二度目の朝。「はー、食った食った。美味かった、ごちそうさん!」
ラブホテルの一室。そこそこ激しい運動の後に、自分で頼んだピザを食べて、きちんと「ごちそうさま」と手を合わせる春日に、向かいに座った趙はゆるく笑った。
「ごちそうさま。美味しかったねえ。噂には聞いてたけど、デリバリーのピザって、こんな豪華で美味しいんだね。頼んでくれてありがと、春日くん」
「へへ、いんだよそんなの。あ、これチラシ入ってたからよ、あとで次頼むの決めようぜ」
「気が早いなあ」
小さく笑った趙は、立ち上がって空き容器やビールの缶を手早くまとめる。ホテルなんだからそのままでもいいとは思うのに、つい片付けてしまうのは性分だ。春日もビニール袋を出したりしながら、そんな趙を嬉しそうに見ていた。
「じゃあ、そろそろ時間だし、一緒にお風呂入って帰ろうか。」
キュッとビニール袋の口を縛った趙が、悪戯っぽい目をして告げると、春日は戸惑うように「えっ」と言ったきり黙り込んでしまう。
「ん?」
趙が促すように首を傾げると、春日は大きな体を小さくして、照れくさそうにもぞもぞとして口籠る。
「一緒にお風呂入るの嫌だった?」
そんな訳はないのはわかっていたが、促すために趙が少し不安そうにして告げれば、案の定被せる勢いで「違えよ!」と春日が否定する。
それでも口を開こうとしないので、趙は不安そうな演技を続けるが、だんだんと本当に不安になってくる。
無意識に拳を握ると、春日が慌てたようにその手を取って、観念したように小さく息をつく。
あんなに曝け出してセックスをした後でも、こんな些細なことで不安になる。そんな自分に苛立って、春日の手を振り解こうとすると、ぐいと体を引き寄せられた。
「…泊まってかねえのよ」
拗ねるように肩口に額を擦り付けてボソボソと告げられた言葉は思いもよらないもので、趙は目を丸くする。
「え?え?」
「え?じゃねえ。俺は泊まるつもりだったんだよ」
「え?そうだったのぉ?だって、明日もお仕事なんじゃないの?」
「別に、朝から行かなくても大丈夫だし」
口を尖らせる勢いで拗ねる春日に戸惑って、趙は宥めるようにその背を撫でた。
「…じゃあ、宿泊に変更してもいい?」
「当たり前だろ!」
「声でっか」
呆れたような物言いは照れ隠しで、耳が赤くなっているのをきっと春日には見抜かれている。その証拠に春日は熱を持った耳に音を立てて口付けて、背中に腕を回して体を密着させてきた。
バスローブ一枚の頼りない隔たりでは先程までの熱量を思い出してしまいそうで、趙はゆっくりと春日から離れ、スマホを手にした。
幸いなことに予約で埋まっていることもなく、そのまま宿泊へと変更することが出来た。
「ほんとは、ちょっと迷ったんだ。休憩か、宿泊か」
「宿泊でよかっただろ」
「うーん…。なんかさ、君のこと、独り占めしちゃっていいのかなって」
「はぁ?なんだそりゃ」
本当に意味がわからないというふうにきょとんとする春日の、汗で湿っていつもよりしっとりとした髪に触れる。
「みんなの勇者様でしょう、君は」
「でも今はお前の、こ、こ…」
「ん?」
春日に『お前』と呼ばれると、名前を呼ばれるよりも距離の近さを感じてくすぐったい。
しかも今は、何か躊躇するように口籠もって、いつもの明朗な様子とは違う顔を見せてくれているようで嬉しい。
その顔もかわいいなあと、趙が頬を緩めると、それに促されるように春日が口を開く。
「恋人、だろ」
ぽつりと呟かれた消えそうな小さな声に、驚きの声をあげなかった自分を褒めたい。それでも喉の奥がキュッと詰まって、趙は思わず肩を揺らした。
「…こいびと」
思わず声に出して呟くと、春日は不安そうに眉を下げる。
「やっぱ、違ったか…?」
「え、違わない!え?違わない…で、いいのかなぁ」
「いいだろ」
「いいんだぁ…」
突然のことにひとつも実感出来ずにぼんやり呟くと、春日が焦れたようにその体を引き寄せた。
