海と空のフェアリーテイル「俺と結婚してくれっっ」
「………………はあ?」
昔々、でもなく。
もしかしたらリアルタイム現在かもしれないある時、あるところ(非公開)にシンヨコ王国という国がありました──以前も同じような始まり方をした気がしますが、そこはそれ。今度はガッツリ海に面した国です。そこで王様も貴族も国民も、海の恩恵を受けて穏やかに暮らしていました。
王様はとても若く男前で。
「全ての民が俺の恋人じゃ」
とか真顔で言っちゃう系の仕事もできるハイスペスパダリだったので、イイ年してお妃様もお世継ぎもいないのに。
「まあ王様なら仕方ないねー」
「いざとなったら隠し子の五人や十人はすぐ見つかるでしょ」
と国民は実にのほほんと過ごしておりました。
シンヨコの海は穏やかで美しく、晴れた夜には人魚たちが集まることもありました。突然の魑魅魍魎ですが、ファンタジーなのでなにも問題はありません。煌々と煌めく月光が映える岩場に人ならざる者のシルエットが浮かび、波間で遊びながら囀る歌声は、それはそれは美しいものでした。しかしその中には邪悪な魔女の声が混ざっているとの噂もあり、それを聞くと呪われる、と何百年も前から言われていました。
『どんなに美しくても人魚の歌声に耳を澄ましてはいけない。共にいる醜い魔女に海の底に引き摺り込まれてしまうよ』
シンヨコ国民は幼い頃から、そう聞かされて育つのでした。
「へへへ返事はっ」
「いやムリでしょ」
話は冒頭に戻ります。
シンヨコの海に突然響いたプロポーズの台詞。それを発したのは赤い上着を着た青年だった。長身と、それに見合った逞しい肉体を持ち、しかも顔の造作もすこぶる整っている。月光に輝く銀の髪に晴れた空のような青い瞳──どこの王子様かよって容姿だが、それはあながち間違いではない。
「なんの冗談だね、王子様? あ、それともなんかの罰ゲーム?」
求婚を受けた側は顔色も変えずに言い切って、訝しげに首を傾げた。青白い肌のほとんどを深い紫色のローブで覆っているが、波が打ち寄せる岩の天辺に座る姿は明らかに人ではない。
人ではない肌色。人ではあり得ないほど痩せた枯れ枝のような手の、爪だけが真っ赤に染められて。薄い唇の隙間から覗くのは、真っ白で大きな牙。
シンヨコ国民なら一目で分かる。ソレこそが何百年も前から伝えられ、恐れられてきた“海の魔女”なのだ、と。
「冗談じゃねーよっ! お、俺は本気で……」
「ヌン!」
「ジョンは信じてくれるのぉ? ありがとおっっ」
“王子”の言葉に使い魔──シャコガイのジョンまで同意を示したので、魔女は軽く息を吐いた。
月の美しい晩。波の音をBGMに。他には誰もいない海で結婚を申し込むなんて。
普段はムードのカケラもない五歳児にしては、確かに合格点をあげられるかもしれない。しかしそれはお相手が人間だった場合だ。この自分──海の魔女ドラルクに対してするべき言動ではない。
「百歩譲って可愛い人魚相手なら、私だって信じたんだけどねえ」
『魔女』と名乗ってはいるがドラルクは男である。それに二百年以上生きている、いわゆる『化け物』だ。人魚のように見目麗しい姿かたちをしているならともかく、見た目はガリガリで痩せぎすのオッさんである自覚はある。
まあ私はそんな些細なことを差し引いても超プリティでキュートで可愛い海の秘蔵っ子なんだけど──と思いつつ、ドラルクは岩場で立ち尽くす人間を見つめた。
見た目は合格点。きっと世界中の誰が見ても「格好いい!」と評する外見と、誰にでも親切で、特に弱い者には優しい性質を生まれながらに持っている。皆を守るのが当たり前、そのためには自分はどうなっても構わない。そんな自己犠牲の塊みたいな人間だと知っている。なのにドラルク相手だと、出会った時から横柄で、口汚く罵り合うのもしょっちゅうな、そんな関係。
自分が『魔女』だから。人間ではないから。守るべき者ではないから。だからこそ、気安い間柄になれたのだと思っていた。他の人間の前では取り繕っていても、本来は幼い子供のような彼を『友人』として好ましく思っていた。なのに何故、いきなり──
「……って言うかさあ。そもそも付き合ってないよね、私たち」
ドラルクの台詞に青年──ロナルドはハッとしたように息を飲んだ。
「言われてみれば……?」
「言われてみれば……じゃないよ」
「じゃ、じゃあ……『結婚を前提にしてお付き合いしてください!』ならいいか」
「いいワケあるか! もっとムリだわ」
「ヌヌヌ」
大声で言われたので、ドラルクも思わず大きな声で怒鳴り返してしまった。すると背後で波がザワリと音を立てた気がして、慌てて声を抑える。
「とにかく、ムリなものはムリなの」
「な、なんでだよぉ? 俺はお前のこと」
「わかるでしょ『王子様』」
ドラルクの静かな声に、真っ赤になったり真っ青になったりしていた顔色が、一気に真っ白になった。
ほら、君だって本当は解ってるんだろう?
「君は人間、私は魔女」
「そんなこと関係な」
「君は王子様で、男で……私も雄だ。この意味が『王子』の君になら解るだろ?」
「っ、俺は王子じゃ……」
握りしめていた拳が、不意に伸ばされた。
一歩踏み出し、足場の悪い岩の上をしっかりと進み。伸ばした指先が、紫色のローブの裾に届きそうになって。
「ヌー!」
バチン! と。その手は丸い守護者に阻まれた。
「ジョン……」
ドラルクのローブの裾が、ゆるりと動く。不安定な岩の頂上でもなんなく立ち上がり、細い腕で使い魔を抱いて。月光を浴びて、真っ赤な唇をにいと歪めて。まるで本当に『悪い魔女』みたいに、せいぜい邪悪に笑ってやろうとして。
「じゃあね、ロナルド君」
失敗した──気がした。
「ドラルクっ」
自分は今、どんな顔をしているのだろう。
背も向けずに、そのまま踵を空に投げれば、呆気なく背中は水面に引き寄せられる。さらに伸ばされた手は、当たり前だが届かなかった。自分が手を伸ばさなかったから。
「バイバイ」
「ヌイヌイ」
この腕を──海の者の証である八本の手脚の、そのどれか一本でも伸ばしたら。あの子に届いたのだろうか。
「そんなワケないか」
「ヌヌヌヌヌヌ……」
そんなことを思いながら、ドラルクは深い深い海の底までゆっくりと沈んでいったのだった。
出会ったのも、とても月が綺麗な晩だった。
「いい加減、出てきたらどうだね?」
「ヌ?」
岩の天辺から声をかけると、数秒おいてから岩陰から一人の人間が姿を現した。
「……気づいてたのか」
「そりゃあね」
月光に元にあらわになったのは、まだ若い人間の男。夜でもキラキラと輝く銀の髪。青い瞳──海の色じゃない、アレは真昼の空の色。バランスよく配置された顔のパーツと、それ以上にバランスよくついた筋肉。
夜に似つかわしくない健全な風貌をジロジロと眺めながら、ドラルクは軽く声をかけた。
「それで、何か用があるのかい王子様?」
「俺のこと、知ってるのか?」
「そりゃあね」
先ほどと全く同じ返事をしたら、“王子”が一歩足を進めた。
「私はいつも海の中にいるけど、この国の『王子様』の顔くらい見たことあるよ。たまにブロマイドも海に落ちてくる」
アレは絵と違って水に滲まなくていいよねえ、と言ったら“王子”はまた一歩近づいてきた。
「俺は王子じゃ……」
「王様の弟だろ? 髪も目も顔もおんなじじゃないか」
そう言うと、青年は押し黙った。これだけ似た容姿をしておいて、身内じゃないとは言わせない。でも──
「……それで、何の用? ロナルド君」
青年が顔を上げた。また一歩、踏み出す。
「なんで、知って……」
「名前くらい知っとるわ。ブロマイドに書いてあるもん。つーか、あのサイン君が書いてるの? ダサいからやめた方がいいよ」
「うるせえっっ」
青年は大声で叫んで、ついでに顔を真っ赤にした。思ったよりも、ずっと表情豊かだ。
「ヌンヌン」
ドラルクの腕の中で使い魔もうんうんと頷いた。二枚貝にも分かるダサさなのだ。ここで青年は永久不変に丸い使い魔の可愛さに気づき、一気に瞳を輝かせた。
「えっ? その子喋るの かわいい〜♡
」
「シャコガイのジョン、私の使い魔だ。おや? ジョン、何か言いたいことがあるのかい?」
「ヌヌイ」
「えっ……もしかしてダサいって言った えーん! 俺は廃棄されたプラスチックストロー……」
怒ったり笑ったり泣いたり、表情をくるくると変える。整った造作なんてお構いなしに、子供みたいに顔をくちゃくちゃにする。それがブロマイドからは絶対分からなかった、“王子様”の素顔だった。
ドラルクはほんの少しだけ警戒していた体の緊張をといて、砕けた口調で語りかける。
「だーかーらー、なんの用だって聞いてるだろうが お目当ては人魚か? 誰か意中の相手でもいるのか?」
ほんの数刻前まで、この場には人魚たちもいた。月光の中で歌い、優雅に泳ぐ姿はとても美しく──だが、シンヨコ国民は慣れきっているので今更見物に来たりはしない。しかし、たった一人の人魚に心を奪われて、浜辺に通う人間がいないとは限らない。
まるで“海”そのものに魅入られたように。
「……ちげぇよ」
ドラルクの言葉に青年──ロナルドは低い声で答えて、また一歩岩場を踏み締めた。いつの間にか、だいぶ距離が縮まっている。もうすぐそこ、ドラルクが座る岩の足元まで来ている。
「俺は……最近、人魚に混じって不気味な読経が聞こえるって、みんなが怖がってるから確かめにきたんだよ」
「ドキョウ? なにそれ?」
「ヌー……」
ドラルクが首を傾げると、シャコガイのジョンは何故か悲しげな声をあげた。ん? ジョン、なんであの人間とアイコンタクトしてるの? なんで同情するぜ──みたいな目で見られてるの? んんん?
