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    sui___yy

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    仲のいい家族として暮らしてきた養父キャスターと学生影弓くんの関係に変化が訪れる話です。33と18くらいのつもりです。
    (Twitterでちょこちょこ書いていた話を微修正してまとめました)
    ※続く予定で次はR-18になります

    養父パロ影弓キャス「おとうさんと呼ぶのを、やめようと思う」
     白いモーニングカップについだ食後のコーヒーをまずキャスターの前に置き、向かいの椅子の背を引いて深くかけながら、彼はまっすぐに目を見てそう言った。その声は別段反抗的というのではなく(思い返してみれば彼には反抗期というもの自体なかった)、決然たる語調というわけでもなく、春休みにアルバイトをしようと思う、と言ったときとさほど変わりなく聞えた。

     その朝、寝巻きのズボンだけを部屋着——繰り返し洗われてちょうどいい具合に肌になじむ、コットン100パーセントのストレートパンツ——にはきかえてリビングへ行くと、夜のうちに洗い上がった食器洗浄機の中身をアーチャーが手際よくひとつひとつ棚に戻し終えるところだった。
     デニムにトレーナーというカジュアルな格好を見て、紺色のブレザーとチェック柄のスラックス姿の彼が台所に立つことはもうないのだとやっと思い出す。ハイスクールの卒業式は昨日だった。
    「まだ寝ていて構わないのに」
     昨晩深酒をした自分への気遣いが半分と、もう半分はどうやら皮肉らしい(彼の卒業祝いを口実に、まだ酒を飲めない相手を前にひとり好き勝手のんだのだから当然といえば当然である)言葉がかかった。
    「でかくなったよなあ、おまえ」
     冷蔵庫から買い置きのミネラルウォーターを出しながら、ちょうど隣に並び立った肩にかるく身体ごとぶつけて言う。視線はほんのわずかだが、彼の方が高い。
    「何をいまさら」
     すねたように彼が言い、センチメンタルかね、らしくもない、と妙に老成した感じにつぶやく。目の前の少年——ハイスクールを出たとはいえまだ十八なのだから、少年と言って差し支えないだろう——が歳のわりに大人びているのは、曲がりなりにも保護者である自分がいつまでもちゃらちゃらしていることの反動なのだろうか、と考える。
    「まだ伸びるかもな」
     見た目より柔らかい髪を強めに(梳くというよりかきまわすようにして)撫でると、ふてくされた横顔が首をねじって避ける。手首をつかんでほどかれ、向き直った顔がやっぱり少しすねたようにキャスターに視線を合わせる。
    「まだ伸びるつもりだ」
     そう言った声が思いがけずきっぱりと意志的だったので、キャスターはやや面食らった。

     カップを持ち上げて熱いコーヒーをとりあえず一口のみながら、キャスターはなぜだかさっきのその声を思い出していた。
    「そうかい」
     好きにしたらいいさ、と、ふちに青いラインの入ったソーサーにカップを戻してから答えると、相手は肩透かしを食った顔をした。カップの取っ手に指をかけたまま、アーチャーは探るようにキャスターを見る。暮らし始めたばかりの頃の——つまりぴったり十年前ということになる——彼はよくこういう顔をした。思い出して少し笑うと、アーチャーはますます居心地悪そうにカップを持ち直した。
    「いいのか? キャスターと、呼んでも」
    「なんだよ。よくないと思ったのか?」
     まぜかえすとばつの悪そうな顔をして、いや、べつに、ともごもご言った。べつにそうじゃないけど、と。
    「……キャスター」
    「おう」
     これからもよろしく頼む、と、アーチャーがまじめくさって言い、言ったそばからくすぐったそうに肩をむずむずさせているのでキャスターは今度こそ声をたてて笑ってしまう。よろしくな、とこたえて白いカップで乾杯をした(アーチャーは行儀が悪いぞと小言をはさんだ)。