「やっぱお前、あんまわかってねえよな」
「何が?」
大人しく腕の中に収まって聞き返すと、春日は呆れたような顔をする。
「俺が自分でも引くくらい、お前に執着してることだよ」
好きだでも愛しているでもなく、執着という言葉をぶつけてきた春日は、抱きしめた趙の背中を無骨な手で撫で下ろして、く、と尻を掴んだ。
「ちょっと、わわ…」
「今日はもうしねえよ」
慌てたように体をこわばらせた趙に、春日は小さく笑いながら告げるが、その間も尻をやわやわと揉み続けていた。
「くすぐったいよぉ…」
困惑したようにそう言いながら、趙は腕の中から逃げようとはせず、春日の言葉の続きを待った。
「…こっちでもな、お前に気持ちよくなって欲しいんだ。俺だけじゃ、なくてよ」
『こっち』と言いながら、趙の尻たぶに、春日は指を食い込ませた。
趙は目を丸くして、間近にある春日の顔を覗き込む。
「…まだ、良くはなってねえだろ?」
滑らかで触り心地のいい頬を何度も親指の腹ですりすりと撫でると、趙は困ったように眉を下げた。
「…そう、かなぁ?」
本心からよくわからないというふうな声を出されて、春日は思わず苦笑する。
「趙が、ちゃんと、気持ちよくなれるよう頑張るからよ」
「頑張るとこそこなの…?」
「当たり前だ。最重要じゅ、事項だろ」
「大事なとこで噛んじゃダメだよ」
「うるせえ」
春日は悔しげに悪態をついて、額をこつりとぶつけてきた。
「よし、風呂入ろうぜ」
「このタイミングで?」
片手で尻を掴んだままの春日に、趙が胡乱な視線を向けると「変なことはしねえよ」と言いながらも手を離そうとはしなかった。
そんな春日の額を小突いて、「まあ汗かいたしね」と笑って趙がバスルームに向かう。
自分から一緒に入ろうと言った手前、逃げ出す訳にもいかなかったが、バスルームに飛び込んで一人になった途端、趙は心臓がどっと脈打つのを感じた。
恋人だの、後ろで気持ちよくなれだの。
未だに自分の気持ちや感情すら掴み損ねている自分に、次から次へと爆弾を落としやがって。
趙は内心の動揺を抑え込むように、バスローブの前をぎゅっと握りしめる。
先に使用した際にざっと洗った浴槽にお湯を張り、入口にあった入浴剤のパッケージを眺めていると、待ちきれなかったのか春日が覗きにやってきた。
「お、マジででけえな、風呂。二人で湯船入れるんじゃねえ?」
「うん。ねえこれ泡風呂に出来るみたい。入れてもいい?」
「いいぜ。いいねえ、ラブホっぽくて」
にやにやと嬉しそうに笑う姿に「本当にラブホの認識古いよね」と趙は呆れて笑った。
「別にいいだろ。ラブホだけじゃなくて、俺は普通に恋人とするようなことのほとんどをしたことなかったからよ、嬉しいんだよ」
「ふうん。そりゃよかった。なんか悪いことしてる気がするけど」
苦笑しながら趙が入浴剤のパッケージを破り、勢いよくお湯を吐き出す蛇口の下に液体を垂らすと、あっという間にモコモコと泡が湧き上がってくる。
「すげえな」
目をキラキラさせる春日に笑いながらも、趙もこんな、恋人とラブホで泡風呂に入るだなんてベタなことはしたことがなかった。
お湯が十分溜まったのを見計らって、趙は春日からバスローブを脱がせ、自分も脱いでまとめて脱衣所に放り投げる。春日が慌てて下着を脱いで、行儀よくシャワーで体の汗を流してから湯船に滑り込んだ。
「あ〜、足伸ばして風呂入れるのいいよなあ、やっぱ」
しみじみと春日が呟く横に、同じように体を洗った趙がするりと湯船に浸かる。
ふわふわと漂う泡を捕まえて春日の髪に次々と乗せて楽しそうに笑うと、春日が苦笑する。
「社長なんだから、もっといいとこ住めばいいのに」
「なんでだよ。俺だって、お前とおんなじでナンバと三人での生活が気に入ってんだ」
お返しとばかりに趙の髪に泡を乗せる。
「春日くん、あんまり住むところにこだわりなさそうだもんね」
