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    zattakuzukago

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    zattakuzukago

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    あるかべがーでんばーす

    枯尾花低く、重く――柔らかさに欠けた鋭いばかりの、含んだ熱量だけはひたむきなその声が耳の奥を塞いでいるのを、コツンという小さな衝突音が切り裂いて、カーヴェはハッと瞼を持ち上げた。普段、夜陰の中で学者の視界に多大なる恩恵をもたらしてくれる色ガラス越しの光は、今の暗闇に慣れた目にとって些か強すぎる。明滅する星の影をぱしりぱしりと瞬かせて追い払い、細かな木目が独特の模様を描き出すテーブルの上でランプの黄色を照り返す細く尖った小瓶をようやく認識すると、それを押さえる紺色のグローブに包まれた細い指先を辿ってトパーズとパライバトルマリンのバイカラーにかち合った。
    「はい、これ」
    「いつもすまないな」
    瞳に浮かぶ呆れとか、怒りとか、心配といった感情の乗らない彼自身の身のこなしのように軽やかな声が、逆にひどく気を遣わせていることを詳らかにするもので、それに返すカーヴェの苦笑はほとんど笑みといえる形を保てていなかったのだろう。はあ、と肺の中を空っぽにするようなため息を吐いたティナリが、いつもの穏やかさからは想像できないくらいの荒々しい所作で正面の椅子へと腰掛ける。
    「何度も言うようだけど、僕は医者じゃない。ましてや、花体質を専門に学んできたわけでもない素人だよ。君の症状なんてまるで初めて見るものだし、僕が施す対症療法はあくまでその場しのぎ……いや、そもそも正しく効いているのかどうかすら怪しいんだ。だから、」
    「ごめん」
    手に持ったままの透明な容器をカツカツと、まるで論文に行き詰まった教令院生が乾いたインクでどっぷり黒く染まったペン先を膝を揺するのと同じテンポでテーブルに打ち付けるように、次第に速まる言葉の合間に差し込んで鳴らすのをわざと遮って止めた。正しくて優しいその先を聞くのは、あまりに耳に痛すぎるからだ。毎度のことだった。
    本当ならばバースレスに陥った花生みであるカーヴェは、すぐさま花体質の専門医にかかるのが最善の選択だということは百も承知である。しかし、通常とは症状が異なるのを言い訳に、むしろ今の自分がバースレスであることを断定されるのを恐れて、逃げの一手を打ち続けてばかりいるのがカーヴェの愚昧極まりない現状であった。

    テイワットには二種類の人間がいる。男か女か、などという複雑な区分ではない。生物を性別で分けるとしてそれが肉体に準拠するのか、はたまた精神性に依存すると考えるのか。では雌雄同体と呼称される種は、あるいは無性生殖を可能とする種は、でなければ脳科学や心理学における収集データに基づいて割り出された平均値による性の差を指標とできるのか――といった議論は主に生論派の学者たちが課題とするところであり、解答には適していないからだ。より単純に、より明確に、人間は二つに分けることができる。花体質か、そうでないかだ。
    「花生み」と「花食み」と呼ばれる体質を持つ者をまとめて花体質と言い、特異性を持たないごく一般的な人間に比べ極めて希少な種であるそれら。言葉の通り、髪や爪が伸びるのと同じように自然と花を生み咲かせる「花生み」と、その生み出された花を糧とすることのできる「花食み」だが、能力面に秀でやすい代わりに花を摂取せずにいると不安定な状態に陥りやすい「花食み」の体液を得ることで、「花生み」は花を生み出す際に生じる痛苦の軽減や枯渇しがちなエネルギーを補給可能といった相利共生の関係にあった。故に、あえて浪漫や叙情的な表現を排し客観的事実のみで述べるなら、動物界におけるつがいのような契約関係を結ぶことを可能としており、比翼連理になぞらえて海を挟んだ遠い島国においては連理の花枝などとも呼ばれる在り方を選択することができるのだが。
    「ただいま」
    「ああ……、帰っていたのか。おかえり」
    酷使され続けた目の奥と凝り固まった背筋が訴える不快感に負け、少なくとも現状では滞りなく進む製図作業をやむなく一時中断して一服しようと部屋を出たカーヴェは、リビングにもうすっかり見慣れてしまった銀色を見咎めて無意識のまま後ろ頭のまとめ髪を握りつぶした。ばき、ぼき、とちょっとばかり不安を煽る音と共に首と肩を回しながら横を通り過ぎたついでに、帰宅してそう時間は経っていないはずにも関わらず早くもアルハイゼンの周りに形成されつつある本の塔への小言を落として、いつも通り無言のシャットアウトで聞き流されたことに息を吐く。
    「君の分のパティサラプリンがあるが」
    そういえば数日前に購入した複数の花の香りが楽しめるフレーバーティーのセットがあったな、と回転数を下げたことで余事を思い出し始めた頭でキッチンの戸棚をパタパタと開け閉めするカーヴェの背に、不意に飛んできた無感動の手本みたいな声が響いて危うく手元が狂いかけるのがどこか遠くの出来事のようだった。