     それが先週のことだ。

    「おまえなあ、いくらなんでもシフト入れすぎじゃねえの?」
     午前十時、ネイビーブルーのニットポロシャツを若者らしく着こなしたアーチャーは今日もじきに出かけるようだった。大学に上がる前の最後の春休みだというのに、彼は日中ほとんど家にいない。うんと若かったころ——アーチャーと出会う数年前まで——は、キャスターにも昼夜を問わずアルバイトに明け暮れていた時期があったけれど、それはまだ今の仕事一本で食っていけるかわからなかったからであり、必要に迫られてのことだ。
    「始めたてで加減がわからんのは仕方ねえが……融通がきくなら少し減らしてもらえよ。せっかく春休みなんだから」
     シンクの前で鍋を拭いているアーチャーにむかって言いながら、背中を向けて冷蔵庫を開けた。ミネラルウォーターのペットボトルを回し開ける。返事はなかった。振り返ると、ばつの悪そうな顔とかち合う。
    「平気だ。仕事を覚えればそんなに大変でもない。店主も人柄が良いし……」
    「そんならいいけどよ。ま、授業が始まってからは程々にしとけよ」
     ああ、とも、うう、ともつかない生返事に、キャスターはふたたび振り返る。
    「なんだよ。なんか欲しいもんでもあるのか? だったら小遣いくらい遠慮せず貰っとけ」
     アルバイトをするから来月から小遣いはいらない、と言われたのは卒業式の帰り道だった。
    「いや……」
     歯切れの悪い様子が妙だ。キャスターは今度は身体ごと向き直り、左右でわずかに色の違う目を覗き込んだ。アーチャーがわずかに顎を引く。
    「……奨学金を取りたいと思っている」
    「そりゃ聞いた。お前さんならできるだろうよ」
     奨学金を学費の足しにするのなら、馬車馬のように働いた分は何に充てるというのだろう。なおさら道理が通らない。
    「奨学金を取れたとしても、教材費やら何やらまで全額を賄えるわけじゃない。だからアルバイトで……できる限り、自分でなんとかしたいんだ」
    「……そりゃ初耳だ」
     アーチャーは居心地悪そうに布巾で指先を拭っていた。それではまるで、キャスターの援助(援助という言い方もおかしい。キャスターは彼の養育者なのだ)なしに生活したいと言っているように聞える。
    「まあ……おまえならそれも出来ないこたぁねえだろう。けど、解せんな。遠慮してんだか知らんが、別に家計が苦しいわけじゃないぜ。そりゃ贅沢三昧ってのは無理だが……必要なものは必要なときに買えるだけの稼ぎも蓄えもある」
    「そんなことは知っている」
     唇をつきだしてアーチャーがかみつくように言った。遠慮しているわけじゃない、と、むくれた顔のまま続ける。
    「じゃあなんだ。家を出たいのか」
    「っ違う!」
     気詰まりなようすでうつむいていたアーチャーが、ぱっと顔を上げた。突然の強い語調に面食らってキャスターは少し顎を引く。
    「違う……ここを出たいわけじゃない」
     しぼり出すようにもう一度言って、アーチャーはまたうつむいた。蛇口に残っていた水滴が、ぼたっといやに大きな音をたてて流しに垂れ落ちた。
    「……遅れるから、もう出ないと」
     椅子にかけていた鞄(卒業祝いのひとつとしてキャスターが贈った、スポーツブランドのロゴ入りのボディバッグ)を肩に背負い、行ってきます、と口のなかで独り言のようにつぶやいて、アーチャーは振り向かずに玄関を出て行った。気をつけて行ってこいよ、とキャスターがこたえたときにはもう扉が閉まりかけていたので、たぶん彼には聞えなかっただろう。
     キャスターからの資金援助なしに、大学生活を送りたい。だが、キャスターに遠慮しているわけではないし、家を離れたいわけでもない。
     ——つまりそりゃ一体、どういうことだ。
     キャスターにはよく飲み込めなかった。ペットボトルを持ったまま、観葉植物の鉢をよけてベランダに出る。ポケットから手になじむ紙箱を取り出し、たばこを一本取り出して火をつけた。ひとくち深く吸って、ゆっくりと長く吐き出す。
