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    zattakuzukago

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    zattakuzukago

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    はるあきなんちゃってホラー

    あんたって何にでも狙われちゃうわけ?修行と称して抜け出そうとする雅をピシャリと諫めたり、空腹を訴える蒼角をもうすぐ昼時だからと宥めたり、病欠休暇を申請しようとする悠真に冷たく眼鏡のレンズを光らせたりと、皆の様子に目を配りながら書類の高層タワーマンションを捌き続ける鬼の副課長こと柳の手も止まらぬ、いつもの長閑な対ホロウ六課のオフィスにて。倦んだ空気を突如として切り裂く電子音が、悠真のポケットから五月蝿く鳴り響く。
    「悠真、助けて!お兄ちゃんが……!」
    就業中の規定破りをじとりと睥睨する桃色の瞳は、着信元の名前を見て表情を明るくした彼を見て更に鋭さを増したものの、ピッと通話を繋げた瞬間に予測しない大音量の救助要請が発せられたのを境にその温度を変える。先程までとは異なる意味で静まり返ったオフィス内で、四対の目がそれぞれ交わり無音の会話を成し遂げると、課の責任者たる長はこくりと神妙に頷いて斥候役に重々しく命を下した。僅か数秒の出来事だ。
    「少し前に報告があった件だな。悠真、お前に任せる。行ってこい」
    「浅羽了解、これより独立調査員どのの救出に向かいまーす……大丈夫だよ、安心してリンちゃん。僕はすぐに向かわなきゃいけなくなったけど、とりあえず月城さんに替わるから、何があったか落ち着いて話してごらん」
    涙混じりの叫びの後、ひくりとしゃくり上げる息遣いが電波のノイズに紛れて聞こえる電話の先に、悠真は殊更ゆっくりと穏やかな口調を意識して告げる。そして、不安で震える是の応えが返ったのを確認してからそのまま自身のスマートフォンを差し出すのを、柳が受け取ったと見るやいなやベルトごとコンパウンドボウの鞘を引っ掴み、矢筒すら脇に挟んだ状態で飛ぶように駆け出していく。その背を見送る三人の間で漂う緊張感に蒼角が眉尻を下げると、雅が彼女の頭にふわりと手を置き、柳は柔らかく微笑み返してスマートフォンを耳に当て、この一人離れたところにいる少女にもどうか届くようにと表情に違わぬ甘く優しい声で頷いた。
    「ええ……ええ、浅羽隊員が向かいましたから、もうなにも心配いりませんよ。リンさん、ゆっくりでいいですからね」

    ***

    目を閉じて、開ける。それだけで世界は様変わりした。否、アキラには瞼を下ろしたという意識さえなく起きた事象だ。たった一瞬前のことも曖昧になるほど突然の出来事に、しばらく頭が動きを止めてしまう。
    辺りをぐるりと見回せば、視界に映るのは古びた板張りの天井と四方を囲む褪せた紙製の引き戸、そして日焼けと汚れで薄茶色になりパリパリと固くささくれ立ったいぐさ編みの床ばかり。アキラにとっては馴染みが薄いが、以前招かれたことのある星見家の屋敷で見たような建築様式――襖に畳というやつである。けれどかの屋敷にあった上品さや清潔感は欠片もなく、閉めきられて明かりも存在しないというに、ぼんやりと目に映る景色はただ気味が悪い。部屋の中は広く、このようにスペースのある一室を抱えられる木造建築物は記憶に無いことから、少なくともヤヌス区六分街の近くではないと推測ができた。
    「何処なんだ、ここは……」
    不幸中の幸いと言うべきか、いつもの服装に履き慣れたスニーカーまでが揃っており、足裏の怪我に怯える心配はせずに済みそうだ。兎にも角にも、現状把握を優先すべしとまず前方の襖に近寄って耳を澄ませ、自分以外の存在を探る。一、二、三……十まで数えて物音ひとつ聞こえてこないのを確認し、ごくりと息を呑むと引手に指をかけて爪の先ほどの隙間を開けた。奥に見えるのは今し方滑らせたばかりの襖とまったく同じもので、上に目を向ければやはり同じく板張りの天井が、視線を下ろせばこちらは畳ではなく板張りの床が続いていそうだった。たしか星見家の屋敷でも部屋の中は畳が敷かれていたが、家屋の中を繋ぐ導線たる廊下は板張りであったように思う。そしてやはり、建物の造りが視認できるくせに光源となるようなものはない。とりあえずは、ホロウの如く捻れた空間というわけではないらしいことだけは確かだと胸を撫で下ろす。
    とは言え、である。少しずつ頭が回り始めると、こういった状況によく似たものをじわりと思い出してひどく気が滅入った。何を隠そう、アキラの苦手とする例のアレでよくある流れだ。
    「まさか、僕自身がホラーを実体験することになるとは」
    重苦しいため息と共に、鬱々としたぼやきが口を割ってまろび出る。意識を失った主人公が目覚めるとそこは見知らぬ東洋風の屋敷で、その中を探索するうち数々の霊や怪奇現象に遭遇し、最終的には何らかの仕掛けを解いて命からがら脱出するか、あるいは。どこかで見た映画のテンプレートをなぞった思考が勝手にそこまで話を飛躍させたのを、首を振って追い出す。窓がないので昼か夜かも確認できていないが、薄暗い室内というだけでなくどこかひんやりとした空気が更に冷たくなったように錯覚して、身体がぶるりと震えた。
    何はともあれ、そこが如何なる場所であっても地形の把握は急務に違いない。迷子の鉄則はその場を動かないことだが、そもそも探しに来る人間がいるという前提条件あってこその話だ。滲むように蘇ったアキラの最後の記憶では、ビデオ屋の自室のベッドで普段通りに遅い眠りに就いたはずで、やはり自ら動くしかないと唇を噛みしめる。音を立てずに襖をそうっと開け放ち、足を一歩前に。左右に続く廊下の先はどこまでかしらと、左を向いて奥が暗闇に飲まれて見えないのを理解して鼻の奥がツンと痛み、そうして反対にも顔を向けて。
    「う、わあぁああ?!」
    こちらも果てのない廊下かという予想に反しておよそ部屋一つぶん先にあった曲がり角の影、ふわふわと漂う真っ白な物体に悲鳴が喉を突いて出た。大きさはざっと両手のひらほど、上向きに二つの三角が並んで生えた縦長の形は、光のない空間の中でとりわけ浮き上がって見え、たいへん不気味だ。細筆で引いたような逆ハの字と、その下にある大きくアルファベットのUの字を描いたような線は、目を細めて笑っている顔にもとれる。……顔?