    「……そう、後でいただくよ。きりのいいところまで先に終わらせてしまいたいんだ」
    最後に付けたありがとうの言葉はひどく掠れてしまって届かなかったかもしれないが、いつかのようにもう一度を要求されたとて今は些細な会話のやりとりさえまともに交わせる気がしないので、それならそれで構わないと思うことにして。つるりと滑らせかけたカップを慎重に仕舞いなおし、コーヒーマグを手に取って湯が沸き立つまでをじっと辛抱強く待つ。息が詰まって勝手に激しくなりそうな呼吸を意地で押さえつけ、相手との間に横たわる沈黙の壁にひびを入れないために細心の注意を払いながらきつく目を瞑った。君は、どうしてこういう時ばかり。
    たったの数分を何倍もの長さに錯覚する頃、やっと聞こえたシュンシュンと湯気の抜ける音に目を見開き、いつもより多めにインスタントコーヒーの粉末を取ってケトルを傾ければまるで小さな沼ができたよう。豆から挽いた本格的なものではないにせよ、常と変わらないはずの黒がどうにも雨上がりの泥濘にしか見えなくて、くるくるかき混ぜて渦を巻く水面で歪んだ自分の顔があまりに醜く映る。出来上がったそれを掴んで足早に作業部屋へ戻ると反動で溢れるのも構わず机に勢いよく置き捨てて、空いた両手が暴れるままに頭をかきむしって座り込んだ。
    「なんで放っておいてくれないんだよ」
    いつもみたいにノイズキャンセリング機能でも使っているか、さっさと自室に引っ込んでいればいいものを。自分でも聞き取れないほど絶え絶えに漏れ出た言葉に対する返答がないことに、同じ空間にいないのだから当然拾われるわけもないのだという事実を差し置いて、カーヴェは心の底から安堵の息を吐き出した。
    床を伝う冷たさがすっかり臀部の人肌の熱を奪い、ホットコーヒーがぬるま湯の温度になったあたりでようやくのそのそと顔を上げ、ぐちゃぐちゃに乱れた髪の隙間から風変わりな細く尖った形のガラス瓶を睨みつける。――つがいとなった「花生み」と「花食み」の関係を一般的呼称でブートニエールと表し、その状態となった彼らは互いに利をもたらす契約を結び、互いを唯一と定め愛し合う約束を交わすのだ。しかし、そのような人生に直結する話が簡単に決められるはずもない。だから多くの花体質は一時的な相互扶助の関係であるヤドリギ(ブートニエールを夫婦や恋人と言うこともあり、極端に俗っぽい言葉で表せばセックスフレンドだとか性風俗の商売だとかに近い)になったり、あるいは「花食み」であったなら専門店で販売している身元と品質の保証された花を食すことも現代ではよくあることで、それが「花生み」ならば調合された栄養剤を摂取して不足を補うのが普通にもなっている。特に、そう、「花生み」のための栄養剤は他の人種にとって悪影響ではないものの所謂カロリー過多なので、別の飲料などと混同されにくいように特徴的な形の容器が推奨されていて。カーヴェは細く尖った小瓶に手を伸ばすと、躊躇いなく中身を煽った。栄養剤のべったりとした甘さの中に混ざるわずかな薬草らしき苦味が、あの心優しい友人のバイカラーと親切な忠言を思わされて口の端が歪む。
    笑みともつかない何かを形取って強ばる頬を両手で揉み込んだ拍子に、指の間に引っかかっていたそれがかさりと音を立てて落下し、衝撃に耐えられずつま先の傍でパラパラと砕けるのを見下ろした。水分を失い、彩りを失い、変色してただのごみと化した花の残骸。絡まった髪の毛を手櫛で整えるように撫でると、同じものがいくつも手のひらに引っかかる。千切るように払い落としてややもすると小山のように積み上がりそうなそれを、靴の裏で念入りに押し潰し、引きずった。「花食み」の言動などによって精神的ショックを受けた「花生み」は、バースレスといって花を生み出せなくなってしまう症状になることがある。これはブートニエールが成立している状態の「花生み」にも起こりうるが、時にブートニアと呼ばれる彼らの多くはパートナーに傷つけられた際、愛を求めて相手を誘引しようと本能が働いて過剰に花を生み出し衰弱してしまう傾向がより発現しやすいのだという。少なくとも、ブートニアでない「花生み」がガーデニング(過剰に花を産出すること)した事例は確認されていない。
    だから。
    「ぼくは、ちがう」
    枯れ落ちて意味も価値も無くなったとしても、別の物に変質していても、どんなにごみのようでも、それが花に連なるなにかであるなら。自分は決してバースレスなんかじゃないのだと言ってもいいはずなのだ。
    だって、そうでないならあの頃のカーヴェは、僕らはいったい何だったというのだろう。

    「ぅ、わ?!」
    「あわわわわわ」
    その日の夕飯作りのため、あれやこれやとレシピを頭に浮かべながら店を覗いていたら突然上から山盛りの花束が降ってきた時、人間がとれる行動なんてのは限られている。少なくとも、カーヴェは目を瞑って首を竦め、軽くて柔らかいそれらがばさばさと肩を滑り落ちていくのをただやり過ごすことしかできなかった。
    「だ、大丈夫かそこの人、ってカーヴェ?!」
    「わーーーっ!本当にごめんなさい!」
    「いや大丈夫……ああ、なんだ、あなたたちか」