「まさか……私の歌声のこと?」
「まさか……じゃねえんだわ」
まだ首を傾げるドラルクに、ロナルドは呆れたように苦笑した。もう手を伸ばせば届く距離だった。
「はあ? 才色兼備かつハイスペックな海の魔女たる、この私の歌声だぞ 人魚にも勝るとも劣らない美声が奏でる至高の調べが、そんな噂になるわけ……」
「ヌンチ」
「ジョーーーーンっっ」
胸に手を当て、威風堂々と宣言する主人に、使い魔の容赦ない言葉が突き刺さった。
「ジョン! 私のジョン……嘘だと言っておくれ」
「ヌ、ヌヌ」
硬い貝を抱きしめ、中を覗き込んで懇願しても使い魔はそっと目を逸らすだけで。
「ジョンを困らせるんじゃねえよ!」
そこに投げられた柔らかな声を見下ろすと、岩の足場に立つロナルドが笑っていた。ブロマイドのような、カッコつけた、やや不自然な顔じゃなくて。なんだかとても嬉しそうに。楽しそうに。
「それで……噂の正体を突き止めて、君はどうするんだい?」
ドラルクの問いに、ロナルドは手を伸ばした。紫色のローブの裾に触れそうで、でも触れない。
「どうもしねえよ」
「……ふーん」
「俺はみんなが怖がってるから確かめにきただけだ。その原因のお前が何もする気がなければ、どうこうする気はねえよ」
魔女たる私を『お前』呼ばわりとは──と密かに思うドラルクのローブの裾に、ロナルドはそっと触れた。ヒラヒラと泳ぐ布を遠慮がちに引っ張りながら、さらに言う。
「それにお前、弱そうだし」
「は」
「もともと魔女の噂はあったしな……こんなクソ雑魚っぽいとは思わなかったけど。お前の歌も、ずっと聞こえてた」
ドラルクがこの岩場で歌い出したのは、昨日今日の話ではない。よく晴れた夜には深い海の底から出てきて、人魚に混じって月を愛でた。それこそ、ロナルドが産まれる前から。確かに最近はよく出てきたし、その度に気分が良くなって歌ったような気もする。しかし人間とは時間感覚とは違うので、なんとも言えない。
「……フン。偉大なる海の王の血族たる私だぞ? 人間ごとき、手を下す価値もないわ。むしろ私の歌声を聞けるだけありがたいと思え、人間よ」
「ジョンさん、この意見はどう思います?」
「ヌンチ」
すっかり意気投合した使い魔の返事を聞いて、ロナルドは吹き出した。シャコガイの言葉は解らなくても、その響きだけで意味は伝わったらしい。
ドラルクが拗ねてそっぽを向くと、またローブの裾が引っ張られる。
「なあ、また聞きに来ていい?」
「勝手にすれば?」
深い海の底の色の布から、もっと濃い何かがはみ出して。するりとロナルドの指に絡みついた。ロナルドは少し驚いた顔をしたが、すぐに自分からも指を絡ませる。
「言っとくけど、君のお目当ての人魚が一緒とは限らないよ」
「だから、ちげーって!」
その言葉は本当だろうか。
人魚目当てでなかったら──何故?
「よろしくな、ドラルク。ジョンも!」
「ヌン!」
握手するように。指切りするように。手を繋ぐように。
人間の指と、蛸の脚が触れ合う。
なにもかも違う自分たちを見つめながら、ドラルクは深い海の底で波がさざめくのを感じていたのだった。
「ロナルドをフッたそうだな」
知った声に顔を上げると、岩間から覗き込む顔があった。
「フッたとは聞こえが悪いな」
「プロポーズ、断ったんでしょう?」
ドラルクの台詞に重なった声にも、やはり馴染みがある。
ドラルクは日光が得意ではない。普段は日の光が届かない深海にいるので当然だが、それでもまれに、昼間に陸に上がってくることがある。その時は人目を避け、浅瀬にできた大きな岩間にいることが殆どだった。人間には見つけにくいその場所を知っているのは、ロナルドとその友人の二人しかいない。
『うはははははっ! 貴様が噂の“海の魔女”か』
『是非単独インタビューお願いします!』
『お前ら、なんでここにいるんだよっ』
ロナルドの後をつけてきた、と悪びれもなく言う人間に、ドラルクも初めは警戒した。しかし自分そっちのけでロナルドにちょっかいかけまくる姿や、逆に真正面からグイグイと取材してくるのを見て、なんとなく緊張がとけてしまった。なによりロナルドが気を許しているのを見て、悪い人間ではないのだと思った。
「プロポーズって……あんなの、冗談に決まってるでしょ」
「貴様にフラれてから、あの男は使い物にならんくらい落ち込んでいる。どんな悪戯をしても無反応で、なんともつまらん!」
人の言うことを全く聞かない青年──ハンダは、いつものように自分の言いたいことだけをさっさと言った。
「しかも結婚を前提としたお付き合いも断った、と聞きましたが?」
メモ帳とペンを構えながら、もう一人──カメヤがハンダを押しのけて迫ってくる。
ちなみにドラルクの姿や声は録画も録音もできない。魔法で周囲の空間を歪め、人間の作った機器には認識できないようにしてある。それを伝えて、自分を取材するのは不可能だと言ったのに、それでもカメヤは諦めなかった。いつか絶対、必ず記事にできる日が来ると。どんな些細なことでも書き留めておく気らしい。
「それこそ……無理でしょ」
二人の勢いに押されて、ドラルクは諦めたように呟いた。どうやら本気でロナルドがドラルクにプロポーズしたと思っているらしい。
「……あ、もしかして君たちが唆したの? それとも罰ゲームかなんか?」
この二人が、そんな悪趣味なことをするとは考えにくかったが、それでも若い人間のノリというものがあるのかもしれない。
それにしたって“王子様”が“海の魔女”にプロポーズ?
そんなこと──ありえないでしょ?