    「き、……きつね、の、お面っ……?」
    バクバクと痛いほど早鐘を打つ心臓が叩く胸元を押さえ、驚いた拍子に尻もちをついたアキラは裏返った声で事実を反芻する。白地に赤い塗料で模様が描かれた狐の面が、曲がり角からひょこんと覗いていた。摩訶不思議な現象ながら、確証はないのに悪いものではないと感じられるそれと目を合わせるうち、またもや脳裏を過ぎる記憶が鮮やかに色を取り戻す。
    つい先日、いつもと変わらずプロキシとしての仕事を受け、依頼人に付いてホロウを案内していた時のことだ。依頼内容はごく平凡で、その人は落し物を探しているのだと言った。前回別のプロキシに頼んで用事を済ませた際、不運にも予測しないエーテリアスとの遭遇によって走り回る羽目になり、あまりに焦っていたために落し物を拾う間もなく逃げ帰ったらしい。
    例えば、自分の作り出した爆弾の威力を知りたいからとホロウの中で検証実験に付き合わされるだとか、喋るカメラの要求に合わせてエーテリアスとの戦闘中にシャッターを切ることになっただとか、そういうエキセントリックな依頼とは比べ物にならない平和な仕事の予定だった。パエトーンとして身につけたノウハウにFairyの演算能力が合わさり、充分に安全を確保しながらの案内となるかに思われたのが、なのにどうしてか途中で予測し得なかった空間の裂け目が出現し、依頼人共々入り込んでしまったのである。落ちた先、木造の小屋のようなものの上にイアスのヒップアタックが決まり、その横で依頼人はドングリかおむすびのように転がっていった。幸いにもその人が怒り出すことはなく、またエーテリアスとも遭遇はしなかった上、落し物も見つけることができたのだが。
    その日以降、アキラには小さな生傷が絶えなくなったことに加え、何故か少しばかり薄気味悪い現象に遭遇するようになってしまったのだ。通りの裏路地、影になった暗闇の奥からまるで何かの呼びかけるような幻聴が聞こえるようになり、けれどそちらを気にする度にいつも偶然知り合いに声をかけられ、結局深く確認する暇もなく過ごしていた。そのことを、仕事続きで久々に顔を合わせた悠真に世間話の体で話してみると、みるみるうちに真顔になった彼はひどく真剣な声色でこう言った。
    「困った時は狐を探して。それと、僕の手のひらを覚えていて」
    どういう意味かと困惑しながらも、兎角お願いだからと念を押す悠真にわかったよと頷く他なく、その回のデートという名の友人との外出で、アキラはずっと彼と手を繋ぐことになったのである。そして今こそ、まさにその「困った時」に違いなく。
    「ええと……君は、もしかして、味方?」
    意思疎通が可能かは定かでないが、物は試しと話しかけてみれば頷くように二度三度と上下にふよふよ動くので、なんだか狐の面が可愛らしく見えた。目尻に滲んでいた涙を拭って鼻をすすり、笑う膝を誤魔化しながら立ち上がってそろそろと近寄る。くるんと一回転したそれは、今度は着いてこいと言わんばかりに裏面をアキラに向けて奥へと滑るみたいにして飛んでゆく。歩調を合わせてくれるようで、ゆったり進むスピードから実体のない温もりを感じられてほっと息を吐いた。
    古びた屋敷の中は複雑で、両脇には延々と襖が並んでいるだけで目印になるようなものはなく、どこをどう曲がったのかも曖昧になる。時おり襖を開けて部屋を抜け、また続いた別の部屋から廊下に出ることを繰り返すと、こういった建築様式に馴染みのないアキラにはもう訳が分からない。普段ホロウを歩く時に参考できる迷路のアルゴリズムなども使い物にならないらしく、そもそもが迷わせるための構造というよりも、ある一本の道以外の全てが同じであるために彷徨うことすらできていないような気味の悪さがある。
    そうして板張りの床をギシギシと鳴らしながら狐の面に着いて行く先、ふと今までとは空気が変化した気がした。ここだよ、と示すみたくそれが振り返って小刻みに左右に揺れてからその奥の襖に溶け込むように消える。声をかける隙もなく行ってしまい、またも心細い思いになったアキラは一度強く拳を握ると、えいやと勢いよく引手を横へ引く。スパンと開いた向こう側、待ち構えていたのは覚えのある人影だった。
    「あ……悠真!」
    すらりと伸びた一見痩身のシルエットが持つ跳ねた黒髪も、腰に巻かれた上着の末広がりな裾も、動きに合わせてひらめく黄色の鉢巻でさえ今は涙を誘う。けれどもみっともない姿を晒したくはなくて、安堵に歪む口角を無理やり引き上げながら大股で彼との距離を詰める。
    「会えてよかった、すまないけれどここがどこだか知っているかい?僕にはまったく覚えがなくて。推測するに六分街の近くではないと僕は考えているのだけど、ああいや、まさか君も僕と同じで迷子だったりは、しな、い……?」
