ソンヒとヨンスの話夕暮れ時、帰宅するサラリーマンや学生の間を、ハン・ジュンギはゆっくりとした足取りで歩く。
家路を急ぐごく普通の人々の間を歩く自分にまだ慣れない。
春日一番や、その仲間たちと異人町を歩くときはそれほど感じないが、一人でこうして日のある時間を歩くときはより強く居心地の悪さを感じる。
ずっと夜の、それも人気のない道ばかりを歩く人生だったから。
手にぶら下げた紙袋が、カサカサと音を立てる。
横浜流氓の元総帥であり、今は春日の仲間となった趙に、彼らがアジトとして使っているサバイバーの二階で「いなり寿司パーティー」をするから来いと意味のわからない誘いを受けたのは数日前。一連の騒動が収まった後、顔を合わせる機会が減っていた中の誘いに戸惑いもしたが、横で聞いていたソンヒが「行ってこい」というので参加することにした。
久しぶりに仲間が全員が揃い、いなり寿司を作りながら酒を飲んで雑談をするだけの集まりなのに、思いのほか楽しんでいる自分がいて、彼らと接するようになってから本当に変わったと思う。
それが、いい変化なのか悪い変化なのかは、よくわからない。
変わったと言えば、趙の変わりようも自分以上だと思う。
異人三の一角を担う横浜流氓の総帥の座を辞して、なんの肩書きも持たない立場になった開放感からなのか、飄々とした態度は変わらないものの、雰囲気が格段に柔らかくなった。
さらに、事件がひと段落してから会うのは久々だったが、春日に対する態度が甘い。
今日も春日につきっきりで、ぴったりと寄り添っていなり寿司の作り方をレクチャーしていた。揚げの開き方、ご飯の詰める量、揚げの閉じ方。
慣れない春日が四苦八苦しながら上達していくのを、嬉しそうに幸せそうに眺めていた。
驚きを通り越して呆れた気分で「変わりましたね」というと、趙はくすぐったそうに笑いながら「悪い変化じゃないでしょ?」と言っていた。
そして「君も変わったよ。いい意味で」と言われたのは照れ隠しかと思ったが、やはり側からみてもわかるくらいの変化があったようだ。
「戻りました。遅くなりまして申し訳ありません」
未だ再建中のコミジュルの中枢部に戻り、ソンヒに声をかける。
「問題ない。楽しかったか?」
屈託なく聞いてくる主に頬を緩める。
本当は一緒に行きたかったと言っていたが、どうしても都合が合わずに諦めたソンヒに、土産の紙袋を渡す。
「お土産です。ご飯は趙や紗栄子さんたちが作ったのですが、揚げに詰めたのは私なので、不恰好ですが」
そう言うとソンヒは目を丸くして「お前が作ったのか?」と聞いてくる。
「はい。皆で作業を分担して、揚げにご飯を詰めるのは私と春日さんとナンバの役目でしたが、私が一番上手に出来たと思います」
誇らしげに告げると、ソンヒが目を細めて笑う。
「そうか。それにしてもすごい量だな」
紙袋から取り出したいなり寿司を見たソンヒに、まさか『ソンヒならそれくらい食うだろ』と持たされたとも言えず、ジュンギは「種類が多いんですよ」と答えた。
包みを開いてテーブルの上に並べながら、ご飯の具材の違いについて細々と説明し、仲間達の近況や、今日のパーティーでの様子を報告する。
足立が何枚も揚げを破いて紗栄子に怒られ、枝豆を剥く係にされたこと。エリがああ見えて大雑把な性格で、趙と紗栄子が慌ててフォローをしていたこと。春日とナンバと3人で、揚げに詰めるタイムを競って「食べ物で遊ぶな」と趙に怒られたこと。
ふと顔を上げると、面白そうに自分を見つめるソンヒの顔があって、なぜか照れくさくなり口を噤む。
「どうした?続きは?」
「いえ、あの…」
揶揄うような声音に、言葉が続かずに思わず俯く。
「…ソンヒ。私は、変わりましたか?」
ジュンギが意を決して問いかけると、ソンヒは目を丸くしたあと、ふっと息だけで笑った。
「…そうだな。変わったと思う」
「弱く、なったと思いますか…?」
自分が変わることが怖いわけでも、嫌なわけでもない。
ただ、それによって弱くなることだけは耐えられなかった。
「…ヨンス」
慈しむように、ソンヒが本当の名前を呼ぶ。
「…変わったのはいいことだ。弱くなどなっていない。むしろ、春日たちとの付き合いから、人間らしい感情を色々覚えて、お前は強くなったと思う。…そう変化させたのが私ではないことが、少し悔しいが」
最後は苦笑するように伝えられた言葉に、ぶわりと顔が熱くなる。
その様子に満足そうに笑って、ソンヒはいつの間に食べていたのか最後のいなり寿司を口に入れた。
「ところで、そっちの袋はなんだ?」
「え?ああ、紗栄子さんからソンヒへのお土産だと預かりました」
いなり寿司の他にもう一つあった、保冷バッグ。帰り際に紗栄子から預かったものだった。
「中身は?」
「え?見ていませんが」
そう答えてハッとする。紗栄子からソンヒ宛に預かった土産なのだから、自分が勝手に見るのは失礼だろうと考えた。しかし、コミジュルの総帥であり、横浜流氓をも預かるソンヒへ渡すもののチェックすら怠っていたことに今更ながらに気づき、絶句する。
「…申し訳ありません…」
肩を落として項垂れるジュンギに、ソンヒは今度こそ声をあげて笑った。
「いいんだ。それだけあいつらを信用していると言うことだろう?」
そう言いながらソンヒがバッグを開けると、中にあったのは保冷剤にグルグル撒きにされたふたつのプリンだった。紗栄子の字で『しょっぱいものの後は甘いものよね』と書かれたメモが入っている。
それを見て、少女のように笑ったソンヒに、目を奪われる。
姉のように慕い、忠誠を誓って来たこの人も、春日たちとの出会いで変わっていたのだとジュンギは今更ながらに感じた。
そして、本当にそれは悪い変化などではないのだと、改めて思う。
「ヨンス。コーヒーを淹れてくれるか?一緒にデザートにしよう」
「かしこまりました」
立ち上がり、コーヒーを淹れに歩き出した背後から、ソンヒの鼻歌が聞こえてくる。
初めて聴いたその鼻歌は少し調子が外れていて、気づかれないように笑った拍子になぜか泣きそうになってしまった。