「私が面白がって承諾すると思った? ムリムリ。その場限りのお遊びだとしても、こればっかりはムリゲーでしょ! ほんっと人間って変なこと思いつくねえ」
早口で捲し立てて、ドラルクは無意識に肩を落とした。そんな“海の魔女”を見て、『友人』の二人は実に奇妙な顔を作る。ハンダは苦虫を噛み潰したように顔を歪め、カメヤはいつもの愛想笑いのような──ちょっと残念そうな表情をしていた。
「……無理と言うのだな」
ハンダの低い声に、ドラルクは曖昧に笑う。
「そりゃそうでしょ。相手は王子様だよ」
「イヤとは、言わないんですねえ」
カメヤの声は何故か苦笑混じりだった。
「イヤ……?」
「ドラルク、お前はずっと『無理』だと言っているな」
「……そうだよ」
「嫌、ではなく。駄目、でもない。ただ無理だと、あいつにも言ったのか?」
真正面からの真っ直ぐな言葉に、ドラルクは何故かたじろいだ。無意識に目を逸らしてしまう。どんな陸の生物より高位の存在である、この“海の魔女”ドラルクが。
「そうだよ……」
たかが人間に気押されるなんて。
「つまり、イヤじゃないんですね。ドラルクさん自身は」
カメヤがわざと呑気な口調で言うのが、どこか遠くから聞こえた気がした。
「だって……イヤとか、そういうことじゃない、だろ? 彼は人間で、私は蛸の人魚で……彼は『王子様』で、なんでも持ってて」
幼い頃、父母に語られたお伽話。
人魚姫と王子様の恋の物語。
それは人間に伝わるものと違っているのだと言う。
『むかぁし、むかし。美しい人魚のお姫様と陸の王子が、とある海辺で出会いました。そしてすぐに二人とも恋に落ちました』
その王子様は全てを捨てて海の住人となり、いつまでも二人で幸せに暮らしましたとさ。
全て──地位も財産も。国も民も。
美しい婚約者も、仲間も友人も。
陸にある全てを捨てて、海の者となる。
まるで海に魅入られたように。
お伽話はそれで、めでたしめでたし。
でも、彼は──
「あいつはなにも持ってないぞ」
いつの間にか俯いていたローブの隙間から、信じられない言葉が聞こえた。
「え……?」
思わず顔を上げる。ハンダはまだ苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「ロナルドは確かに現王の弟だが、王位継承権はない」
「……は?」
「何年も前に放棄してるんだよね」
カメヤの顔を見つめると、ローブが頭から滑り落ちた。そう言えば、いつも頭が濡れていないのが不思議だと、そう言いながら頭を撫でた人間がいた。
この魔女の頭を。子供みたいに。
「放棄?」
「……呑気な国だけど、やっぱりお家騒動はあってさ」
カメヤは語り出す。
ロナルドがまだ幼い頃、兄が国王になった。妹も含め兄弟仲は非常に良く、王は弟妹を溺愛していた。弟も兄をとても慕っていて、いずれは政治的にも支えるのだと思われていた。
しかし臣下の中には、女癖の悪い王を廃して王弟を擁しようとする一派があった。もちろん幼い王を裏から操り、政治を我が物にしようとする企みだ。
身から出た錆に王は頭を悩ませ、それを知った弟は、あっさりと王位継承権を放棄した。そして平民に身を落とし、今は城からも出て一人暮らししているのだと言う。
そこまで聞いても、ドラルクにはまだ信じられなかった。だって。
「だって……ブロマイドが海に落ちてきて」
「ロナルドはイケメンだからねえ」
「こいつが勝手に売り捌いてるんだ」
「ちゃんと王様の許可は取ってるよ」
ただの一般人のブロマイドがそんなに売れるかよ──そりゃ売れるわ
自身の疑問に、ドラルクは自分で答えを出した。売れるわ。バカ売れだわ。あのツラだぞ、私だって買うわ。買えるもんなら──ちょっとぎこちない、はにかんだ微笑みの写真。海の底で拾ったソレを実は大事にしまってあることを、使い魔も知らない。
いやでも、それとこれとは話が。
「学校も俺たちとずっと一緒だし」
「フン、昔からセロリが苦手だったな」
「つーかハンダ、お前はやり過ぎなんだよ。落とし穴はさすがにトラウマになるわ」
「……学校?」
ドラルクも知識としては知っている。陸の子供は一定の年齢になるまで、集められて集団で教育されるのだと、書物でも読んだ。でも王様の弟が、庶民と一緒に? しかもしょっちゅうトラウマになるほどのイタズラをされてたとか?
「それはもう……嫌がらせなんじゃ」
「何を言う! 嫌いな食べ物を克服させてやろうという、れっきとした善意ではないか」
「善意?」
やはり人間の言うことはよく分からない──ハンダ君だけかもしれないけど。
「授業参観ってのが、あってさ」
カメヤが懐かしげな声で言う。
「親が学校に授業を見にくるんだよ。子供の頃は嬉しいけど、だんだん恥ずかしくなってくんだよな」
「俺はお母さんを恥ずかしいと思ったことなどない!」
「でもロナルドには誰も来ない」
そりゃそうだ──王様が庶民の学校に来るわけが。
「本人は来たがっていたらしいがな」
「周りが必死で止めたって」
ロナルド本人も、その辺の事情は理解していたのだろう。それでも。
「……王宮に住んでいたのだろう?」
「まあな」
「離れて暮らすのは、王様が断固拒否したんだって」
先ほどから聞いていると、国王のブラコンっぷりが酷い。つまりこうやって伝え聞くだけでも、ロナルドは確かに愛されていたし、今でも愛されている。
「十八になって、ようやくあいつは一人暮らしを始めた。王は国を守る騎士になることを勧めたが、それも断った。王宮を出たら、一切王室には関わらんと決めていたらしい」
「……ふぅん」
そしてロナルドも家族を愛するが故に、離れることを選んだ。
「それで今は、何でも屋みたいなことをしている」
「元王子様が何でも屋?」
「今でもあいつを『王子』と慕う民は多いからね」
そうか──だからロナルドはドラルクの元に来たのだ。
夜な夜な聞こえる不気味なドキョウ、ではなく歌声の正体を確かめに。
王位継承権などとっくにないのに。
王と同じ髪と目を持ち。
親はなく、兄は国政に追われ。
それでも愛されてるのは知っていて。
民に頼られて。
“王子”と呼ばれて、それを否定せず。
愛には愛で返さねばと。
「だから……あんなに」
『ロナルド君!』
『ヌヌヌヌヌン!』
月光の下で君を呼んだ時。
あんなに──あんなにも嬉しそうだったのか。
“王子”ではなく。
君の名前で呼んだから。
「ロナルドは何も持っていない」
「下手すると俺たちよりもね」
締めくくるようなハンダとカメヤの声に、ドラルクはフードを被り直した。顔が見えないように、深く深く。
「……そんなこと言っても、将来を約束した許嫁の一人や二人はいるんじゃないの?」
「いや、二人いたら大変でしょ」
そうは言ってもあの王様の弟だし、と付け加えると二人は何も言えなくなった。魔女はさらに告げる。
「夜の海に通ううちに、可愛い人魚に一目惚れしたのかもしれないよ? 特に仲良しの子が一人いるし」
「それはクッキーを取り合う仲だと聞いたが?」
ドラルクは表情を見せない。ただ、声だけはいつも通りだ。高くて柔らかい。ちょっと揶揄うような、面白がるような。
「私は、彼はなんでも持っているのだと思ってた。地位も権力も。金銀財宝も。可愛い婚約者も……全部」
だから、だったら。
私なんて要らないでしょう?
「ドラルクさん」
「……あいつは」
全てを持っているのなら、すぐに捨てられるのだと思っていた。
「やっぱりムリゲーだよ」
だって、お伽話に書いてあったじゃないか。
陸の全てを捨てた王子様。
全てを捨てられた王子様。
人間は、そんなにもあっさりと全てを捨てられるのだ──物語のラストを聞いて、そう思った。
でも、あの子はきっと捨てられない。
国も民も。家族も友人も。
可愛い奥さんと子供と過ごす未来も。
きっと捨てられない。
だから、捨てるのなら──
「あいつは……一生結婚はしないと。子供も作らないと、決めていた」
捨てられるのは──自分。
そう思っていた。
「ほんの僅かでも自分が、王様と、その先の治世を脅かすようなことがあってはならないって」
どうせ捨てるのなら、初めから持たなければいい。
どうせ捨てるのなら、求めないでほしい。
そう思って『無理』だと言った。
「……ふぅん」
そうか──持っていないのか。
可愛い奥さんと子供との、幸せな未来。
それらも早々に手放して。
全てを捨てて、何も持たずに。
ただ兄と国のために生きて、そのまま朽ちようとしていた、何も持っていない“王子様”が唯一欲しがったのは。
「……わたし?」
何も持ってはいけないと思っていたのに。
それでも求めた。
手を伸ばして、触れようとした。
どうしても欲しかった、のか?
