ニンナ・ナンナ 今日は夢を見なかった。昨晩目を閉じて、それから目を開けたら世界に朝が訪れていた。なんという僥倖! あの日からほとんど毎日欠かすことなく私を苛む忌々しい夢は、珍しく頭にこびりついていなかった。今日は妻と結婚した記念の日だ。この良き日に、良き朝を迎えられたのは神の慈悲だったのだろうか。
私を起こしに来た息子に手を引かれ、リビングへ向かう。今日は自然と、微笑むことができた。
幸せが壊れるのはいつも突然だ。
夕方。私は手にした花束を取り落とした。私たち家族の団欒の間に、あの恐ろしく華やかな、畏敬すら抱く美があり、砂糖水のような甘い声で笑いながら、いつかの長閑な村で見たように画版を抱えていたからだ。少しも変わらない。あの日から時の止まった姿がそこにあった。私の、私たちの放った炎に焦がされたように、肌だけが私のそれより僅かに色濃くなっていた。
息子は椅子に腰掛けたそれの膝に上体を凭れさせ、ニコニコと楽しげにわらった。
---おじさん、とても絵がじょうずなんだ!
無邪気な愛しい声が遠くで聞こえる。私は立ち尽くしているままだのに、それは椅子に腰を掛けたままだのに。顔を綻ばせた畏敬の形に見つめられ、そうすると耳元に、極めて近くに。声が響く。
「エディ! 久しぶりだね!」
絶望の音だ。青い瞳が私を見て、三日月になる。
---あら、あなたのお友達だったのね。
妻の声が、私を呼び戻す。だが残酷にも、彼女の言葉はこの空間にそれが在ることを雄弁に語った。取り落とした花を、精一杯の笑みを作りながら拾い上げる。私には家族がいて、私は彼らの家族なのだ。込み上げる吐き気を、嫌悪を呑み下して、日常を日常に留める必要があった。
驚いたよと、なんでもないような言葉が口から溢れた。嘘ではない。あゝ本当だ。お前は殺したのに。どうしてそこにいる。私の親しい隣人のような顔で、どうしてそこにいる!
○○○
---積もる話もあるのでしょう? どうか泊まっていって。私たちは、ほら。■■■■さんにこの子を見ていただいて、二人の時間を楽しめたじゃない。そう思うでしょう、あなた?
私の妻は優しく、人懐こく、律儀でおおらかだ。私はそれを愛していていた。アレのために、彼女の厚意を無碍にするなど私には出来なかった。だから、仕方なかった。
客間に鍵はない。妻と共寝する寝室を抜けて、台所に寄ってから忍び込む。盛り上がった布団が上下する。生きている。月の明るい夜に。
そこに眠るひとがたを跨ぐようにしてベッドに乗り上げた。布団を暴く。月に青く黄金いろが光り、私の手の中にある白銀も煌めいた。
目を下へ向けていけば、無防備な喉が誘うように蠢いていた。上下する胸に手をやれば、心臓の音と空気が行き交う振動を感じた。蠱惑の手触りだ、裁かれるべき悪しき誘いなのだ。異端は裁かねばならない。わかるだろう? 私は信徒であるからして、今一度目の前に現れた悪魔を討ち払わねばならない。誘惑されている。そこに、夢を苛む欲望を突き立てていいのだと赦しを与えるように、ただ。
誘惑は罪だ。裁け。だからこそ私は。
振り下ろした。
振り下ろした。
振り下ろした。
振り下ろした。
振り下ろした。
振り下ろした。
血が噴き出す。それは私の手も顔も、布団も壁も濡らして、青く灯る部屋の中で暗く暗く浮かび上がった。そこだけ奈落が広がったように。
けれど完膚なきまでに破壊した。首をひたすら犯した。二度と私に微笑むんじゃない。
■■■■、悪く思うな。何故ならお前がいるのがいけないのだ。殺したはずなのに。私がこの手で殺してやったのに。
私が、私の。
血塗れの頬に手を這わせた。眦の少し下、頬骨との間に刺青がある。お前はいつ穢れてしまったんだ? お前の命を穢したのは、私こそが最後だったのに。そうでいたかった。お前はあそこで終わるべきだったのに……。
私は嘆いた。それから、壊した首元に縋り付いて嗚咽した。どうして今更私の前に来た。夢でいさせてくれ。夢の続きは要らなかった。だって、お前がいたら私の浅ましい獣性が浮き彫りになってしまう。あんなに妻を、息子を、隣人を愛して、私は人でいたいというのに。お前の眼差し一つで私は命を奪う快楽を知った獣に堕ちてしまった。憎らしい。お前は悪人だ。私の悪を象徴化した漆黒なのだ。底のない奈落の具現。暗闇。堕天の孔よ。
私はもう、堪らずに泣いた。子どものように泣いて、生温い死の温もりに包まれた。頭を撫でられて、優しく髪を梳かれる。そんな幻が私の意識を夢に誘った。泣き疲れた赤子の気持ちを、人の親になってまで知るとは奇妙だ。ああ。
「君ってば、相変わらず情熱的なんだなぁ。あはは」
子守唄が聞こえる。ニンナナンナ。私は魔女のところへは行きたくないよ。縋る手が固くなる。
「でも、夜は眠ろう。ね。……おやすみエディ。よい夢を」
唄の後で、苦い暗闇に甘い声が落ちる。不思議と安堵して、私はその眠りの泥濘に身を委ねた。
○○○
酷い夢を見たように思う。私は気が付けば、妻の隣の寝台にいた。朝だった。妻が朝食を作っている気配がする。
痛む頭を抱え、リビングへ。そうして、顔を上げればやはりアレはそこにいるのだ。さも私の親族のように当然とそこに腰を掛け、あたたかなスープを一口。ため息が出るほど、ありふれた動作すら美しい形があった。滅茶苦茶に犯した首も、形が損なわれることなく繋がっていた。夢ならばそうだろうとも。ああ、何故、やはり。お前は生きているのだ。唇を噛んだ。私が殺したお前は何処にいるんだ。
湖の煌めきが瞬く。生きたまなこが私を見る。寒気がひどい。
「おはよう。いい朝だねエディ」
「ああ……■■■■、よく眠れたか」
「うん、世話になったよ」
「そうか」
微笑めば天真爛漫の笑顔が返ってきた。お前はいつでもそうだった。
私は、そんなお前の眠りになりたかったのに。なぁ、応えてくれよ。私の漆黒よ。