    くすぐったいだけの衝撃が止まってから、ぴゃあぴゃあ慌てる二つの声に既視感を覚えて目を向けると、上層の手すりから身を乗り出してカーヴェのことを見下ろす知己の姿があって、自然と胸を撫で下ろしてしまう。
    上下に広いスメールシティではこういった物体の落下事故も少なくないのだが、シティ上部にある施設といえば教令院なわけで、あまり自身の境遇をひけらかしたくないカーヴェにとっては純粋な眼差しで見てくる後輩たちは鬼門に等しい。もし怪我の心配から慰謝料だとか示談だとかでプライベートに突っ込まれ、それで居住や緊急連絡先なんかが割れかねないとなれば、相手に下心が無いぶん後ろめたさで居た堪れなくなるからだ。その点、様々な事情が既に割れてしまっている旅人たちなら気を揉む必要も無くていい。
    「ええと、配達か何かかな?よければ手を貸そうか?」
    わたわたと駆け足で下まで降りてきた二人が両手いっぱいに抱えた花束と、足元に散らばったこれまた両手いっぱいに抱えそうなほどの花束を見て、思わず口を出した。拾い集めながらどんどん埋まっていく自分の腕の中に、やはり圧倒的に人手が足りていないと思う。これら全部を持っていたのなら確実に前が見えていなかったに違いない、というほどの総量だ。
    ちなみにだが。決して長い付き合いとは言えない間柄にも関わらず、旅人たちという生き物は小さな川沿いの村で人助けをしていたはずがいつの間にやら、気付かぬうちに森の民と共に人知れず世界の危機を救っていた、ぐらいのスケールの出来事にはしょっちゅうぶち当たるのだということをカーヴェすらも知っている。なので、二人がモッサモッサと花束に埋もれていても、また何か巻き込まれに行って大変そうだと思いはすれど特段おかしいとは感じないのだった。閑話休題。
    「ありがとう。けど、大丈夫」
    「そうだぞ!それに、これはオイラたちに任された任務だから、そこまで手伝わせられないぜ」
    責任感の滲む笑顔に促されて、ただでさえ山盛りになっている花束たちの上に集めた分を追加すると、カーヴェからはもう金色の目しか視認できなくなる。なおも心配ではあったがしかしそれ以上踏み込むことも気が引けて、お礼とお詫びにと山からひと束わけてもらった花を手に短い邂逅への別れを告げた。遠ざかる背中が見えなくなり、ふと目線を落として甘い香りの発生源をぼんやりと眺めていれば、唐突に過去が今に追いつく。四枚ある花弁のうち、外側の二枚が大きくなる白い小花がいくつも集まってぐるりと株を囲み、花房を形成する砂糖菓子の花キャンディタフト――花言葉は「心を引きつける」に「無関心」、そして「初恋の思い出」。カーヴェにとってまるで誰かさんの権化みたいな花言葉をもつそれは、皮肉にもちょうど彼の人の誕生花でもあることを知りたくもないのに忘れられない。
    無味乾燥な同居人を「ただの」という冠詞を付けるには問題がありそうだが、まだ友達と呼べた頃の話だ。知恵を尊ぶスメールにおいて、いや少なくとも教令院において突出した才能があることは非常に有利に働く。優秀を求める探求者たちの集うところがあり、精神的な安定を欠きやすいとはいえ能力面に秀でることの多い「花食み」なんて人種がいれば、自ずと見えてくるものがあるだろう。では対として語られる「花生み」はというと、それもまた自然の摂理なのか惹かれ合う運命にあるのか、群れには同類が屯するものなのだ。つまり、知恵の神が治めるこの国には花体質が自然と寄り集まっており、テイワット全土で比較すれば希少な種と言い切るのを躊躇うほど、その存在が広く深く馴染んでいる。しかしまあ、真理に近づこうとする者が必ずしも愚者でないとは限らないもので、中には「花生み」を自分たちのペットか養分に過ぎないと考える傲岸不遜な「花食み」が居たりするものだから、他人と波風立てるのを好まないカーヴェは当時せっせと頭髪の毛先に咲く花を毟っては捨てていた。とはいえ、内的要因に影響されやすい花体質ゆえにどれだけ朝の身繕いをしようと不慮の事態はあるもので、うっかり三輪ほど花を頭にくっ付けたまま講義を受けたのは一度や二度どころではない。
    しかし、幸運にも特定一名以外に体質が露呈したことがなかったのは、教令院の悪習が原因のため喜んでいいことなのかは判断しかねるが、毎年論文やレポートに行き詰まった院生が近場であるラザンガーデンの地面に横たわり身も蓋もなく虚無に浸るせいで、何かの植物を全身に引っ掛けていようと気にもとめられないせいだろう。純粋に現地調査で身を汚している可能性とて低くはないのだが、そういうのは基本的に泥まみれと称したほうが的確な風体になっている場合が高い。時にはガーデンの水場に突っ込むような気狂いも居て、院生はそれを「オフィーリアが出たぞ」なんて言う。とある有名な戯曲を元にフォンテーヌの画家が描いた絵を準えた表現で、近年芸術に対する意識の低下が著しいスメールにおいても広く知れ渡っているのは悲しいことに知識が何物にも代えがたい財産であるためだ。そのものに対する評価如何はともかく、知っていることが多いほど優秀の証明となるので。頻度は一年間に三回目となると今年は多いなんて声が聞こえてくる程度で、比率としては低いため問題にはならないのが救いか。今のところは、と注釈がつくが。あまりにも体裁を投げ捨て過ぎていると他所の人間は眉を顰めることだろう。しかし、礼節を知ることは人生を豊かにするが、こと教令院生に限って真理への探求は人生を貧しくさせないための生命活動として組み込まれているから、これは致し方ないことなのだった。