    屋敷で目を覚ましてから初めて見かける窓の、貼られた薄い紙を滲むようにぼんやり光らせる夕陽の色に紛れたその顔が近づくにつれて、アキラの声は勢いを失っていった。傾いた陽光に染められているのは人肌のそれではなく、つるりとカーブを描いた硬い白だ。つい先程まで自身を導いてくれていた狐の面と同じものを、悠真は身につけているらしい。
    呆気にとられて立ち止まったアキラへ向けて、おもむろに持ち上げられた彼の左腕が小さく手首を揺らす。人差し指と小指をピンと伸ばし、残る親指と中指、薬指の先をすぼませるようにまとめた形は、獣の耳と鼻先を思わせた。
    「……悠真、だよな?」
    「こん、こん」
    苦笑いのような吐息混じりの返事は間違いなくよく聞く彼の声だったが、その中身はいつもの軽快な言葉の羅列などではなく、面と手遊びが示す通りの狐の鳴き真似だけであった。次いで左手の狐の顔が崩され、人差し指のみが立てられたまま白い狐の口元に添えられる。今は聞かないで、の合図だ。こくりと頷いたアキラにそのまま手のひらが差し伸べられ、反射的に自身の手を重ねた。柔らかく、しかし強く繋がれた熱の温もりがあまりに優しい。そっと腕を引かれるのに従い、悠真の後に付いて歩く。
    何もかもが分からない場所で、幾らかの疑問はあれど少なからず見知った人間と出会えたことで気が休まったのか、再び辺りを確認しようという考えが意識に上る。先ほどの紙の窓から続く右側の壁沿いは斜陽が差し込み、対して左側は相変わらず複数の部屋が連なっているようだった。視界を横向きに流れていくのは襖ばかりでなく、薄い紙を木枠の片面のみに貼り付けて僅かにその向こうが窺える引き戸――つまりは障子戸と呼ばれるものが混じる。乱雑に並べられたそれらは整然には程遠く、本来の間取りや用途に応じて使い分けられる規則性なども一切考慮されているとは思えない有り様だ。
    その内の一つ、ちょうどアキラが過ぎようとしている障子戸に何かが見えた気がした。明かりの方向を考えれば何が見えるはずもないのに目を凝らせば、薄闇の落ちた部屋よりもなお暗い影が障子の上を踊っている。ひ、と引き攣った喉が音にならない悲鳴を漏らす。少し痛いくらいに握られた手が引かれてくるりと身体が半回転し、視界に障子窓が映った。
    「こーん、こん」
    節のついたその鳴き真似を言葉にするなら、ちょっと待ってて、だろうか。言われるまま微動だにせずにいると悠真の手がするりと離れ、連続で後方から木枠が打ち合う音にヒュンと鋭く空気を裂く音、それから重たいものが落ちる音がした。そして鼓膜とは違うところで聞こえているような、呻きとも叫びともつかない声に似た何かが脳を揺らす。横隔膜が痙攣する感覚に、アキラは両手で口元を押さえる。
    「こん、こん?」
    心配そうにも申し訳なさそうにもとれる悠真の鳴き真似と共に、温かい手のひらがそっと背中を摩った。大丈夫、かもしれないし、ごめんね、なのかもしれなかった。ゆっくりと二度の深呼吸をしてから、首を横に振る。
    「……ありがとう、悠真」
    見えないけれども振り向いて目を合わせ、当然のように差し出されている手をまた繋ぐ。彼の背後で開いた状態の障子戸の間は真っ暗で何も見えなかったが、あまり眺めていてはいけない悍ましさが漂っている気がした。
    再度二人で歩き始めるとアキラは悠真の背中からそっと視線を下ろし、その右腕の方を見て、自身と繋がれていない手には刀の状態に分離した抜き身の武器が握られたままであるのを知る。つい屋敷の物珍しさにばかり気を取られていたが、最初から彼はずっとアキラを守ろうとして周囲を警戒していたらしい。そしてそれを、怖がらせないための気遣いだろうか、こちらに悟らせないようにと身体の影に構えていた。そもそもよく観察すれば、上から下まで悠真の全身はホロウ内で見るような完全武装で、可動式の鞘に収まったままのもう一本の刀と中身のみっちり詰まった矢筒を背負っている。理由はどうあれ、この屋敷は自分に危害を加えるつもりがあるのだとようやく理解して背筋を冷や汗が伝う。