「それなら……」
それならいっそ。
あのまま攫ってくれたらよかったのにね。
「……ハンダ君、カメヤ君。君たちにいいことを教えてあげよう」
パッと顔を上げる。フードから出てきたのは、いつも通りのドラルクの顔だった。“海の魔女”らしく。人間を翻弄する邪悪な笑みを浮かべて、声を顰めて告げる。
「なっ……」
「マジっすか?」
「今日はこれを伝えに陸に上がったんだ。だから……にも教えてあげてね」
名を呼ぶ声は、小さすぎて聞こえなかった。それでよかった。
「じゃあね、人間の子ら」
波に浸していた足を伸ばし、岩の隙間から海原へと飛び出す。
「くっ!」
「とにかく今は城に報告だ、急ぐぞ」
二人は腕を伸ばさなかった。
届かないと解っていても、触れようと、必死で腕を伸ばしたのはあの子だけだった。
「……ヌー」
全身を海に沈めると、事態を見守っていたジョンがすぐに寄り添ってくれた。海は静かで、穏やかで。流れに身を任せていれば、美しい珊瑚や海藻も、色とりどりの魚たちも、すぐに姿を消していく。
海の底は真っ暗で、何も聞こえなくて。
それがドラルクにとって、何よりも一番心地よいはずで。なのに。
「なんでかな?」
目の裏に浮かぶのは、眩しい日の光。
岩間から出た時の、ほんの一瞬で瞳に映り込んだ、真っ青な空。
昼間の空と、キラキラと水面に映る太陽。
あれは、そうだ。
「あの子の瞳の色だねえ、ジョン」
「ヌー……」
使い魔は静かに頷いて、ただ魔女と共に海の底に沈んでいったのだった。
「王様、国民の避難が完了しました!」
「ご苦労じゃった。引き続き、沿岸部の警備に当たってくれ。くれぐれも気を緩めんようにな」
「ハッ!」
王宮は混乱の渦中にあった。
発端は民からの『もうすぐ嵐が来る。しかもとんでもない規模の』という通報だった。が、この日は朝から晴天で、そんな予兆は一つもなかったこともあり、デマとして処理されようとしていた時。
「君たちは……ヒデの友人じゃな?」
王宮に押しかけた青年二人の顔を見て、王様はすぐにピンときた。そしてすぐさま王宮に民を受け入れる準備を始めた。それとほぼ同じタイミングで、ロナルドに誘導された国民たちが王宮へと集まり始めた。
「ロナルドさんが、嵐が来るって教えてくれたんです!」
「確かに海の様子が……ちょっと、おかしいような?」
「ロナルドさんは、まだ街を回って避難を呼びかけてます。行くところがない人は王宮に行けって。王様がなんとかしてくれるから、って」
そうしてる内に、急に天候が変わった。
青い空が一気に真っ暗になり、大粒の雨が降り出したかと思えば。一瞬で叩きつけるような豪雨になった。風がうねり、立っているのもやっとな暴風が外に出ていた全てのものを吹き飛ばし、薙ぎ倒した。轟々と辺りに響くのは、風ではなく荒れ狂う波の音で。街一つ分海から離れた王宮の中でもはっきりと聞こえた。
王宮内は広間から廊下まで民の姿で溢れたが、それでも堅牢な建物の中に避難できて、国民の大半がホッとしていた。
殆どの国民が初めて体験するような猛烈な嵐──あの第一報がなければ、そしてそれを国民に伝える者がいて、また王がいち早く対処しなければ。莫大な被害が出ていたに違いない。
しかし何の前兆もなかったはずの嵐の到来を『人間』に教えたのは、いったい──
「なに ロナルドがまだ市内に残ってるだと!」
広間の隅で、嵐のことを王に伝えた青年の一人──ハンダが声を上げた。
「しーーっ! 大きな声出すなって。どうやら、漁師の家で飼われている猫が保護され損ねて。それを探しにいったらしい」
もう一人──カメヤが答えると、ハンダは小さく舌打ちした。それは、いかにも“ロナルド”らしかった。
「では俺も探しに……」
「やめとけ。もう出られるわけないだろ。俺たちは王に顔も名前も知られてる。報告が行ったら、王様があいつがいないことに気づくかもしれない」
友人の言葉に、ハンダは深いため息を吐いた。
「……王は、もう知っているかもしれんな」
ロナルドが、愛する弟がまだ避難していないことに。
「知ってて、何もできないのも辛いよなあ」
『王様』だから。
もう“王子様”じゃないから。
二人とも民のことを第一に考えて。
兄弟なのに。兄弟だから。
お互いの気持ちが誰よりも解るから。
「大丈夫だよ。あいつ、体だけは頑丈だし」
「そうだな。それに……」
ハンダとカメヤに嵐のことを教えたのは、他でもない“海の魔女”だ。
『ロナルド君にも教えてあげてね』
聞こえなかったけど、魔女は確かにこう言った。本来なら人間には知り得ない海の秘密を、本当は誰よりも“王子様”に教えたかった──多分。
「そう言えば……こんな大きな嵐の昔話あったな」
ハンダの言葉に、カメヤも思い出す。
「あったあった。大昔にもとんでもない嵐があって、それは海の神様が起こしたものだったってヤツだろ」
「その海の神は人間と友人になり、嵐を収め。その人間はこの国の初代国王になった」
昔々から伝わる、よくあるタイプのお伽話。でも。
「この嵐も、その海の神様が起こしたものかもしれないねー」
「海の魔女はそれを知っていた、か」
“海の魔女”であり、蛸足を持った人魚。
そして友人の思い人のことを思い出して。
ハンダはまた苦虫を噛み潰したような顔を作ったのだった。
晴れた夜の、よくある出来事だった。
「てめえこらヒナイチ! 食い過ぎだろうが!」
「早い者勝ちだ! お前が遅いのが悪いモグモグモグモグ」
「ヌー!」
波間に響く口汚い罵り合い。たかが手作りクッキーで、こんなにエキサイトする? とドラルクはため息を吐いた。
ロナルドは岩場に来るようになってから、順調にドラルクと親しい人魚とも顔見知りになっていた。今ではこうやって口喧嘩もする仲だ──って言うか、食べ物が絡まなければ二人ともこんなにはならないんだけどね。
先に人魚が来てクッキーを出したところにロナルドもやってきた。そしてあっという間に醜い争奪戦に突入した。
「レディーファーストという言葉を知らんのか」
「それにしたってお前の方が食ってるだろうが!」
「だいたい、このクッキーは元々ドラルクが私のために焼いてきてくれたものだぞ! 私が全て食べて何が悪い」
「……えっ?」
ヒナイチの台詞に、ロナルドの動きがピタリと止まった。その間にも大皿の上のクッキーは吸い込まれるように消えていく。
「ヌヌヌヌヌン?」
「……そうなの?」
ロナルドはジョンを見て、それからやけにぎこちない動きでドラルクの顔を見た。見たこともないような顔をしていた。
「まあ……そうだけど」
「そっか」
海の底では調理は必要ないし、そもそも火を使うことが困難である。しかし長命で暇を持て余した魔女は、ある時書物で読んだ人間の『料理』に興味を持った。
魔法で火を使える空間を整え、器具や調味料を自分の足で──たまに親族を使って調達した。味見をかって出てくれた使い魔が『料理』をことの外気に入ってからは、魔女の数ある趣味の一つとなった。
「ドラルクは私のためにクッキーを焼いてくれると約束したからな」
「……そっか」
やがて偶然に『料理』の味を知った人魚の大のお気に入りになり──特にクッキーへ凄まじい執着を示されて、ドラルクは頻繁に彼女のために大量のクッキーを作るはめになった。
「言っとくけど、今日は君も来ると思ったから。いつもより多めに焼いて……って、もうないじゃないか」
「ごちそうさま! ちん!」
「ヌ〜〜〜」
泣いて悲しむ使い魔を抱いて、ドラルクは満足気な人魚を見つめる人間の顔を見ていた。
満腹の人魚を見て、優しく微笑む“王子様”──いや、むしろ『お兄ちゃん』か?