    そういうわけで、あの頃カーヴェが「花生み」であることを知っていたのは、家族を除けばかつて友達だったアルハイゼンただ一人。現在では栄養剤を融通してもらう関係でティナリもその数少ない内輪の人間だが、彼には自ら事情を打ち明けたため、今もなお正真正銘カーヴェの隠し事を暴いたのは仏頂面で利己主義の可愛らしかった後輩その人だけなのである。
    「きみは『花生み』で合っているか」
    ある日、突然そんなことを面と向かって訊ねられた衝撃がまったくどれほどのものだったか、カーヴェは事ある毎に問い質しては迂闊だ浅慮だと何倍もの言葉の矢で刺し返され、曰く風スライムのようにポコポコと怒りを溜め込んで騒ぎ立てたりもした。しかし、なんだかんだ結局二人は収まるところに収まったのだ。一度は、そしてお互いに。
    意外と言うべきか、やはりと言うべきか、ブレることなく自己を確立していながら非常に優れた才を有するアルハイゼンは直後、なんと自身が「花食み」であると宣った。まさかと驚きつつもなるほどと首肯するという貴重な経験は、後にも先にもあの瞬間だけであれと願いたいものだ。その頃には共同研究の話も持ち上がっていたくらい仲がよかった(少なくとも当時のカーヴェはそう信じていた)から、二人がヤドリギになることを選択したのはさも自然な流れであり、ここに相互扶助の関係が成立したのである。以来、引力が作用するようにグンと距離は縮まって、気づけばカーヴェはどうしてかアルハイゼンに花を摘まれるついでに髪を梳られるのが日課となっていたし、アルハイゼンが体液摂取のために口づけを与えるたびカーヴェの身体は骨が抜かれたようにふにゃふにゃと頼りなくなってしまった。肉体的な接触は心理的な緊密を錯覚させ得る。故にカーヴェは後輩の全てが分かる気でいたし、話し合いで全てが共有できると盲信していたし、見据える方向も目指す理想も全てが共通項とばかりに遂には言葉にせずとも、既に二人はヤドリギではなくブートニエールになれているのではと愚かな夢すら描いて――結果として、その虚像は完膚なきまでに打ち砕かれることと相成ったのだ。

    せめてルインであったなら、とみっともなく縋る気持ちが頻繁に湧き出ては胸をちくちく刺すようになってから、枯れた花弁を処分する回数が目に見えて増えたと頭を抱える。先日のほんの些細な切欠で、ずっと蘇りそうになるたび追いやって直視を避けていたくせ、あまりに鮮やかなままの傷が過去を飛び越えて退路を潰してしまったせいだ。誰が悪いのかと言えばもちろん逃げ続けてきたカーヴェ自身に非があるのだが、まさか未亡人の呼び名を冠するそれに手を伸ばす羽目にまでなろうとは……死別や離別でブートニエールを失った者など、大抵ろくな末路を辿った事例を耳にはしないのに。
    「おかえり」
    「た、……だいま」
    夕飯時を少しばかり回って夜の藍色に家の明かりが滲む頃、足早に帰路を歩く人の群れが幾分捌けた外を抜き足差し足で人目を避けつつ帰宅すると、微塵も嬉しさを感じ得ないお出迎えに遭って挨拶の言葉が喉に詰まりかけた。この時間なら食事を終えた家主はさっさと自室に引っ込んでいるだろう、という目算が外れるなんて寝耳に水だ。いやに聡い同居人の鋭い視線を浴びたくなくてここ数日、わざわざ必須でない現場まで熱心に足を伸ばして工事を見守ったり、クライアントの無益な誘いを受けて口ばかり動かしてみたりと、苦心惨憺したのだが。ジッとこちらを見つめる何を考えているのかちっとも読めない強い視線を、逃げたい気持ちを堪えて腹に力を入れながら睨み返す。ここで目を逸らせば、不審な様子を論ってある事ない事勝手に推察された挙句、我慢できずに反論した端からくどくどと批難が飛んでくるに違いない。
    五分か十分か、体感ではもっと長く経ったと誤認するほど(あくまで一方的に)緊張に満ちたやり取りは、前触れなく目を伏せたアルハイゼンによって不意に打ち切られて、カーヴェは物足りなさを覚えた自身に動揺した。しかし直後、深い意図もなく彼の目線を追った先でより大きな衝撃を受け、呆気にとられる事態になる。
    「シチュー……?」
    広々としたテーブルに並ぶ二人分の食事。それだけでも、自己中心的な生活サイクルを自発的に崩すことのない後輩が待ち惚けていたと、常に無い行動の証明として充分過ぎるほど脳を揺さぶる光景であったが、最も震天動地たる存在はメインディッシュの選定であった。普段、飯時にも本を手放したがらない彼は、書物と相性のよくない汁気のある料理を嫌う。それがどうしてシャフリサブスシチューなどという、空が割れて大地が衰亡しようとも万に一つとして欲する可能性のないものが、呑気にホカホカと湯気を立てているのだろう。混乱が極まって身体の上下左右すら覚束なくなりそうだった。
    「そうだ、バクラヴァもあるが」
    「ばくらゔぁ」
