夜更けの約束夜中に目が覚める。
カーテンのない窓から差し込むネオンの明かり、酔客の喧騒。
湿って澱んだ水の匂いと、古い家屋の埃っぽさ。
一瞬、自分がどこにいるか思い出せず息を詰め身構えた趙は、すぐ隣から聞こえた呑気なイビキで、自分の置かれた状況を思い出した。
隣で警戒心もなく寝ているのは、春日一番の仲間で元刑事の男だ。
そしてここは、春日と仲間たちがアジトとしているバーの2階の部屋だった。
複数の人間の寝息を感じ、危険はないと判断した趙は、息を吐いて両手を頭上に投げ出した。
雑魚寝なんて、何十年振りだ。
流氓の総帥になってからは、きっと一度もない。
布団も毛布も人数分などあるわけもなく、狭い部屋でいい年をした男たちがぎゅうぎゅうになって眠っている状況に、そしてその中に自分も含まれていることに可笑しくなって笑いそうになったところで、放り出した手に誰かの手が重ねられた。
「…眠れねえのか」
低く潜められた、春日の声だった。
足立と反対側に寝ていたのが春日であること、そして春日が目を覚ましていたことに気づけなかった自分になぜか舌打ちしそうになったが、ぐっと堪えて重ねられた手を軽く握り返す。
「ごめんね、起こしちゃった?」
眠りの浅い男なのか、それとも自分に対しまだ警戒心があるからなのか判断がつかず、答えをはぐらかした。
しかしそれにしても、この手はなんだ。
差し込むネオンのせいでほのかに明るい室内で、身じろぎした春日がこちらに体を向けたのがわかる。
手は握ったままだ。
もっと乾いた手をした男かと思っていた。
寝苦しさのせいなのか、警戒して緊張しているせいなのか、しっとりと湿って熱いくらいの体温を伝える手が、自分の手を包み込むように握ったまま離さない。
離してくれと言うのも何か癪に触って、されるがままになっている。そんな自分にも少し腹が立つ。
「どっか、痛むか…?」
再び重ねられた質問の意味がわからず、思わず趙は春日の方に顔を向ける。
そこには、警戒もなく、本当にただ心配そうに眉を下げた顔があった。
「…痛いって、なにが…?」
問い返しながら、自分の身に何があったかを思い出す。
慶錦飯店での拷問のことを言っているだと思い至り、春日はそれを心配しているのだとわかった。
確かにまだ殴られた箇所は疼くし、治っていない傷もあるが、そもそも痛みには慣らされているし、慣れてもいる。
目の前の男の方が、よっぽど多くの傷や痛みを抱えているだろうに、こんな夜更けに他人に心配まで。
手まで握って。
「…春日くん、モテるでしょう」
「…はあ?」
先ほどからちっとも噛み合わない会話に焦れたように、春日が体を寄せてくる。
それを押しとどめるように、趙は重ねられた手を強く握り返した。
「…大丈夫だよ。環境変わりすぎて、寝付けなかっただけ」
半分くらいは事実であろう適当な返事をすると、春日からは疑うような気配を感じたが、ふっと息だけで笑い、誤魔化されたふりをしてくれた。
「マフィアのボスだもんな」
「だった、ね。もういいから寝るよ、みんな起きちゃうでしょ」
薄暗く狭い部屋で、体温を感じるような距離でひそやかな声で続く会話がくすぐったくて、趙は会話を終わらせようと目を閉じる。
「起きねえだろ…。せっかくだからもうちょっと話そうぜ、趙」
引き下がらない春日は、ずっと手を握ったままで。
「お話は今度、下で飲みながらにしようよ。寝るよ」
「…約束だぞ」
そう言って、春日は重ねた手の小指を探って、ぎゅっと強く掴んだ。
鼓動が跳ね上がりそうになるのを、プライドと意地で必死に押しとどめる。
動揺を顔には一切出さないまま、趙は春日の方に顔を向けて、唇に人差し指を当てる仕草をした。
薄闇でそのジェスチャーを見ていた春日は、嬉しそうに笑って、ようやく目を閉じた。
手は握ったまま。
春日から規則だだしい寝息が聞こえて、ようやく趙は、ぐったりと体の力を抜いた。
何をこんなに緊張しているんだか、と自嘲めいた笑みを浮かべ、それでも握られた手を振り払うことはしないまま目を閉じる。
重ねた手から流れ込む春日の体温に眠気を誘われて、気がつけば朝だった。