妹でも友人でも街の子供達でも。自分ではない誰かの喜びに本気で『満足』している顔。
気に入らない──ドラルクは思う。
たかだかクッキー数枚で。何故そんな顔ができるのか。自分は食べてないのに、何故他人の『満足』を我がことのように喜ぶことができるのか。こうなったら意地でも腹一杯、胃がはち切れるまで私のお菓子を食わせてやる!
そう決意したドラルクは、次はいつもの五倍の量のクッキーを焼いた。
「美味しい! 美味しいぞドラルク!」
「ひょーっほっほっほっ! 当たり前だ! このドラルク様の手作りだぞ?」
「ヌ〜♡」
「うん。美味い。本当に料理上手いんだな、お前」
バター。チョコチップ。ココア。アイシング。ジャム。色とりどりの美しいクッキーたち。
それらを一種類一枚ずつ、大事に噛み締めて、ロナルドは食べた。美味しい美味しいと喜ぶ人魚とシャコガイを見つめながら、なんとも嬉しそうに──それがやっぱりドラルクには気に入らなかった。
ああ、大いに気に入らないとも!
密かに憤慨する魔女の前で、クッキーは綺麗になくなった。
ならばクッキーじゃなければ、と次は蒸しパンにしてみた。次はホットケーキ。その次はアップルパイ。アイスクリーム。マドレーヌ。ガトーショコラ。タルトタタン。
どんなに大量に作っても。どんなに美味しそうに作っても。“王子様”は一人分か、それ以下にしか口をつけなかった。
美味い、って言ってくれるのに。
好き、とは言ってくれなかった。
たくさん、気の済むまで、身も心も満足するまで食べてはくれなかった。
だから。
「君の好きな食べ物ってなに?」
だから直接聞いてみた。ちょっと癪だけど。こうなったら意地だ。海の魔女のプライドをちょっとだけ捻じ曲げて、君の好きな食べ物で勝負してやる。こうなったらお菓子じゃなくてもいい。唐揚げでもオムライスでも、なんでも作ってやる。それで言わせるのだ。
『今まで食った中で一番美味い!』
って。
王宮の料理人が作ったものより。
他の誰が作ったものより。
このドラルク様が作ったものが『一番』だって。
絶対に言わせてやる。
絶対に。
「好きな……食べ物?」
月夜の浜辺で。キラキラと輝く髪を揺らして首を傾げて、ロナルドは少し考えた。即答できないのが、いかにも“王子様”らしいと思った。毎日毎食異なった、美味しいものを食べているから、こんなにも迷うのだと思った。
「……バナナ」
しかも口にしたのは、思ってもみなかったもので。
「バナナって、あの果物のバナナ?」
「うん」
海の者は果物を食べない。でも存在は知っている。シンヨコでは滅多にお目にかかれない──特に庶民では口にできない南国の果物。
「ふぅん……バナナねえ」
やっぱり“王子様”だなあ、とその時は思った。だって、輸入しなければ手に入らない果物を『好きな食べ物』として挙げるだなんて。きっと王宮では、毎日のように豪華で高価な食事を出されているのだと思って。
「まあ、いいさ。今度こそギャフンと言わせてやる」
「え? 俺なんかした」
生で食するものではなく調理したものを、と聞き直そうとしたが、気が変わった。
君が今まで食べたバナナの中で、一番美味いと言わせてやろうじゃないか。そう決意して、帰ったら早速バナナを調達した。
「お父様、私ほしいものがあるんですけど」
「なんだい? 私の可愛いドラルクのためならなんでも手に入れてあげるよ!」
数日もせずに大量のバナナがドラルクの元に届けられた。熟したものから、まだ青くて固いもの。形も大きさもさまざま。生ではなく、火を通して食べる種類のものをあるのだと、その時知った。
これならきっと。なんでも作れる。
「ホラ、リクエストに応えてやったぞ若造」
せいぜい恩着せがましく、大量のバナナのお菓子を目の前に揃えたら、ロナルドは目を丸くして口をポカンと開けた。
「リクエスト?」
「君が好きって言ったんだろ?」
クッキーは作ってない。それでも念には念を入れて、いつもの岩場ではなく少し離れた場所を選んだ。高い岩で囲まれた、海からも陸からも見えない潮溜り。そこで小さな声で歌ったら、やっぱり君は来てくれた。
「この匂い、やっぱりバナナか?」
「そうだ。そのまま出すのも芸がないからな。ゴリラには勿体ないと思ったが、いろいろ作ってやったぞ。ありがたく食すがよい」
本当はリクエストなんかされてない。
彼が『好き』と言ったのは、多分生のバナナだろうけど。でも、私が作ったものだってきっと絶対美味しい。
「……ヒナイチは?」
「今日は来ないよ。クッキーも焼いてない」
「ジョンのは?」
「こんなにたくさん、ジョン一人に食べさせる気かね? それにジョンにはたっぷり味見をしてもらったからね。初めて作ったものもあるけど、ちゃあんとジョンのお墨付きだよ」
「ヌイヌーヌ!」
可愛い使い魔が可愛く鳴いて、手にしたカップケーキを差し出す。
「……いただきます」
受け取って一口かぶりつけば、次の瞬間顔が輝いた。
「美味え!」
「ヌン♡」
パアっと、辺りが明るくなるような。夜なのに全てが照らし出されるような。眩しいくらいの笑顔。
「うっま……なにコレ?」
「バナナフリッターだ。チョコソースをつけるとさらに美味しいよ」
「こっちは?」
「バナナを丸ごと生クリームと一緒にクレープ生地で巻いたやつ」
「ヌイシイ!」
バナナ蒸しパン。バナナマフィン。チョコバナナケーキ。バナナスコーン。キャラメルバナナパイ。バナナソースのパンケーキ。
たくさんのバナナのお菓子を、ロナルドは口一杯に頬張った。美味い美味いと夢中になって。誰に遠慮することもなく。ジョンにあーんしたり、されたりしながら。
とても美味しそうに、お腹いっぱいになるまで。私の作ったお菓子を食べてくれた。
「俺、これ好き!」
「ヌンヌ!」
「ジョンもそう思う? ……ドラルクの作ったもんは全部美味いけどな」
「あったりまえだ! この海の魔女ドラルク様の手作りが食べられることに畏怖し、咽び泣け人間よ!」
尊大に胸に張りながら、ドラルクはやっと満足していた。
とうとう自分が作ってものが『一番』だと、あの人間に認めさせたのだ。
たかだか人間の若造の“王子様”に、自分が『一番』だと。
どんな豪勢で高級な料理より。
他のどの人間が作った料理より。
自分が作ったものが『一番』。
そう、思わせたかったのだ。
「今まで食ったもんの中で、一番美味い」
こう言わせたかったのだ。どうしても──だから、これは後から聞いた。
ロナルドはそれまでバナナを一回しか食べたことがなかったのだ、と。
『ガキの頃、一回だけ家族みんなで旅行に行ったんだよ。シンヨコよりずっと南の国に。今思えば、アレも仕事でさ。両親はずっと偉い人と話し合ってた。俺は初めて見る南国が珍しくて仕方がなくて、とにかくはしゃいでた。妹はまだ赤ん坊で、付き添いの人がいろいろ案内してくれた。……兄貴は、その時はもう自分の立場が分かってたんだろうな。それでも、時間の許す限りは俺のそばにいてくれたよ。妹がお昼寝してる間に二人で市場に出かけて。兄貴がバナナ買ってくれてさ、その場で皮剥いて食ったら、めちゃくちゃ甘くて……こんな美味いもんがあったのかって言ったら、兄貴笑ってた。二人で一緒にバナナ食って、いろんなところを歩き回って……だから、つい。言っちまったんだよ。お前に好きなもん聞かれた時』
なーーーーんだ。
家族と食べた思い出の味。だから『一番』って言ったのか。
シンヨコの王宮には大勢の料理人なんていなくて。王様もその弟も、民と同じようなものを毎日食べていたなんて、その時はちっとも知らなかった。
王宮を出て一人暮らしをしてる今は、毎日ほぼ外食で。馴染みの店で、馴染みのマスターが作ったものを食べて帰る日はまだ良くて。たまに、真っ暗な家に帰って、一人で冷たいスープを飲んでいるなんて。
ちっとも知らなかった。
知らなかったから──知っていたら。
もっとたくさん作ってあげたのに。
温かくて、美味しくて。
君がきっと好きなものを。
たくさんたくさん。
いくらでも作ってあげたのに。
「ドラルク! いるか」
そんなことを考えながら海の底でぼんやりしていたら、いきなりの乱入者に意識を引き戻された。
「ヒナイチ君? 駄目だよ外に出ては……」
嵐が来て、海は荒れ狂っている。轟音を立ててうねる波に飲み込まれれば、人魚とて無事では済まない。だからどの海の生き物もひっそりと身を隠して、ただ嵐が過ぎるのを待つしかない。それをヒナイチだって分かっているはずなのに。
「兄が教えてくれたのだが、どうやら陸に逃げ遅れた獣がいるらしい」
「……仕方ないよ。それでも今日はマシだと思うし」
嵐は避けられるものではなく、多少の犠牲が出るのも致し方ない。それは海でも陸でも同じこと。それでも今回は陸の──海に面した国の被害は最小限に抑えられたはずだった。
本来なら人間が知り得ない海の秘密を、他でもない“海の魔女”が漏らしたから。あの王と、その弟──誰よりも民に好かれ、信頼されている青年なら、全ての命を守ってくれると信じて、ドラルクは嵐のことを教えた。それでも人間ではない小さな獣の取りこぼしは仕方がない。
「しかし、それを探して、ロナルドがまだ避難していないらしいのだ」
「……っっ」
ヒナイチの言葉に息を飲む。よりにもよって、何故あの子が?