    曲がり角を折れるたび、分かれ道を進むたび、畳を踏みしめて部屋を通り抜けるたびに、悠真はほんの僅かに頭を傾けてこちらを窺ってくる。もし彼が話せたのなら、あっちだのこっちだのと丁寧な道案内と共にアキラの疲労具合なんかにも言及するような、さぞ心配性のナビシステムとなったに違いない。ふと、いつもの自分たちとは逆のことをしていると気づいて息も漏らさずに含み笑ってから、心臓を掴まれたような思いがした。こうしてどこへ向かえばいいのかも知れない空間で、いつ敵が飛び出してくるとも本当にここを出られるのかも分からないプレッシャーが伸し掛る中、アキラを導こうとするたった一つの存在への信頼。見知った人間であると確信しながら、隠された顔へ抱く砂粒ほどの不安。自身の命を預ける必要のある相手としてどこまで信じられるのか、それを決めるのは随分と覚悟が問われるのだと身をもって感じる。これらは全て普段のアキラがプロキシとして彼に、彼らに行っていることと同じだった。中身を知っている者も知らない者も等しく、ホロウの中で頼るのはボンプの姿を借りた顔の見えない案内役だけなのだ。
    「君たちはすごいな」
    なにが、と首を傾げた彼になんでもないよと今度こそ明確に笑う。アキラが今、彼に委ねている手のひらと並ぶだけの重みがいつもあの小さなボンプの愛らしい手に乗せられていると言うのなら、それは絶対に裏切れないものだと強く思った。
    しかし決意ばかりを新たにしたとて、ギィ、と一際大きく鳴った床には一瞬足が竦みもする。古びた板張りの終わりの見えない廊下はいつ踏み抜いてしまうかとハラハラするし、乾燥して瑞々しさを失った木の香りと褪せた紙の放つ嗅ぎ慣れないにおいは、順応した鼻が違和を訴えなくなるのと比例して神経を削っていく。ぎぃぎぃ、ギシギシ、ぎぃぎぃぎぃ。人は二人、足は四本、足音は――三つ。俯きがちに強ばった身体をうまく動かせずに瞳ばかりをぐるりと悠真に向けたが、気づいていないのか振り返る素振りはない。ぞわぞわと這い上がる悪寒は自律神経の乱れではなく、背後から確かに漂う肌を刺すような冷えた空気のせいだと確信を持って言えた。何かが、いる。
    耳元で逆立った産毛をくすぐる誰かの声がする。否、これは声ではない。音でもない。言葉として脳内で像を結ばないそれがブツブツ、ブツブツと繰り返し意味のわからない何かを喋っている。短い節の繰り返しは名前だろうか。誰の名前だろうか。こんなに近くで呼んでいるのだからそれはたぶん、たぶん間違いなく。ぷつぷつ粟立っているだろう首筋にペタリと触れる氷のような手の感触がアキラの意識までもを撫で上げていった。繋いだ手のひらが命綱であるとばかりにきつく縋りついて目を瞑り、絶対のおまじないの言葉を唱える。
    「はるまさ」
    瞬間、空気を斬る音がチリリと頬を掠めて、強く引かれた腕に逆らわずいると前のめりに身体が倒れていく。温かくて少しだけ柔らかい壁に正面から受け止められ、んぶ、と鼻をぶつけた衝撃で反射的に呻き声が飛び出た。後ろの方で喚くような何かを感じたが、もう気になりはしない。心臓がとんでもない速さで駆けているアキラの背中を撫でていく悠真の手の穏やかさに、図々しくも目の前の温もりに遠慮なく顔を擦り付けさせてもらえば、くすくす肩を揺らす動きをするのがなんだか癪に障る。だから、少しばかりシャツが湿ったかもしれないが、彼のことだから笑って許してくれるだろうと自分勝手に信じた。
    「すまない、大丈夫だ。今回もありがとう」
    「こん」
    息を整えてからゆっくり身体を起こして向かい合うと、悠真の左手が象った狐の指先がちょんとアキラの鼻をつついていく。おかしくなって小さく噴き出すように笑いながら、めっ、と悪戯な狐を咎めるみたく手のひらで包んで今度はこちらから繋いでやった。そして、どこかの家政のように優雅なエスコートとまでは言えずとも、優しい手引きによってまた導かれる。
    一度目の影からの不意打ちも、二度目の死角を狙った奇襲さえも失敗したことでいよいよ焦っているのだろうか。なりふり構わないといったふうに屋敷のあちらこちらから不穏な気配がして、絶え間なく怪奇現象が現れ始めた。カタカタと振動する襖やドンと突き上げるように叩かれる壁、障子には関節が二個もある奇妙な腕や足の影が映り、天井からも小さな子どもが何人も走り抜けるのに似たパタパタという音が聞こえてくる。そのたびに悠真が刀をその方向へ突き付けると途端に騒がしさは収まるのだが、すぐさま別のところからまた異なる現象が発生して代わる代わるアキラの心臓を脅かしていくせいで、ついには空いた左手でうっかり悲鳴が飛び出ないように蓋をしなければならなくなった。いちいち反応して繋いだ手にぎゅっと力を込める自分を哀れんだのかもしれないけれど、悠真が案内の足を早めてくれたのを素直にありがたく思う。
    早歩きで進むうちに息が上がり、心臓が再びドクドクと走り出した。それと同じだけ周囲で起こる現象もその間隔を狭くし、聞こえるそれが呼吸の音なのか鼓動の音なのか、あるいはそうでないのかも定かではなくなってゆく。頑張れ、と言うように強く握り返される手のひらに励まされてどうにか足早に歩き続け、彼が一旦足を止める頃にはアキラはとうとう息が切れていた。