    「……反抗期か?」
     よく晴れた空にのぼっていく煙の案外複雑な曲線を、なんとなく目で追ったままつぶやいた。鉢植えのオリーブの柔らかい緑の葉が、目の端で弱い風にちらちらと揺れている。


     考えてみれば、これからも変わらず二人あの家で暮らすものだと、一体どうして信じきっていられたんだろう。
     まるい街灯に照らされた足先でうす紫の小さな花弁を踏んで歩きながら、キャスターはため息ともつかずに短い息を吐く。ライラックの並木は今年も手前の一本だけが狂い咲きをして、他の木が花をすっかり散らしたあとになって膨らんだ蕾を開かせていた。
     前方約百メートル先、見慣れたたまご色の壁(先週末にアーチャーが高圧洗浄機を使って外壁掃除に精を出してから、心なしかぼんやりと明るく浮かび上がって見える)が視界に入る。春が終われば、もうじき夏がやってくる。アーチャーとの十一度目の夏。
     夕方の外気はまだうす寒く、通りには季節はずれの屋台売りの焼き栗の匂いがただよっていた。帰宅ラッシュの地下鉄の混雑に辟易して、一駅手前で降りて歩いてきたので、キャスターの背中はうっすら汗ばんでいる。
     これからも、あの家で二人で——。
     当たり前にそう思っていた。けれど、そうではない可能性だって十二分にあったのだ。
     もちろん〝そうではない可能性〟はアーチャー本人の口ですでに——かなり強めに——否定されたばかりだったのだが、キャスターの胸中を少なからずざわめかせたのは、〝そうではない〟場合についてこれまで一度も考えてこなかった事実それ自体なのだった。
     ——疑いようがないだろう。だってあいつ、俺のこと大好きじゃねえか。
     言い訳ともつかず胸の中でつぶやいてみたが、気分はあまり軽くならなかった。空の巣症候群でもあるまいし。ふいに頭をよぎった言葉に、キャスターは自分で眉をひそめる。

     玄関には黒いローファーが揃えて脱いであった。廊下には灯りがついている。洗面所にいくと、アーチャーはバスルームを使っているようだった。
    「キャスター、帰ったのか? おかえり」
    「ああ。お疲れさん」
     物音に気付いたアーチャーが浴室から声をかけてくる。手のひらに石鹸をこすりつけながら、キャスターは返事をした。反響で少しこもった、普段どおりの落ち着いた声。すりガラスごしの見慣れた人影。
     ——反抗期というのでもないのだろうか。
    「次、シャワー浴びるわ。汗かいちまって」
    「今日は肌寒かったのに? まさかまた、シャツ一枚で帰ってきたんじゃないだろうな」
     小言は声が笑っている。
    「また焼き栗屋に〝健康そうなおにいさん〟と呼ばれるぞ」
    「ほっとけ。今日はジャケット着てるっつうの」
     蛇口からほとばしる水を泡だらけの手の甲に受けながら、自分の声も笑っていた。普段はどちらかといえば着こむほうだが、ごくたまにむしょうに体を動かしたくなって(日々のデスクワークの反動だろうと自己分析している)、去年の冬、出先からの帰路で思い立って三駅分のジョギングをしたことがあった。その時のことを言っているのだ。偶然出くわした学校帰りのアーチャーの、目を丸くした顔を懐かしく思い出す。
    「シャツ一枚のところ悪いが、シチューにしていいか? 下ごしらえはしてあるんだ。キャスターがシャワーを浴びるあいだに用意する」
     上は着てるっつったろ、とまず釘をさしてから(といっても半分笑っていたのだが)、
    「うまそうだな。大歓迎」
     と返事をし、後片付けは任せろ、と付け加えた。実際聞かれるまでもなく、アーチャーの料理はキャスターにとって全面的に大歓迎なのだった。
     それにしても——。
     台所にいき、とりあえずコップになみなみと注いだ水をのみながら、それにしても器用な男だ、とキャスターは感心せずにはいられない。先々週のあの宣言から、アーチャーは本当に一度も「おとうさん」と呼ばなくなった。ついうっかり呼んでしまった、なんてことは彼に限ってはないようだった。
     おとうさんと呼んでもいいか。