「人違いじゃなくて? 本当に?」
「陸の様子を警戒して、兄さんが部下に見に行かせたら。銀の髪の男が海辺を探し回っていたらしい……風貌を聞く限り、ロナルドに間違いないと思う」
長身に逞しい四肢。銀の髪に空の色の瞳。
その特徴は確かにロナルドのものだ。
だが王の弟が、そんな小さな獣一匹のために嵐の中外に出るだろうか──するだろうな。あの子だったら。
「……私が見てくるから、ヒナイチ君はここにいて。ジョン、お留守番頼んだよ」
「ヌ」
「私も行く!」
「大丈夫。私を誰だと思ってるの?」
海はドラルクを傷つけない。
どんなに強い雨も風も波も、決してドラルクを傷つけない。そのことをヒナイチもジョンも知っている。だからドラルクは嵐の海に迷いなく飛び出した。
「ヌヌヌヌヌ!」
使い魔の必死な声が、波にまぎれて消えていった。
暴風と豪雨の中、ロナルドは子猫を探していた。
「ここは……いないな。そろそろ俺も」
行かなくちゃ──口の中で呟いて、引き返そうとして。しかし足は勝手に海へと近づいていく。
「あそこの岩場だけ見たら……」
民に避難を促している途中で、飼い猫と逸れた子供と出会った。本人は引き返して探すと言ったが、家族はそれを許さない。だから必ず探し出すと約束した。
『まだ子猫なのに……私がちゃんと見てなかったから』
『大丈夫。俺が王宮に連れていくよ』
『ありがとうございます! ありがとうございますロナルド様!』
祖母に腕を引かれていく子供に不器用なウインクをして、ロナルドは子猫を探して海辺に来た。子供が猫と逸れたと言っていた現場から、徐々に海へと近づいていく。既に安全な場所まで自立で逃げて、隠れていればそれでいい。むしろ獣の本能で、危険な場所からはとっくに離れているかもしれない。でも、それでもギリギリまでロナルドは探し続けた。
波が叩きつける岩場。気をつけないと、一瞬で濡れた岩に足を取られる。そうなったら終わりだ。硬い岩に全身を砕かれて、荒れ狂う海に投げ出されて、そのまま骨も見つからない──人魚が遊ぶ岩場。いつも天辺にドラルクが座っていた岩は、そんな危険な場所にあった。
膝まで覆い、容赦なく引き込もうとする波に耐えながら、岩の隙間に目を凝らす。こんなところには、もういないだろう。自分ももう戻ろう。戻らなくては──理性ではこう思っているのに、体は子猫を探して動き続ける。もしまだ外にいたら。嵐を恐れて動けなくなっていたら。
「ほんっと! 馬鹿か君は」
他に何も聞こえないほどの波音の中で、それはやけにハッキリと聞こえた。
「ど、らるく?」
振り向くと、それだけて滑って転びそうになって必死で耐えた。絶え間なく波に洗われる岩の天辺に立つローブ姿が目に入る。
「せっかく忠告したのに。なんで君がこんなところにいるの? 陸のゴリラはとっとと安全なお家に帰ってくれる?」
「いや……子猫が、さ」
深い海の底の色をしたローブ。そこから覗く、痩せぎすの顔。細い細い手首から繋がる枯れ枝のような指と、真っ赤な爪。それと同じ色の瞳。
シンヨコの民なら一目で分かる。邪悪な“海の魔女”が、プリプリと怒りをあらわにして元“王子様”をギロリと睨みつけた。
「……あの小さな獣なら、もうとっくに逃げてるよ」
「本当か」
ロナルドは一歩踏み出す。まるで初めて出会った時のように。
「本当だよ。知り合いが見たから間違いない。逃げる途中で人間に保護されたみたいだし、もう飼い主のもとにたどり着いたんじゃ……」
「ドラルク!」
大きな、風にも雨にも負けない声でロナルドは叫んだ。そしてまた一歩踏み出す。濡れて危険な岩、押し寄せる波、そんなものは全く気にせず。ずかずかと大股で進み、腰まで海に浸かって、やっとドラルクの真正面に辿り着く。
「ありがとな」
手を伸ばす。やっと届くところまで来た。
「……私はなにもしてないよ」
ドラルクもかがみ込み、伸ばされた手を自分のそれでそっと包み込んだ。いつもは熱いくらいなのに、今は冷え切っている、大きな手。
「お前が教えてくれたんだろ、嵐のこと」
細い指をギュッと握り込んで、ロナルドはいつものように笑った。まるで真昼の太陽のような、眩しい笑み。
『嵐が来るぞ、ロナルドぉ!』
『リーク元は明かせないけど、これは確かな情報だよ』
いきなり友人二人に突撃されて、ロナルドも最初は冗談だと思った。しかし友人たちのいつになく必死な様子に、嘘ではないと察する。そしてなによりも、その『リーク元』には心当たりがあった。
そんなこと、教えてくれるのは。
「さあ、どうだろうね……でも、だとしたら、君はどうする?」
空惚けて、ドラルクはニヤリと笑った。
「もし私が君の国の人間を助けたのだとしたら、何か代償でも払ってくれるのかい?」
そろそろ手を離さねばならない。
ギュウっと、痛いくらいに握りしめてくる指を振り払って。もう帰れと。自分のいるべき場所にいけと。言わなければならない。そしてもう二度と、君には会わない。そう、思ったのに。
「代償? そんなもんいくらでもやるよ」
俺でよければ──そう聞こえた気がして。ドラルクは自分がどこにいるかも忘れて、つい一歩踏み出してしまった。
「えっ?」
「ドラルクっ」
ほんの僅かな足場。いくら六本の脚でしがみついていても、バランスを崩すのは容易い。そこに背後から襲いかかる、全てを飲み込む大波。
「っっ……」
「どらっ……」
海に飲み込まれる一瞬前に、ドラルクは何か別のものに抱きしめられていた。
海は親。波はゆりかご。どんな大波でも、ドラルクにとっては赤子をあやす優しい手にも等しい。
でも今自分を抱きしめているのは、どんな波よりも心地よい熱い腕と身体──でも人間って海に沈むと死ぬんじゃなかったっけ
「ロナルド君っ」
ドラルクを抱きしめたまま、ロナルドは波に飲み込まれた。濁流にもみくちゃにされながら、深い海に沈んでいく。ヤバい。海の者でもこれは死ぬかもしれない。
「やめろ! ……コレは私のものだぞ」
気を抜くとロナルドの体を持っていこうとする波に向かって、ドラルクは本気で怒鳴りつけた。すると流れは急激に緩やかになり、二人の周りの空間だけ、やけに静かになっていく。
「今のうちに……」
ついでとばかりにドラルクは魔法を使った。海の底で火を使えるようにしたのと同じように、ロナルドの周りを空気で満たす。
「これで大丈夫だろ……ロナルド君?」
「……へっ? え? ななななに どこだよここ」
ぱちりと開いた瞳は変わらず真昼の空の色で、ドラルクは密かに安心した。
「どこって、海だよ」
「海の……中か?」
キョロキョロと辺りを見回し、自分たちの周り以外は荒れ狂う様を見て、ロナルドは自分の状況を理解した。
「また助けられちまったな」
「……君は本当に馬鹿だ」
また抱きしめられて、ドラルクは諦めた。たとえ万能の“海の魔女”でも、この腕の心地よさから逃れる魔法なんて知らない。聞いたこともない。
「さっきも言ったけど、代償は俺でいい?」
「いらないよ。代償なんて冗談だし」
実際、ドラルクにとって『代償』など必要ない。
確かに貴重な材料が必要だったり、ある程度の時間がかかるものもあるが、ドラルクほどの魔力があれば大抵の魔法は使える。嵐のことを教えたのだって、誰に口止めされていたわけでもない。ヒナイチだって、知ってさえいればロナルドに教えただろう。
「もらってくれ。俺にはそれしかないんだ」
「そうらしいね」
ただ今回の嵐の到来はドラルクと、その親族の一部しか知り得なかったことだった。本来なら決して人間には知られないはずの、本当は大きな被害が出たはずの災害級の嵐。
その代償が──綺麗な綺麗な“王子様”だなんて。お伽話みたいに出来過ぎじゃない?