    「はっ、はあ、ふぅ……はぁ……悠真?」
    「……こんこん、こん」
    廊下のちょうど曲がり角で立ち止まった悠真が小さく舌打ちするのを耳にして、途切れ途切れの呼吸を繋ぎ合わせて名前を呼んだ。すると渋々ながら、まったくもって不本意だという意思を露わにしながら振り返った彼は、苦りきった声での鳴き真似と角部屋の戸へ向けてくいっと顎をしゃくることで、アキラにここへ入れと示す。足のつま先を引っ掛けて戸を引くというたいへん行儀の悪い仕草を見せられ、ぎょっとしたのも束の間、呆気なく解かれた手のひらに待ってくれと声が漏れた。肩に置かれた悠真の手の甲に思わず自分の手を重ね、丸まった指先が彼の肌を引っかいてしまう。
    「どうしても、なのかい」
    うん、と大きく頷く姿から本当に今そうすべきなのだと窺えて、アキラは下唇を噛む。おそらくは現在見舞われている怪奇現象は二人に襲いかからんとする何かの仕業だろうとは、ピリピリと気を張りつめた悠真の牽制する行動を見れば察しもつく。そして元を叩きに行きたいけれど、それにはアキラが足手まといである事実も。もちろん本音を言ってしまえば嫌だ。こんな屋敷の中で一人になりたくはない。しかし悠長にしていられないことも、原因を退けるのが最も手っ取り早く確実な対処方法なのも、それさえできれば少しは安全な時間が確保できるのだとも理解できる。鈍感でいられない自分の頭を恨む機会があるなんて思いもしなかった。
    「……わかった。けれど我儘を言わせてほしい。なるべく早く、戻ってきてくれ」
    ずっと我慢していた弱音が堪えきれずに口をついて出たのを、内心はともかく悠真が呆れを滲ませる様子はなく、むしろ慈しむようにそっとアキラの頬に手のひらを添えて顔を寄せる。こつりと合わさった額はお面の硬い感触で味気なかったが、ゆっくり頬を撫でるその指先は温かい。そろそろ聞き慣れてきた狐の鳴き真似もしなかったけれど、約束するよと言われたような気がした。そしていつ、どこから、どうやって取り出したのかは不明だが、彼に会うまでの道行きを共にした狐の面がアキラの手に持たされ、代わりに人肌の熱が離れてゆく。体感温度が一気に下がり、背筋を悪寒が駆け抜ける。くるりと踵を返して身軽に走り去ってゆく背中を眺め、お面を腕の中に抱き込んだ。
    しんと静まり返った部屋は最初に目覚めたところよりも幾分か手狭に感じたが、やはり同じように薄汚れた畳が敷かれており、帰りを待つ間に腰を下ろす気分にもなれない。ただじっと何も考えないでいるのも憂鬱で、明るい記憶や楽しかった出来事を思い返そうにも凝り固まった頭では昨夜の夕食くらいしか出て来ず、妹にまたラーメンかと文句を言われた不満がふと蘇る。そうだ、そういえばリンは無事だろうか。ここに至るまで彼女の身を案じることを忘れていた情けなさに、兄失格だと自責の念が湧いた。何事もなく家に居てくれればいいのだけれど万が一リンも災難に巻き込まれていたとして、こうして悠真がアキラを迎えに来てくれたのだから、もしかすると他の六課の人たちや知り合いの手が回っていそうではあるが。今にして、彼の数々の行動から自分同様迷い込んだわけではなく、アキラを助けに現れたのだと推測する方が無難だった。迷惑をかけてしまっているなと思う。
    ひとたび可愛い妹の溌剌とした声を思い出せたおかげなのか、尽きない心配半分ながらに、日々のくだらなくも掛け替えのないやり取りが次々と蘇って幾分か心を和ませた。あの子が自分用にと買っておいたケーキを勝手に食べて怒られたことや、その仕返しとして爪にマニキュアを塗られた挙句さらにごてごてと飾り立てられたまま一日過ごしたこと。逆にアキラが食べたいと言っていた期間限定のシュークリームを一人でこっそり味わっていたらしいことに拗ね、罰としてブラインド式の食玩コレクションを揃える手伝いとして菓子の消費に付き合わせたことも。ゆるりと狐の面を指の腹でなぞりつつ、早く帰りたいと願うのがまるで悠真みたいだと考えて口の端を緩ませたその時だ。ガタ、と聞こえた物音に飛び上がって踵が僅かに浮いた。
    「だっ、誰?」
    答えが返ってきたとしても非常に困るのだが、咄嗟に問いかけてしまうのは未知に警戒しそれを暴きたいという心理からかもしれない。一、二、三……十まで数えてもなお静寂が保たれていることに、自分が早とちりしただけかと羞恥を覚える。同時に、ただ一人で恥をかいただけでよかったのだと胸を撫で下ろした。対処方法の是非も分からぬアキラでは、何かが来てもどうしようもないのだ。
