトマス紙と同じで、酸性かアルカリ性かで色が変わるらしい。
...そんな話をふいに思い出したのはどうしてだろう。
誰に聞いたんだっけ。この話。
そんなのはとうに思い出せない。
別に思い出せなくてもいいやと思った。
雨の中、傘を差す人たちが行き交う公園内で、何かを思い出したくなるのはどうしてか。
僕の前を歩く、黒い傘の人。
思い出せないことなのに、どうしてだろう。
胸がざわついてた。
人影に誰を重ねていたのか。
どうして、誰かを思い出そうとしているのか。
分からない。
けれど、ひとつ分かったことがあるとするならば、紫陽花の話はその人が教えてくれたんだろうということ。
確信は無い。
だけど、雨の中で1人でここに来た記憶は薄く、隣に誰かいたような気がする。
母さんかとも思ったけど、母さんは僕のために働きに出ていて、一緒に来たのなら覚えていると思う。
その人は誰だっけ。何歳の時の話だろうか。
白い紫陽花はその誰かに似ているような、そんな気がする。
もう一度その花を見れば、傍らに蛙が飛び乗って、近くに蝸牛が歩いていた。
生き物に話しかけるなんて、おかしな話だろうか。
でも、そんな彼らに共感して、つい、声が出てしまったのだ。
「白がいちばん綺麗だよね。」
そんな生き物たちも僕と同じ。
一緒に6月の梅雨入りを喜んでた。
周りを行き交う人たちはどんよりと気が沈んだような顔をしている中で、6月の梅雨は僕が好きな季節だ。
不意に水溜まりを踏むような無邪気な音が鮮明に響いて僕の耳に届く。
その音の方に振り向けば、雨が止んでいて、分厚かった雲の隙間から光が差し込んでいた。
キラキラと光り出す道。
雨で濡れた地面に光が反射して輝いている。
目を焼くようなあまりに眩しすぎる光景は幻想的でそこが現実なのか疑うくらいの景色。
まるで夢の中にいるようなそんな世界だ。
思わずカメラを構えていた。
いつもなら、画面を見て写真を撮る。
さっきの紫陽花だってそうだ。
モニターを見てレンズに差し込む色の調整、光の調整をして。
そうしてシャッターを切るのに。
僕はファインダーを覗いてた。
その覗いたファインダーの中、光る地面が見えると、そこに影がある。
誰かがそこに立っているような。
少しづつカメラを上げていけば、その姿が顕になっていく。
ファインダー越しに見えた黒い傘を持った誰か。
白を基調に緑が差し色に入った上着。
白く光って見えた透明感のある黄色は、ふわりと風に舞う。
こちらを振り向いて笑みを零す整った顔立ち。
見覚えがあるような、ないような、分からない。
この人が誰なのかはわからない。
だけど、彼は僕を見ていた。
彼の口が動いてるように見えて、僕はそれを読み取ろうと思い、その顔を見つめる。
パシャ、パシャッ...
どうして、シャッターを切ってしまっているのか。
僕は彼がなんと言っているか知りたいだけなのに。
『ありがとう、写御。』
そう言っているように見えた。
何に対しての感謝なのか、それは果たして本当に『ありがとう』という言葉なのか。
カメラを下ろしたのは彼に答えを聞くためだ。
だけどもう、そこはどんよりと重たい灰色が埋めつくしている。
それどころか、止んだと思っていた雨が、降り続いている。
元々光なんて差し込んですらいなかったようだった。
どんよりと重たい世界が僕の目を曇らせていく。
今のは...なんだったのか。
本当に夢でも見ているかのようだった。
僕はハッとして写真のデータを確認する。
何度か重ねたシャッター。
そこに彼が写っていたのなら、
そんな淡い期待も打ち砕かれた。
設定を間違えたのか、そこに写るのは真っ白い画面だけだった。
...白い紫陽花に合わせた設定が、あの光に耐えられなかったのだと自分の未熟さを痛感する。
光を絞れていたのなら、彼はここに写っていたんだろうか。
雨が地面を叩く音。
雨が僕のカッパを叩く音。
その音が胸をモヤモヤとさせていく。
心臓が何かを求めて渇望する。
白い紫陽花。
雨を滴らせて、泣いているように思えたのは、その紫陽花に感情を共鳴させてしまったからなのか。
紫陽花がまるで僕のようだと思った。
目元が流れ落ちた雫の意味を僕も知ることはできなかったんだ。
白い紫陽花:一途な愛情
2023.6.1 日取真影 HBD