    既に脳機能のどこかが破壊されて馬鹿になったのか、かろうじて拾い上げた単語を復唱するばかりになった居候を一笑に付した男を咎め立てるのもすっかり忘れ、ソファに腰掛けたアルハイゼンにつられてカトラリーを手に取ったところまでは後に思い起こすに至った。が、ほとんど腰を抜かすように席についたらしいカーヴェには、正直なところ食事中の記憶が真っ白に欠落しており話題を顧みるどころかそもそも会話を交わしたかどうかも疑わしく、更には非常に残念なことに料理の味すら定かでない。
    ただ。それでも、あの利己主義人間が自身を気にかけていることと、やはり隠し事はできないのか不調を見抜かれていることだけは、テーブルに飾られたホスタの淡い赤紫と共にしっかりと脳裏に刻まれている。沈黙、落ち着き、変わらない思い。朝に咲いて夕方には萎れる一日花も、切り花にすれば長持ちしてくれるのだ。

    マハマトラに土日祝も週休も定休日も概念として存在しないが、マハマトラとて休日と有給休暇は知っている。ちょうどクライアントとの食事会を終えて食後の一杯をのんびりと傾けていたカーヴェは、新たな来客が鳴らすドアベルの音にふと視線を上げて、店にやってきたのが見知った顔であると気づいて手を振った。
    「やあ、こんにちは、セノ」
    「こんにちは、カーヴェ。もう食べ終わった後か?」
    「生憎とね。でも、よければ少し話さないか」
    もちろんだ、と頷いた友人が店員に注文を頼んでから正面の席に陣取るのを待って、あれやこれやと近況を話題に上げれば会話は尽きることを知らない。これは致し方ないのだが、ここには居ないティナリやアルハイゼンを含むなんだかんだで交流のある四人は、職業柄なかなか休みが合わず、特にマハマトラとして日々国中へ目を光らせているセノは一番融通が利かないため、お互い溜め込んできた饒舌が毎度のように発揮されるのである。大きなものでは、まだ記憶に新しい学院祭の出来事やその後の余波について、小さなものなら趣味や、職務上の規則や関係者のプライバシーに抵触しない範囲での愚痴。多岐に渡る話のタネを植えては咲かせ、わずかな合間に運ばれてきた料理に手をつけたり喉を潤したりしながら、時間をかけて食器を空けていく。咽喉を使用する優先度として呼吸の次に討論がくる学者とかいう生き物がありふれているせいもあって、スメールの料理は出来立てアツアツの状態で出てくるか、冷めても味が変わらないように工夫が凝らしてあるか、そもそも冷めているのが完成形かの三択しかない。雨林地帯と砂漠地帯が並ぶ土地とくれば、衛生管理的にも加熱処理が重視されるのだから自然とそうなるという理由もある。
    カーヴェにとっては予定外なものの結局二人揃ってコーヒーを啜りながらハニートゥルンバをデザートにつまむ頃、先程まではまったく気にも留めていなかったが、不意にセノらしくなく平常と比べて大荷物な様子が興味を引いた。探りを入れようなんて心積りもなしにそれらを視線で撫ぜ、ハッと息を飲む。他に紛れるように置かれている上際立った特徴こそ無いが、カーヴェにも覚えのある包装が施されたショッパーバッグは何を購入したのか見る者が見れば一目瞭然だ。花にしろ栄養剤にしろ求めるものは個々で異なるだろうが、総じて花体質専門の商品を取り扱う店のそれである。思わず驚いて動きを止めたのを目敏く見抜かれて、凝視した先を一瞥した友人はこちらへ真っ直ぐにコーラルの瞳を合わせると、無言で小さく頷いた。
    「すまない……無断でプライベートに踏み入ってしまって……」
    「気にしなくていい。必要以上に隠しているわけでもない」
    ありがたくも不躾を許容され、その流れでお互いに土か鳥かと周囲を慮りつつ確認をとり、苦労をするなと微笑みを交わした。この場合「花生み」を植物の育つ土壌に、「花食み」を啄む側の鳥に見立てている。敢えて声高に花体質をひけらかす者もいるが、そういうのは往々にして厄介事ばかり呼び込むと相場が決まっているのだから、ごく普通の良識ある花体質はあまり吹聴しないものだし、逆に検討がついたとしても早々相手を問い質したりしないものなのだ。そう、普通は。
    「お前に聞くことじゃないのを承知で言うが、あいつ、同居人は元気にしているのか」
    そういえば、の接続詞に続いて突然議題に上がってきたアルハイゼンの名に、カーヴェはきょとりと首を傾げてしまった。それを受けて言い出したセノも不思議そうに頭を揺らしたので、二人の間に浮ついたおかしな空間が一瞬だけ形成される。
    セノ曰く、昔はたまに店で見かけることがあったのだそうだ。しかしここ数年、タイミングの問題なのかアルハイゼンとは一度も遭遇した覚えがなく、だからといって大丈夫なのかと直接訊ねるのも奇妙に思えて、マハマトラやビマリスタンの世話になることがなければいいと少々気を揉んでいたらしい。確かにいくら安定した精神を保つことが得意だとして、あの無愛想な後輩も「花食み」なのだから不調な時に花を買うことくらいあるだろう。ましてや、家に居候を抱えているのだからブートニエールを結んだ誰かがいるとは考えにくいし、外出頻度と性格を考慮してもヤドリギですら可能性は高くない。けれどカーヴェの頭は、そんなまさかという思いでいっぱいだった。裏切られたとさえ感じた。とっくのとうに、二人にはもう何の関係もないのに。
    申し訳ないけれど、という前置きと共に「詳しくは分からないが、少なくとも不健康そうに見えたことはない」と告げると、そうかと頷きが返された。あれだけ目立っていたのが居なくなって逆に気がかりだったが、元気そうなら問題ない、と。