     いつかそう訊いたのも、考えてみればアーチャーのほうだったというのに。
     おとうさん。
     アーチャーがそう呼ぶとき、キャスターにはなんとなくそれがいつも「父親」という言葉とぴったり重ならなかった。アーチャーの呼ぶその声。屈託ない響きのようなのに、どこかがいつまでもためらいがちで、それがかえってひどく親密に聞える声。もうあの「おとうさん」を聞くことがないと思うと、それを残念がる気持ちも確かにないではないのだった。
     思い出すのは、猫足のバスタブの中で向かいあった、湯気ごしの子供の顔だ。初めての保護者面談の日。もう九年以上も前になる。帰り道で夕立に降られ、キャスターはふだん傘を持ち歩かない人間だったので二人して大いに濡れた。キャスターは途中からアーチャーをほとんど抱きかかえて家まで走り(自分だけならば少しも気にならないが、子供に風邪でもひかせたらことだと思ったので)、そのままバスルームに直行して熱いシャワーをあびた。
    「おとうさんと呼んでもいいか」
     その言葉はキャスターを少なからずおどろかせた。面談では担任教師とカウンセラーから終始父親と呼ばれ、ことさら否定はしなかったものの、保護者ではあってもキャスターにはいっぱしの父親を気取るようなつもりはなかった。第一に、アーチャーがキャスターのことを「父親」と認識しているとは思っていなかったのだ。
     甘える口調ではなかった。むしろ突き放すような、つっけんどんな声の調子だった。うつむき加減の、丸みを帯びた頬。あのときキャスターは、アーチャーが何を考えたのかわからなかった。けれどともかく彼が何かを決めたのだということはわかったし、彼が決めたのなら万事それで十分だと考えたのだった。
     ——だというのに今度は、「おとうさんと呼ぶのをやめようと思う」ときた。
     ため息をつきかけてやめる。ポケットから煙草の箱を引っ張り出しかけ、キャスターはふと降って沸いたアイデアに手を止めた。取り出したばかりの四角い箱は、開けずにそのままキッチンカウンターに置いた。
     顎に指をあてて、思いついたばかりの妙案をあらためてよく吟味しながら水をのむ。急ごしらえにしてはなかなか悪くない思いつきに感じた。半分のこした水のコップをそのままにして立ち上がり、キャスターはバスルームまで取って返した。鏡のむこうの男と目が合って、キャスターはなんとなくじっと見つめてしまった。ぴったり十年分歳をとった、けれどまだじゅうぶんに若いといえるはずの男の顔。
     シャワーの音は止んでいる。排水溝にすいこまれるかすかな水音だけが聞えた。アーチャーはいつもバスタブに湯を張るので(湯に浸かるのは体にいいのだと言い張って譲らず、シャワーですませるのが常だったキャスターは十年ですっかり長風呂になった)、たぶん今ちょうど浴槽に体をしずめたところだ。
    「アーチャー」
    「キャスター?」
     くぐもった声は輪郭がぼかされて、普段より少し幼く聞こえる。
    「俺も入るわ」
    「えっ?」
     子供っぽい声。笑ってしまいながら、キャスターは景気よく服を脱いだ。慌てた水しぶきの音がする。えっ? ともう一度、リピート再生のようにアーチャーが言ったのと同時に、キャスターは思いきりよくバスルームのドアを開けた。あたたかな白い湯気が霧のようにあふれ出て体を包み、キャスターはすたすたと濡れたタイルを踏んで浴室に入る。
    「久々に一緒にどうかと思ってよ」
    「はっ? な……!? 何をいきなり……」
     バスタブの中のアーチャーが慌てふためいて腰を浮かしかける。構わずにドアを閉め、ボディソープを泡立てて体を洗いはじめると、ややあって、キャスターを追い出すことを諦めたらしいアーチャーが黙って首まで湯船に沈むのが目の端に見えた。シャワーヘッドをフックから外して、手早く泡を洗い落す。水しぶきのあいだから、不服そうにうつむいた横顔を盗み見た。尖らせたくちびる。シャープな頬の線には、子供特有の丸みはもう見当たらない。
    「おら、つめろつめろ」