「君は……誰よりもみんなに愛されてる」
「知ってる」
静かな声。全てを受け入れている声。
「愛されて、それに返そうとして。自分を犠牲にして……愚かにも程がある」
全てを知って。受け入れて。
王のために。国のために。民のために。
自分を海に差し出すと言うのか。
「確かに俺は馬鹿だけどさあ」
さすがに言い過ぎじゃね? とロナルドは不貞腐れたように呟いた。腕に込められた力が強くなって息苦しい。それに加えて耳元で囁かれて、ドラルクはどんどん居心地が悪くなる。
「君が救いようのない馬鹿でゴリラでお人好しなのは本当だろ?」
「ゴリラちゃうわ。人間だわ……で、お前の知ってる通り、俺はみんなに愛されてる『元王子様』なもんで。結構ワガママなんだよ」
ドラルクの六本の脚が、いつの間にかロナルドに絡みついていた。足に。胴体に。腕に。頭に。体中の至るところに触れて、絡みついて、抱きしめるように。ギュッと。
「我が儘だったら私の右に出るものはいないが?」
「そこは競うんじゃねえよ。だからさ……どうしても手に入れたいものは、絶対欲しいものは、みんながどう言おうと欲しい、ンデスヨ」
「なんでそこだけ片言なんだよ」
抱きしめてくる腕に、指に、蛸の指先(?)を絡めて、ドラルクはふふっと笑った。ロナルドも笑い、見つめ合う。月夜の晩に出会った時のように。真昼の海で待ち合わせた時のように。
「兄貴や国民のみんなには悪いけど。俺を海の底に連れていってくれねえか? そんでずっとお前のそばに、置いてくれよ」
「えぇ……結構面倒なんだぞ、この魔法」
「でもお前のもん、なんだろ?」
聞こえていたのか──ドラルクが一瞬気を取られた隙にロナルドは腕を取り戻し、ローブの首元をちょいっと引っ張った。
「だから、お前も俺のものにもなってくれ」
「…………イヤだ」
滅茶苦茶良い雰囲気をブチ壊して、ドラルクはキッパリと首を振った。予想外の反応をされてロナルドは驚く。ここは「うん♡」って頷くシーンじゃね?
「は? なんでだよ」
「言っただろ、空気を作る魔法は面倒だし疲れるんだよ。これを四六時中やるとか、いくらこのドラルク様でも無理」
「そこは愛の力でなんとかしろよ!」
「あっ、愛の力……とか! 恥ずかしいこと言うな君は!」
「恥ずかしくねえよ! いや、なんかジワジワ恥ずかしくなってきた……忘れろください!」
「ヤダよ。忘れんわ、こんな面白ワード」
途端にわやわやになる“王子様”に、ドラルクは笑った。絡めていた脚をしゅるりと解いて、ついでにドン! と突き飛ばす。
「ドラっ……」
「君にはやっぱり陸が似合うよ」
波がロナルドを攫い、あっという間に肺が海水で満たされる。
「ガボっっ……」
「じゃあね、王子様」
深い深い海に沈んでいく、もっと深い紫色のローブに、ロナルドは必死で手を伸ばす。
「どら……る……」
その手が届かないだなんて、信じたくはなかったのに。
「ロナルドっ! 気がついたか」
目が覚めた時、ロナルドはたくさんの人に囲まれていた。
「ロナルドぉ! この間抜けが」
「よく無事で……」
「王子!」
「ロナルド様、よかった!」
「にゃー」
周りを取り囲む人々。兄と妹。友人たち。そして子猫を抱いた少女を見て、ロナルドは大きく息を吐く。
「……嵐は?」
「もう過ぎた。お前のおかげで、誰も犠牲者は出んかった」
「俺は、なにも……」
首を振る“王子”に、少女がギュッと抱きついた。
「ありがとう、ロナルドさま」
「にゃあ」
兄と妹。友人たち。そして国民全員に愛される青年は、こうして陸に戻ってきてしまったのだった。
嵐から三日経った。しかしロナルドはまだ王宮の自室で休養を命じられていた。
『おみゃあはしばらく外出禁止じゃ』
『兄貴っ、俺はもう大丈夫……』
『ちいにい……だめ』
荒れ狂う海に落ちたのに、ロナルドは水を少し飲んだ程度で済んだ。しかし王である兄、そしていつもは無口な妹にまで強く引き止められて、大人しくせざるを得なかった。
家族も友人も、そして国中の全ての民がロナルドを心配して、無事を喜んだ。それを知っていても、ロナルドは早く王宮から出たくて仕方がなかった。一刻も早く自宅に──もっと海のそばに行きたかった。いま住んでいるところも引き払い、もっと海の近くに引っ越そうと思った。できれば、月夜にあの岩場が見える場所に。
ドラルクはもう来てくれないだろう。
もう歌を聞かせてくれないだろう。
それでも月の綺麗な晩には待っていたかった。
十年、二十年──いや、もっともっと時間が経って。いつかドラルクが自分のことなんか忘れて、またあの岩場に来てくれるかもしれない。また月夜に歌ってくれるかもしれない。その時まで、ロナルドはいつまでも待つつもりだった。
海辺に出る厄介な魔物、海スラミドロや吸血クリオネなどを退治したことは何回もあったし。これからはそれらを専門にした退治人になるのも良いかもしれない──そんなことを考えていた時。
ゴゴゴ──っと音を立てて地面が揺れた。
「きゃあっ」
「なんだっ」
悲鳴が聞こえた。すぐに窓を開けて見下ろすと、庭にいる者たちが皆同じ方向を見ている。
ロナルドの部屋からは海が見える。
王宮のある丘を下って、街を越えて。遠くに広がる海に、見たことのないモノがあった。黒くて、山と見紛うほど大きな──
考えるより先に体が動いていた。
「ロナルド様っ」
三階の窓から飛び降りて、そのまま王宮を飛び出す。
「ロナルドぉぉおっっ」
街のメインストリートを爆走していたら、友人たちに合流された。
「こんな特大スクープ、先越されてたまるかあっ」
ハンダと並んで走りながら、先を行くカメヤの背中を追った。こんな時のカメヤには誰も追いつけない。
驚き、声をかけてくる人々を全て置き去りにして、ロナルドは走った。海まで。あの岩場まで。走ればきっと。
「遅かったね、ロナルド君」
「どら……るく」
いつもの岩場の、いつもの岩の天辺に。いつもと同じ、顔色の悪いローブ姿の痩せぎすの男が立っていた。
そしてその背後には。
「ヘロー。人の子たち」
大きな大きな、まるで山のような見た目。しかし見上げれば確かに顔がついていて、肩から繋がる腕も見える。海に浸かる下半身は、どこまで広がっているのか見当もつかない。
身に纏うローブは一見真っ黒だが、よく見ると深い深い紫色。ドラルクと同じ、深い深い海の底の色を纏った巨大な海の魔物が、大きな目で人間たちを見下ろしていた。
「ヒデ……来たか」
「兄貴っ」
岩場のこちら側には、既に王が到着していた。兵も共もつけずに、誰よりも早く海の異変を確認するために。
「王よ、こちらは?」
ハンダの声に小さく頷いて、王はロナルドを見た。ロナルドも頷いて、岩場に一歩踏み出す。
「ドラルク」
“王子”が名を呼ぶと、“海の魔女”はチラリと視線を向けてきた。
「後ろのは、私のお祖父様だよ……あの嵐が起きたのは、お祖父様が帰ってきたからなんだ」
「なっ……」
「ソーリーソーリー」
ズズ、と海が動いて。ついでに大地も鳴動する。