    「目立つ?」
    「ああ……そうだな、お前ならいいか。あいつはな、いつも赤いカルミアしか買わなかったんだ。店に無ければ注文だけして、そのまま帰ることすらあった」
    その時カーヴェが感じた衝撃を、どう言い表せば十全に伝わるだろう。
    とにかく気が動転していたことと、困惑と混乱を含んだ期待を戒めるのに忙しかったことと、とりあえず会話を続けなければという焦燥に駆られていたことが重なって、無用なお節介を焼いてしまったと自覚したのはそれを口にしてからだった。
    「そ、そうなのか!ええと、あれだ、必ずしもブートニエールであれとは思わないけど、きみに幸せの花が降るよう願っているよ!」
    前後の繋がりが一切不明な混沌とした返答を受けて、戸惑いに満ちた表情で「お前にも幸せの花が咲くといい」と言い切ったセノの口は、さすが教令院の卒業生である。なおこれは別に、ついでとはいえお零れに与っている身で訊ねられていない、ティナリが栄養剤を自製することに対するわざわざどうしてという疑問とは決して関係がない。ないったら、ない。

    ここ最近、思い悩んでは驚かされてを頻繁に繰り返しているせいで、妙な気疲れがじりじりと尾を引いている。充分な睡眠時間を確保したり、昼間はなるべく活動的でいるようにしてみたりと、試行錯誤はしていても寝入りは兎も角として寝起きがすこぶる悪い。それで重たく感じる身体を抱え、こまめに三十分程度の仮眠をとることも増えていたためかその夜ふと目が覚めてしまったのは、後から思えば幸運と言えるのやもしれなかった。
    瞼はぴたりと張り付いたまま開く気配もないが、薄ぼんやりと肌に触れるシーツの滑らかや適度に反発するマットレスの弾力を意識の端が捉え、冷えた静かな空気に未だ宵の闇が深いことを悟る。このまま滑り落ちるように再び安らかな眠りを迎えられることを祈っていると、かちゃりと今の時分でなければ聞き逃したであろう小さな音がして部屋の扉が開いたのが分かった。泥棒という可能性も選択肢に無いでは無いが、近付いてくる気配が馴染み深いものだとすぐに理解したカーヴェは、知らずのうちに握り込んでいた拳を緩めて音の正体を待つ。すると横向きに寝ていた自身の背中側がベッドのスプリングが僅かに軋む感触と同時に沈み込んで、アルハイゼンがそこに腰掛けたことを教えてくれた。こんな夜更けにいったいどうしたというのだろう。まさか、ちゃんと眠れているか見に来たとは言うまいな。そこまで考えて、動かない首を振る代わりに口角が歪みそうになった時、するりと髪の間を通るものがあって心臓がどくりと強く跳ねる。
    頭を撫でているわけではない。いくらかの間隔を空けて、器用にも直接頭部には触れないまま、同居人の指先が神経の通らないカーヴェの一部を撫ぜていくだけ。不可解な行動に脈拍が高まったことで自然と血が巡り出した身体が意思に従うようになり、そろりと瞼を上げて薄目で振り返った瞬間、思わずぎゃあっとそれまでの静寂に似つかわしくない悲鳴を上げてしまった。
    「んな、な、何をしているんだきみは!!」
    「うるさい」
    うるさい、ではない。確かに近所迷惑かもしれないが、今はそれよりも重要なことがある。もごもごと口を動かすアルハイゼンに向けて行儀悪く指差した手をガッタガタに震わせながら、それでも必死に声を荒げた。
    「たた、た、たべ、それ、花……!」
    なお文章として成立はしなかった。
    そう、何を隠そうこの傍若無人な後輩はなんと咀嚼していたのだ。カーヴェが、「花生み」が生み出した花――その残骸を。器のように軽く曲げられた手のひらにまだ乗るいくつものくしゃくしゃな茶色を見て、我慢できずにバチンと叩き落とした。そんな枯れてごみと化したものを食べるなんて、と眩暈にふらつき一度は飛び起こした身体を丸めて呻く。
    「きみは何がそんなに気になる」
    「何がって……」
    まず、断りもなく勝手に花(残骸だが)を食べていたことが一つ。既にヤドリギでも、ましてやブートニエールでもない、ただの同居人である赤の他人にしていい行動じゃあない。そして枯れた花を食べていたことが一つ。自身の我儘で専門医にかかっていないカーヴェが把握できていない現象を、どうして警戒していないのがもう有り得ない。最後に、現状に至るまでの経緯と理由が分からないことが一つ。何があって、何を思って、何の為にそうしたのか。
    頭を抱えてぎゅっと目を瞑って身体を縮こまらせるカーヴェの髪に、再び触れるものがあってまたその手を振り払う。やっと諦めたのか腕組みをして、アルハイゼンはひどく呆れた様子で大きなため息を吐いた。こちらが悪いのだという態度を前面に押し出しているのが大変気に障る。まるで覚えの悪い子どもに教えるように、まずは、と人差し指を立てた手が目の前に突きつけられたのを合図に突発深夜ディベートの火蓋が切って落とされた。
    「きみは断りもなく勝手にと言ったが、そもそもそれを許可したのは以前のきみ自身だ」
    「それは僕たちがヤドリギの関係だった頃の話か?だったら無効だ、既に僕たちはそうじゃないだろう」
    「そうじゃない、とは?きみとの関係を切った覚えは無いし、きみから関係を破棄するという言葉を聞いた記憶も無い。ならば未だ契約は続行、許可も有効というわけだが」