     言いながらバスタブのふちを跨ぐと、アーチャーが頭を上げた。ぎょっとした顔と目が合う。
    「ぬあっ……!?」
    「なんだその変な声」
     浴槽からたっぷりの湯があふれて、ざぶざぶざぶと波打ち際のような音がした。いいかげんにまとめた髪にピンをさしてとめながらしゃがみこむ。アーチャーはうろたえたように視線を逸らし、
    「早すぎる。ちゃんと流したんだろうな?」
     と負け惜しみじみた小言をいう。
    「ったりめーだろ。カワイイ息子に教育されたからな」
     たっぷり三秒間は黙ってから、「ならいいが」とぼそりとつぶやくのが聞えた。
    「俺はもう出る。存分にバスタブを占領するといい」
    「何言ってんだよ。今日は肌寒いんだろうが」
     アーチャーはほとんど壁の方を向いている。おかしな奴、と思いながら、キャスターはアーチャーの方を向いてバスタブの底に腰をおろした。濡れた横顔は上気しているわけでもなく、まだ湯に浸かったばかりのはずだ。
     乳白色のバスタブはゆったりと大きな造りをしている。子供のアーチャーとではむろんたっぷりゆとりがあったし、それよりもっと以前にこの家に出入りした何人かの女たちは皆この風呂を気に入っていた。二人で入ってもちっともせせこましい感じがしないから、と言って。けれども、図体の大きな男ふたりではさすがに少し窮屈に感じる。キャスターの爪先はアーチャーの踵にぶつかっているし、身じろぎしたらもっとあちこちぶつけそうだった。
    「さすがにちょいと狭いな」
    「だから、もうあがると……」
    「まだいいだろ、ちょっと付き合えよ。アルバイトはどうだ? 慣れたか」
     バスタブのへりに腕をかけてもたれ、まだぶつくさ言っている横顔を眺める。
    「……まあ、それなりに」
    「そりゃあいい」
     アーチャーはさっきから一度もこっちを見ない。
    「ほら、ちゃんと湯に浸かる前に髪くくったぞ。褒めていいぜ」
     髪留めを指さして茶化すと、湯気ごしの横顔がかすかに笑う。仕方ないな、というふうに。
    「はいはい。えらいな、キャスター」
     なぜかためらいがちに視線を上げ、やっとキャスターの首のあたりを見て、アーチャーは小さく肩をすくめた。依然として目は合わなかった。
    「そこ、泡が残っている」
    「なに? どこだ」
    「そこ……もういいよ、今流す」
     手ですくった湯がうなじにかかる。気持ちが良くて軽く目をつむった。
    「君は体を洗うのがはやすぎるんだ。ちゃんと泡を落としたのか」
     小言というにはやさしい声だった。
     ——ちゃんと落としたのか。
     いつかそう訊ねた子供の声を思い出して、キャスターはひっそりと笑った。
    「憶えてるか? 遠足でさ、俺が湿原ですっ転んで……」
    「憶えているとも。年少クラスの男子を引っ張り上げようとして、君がかわりに落ちた。二日酔いだったから」
    「ああ? そうだっけ?」
    「引率のボランティアに立候補したのは君なのに、前日に仕事で酒を」
    「あー……」
     文句というより、茶化すのに近い口調。けれど言われてみればそのとおりだったと思い出したので、キャスターは頭をかいた。留めた髪がひとすじ耳のあたりに落ちてくる。
    「あん時も風呂に入ろうとしたらおまえが怒ったんだよな」
    「泥が落ちていなかったからだ。当然の指摘だ」
    「そう。そんでアーチャーセンセーの言うとおりに洗って、一緒に風呂入って……」
    「君こそ、憶えているか? あの時言ったこと」
    「え?」
     遮られて、思わず顔を見た。アーチャーもこちらを見ていた。ようやく目が合っていた。もう全然ガキではない、少年というより青年と呼んだ方が正しいと思えるアーチャーの顔。
    「……いや、やはりなんでもない」
     つかの間絡んだ視線はすぐに解かれた。あの時言ったこと? 思い出せない。首を捻った。
    「なんだよ、教えろよ」
    「憶えていないならいい」
    「そりゃねえだろ、ヒントは?」