    何度か深呼吸をして顔から熱が引いた頃、遠くでギシギシと板張りの床を踏む音がするのに気づく。障子窓からの光のおかげで動くものであればまだ視認しやすいのがせめてもの救いか、目を凝らした廊下の奥から近づいてくる影が見えた。どこかの地域の古い言葉で夕方のことを逢魔が時、または黄昏時と呼ぶらしいという雑学をふと思い起こす。昔の時代――まだ電気の明かりがなかった頃、日が傾いて辺りがオレンジ色に染まった屋外で誰かとすれ違っても、相手の顔がはっきりと見えない時間帯だったからだという。誰そ彼と書いてたそがれ、すれ違うあれはいったい誰だと問うて黄昏時。あれは魔のもの、人間ではない化け物と遭遇してしまったのではないかと疑って逢魔が時。今まさに、アキラが鉢合わせようとしているのは何であろうか。
    まずは痩身、短く跳ねた黒髪に末広がりのシルエット。真ん中あたりで左右に飛び出す細い形と、動きにつられて揺らめく帯状のもの。ほっと息を吐いた。
    「よかった……おかえり、悠真」
    疾く戻れとは言ったものの、彼に限ってと思いはしつつ気が急いて怪我でもしやしないかと案じていたのもあり、アキラは肩の荷が下りた気分になる。目の前で立ち止まった悠真の全身を上から下まで目視で確かめ、少なくとも見える場所に負傷の痕がないことが分かると、やっと穴の埋まった心細さに目の奥がつきりと痛んだ。
    「約束通り、早く戻ってくれてありがとう。怪我はしていないか?それから、もう辺りは大丈夫そうなのかい?」
    彼に話す気がない、否、おそらく話すことができない理由があると知っていながら、イエス・ノーで答えることが難しい話しかけ方をしてしまう。質問は一つずつでなければ、縦にも横にも首を振りにくいだろう。けれども悠真がそれに何かしらの反応をすることはなく、ただアキラの手をとって引こうとした。ひんやりとした手のひらがそんなに強くはないにせよ力をグイグイ込めるのに、油断しきっていた身体がたたらを踏む。
    「おっと、もう行くのか。もしかして、まだ急ぐ理由があったりするのかな。……悠真?」
    彼からの返事はない。冷えた手のひらがひたすらグイグイとアキラの腕を引く。足がもつれても、身体がよろめいても、歩みがふらついても、ただグイグイと。頭の隅で鳴っている警鐘がその強さを増してひどい違和感が浮き彫りになり、横隔膜が引き攣れるように下がった。
    「違う。違う、君じゃない。君は悠真じゃない」
    氷のような手を全力で振り払い、叩きつけるように否定をぶつけた。彼の手のひらはもっと優しく、こちらを傷つけないようにと柔らかく、アキラの血の気の薄い指先を温めるほどの熱がある。姿かたちはそのものでも、間違えようもなくソレは浅羽悠真ではない。
    ぐるりと首だけが振り向いたのに驚いて喉が締まり、悲鳴になりかけた息が途中で詰まった。涙で滲んだ視界の中、水に垂らしたインクが広がるようにぐにゃぐにゃと彼の偽物が形を崩し、質量保存の法則をまったく無視して膨らんでゆく。アキラの上背をとうに越え、天井よりも伸びた影がこちらを覆うみたいに向きを変えることで大きくなり続けるのをただ愕然と見上げる。ひ、ひぅ、と吐き出すことを忘れてしまった呼吸音が断末魔の叫びの代わりだった。いよいよ全身に回った諦念が瞼を下ろせと命じるのを聞き、身体がゆっくりと従って視界が真っ暗に閉ざす。空気を震わせることなく唱えたおまじないは鼓膜を揺らさない。
    刹那。何よりも疾く走る一矢が飛来し、脅威の化身を射ち抜いた。
    「こんっ……こん!」
    トッ、と軽い着地音に被せてお待たせと狐が鳴く。荒々しい息づかい混じりの声が耳に届き、アキラの頬を雫が伝い落ちる。自由の利かない身体が傾き、熱くて少しだけ柔らかい壁に後ろから受け止められ、んぐ、と背中をぶつけた衝撃で反射的に呻き声が飛び出た。
    恐る恐る瞼を持ち上げれば、ザラザラと波にさらわれる砂山のように空気に溶けていく黒い影の残りかすが見える。ぎこちなく首を動かして背後に目を向けると激しく肩で息をする悠真の姿があり、触れる背中から相手のドクドクと早鐘を打つ鼓動が響いて、高くなった体温の熱が未だ恐怖に縮こまる身体に染み込んでいく。白い首筋を流れる汗の量が、アキラのため一心不乱に奔走した彼の証明に違いなかった。ぐず、と鼻を鳴らして悠真の肩に手を伸ばし、支えてくれる腕を甘受しながら身体をひねって思いきり首元に縋りつく。慌てたようにずり落ちる腰を何度も抱き直す仕草が、変に笑いを誘った。
    「ん……、ごめん、ありがとう」
    「こん、こんこん」