「まあ、こないだまでホームレスだったからな。屋根があるだけでも十分だ。趙こそ、あんな立派なとこ住んでたくせに、サバイバーみてえなボロい部屋で平気なのかよ」
春日の言う立派なところというのは横浜流氓の拠点である「慶錦飯店」のことだろう。確かに悪趣味なほどに贅を尽くしたあの建物の中で、総帥の威厳を保つべく、最上級の暮らしをしていた。
「豪華ならいいってもんじゃないよ。今になって思うと、俺、あの部屋死ぬほど嫌いだったんだなあ。それにサバイバーは確かに古いけど、汚くはないし居心地いいよ」
「へへ、だよな。安心したぜ」
「なにが?」
「出ていくんじゃないかって、ちょっと心配してたんだ」
小さく笑う春日の顔が思いのほかに寂しそうで、趙は驚きのあまり、春日の前に回り込む。
「ちょっと待って、なんで出て行くって…」
そこまで言ったところで、泡で視界の遮られたお湯の中、互いの下肢が絡まり趙がバランスを崩す。ぬるついた泡にも滑って、趙は予期せず春日にしがみつくように抱きついた。
「わわ、ごめん」
「大丈夫だ、役得だぜ?」
そう言って笑った春日が、自分の胡坐を跨ぐように趙を座らせる。
向かい合って密着する姿勢に趙が面食らっていると、春日が首の後ろを引き寄せて唇を重ねてきた。
何度が啄むように吸い付いたあと、舌を差し入れて、趙の舌を探るようにして軽く吸い上げた。
ぬるい湯船に浸かって泡まみれになってのキスは、なぜか官能的な気分を呼び起こし、趙は目を閉じて、春日の舌を甘く舐め返した。
どちらともなく切羽詰まったような、甘えたような喉声が漏れる。それにさらに興奮し、口づけを深くしながら泡でぬるつく互いの体を早急な仕草で愛撫する。
趙が背中に回した腕で肩甲骨をなぞって爪を立てれば、春日は胸に触れていた手で乳首を掴む。
「ん、あん…」
趙は、込み上げた声を我慢せずに漏らしてみる。それは熱気の籠った浴室に思いのほか甘く響いて、互いの劣情を更に煽った。
「趙…なあ…」
「だめ、しないって約束した」
「う…けど、けどよぉ…」
情けない声を出して、趙の腰を掴んだ春日は、その腰を引き寄せて揺らした。
春日だけでなく、趙のそこもゆるく兆している。ぬるついたお湯の中、互いの陰茎が擦れあい、二人同時に息を飲んで目を眇める。
一緒に風呂に入って、いいお湯でしたと上がってそれで終わりになるわけがないことは、趙とてわかっていた。まあ何か、恋人ごっこみたいにイチャイチャして、互いの頭でも洗って終わりだろうと甘く考えていたことは否めない。
けれど、先程二回もしたというのに、こうも体が反応してしまうことや、とにかく春日が真っ直ぐに欲をぶつけてくるなど思ってもいなかったのだ。
春日が自分のことを好きだと思ってくれていることも、このどこからどう見ても男の体に欲情することも、紛れもない真実なのだろう。そこは疑っていない。
けれど、どうして自分にそこまで『執着』するのか、それがまだよくわからない。
「春日くん…」
すい、と重ねた腰を揺らすと、長い睫毛に縁取られた春日の瞳が欲に濡れて期待に滲む。
「正直、春日くんがなんでそんなに俺に執着してくれるのか、よくわかんない。女の子みたいに可愛く喘いだりも出来ないし、上手に感じることもできないし」
顔を上げることも出来ずにぼそぼそと呟くと、春日が苦笑する。
「…それは、俺がこれからわからせてやるから安心しろ」
こつりと額を合わせて、本当に安心させるように春日が言う。
わずかに逡巡した後に、春日が口元ににやけた笑みを浮かべたので、趙は嫌な予感に眉を顰めた。
「それに、言ったら引くと思うけどよ。物慣れないお前がイヤイヤ言ってんのめちゃくちゃ興奮してんだよ」
「引くわ」
「だろ?」
「『だろ?』じゃないよ」
趙が思わず体を引いても、春日は悪びれるでもなく笑ってその体をもう一度引き寄せた。
その肩に顎を乗せて、趙は春日の背中の刺青を覗き込む。