    「本当に大したことじゃないんだ。……のぼせないうちに、もうあがる」
    「あ。ちょっと待てって……」
     浴槽のふちにかけた手を支えにして、アーチャーが立ち上がろうとする。思わずその腕をつかみかけ、強い力でふりほどかれた。反対に腕を掴みかえされ、指の力におどろいて顔を上げる。アーチャーの目には強い非難の色があった。咎める視線、それでいて縋るような、ほとんど恨むようなまなざしだった。キャスターは一瞬、彼が泣き出すのではないかと思った(もちろんそれは杞憂だった)。バスタブの湯がはげしく波立ち、じゃぶじゃぶと洗濯機じみた音をたてている。
    「……のぼせそうなんだ、頼む」
     のぼせるにはどう考えても早いと思ったが、あんまりくるしそうに言うのでキャスターは何も言えなくなった。眉を寄せた顔のままアーチャーがそっぽを向き、同時に腕が離れる。シャワーで体を流すこともせずに、アーチャーは文字通り逃げるように浴室を出ていった。

     大きめに切ったじゃがいもと鶏肉がごろごろ入ったホワイトシチューは、バターの風味がしてこくがあった。
    「あー、食った食った。ごちそうさん」
    「煮込み時間も過不足なかったな。よかった」
    「芋の大きさが良いよな。食いでがあって、味はしっかり絡んで。いやあ、美味かったわ」
    「大げさな」
     アーチャーは極めて素っ気なく言って、鼻のあたまにちょっと皺を寄せた。ひと目みてわかる照れた仕草は子供の頃から変わらない。浴室での昔話を思いだしてキャスターは含み笑いをした。浴室といえば、さっきのアーチャーの様子は気になるといえば気になるが——。
     ——頼む。
     やたらと深刻な顔つきだった。腕に食い込んだ指の力強さを思い出すと、キャスターはなんとなく妙な気分になる。
     『裸の付き合い』とはよく言ったもので——確か東洋の慣用語だったと思うが——、また昔みたいにたまには一緒に風呂に入るというのは、我ながら悪くない思いつきだと感じたのだけれど。
     アーチャーを引き取った頃、キャスターは今よりずっと若く、仕事を選り好みできる立場ではなかったので、平日は食事を共にできないことも多かった。一緒に風呂に入る習慣は、もともとは幼い彼と過ごす時間を捻り出そうと考え出したアイデアだったのだ。アーチャーの初めての友人のことも、初めての喧嘩の相手も、テストの点数も担任教師の人となりも、キャスターは全部バスルームで知ったものだ。
    「たまには前みたいに、一緒に風呂に入るのもイイな」
     空いた食器を手に立ち上がりかけていたアーチャーが動きを止める。キャスターは気になったことはすぐに片付けたいたちだし、こういうのは直接本人に確かめるにかぎると思っている。
    「風呂?」
     アーチャーは言葉につまって、わずかに視線を泳がせた。
    「いや……」
     持ち上げかけていたスープ皿をふたたび置き、アーチャーは浮かせていた腰を椅子に戻して座り直した。一瞬視線をテーブルに落とし、それから決心したようにキャスターに目を合わせる。
    「その……今日みたいなのは、少し困る、というか」
     指が所在なさそうにテーブルの上のガラスコップを引き寄せた。ああそうそう、これもあった。落ち着かないときに飲み物を飲みすぎるくせ。
    「あ、おい。アーチャー、そっち俺の」
     勢いよく飲み干して、アーチャーは盛大に咳き込んだ。
    「……、……キャスター! コップに酒を注ぐなと、あれほど……!」
    「あー……まずった。すまん」
     ぺろっと舌を出す。水を飲んだコップに、横着してそのまま酒を入れたのがまずかった。ウイスキーの水割りは、アーチャーが最近まとめ買いをしたマテ茶の色に確かに似ていなくもない。
    「いい飲みっぷりだったな。いや、すまん。悪かったって」
     じろりと睨まれて両手を上げた。
    「もういい。俺も迂闊だった」
     今度こそ自分のコップからマテ茶を飲み干して、アーチャーは皿を重ねて立ち上がった。キャスターも自分の皿を手に台所へ行く。洗うのはキャスターの役、拭くのはアーチャーの役なのだ。