    慰めるように背中を往復する手のひらのおかげで少しずつ落ち着きを取り戻したアキラが礼を言うと、本物の彼は縦に首を振ったあと、横向きにも頭を動かして苦味の走った鳴き真似で答える。うまく翻訳しようとするなら、こっちこそギリギリになっちゃってごめんね、といったところか。自力で立てるようになった膝を叱咤して彼の肩をそっと押し、ゆるく微笑みかける頬をくすぐってくる指の背にふすりと息を漏らすと、安心したというように身体を離された。そして何度目かの、あくまでこちらのアクションを待って差し出される手のひらをまたしっかりと握り返す。
    とはいえまだ全てがショックから抜けきれているというわけでもなく、よたよたとやや覚束ない足取りで歩き始めるアキラを気遣って悠真の案内も随分ゆっくりだ。恐ろしい目にあった甲斐もあるというものか、今のところ少なくとも二人の周りでは何が起こる気配もないのが幸いである。屋敷の中は再び静寂に満ちて、彼が騒がしさの原因を叩いて回ってくれたのが作用してのことと思われるが、襖と障子戸に時おり混ざる障子窓から黄昏色の光は消えて初めのようにどこもかしこも薄暗い。それに加え、悠真と合流する前に感じたのと似た空気の変化が刻一刻と起こり続けている感覚があり、比例して建物の老朽加減もいっそうひどくなっていく。戸の木枠は折れ、褪せた紙は焼けただれたように破けて穴まみれで、板張りの床も踏み抜いた箇所が見え始めた。ひゅう、と吹き込む冷たい風を感じて肌が粟立つ。このまま進まず引き返したくなる意識を刺激するための、作られた見せかけの景色なのだろうと迷いなく手を引く彼の様子から窺える。ここにきてもなお小賢しく、未練がましいようだ。
    いよいよ辺りの劣化具合が屋敷そのものの耐久性すら危ぶまれるといった頃、何の前触れもなく行き止まりに突き当たった。一見、特別に隠そうという意図も感じられないほど粗雑に置かれている木の板で組んだだけの扉があるばかりだが、ややもすればその変哲のなさが見る者の意識からころりと抜け落とさせてしまうようで、気づいてさえしまえばそれだけ隠しておきたいものなのだと理解できる。一本の長い板が両開きの扉をちょうど真ん中で塞ぐみたいに掛けられ、周りと同じ色合いをしておきながら不思議とまったく腐蝕の跡がない。
    「ここが、出口?」
    多分に期待を込めて振り仰ぐと、悠真は大きく頷き返してくれた。アキラの手を彼自身の腕と組むように二の腕あたりに触れさせ、空いた両手でいとも簡単そうに錠であろう長い板を持ち上げて外してしまうのを、感心する面持ちで眺める。一時でも離れるのを不安がるだろうことを見透かされているのが気恥ずかしいが、背に腹はかえられぬので遠慮なくくっつかせてもらいながら、せめて極端に邪魔だけはしないようにと動きに合わせて手を浮かせた。悠真が腕に力を入れる瞬間ぐぐっと力こぶが盛り上がるのが面白く、またちょっぴり悔しい。
    ギイィ、と耳障りな軋む音を響かせてゆっくりと開いた扉の向こう側は、何も見えない暗闇だ。流れてくる冷気が空々しい気持ちを呼び起こすけれど、あの怪奇現象たちに感じたような本能がガンガンと警鐘を鳴らす感覚はなかった。
    「こん」
    行けるか、と尋ねられているのかと初めは考えたがすぐに違うと思った。たぶん名前を呼ばれたのだ。心配と励ましと、覚悟を問うつもりで。向かい合ってそっと両手が握られた。狐の面の奥から、彼の瞳がアキラを見つめてひたすら訴えてくる。大丈夫、信じてと。そんな顔をしなくてもいいのに、なんて見えないものを笑う。
    「信じているさ」
    瞼を下ろして深呼吸し、全身の力を抜いて悠真に身を委ねる。離された両手がだらりとぶら下がって、彼の手のひらが両肩に置かれ、トンッと呆気なく暗闇の底へ突き落とされた。目を閉じていてもぐるぐる回る視界が意識を攪拌させていき、まるで眠りに落ちるような滑らかさでアキラの思考を閉ざす。暗転。

    う、と自分の呻く声で目が覚め、もぞりと身動ぎした。寄り添おうとする上下の瞼たちの仲を引き裂きながら瞳を揺らせば、見慣れた自室の天井が映り込んだ。随分と長い夢を見ていた気がする。
    「お兄ちゃんっ!」
    「……リン?」
    横合いから勢いよく生えてきた美少女の顔面が視界いっぱいに広がって、その整った目鼻立ちがみるみるうちにくしゃくしゃになるのを呆然と見ていた。丸く大きな目のふちに溜まった涙が一滴落ちると、あとはダムが決壊したかのようにボロボロと溢れさせながら嗚咽を漏らして泣き始めてしまい、アキラは困り果てる。宥めようと腕を上げかけて、その手が塞がっていることに後から気づいた。右手は今まさに慰めようとしている彼女に強く握り込まれ、左腕は白と黒の二色の耳をもつ家族に伸し掛られて感覚が遠い。どうやらこの子はバッテリー切れで寝落ちているらしく、寝る子は重いの言葉を体現しており、どうりで痺れていると思った。