    カーヴェはぐっと息を詰まらせて口を噤んだ。第一戦、アルハイゼンの勝利。
    「『花生み』が生み出した枯れた花なんてものを、警戒心もなく口にする短慮は責められて然るべきだと思うが」
    「ドライフラワーを知っているだろう。きみは日頃からあれらを価値あるものとして扱う。そしてドライフラワーは結局、瑞々しさがなくなって乾燥した状態のものを指すのだから、枯れた花ともそう変わらないだろう」
    「話をすり替えるな、ドライフラワーなら食べていいかじゃなく原理の解明されていない危険物に手を出す是非を問うているんだ。それと、きみが本当に心の底からそう考えるのなら、それをティナリの前で言ってみるといい!」
    アルハイゼンが目を閉じて無言を貫いた。第二戦、カーヴェの勝利。
    「最後の議題は簡単だ、一番初めの答えと同じことが言える」
    「……確かに僕は昔、きみが花を食べたいと思った時、いつでも僕を好きにしてくれていいと言った。けど、だからって一度喧嘩別れした相手との関係を以前と地続きに考えられるのか?ブートニエールでもなければガーデニングにもなってないから?枯れた花でも咲いてりゃバースレスですらないって?それで僕が居候として居着いてすぐ、店で花を買うのをやめたと?またヤドリギがいるから問題ないと考えたわけか?」
    「カーヴェ」
    「ぼくは!きみと違って、はいそうですかと受け入れられるほど切り替えが上手くないんだ、生憎とね!!」
    くわん、と頭の奥で自分の咽ぶような叫び声が反響する。唐突な静寂が耳に痛い。ゼェゼェと肩で息をするカーヴェをしばらく見つめたアルハイゼンは、斜めに目を逸らすと「セノか」と舌を打った。
    カーヴェの「花食み」が買っていたという赤いカルミアの花は、教令院生時代からアルハイゼンの「花生み」がよく咲かせていた花だ。合着して一枚に繋がった花弁の先が浅く五つに裂け、五角形の器に近い形をした合弁花冠を持つ低木植物で、ショートケーキの飾り等に見られるギザギザの雫型のような星口金のポッシュ絞りで出来たホイップクリームにも似た、可愛らしい蕾をつけることで知られている。花言葉は「大きな希望」や「にぎやかな家庭」といった前向きなものと、それとは反対に「裏切り」という負の意味も持ち合わせており、今やただのごみとなった花殼のそれも一応はカルミアなものだから、どうあっても相応う花には違いないらしかった。一口に赤と言ってもその色合いは様々で、カーヴェは自身の瞳と同じ濃い赤色の蕾と薄い朱色の花弁を生み出してしまうので、当時から殊更に頭髪への注意を払うようになって――つまりはそう、以前はまったく異なる花を咲かせていたのだ。ブートニエールにある「花生み」が伴侶たるラペルを想ってそれまでとは別の花を生み出すことは、実はそんなに珍しくもない。あくまで、当事者たちがブートニエールであるならば。本来、ブートニエールが成立するにはまず「花食み」がその申し出を行い、相手の「花生み」がそれを心から迎え入れた時に生じたつるバラを、棘によって傷つくことを厭わず摘み取って食べるという手順が必須となる。それら全てを一足飛びに置いて、アルハイゼンのための「花生み」へとひとりでに変化してしまった自分を、カーヴェは独り善がりの愚物と思いたくなくてずっと見て見ぬふりを続けていた。それもここにきて背水の陣に追い込まれ、きっといよいよ自滅の道へ踏み出したのだろう。
    「そうじゃない」
    そのとき小さな、本当に小さな声が零れ落ちた。
    「きみが何をどう考えているか、ずっと予測することしか出来なかったが先程の言葉で大方理解した。俺にとって、俺たちの関係はきみが想定するものとは異なっている」
    カーヴェは初め、空耳か何かだと思った。次いで、その後に同じ調子の音が続いたことでようやく、それが目の前の男の声だと認識するに至る。口調はいつもと変わらないそれだが、声音があんまりにも常との差があるせいで、まるで慇懃無礼な後輩がすっかりしょぼくれているかのように見えてしまう。きょとんと呆けた顔で、虹彩の外輪から瞳孔へと別の色が層を成していく瑪瑙が真っ直ぐに自分へ刺さるのを、只々受け入れることしかできない。
    「僕たちの、関係?」
    「ああ」
    相槌を打ったアルハイゼンは、少しだけ間を置いて迷うように視線を彷徨わせてから、再びカーヴェを見据えるとゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。
    「俺はあの頃から、きみと俺がとっくにブートニエールであると考えていたし、ずっと今も解約されていないと思って行動していたよ」
    それはカーヴェにとって福音の言葉だった。
    自分が足を着けたのは自滅の道などではなく、ただ迷子になって袋小路を回っていたのだと手を引かれた気持ちになった。ほんとうか、と震えた息は音にならなかったが、違わずに拾い上げたアルハイゼンが勿論と頷いたことで身体から力が抜ける。強張りが解けて血が通い、指先が痺れるように痛痒くなっていき、同時に縮こまって押し潰されてぐちゃぐちゃに絡まっていた心が緩んで、外に大粒の涙となって流れ落ちていく。節くれだって硬いペンだこのあるカサついた指が何度も目の下を拭って、やがてその行為に意味が無いと悟ったのか、両の頬を大きな温かい手のひらで包み込まれたのを自身でも上から重ねてぎゅうと押し付けた。指の間を塩水が伝いどちらの手もべたべたに濡れてひんやりとしたが、それ以上に二人ともが熱を発している。