    「悪かったな、今日は。いきなり入ったりして」
     泡を流し落とした小鉢を手渡しながら言うと、アーチャーと目が合った。
    「…………」
     とりあえずというふうに食器を受け取り、
    「……風呂は、一人で入りたいんだ。その……献立とか、集中して考えたくて」
     考え考えといったようすで、アーチャーはぽつぽつと説明した。
    「だから……その」
    「わかった」
     柔らかく遮って、腕をのばして頭頂部に手のひらをのせた。ぽんぽんと軽くたたく。見た目よりずっと手に馴染む、少しくせのある髪。
    「……濡れた手で人を撫でないでくれ」
     アーチャーがしかめ面をつくって言う。目尻がうすく赤かった。さっきのウイスキーがきいてきたのだ。濡れたままの手を取られ、タオルで包まれて拭われながらキャスターは笑ってしまう。これじゃあどちらが保護者かわからない。
    「前髪をあげてみようかな」
     自分でも手を拭きながら、アーチャーが妙に素直な声でぽつりとこぼす。今、こいつは話題を変えようとしたのだろうか。ちょうど自分と同じように。反射的にそう考えて、キャスターは肩をすくめた。どうも今日は変な勘ぐりばかりしてしまう。
    「なんで?」
    「少しは……大人らしくなるかと思って」
     いつもは額にかかっている前髪は、風呂上がりのまま軽くうしろに撫でつけられている。
    「イメージチェンジってやつか? んなことしなくても、おまえは男前だぜ」
     ベビーフェイスだと言われるたびにアーチャーが半ば本気で悩んでいるのを知っているので、キャスターは肩で軽く小突いて言った。アーチャーがぱっと顔を上げて、何か言いたげにこちらを見る。疑り深い目をして。
    「ま、大学生になるんだもんな。好きなようにすりゃいいけど、デコ出してると昔みたいにキスしたくなっちまうかも」
     いいのか? と、昔、やわらかでまるい子供の額によくキスをしたのを思い出してキャスターは微笑を含ませた声で茶化した。
    「いいよ」
    「あ?」
     思いもよらない言葉に、ふりむいてまじまじと横顔を見た。とがらせた唇。ふてくされた横顔。目尻から頬にかけてうっすらと赤かった。アーチャーがふいに顔を上げて、意を決したように目を合わせてくる。アルコールの作用で、まるい眼球はうっすら潤んでいた。
    「していい。そのかわり、」
     アーチャーが一歩踏み出したので、ウイスキーでやや上気した顔がぐっと近付いた。
    「俺もしていいだろう」
     挑むような、ぎりぎりの顔だった。あまりに予定外のことが続いたために、キャスターは少々まごついた。当時でさえひどく嫌がっていたアーチャーは、さぞぷりぷり怒るだろうと思ったのに——はしごを外される形になり、キャスターはぱちぱちと瞬きをした。アーチャーはなおも挑戦的にキャスターを見つめている。へんに迫力のある目だ、と思い、ああこれは酔っ払っている目だ、と理解する。アーチャーにとって初めての酒なのだし、しかもあの量を一気に煽ったのだから。
    「おまえさん、酔ってるな?」
    「どうなんだ、キャスター」
     目線はわずかに上にある。キャスターは肩をすくめ、首をのばして額のまんなかに唇を押しあてた。
    「はいはい。いい子はもう寝な」
     あたたかい額に唇をあてたとき、アーチャーの身体は一瞬ひどく緊張した。そういえば昔からそうだった気がする、と思い出し、行儀よく後ろになでつけられていた前髪を指先で乱す。額が隠れ、アーチャーは髪の隙間から不興げにこちらを見た。
    「……では、俺の番だな」
    「あ? まだ続くのか?」
     当然、とアーチャーが鼻をならした。そういう話だったじゃないか、と、苛立たしげに。
    「額じゃなくてもいいだろうか」
     アーチャーがぽつんと、一転してなんだか眠そうな声で訊ねる。キャスターは考え込んでしまった。額じゃないところ、とは、はたして一体どこだろうか。まさか口じゃないよな?