    「あ、朝起きたらっ、お兄ちゃん見なかったからまだ寝てると思って……ぐす、私起こしに行って……でもお兄ちゃん全然起きなくてぇ……!体冷たいし、呼吸も小さいしぃ、怖くて救急車呼ぼうとしたのに電話っ、なんでか繋がらなくてぇ……ふ、ぅ……みんなに掛けて回って、それでダメで、やっと繋がったのが悠真だったの……それで、全然わかんないっけど、すぐ助けに行ったって聞いてから、私、わたしぃ……ふえぇえええ〜〜〜ん!」
    涙と鼻声でぐずぐずになりながらも、聞きたいことを全部教えてくれたのはさすが我が妹だった。ところどころ、ちょっとばかり聞き取りずらいのはご愛嬌だろう。とんでもなく心配させてしまったようだ。となれば兎にも角にも、言うべきはまずはこれしかない。
    「ただいま、リン」
    「うん……!おかえり、お兄ちゃん!」
    やっと、求めていたものが得られた充足感に息ができた気がした。

    ***

    これは後日談というほどのことでもないけれど、まずは要救助者としての返礼をし、次に当事者としての情報開示を求めた時の話である。
    「言い方が冷たいかもしれないけど、あんたは知らない方がいいことだよ。知ってる情報が多いってのはそれに対して気づきやすくなるわけで、それって向こうからも気づかれやすくなるってことだからさ」
    人間の記憶を、まさかビデオみたいに知らなかった頃に巻き戻すなんて無理な話だと肩を竦めて、悠真は取り合わなかった。頬杖をついてふいと逸らされた金色を横から眺め、これは本当に話す気がないのだと分かってため息を吐く。ただ眠っていた自分がどうしてあんな場所にいたのか、そもそもあれは現実といっていいのか。迎えに来てくれた彼の姿も言動もどういう意味があってのものだったのか、気にかかる部分は山のようにあるのに。
    「それなら仕方ない。僕にできるのは、君に礼を言うことだけというわけだ……そこに関しては、間違いなく悠真のおかげで助かったよ。何度でも言うけれど、本当にありがとう」
    「はいはい、どういたしまして?ま、でも、全部あんたが僕を信じ抜いてくれたからこそだよ」
    素直に感謝の言葉を受け取らず妙に流してばかりの彼に、むかむかと不貞腐れた気持ちが湧き上がってくる。なので、八つ当たりのようにあの場で彼が如何に頼もしく甲斐甲斐しかったのか、それでアキラがどれだけ救われていたのかを一つずつ羅列してやった。そのぶん、自分がどれだけ弱りきって情けない姿を晒していたのかを自覚する羽目にもなったが、今の今まで悠真がそこをつついて揶揄う素振りを見せたことはない。他人のどうしようもない弱点には触れないでいてあげようという優しさなのかもしれないし、実はそういうところに呆れ返ってしまっていて掘り起こす気がないだけかもしれなくて、胸の内を少しでも探れればと期待する気持ちもあっての策を兼ねていた。
    「特にあの、姿を真似た偽物から守ってくれた時の安心感ときたら、恋に落ちてもおかしくない劇的な状況だったとも」
    「あーもう、わかったってば!あんまり軽々しくそういう言い回しをするの、よくないと思うなぁ僕!」
    「悠真がとても格好よかったというだけの話だけれど?」
    彼のゆるく握られた拳が押しやるように肩に当てられ、ぐらぐらと揺れる身体に楽しくなって思わず笑い声を漏らす。まったく拒む気のない力加減でその手をぺちりと叩くと、同じくらいのやる気のなさで叩き返された。少しは照れさせることに成功したらしいのが喜ばしく、それ以上に一緒なってくだらないじゃれ合いをしてくれることに満足感を覚える。悠真のパーソナルスペースはかなり広く、親しくしたいと思わない相手に対しては身体のどこかが触れる距離など到底許さないと知っているから、そんなに悩む必要はなさそうだとそっと胸を撫で下ろした。
    「君が来てくれて嬉しかった」
    「ハァ……参りました、僕の負け。まったく!横からかっ攫われちゃ敵わないと思って、こっちは必死だったんだからさ」
    じっとり睨みつけてくる瞳に対して、髪に隠れた耳のふちが少しばかり赤らんでいるせいで迫力は半減だ。先の件で頼りすぎたか、もっと彼に色々と寄りかかって預けてしまいたい気持ちになるのを、それすら受け入れてくれはしまいかと勝手に期待したくなる。まだ早い、いや、友人にするには重いか。まずは狐の面で見えなかった表情がくるくると変わるのを、今もうしばらく眺めていたい。
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