「…じゃあ、いつか、俺から挿れて欲しくて堪らないってなったりするまで、付き合ってくれる?」
「当たり前だろ」
間髪入れずに答えられて、趙は安心したような笑みを口元に浮かべた。
「うん…そっか」
お湯の中で、互いの体の隙間でわずかに兆したままのそこに触れると、趙を乗せたままの春日の腰が跳ねた。
「…もっかい、する?」
「いや、今日はもうしねえ。まだ慣れてねえんだから、負担大きいだろ」
何かを堪えるような、ちょっと怒ったような顔が可愛くて、趙は思わずくすりと笑って頬に口付ける。
「優しいんだ?」
「そのうち朝まで抱いてやるから覚悟しとけ。俺はお前ともっと色んなことしてえんだ」
不貞腐れたような口調で、開き直ったように春日が素直に告げる。
「うわ…」
「だから引くなよ」
「無理だよ」
ケラケラと笑って、趙は春日の肩に額を乗せる。
「うん、でも…そうだね」
静かに覚悟を決めたような声で、自分を納得させるように呟いたあと、趙は春日の耳元に唇を寄せた。
「ここからは、俺の『伸びしろ』にも期待して」
顔を見られないよう、ガッチリと肩を掴んで囁くと、顔を見ない代わりにぎゅうぎゅうと抱き締められて、趙は声をあげて笑った。
その後、「のぼせる」と言い出した趙に慌てて湯船から出て、髪と体をざっと洗った。その頃には互いの下半身も落ち着きを取り戻しており、二人してなんとも言えない顔で、髪を乾かしてベッドへ戻る。
お湯で温まり、汗を洗い流した乾いた互いの体が心地よくて、シーツの感触を楽しむような感じで触れ合って、くすぐったさに笑う。
向かい合って転がって、見ているこちらが恥ずかしくなるくらい愛しそうに目を細めて自分を見つめる春日の、まだ少し湿った髪を撫でつける。
「俺ね…」
「うん?」
「春日くんのいつものモジャモジャも好きなんだけどね。こんな感じの、湿って落ち着いてるのも好きなんだ」
「そうかい」
互いの体温でシーツの中が温まって、趙はトロトロとした眠気に襲われる。
素直に好きと告げた言葉に、春日が本当に嬉しそうに相槌を打って、こんな顔をさせられるなら、もっと素直に色んなことを伝えた方がいいのかなと、うまく回らなくなってきた頭で考える。
「…いつもさ、お風呂上がりとか、カッコいいなって思ってだんだけど、あんまり見るのもダメかなあと思って、こっそり見てたよ」
「え?え、マジか?全然気づいてなかったぜ。いくらでも見てくれよ」
「やだよ、恥ずかしい…」
頬の筋肉がふにゃふにゃと力を失って、締まりのない顔をしている自覚はあったが、目の前の春日も同じような顔をしているので、気にしないことにする。
「…こんな目の前で、独り占めできて嬉しいな」
髪を撫でて告げれば、春日はいっそどこか痛いように顔を歪める。
「春日くん…?」
「俺だって、お前のそんな顔見れて、めちゃくちゃ嬉しいぜ」
「どんな顔…?」
頬に手を添えられて、そのあたたかさにさらに眠気を感じてしまう。
「俺のこと、好きなんだなって顔」
悪戯めかして言ったつもりが、上手くドヤ顔を作れなくて泣きそうな顔に見える。趙はその顔を宥めるように笑って、ぺちぺちと頬を軽く叩いてやった。
「バレたか〜」
「へへ」
小さく鼻を啜って笑った春日が、趙を胸に抱き込む。
「明日の朝、春日くんとしたいことがまだあって…」
「おう」
「喫茶店のモーニング行ってみたい」
「それもしたことねえんだな?」
「うん」
「よし、じゃあ行こうぜ。もうこうなったら、こっから先の趙の初めて俺が全部奪ってやる」
「うん、そうして」
趙の目の前にある逞しい胸には、いつかに撃たれた銃創がある。でもその下にある心臓の音が、穏やかに聞こえる。
なんだか泣きたいような気持ちになって、趙は早く眠れるように目を閉じた。
髪を撫でる春日の手が心地いい。
明日、喫茶店のモーニングで何を食べようかな。
あたたかな感触に意識を手放す寸前、趙が考えていたのはそんなことだった。