    「どこにしたいんだよ?」
     仕方なくそう問い返した。なんだかどう考えても妙なことになってきている、と思いながら。
     アーチャーはじっとキャスターの目を見て、首に、とこたえた。
     首に。
     キャスターは思わずふたたび考えこむ。どうなんだろうか。それってむしろ、もしかすると、口よりもやばいような感じがしないか?
    「キャスター」
     急かすにしては、それは静かな声だった。静かで、不安定に危うく、どこか祈るような。それを聞いた瞬間、キャスターの心のどこかが奇妙な感じにゆるんだ。それは安堵に似ていた。安堵とそれから——それからたぶん、優越感に。アーチャーに対してのそれではなかった。それならば一体、誰に対する優越感だろうか。
    「いいぜ」
     それはなんだかひどく満ち足りた甘い声——そんなつもりは少しもなかったのに、そうとしか聞こえない声だった——になり、キャスターはひとりで困惑する。アーチャーはゆっくりひとつ瞬きをした。うすく潤んだ目。ありがとう。小さく、ほとんど息だけでアーチャーはそうつぶやいた。キャスターはわけもなくかすかに腹がたった。アーチャーの指が肩にかかった髪をよける。首筋をかすめた指先はアルコールの作用で熱をもっていた。耳の下に息がかかる。熱い息だ、と思った瞬間、キャスターは肩口で泣いた子供の熱っぽく湿った呼気を思い出す。ずっとむかし、一度だけ、キャスターに見られまいと首筋に顔をうめて泣いたアーチャーの、抱き上げたからだの柔らかい重みもいっぺんに。首すじに男の熱い唇が押し当てられ、キャスターはめまいがした。思わず目をつむる。熱い。こんなに熱い唇を、キャスターはほかに知らない。
     触れていたのはごく短い時間だった。唇が離れるとき、肌にかかった呼気の熱さに鳥肌が立ち、キャスターは軽く首を反らせる。
     アーチャーはやはり夢でも見ているみたいにぼんやりキャスターを見つめていた。相変わらず頬は(頬どころか、今や首のあたりまでうっすら)上気している。
    「……オヤスミ、でいいんだよな?」
     相手がいつまでも黙ったまま何も言わないので、仕方なくキャスターが口火をきる。びくんと肩を揺らし、アーチャーは唇をうすく開いて浅い息をした。
    「寝る前によく水のんどけよ。酒のむと水分不足になるからな」
    「キャスター」
     肩をたたいてキッチンを出ようとすると呼び止められた。
    「なんだ?」
    「……酔ってたから、こんなことをしたわけじゃない」
    「え?」
     また、あの目。祈るような、挑むような——。
    「アルコールの力を借りて、本音を言っただけだ」
     ぎりぎりの声でそう言うと、アーチャーはさっとキャスターの横を通り過ぎてキッチンを出ていった。
    「おやすみ」
     低く押さえた声で最後にそう付け足したときも、アーチャーは振り向かなかった。
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