「久しぶりにみんなに会えると思ったらテンション上がっちゃった」
「ったく、テンションで嵐を起こさないでくださいって、いつも言ってるでしょ。もう歳なんですから、そろそろ落ち着いてください」
まるで普通の祖父と孫のような会話を聞きながら、その場にいた人間全員があることを思い出していた。
「動くだけで海流を巻き起こし、天候すら操る海の魔物……」
呟いたのは、誰だったか。
シンヨコの、いや世界中の誰もが知っているお伽話。
七海を自由に動き回り、世界の海を支配する。気まぐれで嵐を起こし、時には山より大ききな体で海の水全て飲み干す。それは伝説の──
「クラーケン……」
「……まだその名を覚えてくれてるんだ」
王の声に、巨大な老爺は懐かしげに目を細めた。
「伝説のクラーケンの孫が“海の魔女” こりゃあ特ダネだ!」
「ピースピース」
恐れもせずにカメラを向けたブン屋にポーズを取る伝説の生き物。それだけで大きな波が岩に打ち寄せ、また地面が揺れる。
「お祖父様! 話が進まないのでサイズを変えてください!」
「オーケー牧場」
孫の一声に祖父があっさりと頷くと、その背丈はみるみる内に縮んでいき、あっという間に人間サイズになった。それでもかなりの長身だが。早速カメヤがメモを取り出しつつ距離を詰める。
「取材よろしいですか 貴方がこのシンヨコ王国の初代国王と友人関係にあったというのは真実でしょうか?」
「そうだよ。何百年前だっけ……この辺の海で遊んでたら、迷惑だって怒られた。だったら君がフレンドになってくれって言ったんだよ。それから彼には、陸の楽しいことをたくさん教えてもらった。クラーケンという呼び名を付けたのも、マイフレンドだよ」
「その話、もっと詳しく!」
どんなに巨大で強大な存在だろうが、何千年も生きる伝説の怪物だろうが。ネタのためなら躊躇いなく突っ込んでいく。そんなブン屋魂にロナルドもハンダも王も、ドラルクですら呆気を取られて見守るしかなかった。心なしか『お祖父様』も嬉しそうだ。
「……ドラルク」
ふと、思い出したように名を呼ぶ。
「なんだい、ロナルド君」
不安定な岩を踏み締めて、近づいて、腕を伸ばして。
「俺、お前に言いたいことがあってさ」
「奇遇だね。私もだよ」
“海の魔女”の足元まで辿り着いて、“王子様”はローブの裾をキュっと握った。
「お前は、俺には陸が似合うって言ったけど……やっぱり俺は、お前と一緒に生きたい」
「……奇遇だね。私もそう思ってた」
深い海の底の色の布を、ちょっと引っ張れば、痩せた体は呆気なくバランスを崩した。落ちてきた体を難なく受け止めて、思いっきり抱きしめる。
「俺と結婚してください」
「イイよ」
大声で叫んだら、やっぱり大声で返された。
「やった! ……って?」
抱きしめた体をさらに持ち上げようとして、ロナルドはふと気づく。ドラルクは痩せている。だがそれにしても軽すぎた。ガリガリの上半身はともかく、ローブの下の六本の足にはそれなりに重量が、ある──はず?
「えっ お前、あし……がっっ」
「やっと気づいたか、鈍チンルド君!」
ロナルドが持ち上げた下半身には絡みつく蛸足はなく。代わりに枯れ枝のように痩せ細った二本の人間の脚がついていた。
「おまっ、これ……っ」
「この天才ドラちゃんにかかれば、人魚のヒレを人間の脚に変える薬を作るのなど造作もないのだよ! 効果は一時的だが……ちなみに、火が使える環境があれば増産も視野に入れている」
「……ほほう」
いつの間にかすぐそばまで来ていた王が、弟の腕に抱かれる“海の魔女”を見て、ニヤリと笑う。
「その薬があれば人魚と人間……古来から悲劇の元である異種族間の恋愛問題も解決するかもしれんなあ」
「兄貴?」
「そちらを我が国で買い取ることは可能じゃろうか? もちろん、そちらさんの都合は優先させてもらう」
王の言葉に、ドラルクはわざと“海の魔女”らしく応じた。
「お高くつきますよ、王様?」
「それは、これから交渉させてもらうということで」
そう言って、王はこれ以上用はないとばかりにクルリと向きを変えた。危なげなく岩場を歩き、まだ取材を受けている長身の男に声をかける。
「立ち話もなんですから。うちで食事でもいかがですかな? もちろん君たちも一緒に」
「陸の食べ物、久しぶり♪」
「ホラ、カメヤ。お前はちょっと落ち着け」
「あ、俺一旦帰って最新式のカメラとってきます! ボイレコも!」
「へえ。人間ってやっぱり面白いことを考えるねえ」
伝説の海の怪物と人間の王。そしてただの民間人。それらが連れ立って歩き出す。
元“王子様”と、人間の見た目を手に入れた“海の魔女”は完全に置いてけぼりにされた。
「君のお兄さん……食えないなあ。さすがお祖父様のお友達の子孫だね」
「えっ? そうなの」
他人事のように驚くロナルドを見て、ドラルクは呆れた。
「伝説でもそうだろ?」
好き勝手に海を荒らしていたクラーケンを鎮め、やがて一国の王になった男がいた。
その男が作ったのが、この『シンヨコ王国』──確かに伝説ではそうなのだが。
「でもなあ……クラーケンの伝説は世界中にあるし、それを名乗る国もいくらでもあるじゃん? だからうちの国民はあんま本気にしてねえぞ?」
伝説の王の子孫の言葉に、伝説の海の魔物の孫は笑った。太い首に細い腕を、まるで蛸足のようにギュッと巻きつける。
「それは、それだけお祖父様のお友達が世界中にいたってことなんじゃない?」
「まあ、確かに。あのじいさんなら、やりかねねえか」
「ヌー!」
なんとなく納得したロナルドの足元から、世にも可愛らしい声が聞こえた。
「ジョン!」
「ジョンも私と君と一緒にいたいって」
「当たり前だろ」
ジョンを抱き上げてドラルクに渡し、ロナルドはそのまま歩き出す。
「ヌヌヌヌヌヌ、ヌヌヌヌイヌ〜」
「えっ? ジョンお腹空いたの とりあえずどっかで買い食いする?」
「コラっ! ジョンと君のご飯は私が作るに決まってるだろ!」
「え? お前お菓子以外も作れんの?」
「当たり前だ! 腰を抜かすほど美味いもんを作ってやるから待ってろ。まずは買い物だ」
「ヌヌヌヌヌヌヌ、ヌヌン、ヌイヌイヌ!」
銀の髪、真昼の空の瞳。キラッキラの眩しい笑顔の“王子様”が。
深い海の底の色のローブに身を包んだ、痩せぎすの“海の魔女”をお姫様抱っこして。
ギャーギャーと騒がしく、賑やかに。なんとも楽しそうに街の真ん中を歩く。
「何が食べたい? カレー? 唐揚げ? オムライス?」
「全部」
「ヌンヌ」
もちろん宇宙一可愛い使い魔も一緒に。
誰の目も気にせずに。
陸の果てでも、海の底でも。
人魚でも、人間でも。
何も関係ない。
誰も止められない。
ただ、君と一緒にいつまでも。
「ちなみに天才なので、人間が人魚になる薬も余裕で作れる」
「なんだそれ……やっぱりお前サイコーだな」
「ヌ〜♡」
これはいつまでも永遠に続く。
俺とお前の。
君と私の。
海と空のお伽話。
【海と空のフェアリーテイル】end