    「だって、僕はきみにプロポーズされた記憶はないし」
    「うん」
    「つるバラを咲かせたこともないし」
    「うん」
    「だから食べてもらってもないし」
    「うん」
    ぐじゅぐじゅ鼻を啜って時折唸り声のような音を喉から漏らしながら、呂律の怪しい言葉で詰ってみせてもいつになく穏やかな返事ばかりが降ってくるせいで、いい大人が遂には幼子のように声を上げて泣き出す事態になった。今この時こそ何も言わずに親指で宥める仕草をしているが、こんなもの絶対に後で揶揄われるし、なんならこの先ずっと何度も擦られ続けるだろうし、いっそ酒でも浴びて忘れてしまいたいくらいだ。そう思ったが、しかしこの後の言葉だけは忘れたくなかったから、諦めて今後とも風スライムになってやる腹積もりを覚悟する。
    「今、改めて言う。カーヴェ、俺のブーケになってくれるか?」
    「う、ん。もちろんだ、僕のラペルになってくれ、アルハイゼン」
    そうして、変化は劇的だった。髪の先で萎れていた花がパラパラと崩れ落ちて、新しく生まれ変わる。茶色く褪せた赤の代わりに細長い薄黄色が見え始め、僅かに色づきを深めたところで時を待つように成長を止めて今か今かと言わんばかりに膨らみかけた蕾が上を向く。次にさながら花冠が如く頭部を蔓が覆い出し、なおも伸び続けるそれがカーヴェの肩を過ぎて垂れ下がった。隙間から隠された表情をギリギリで窺えないあたりが、バージンロードを歩んできた花嫁の純潔を示すウェディングベールを思わせる。これからその手で顕にする為のものだと見せびらかすようで、片や恥じらいに目を伏せ、片や高揚に息を飲んだ。固く閉じた蕾がぽつぽつと増えてくると、時間をかけて少しずつ綻んでいくのがどちらにとっても焦れったい。やがてそこに花開いたいくつもの真っ赤な薔薇が美しく咲き誇り、葉の緑色と対比して互いの彩りがより際立つ。
    金の「花生み」が生んだつるバラを、銀の「花食み」が口を寄せて摘み取る。ごくりと喉を鳴らしてつがいの証を飲み込んだ後、柔らかい手つきでベールアップのように顔にかかる蔓を横に流して目を合わせたアルハイゼンは、頬を薄紅色に上気させた天衣無縫の先輩がきらきらと潤んだ瞳に瞼を下ろすのに合わせ、棘で傷ついて珠のように鮮やかな血の粒を乗せたままの唇を隙間なく重ねた。
    第三戦、双方棄権により引き分け。無効試合だ。

    ブートニエール直後の「花生み」はブーケトスに陥りやすい。蝶すら引きつけるほど濃い花の甘い香りを漂わせ、それを嗅いだ人間へと多幸感をもたらすこともあるくらいだ。体質によっては、普段の生活でも幸福感が高まるとこの状態になる者もいるという。ふわふわと真綿に包まれる心地で微睡みに浸っていたカーヴェは、ふと頭皮を撫でて髪を梳いていく指先の感触に瞼を持ち上げる。振り返ると、軽やかな朝の日差しを背景に、真顔で瑞々しい黄色の花をもぐもぐと咀嚼する同居人が見えて呆れた。
    「おはよう……なに、食べてるんだよ……」
    「ああ、おはよう。何とはおかしなことを聞く」
    手に持った花の根元を摘んでくるりと回した後輩が、首を傾げて意地の悪い顔で見下ろしてきたことに脳が警鐘を鳴らす。ああ、こいつ。
    「ヘメロカリス。別名デイリリーとも呼ばれる一日花で、ユリの仲間だ。一般的に白や赤、ピンク、オレンジと多種多様な色の種類があり、大体六月から七月の間に見頃を迎える」
    「いや、」
    「花言葉は多く、『取り留めのない空想』や『一夜の恋』などの浮ついた言葉を始め『愛の忘却』といったマイナスイメージが強いものがあるが、逆に『苦しみからの解放』や『憂鬱が去る』というプラスイメージの言葉も持つためプレゼントに適さないこともないだろう」
    「ちょ、っと待っ」
    「特にこのステラデオロという品種は珍しい二重咲きで、先端が丸みを帯びた黄色の花弁をつける。カルミアばかりを咲かせるようになるよりも前、過去のきみがよく頭にくっ付けていたのがヘメロカリスだったが、この種ではなかったな」
    「アルハイゼン、きみ」
    もしかしなくとも頗る機嫌がいいんだろう。そういう時はひどく饒舌になるし、ついでに人を揶揄うことに積極的になる。この場合、大抵カーヴェはろくな目に合わないし、結局やり込められて地団駄を踏む羽目になることも少なくないのだ。どうにかして一方的な会話を遮ろうと名前を呼んだ瞬間、すうっと瑪瑙の瞳が細められたせいで口の端が引きつった。失敗した、逃亡不可だ。
    「そういえば、ステラデオロはある地方の言葉で『黄金の星』という意味だ。我らが大建築士様はたいそう自信家であらせられる」
    「き、君ってやつは……!」
    本当に、これだから、我々の書記官様は授業がお好きで困る!!
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